と束縛と


- 第31話(1) -


 移動する車中の空気はピンと張り詰めていた。
 和彦は、ぎこちなく息を吐き出すと、遠慮がちに隣を見遣る。対向車線を走る車のヘッドライトに照らし出される賢吾の顔は、じっと何かを考え込んでいるように見えた。胸の内はともかく、実の父親が倒れたと聞いて、動揺している様子はない。
 組織を背負っている人間とは、こういうものなのだろうかと、つい和彦は考えてしまう。冷淡なのではない。賢吾だけではなく、長嶺組の男たちは、自らの感情を押し殺しているように感じるのだ。
 長嶺守光は、総和会会長職にある今、名分として長嶺組からは距離を置いてはいるものの、先代としての影響力はあり、賢吾を見守っているという精神的支柱としての役割もあるだろう。その守光に何かあったときには、とてつもない騒乱が起きるのではないかと、和彦ですら危惧してしまう。
 それ以上に、純粋に心配だった。
 和彦にとって守光は、肉親でもないし、知り合ってまだ一年も経っていない。だが、近しい存在の一人だ。親しみを抱くには畏れ多いが、和彦は守光を受け入れている。あれほどの人物をなぜ――と考えてみれば、それは、賢吾と千尋を先に受け入れていたからだ。
 その賢吾と千尋にとって、守光は大切な血縁者なのだ。和彦は、二人が悲しむ姿は見たくなかった。
 和彦が向ける眼差しに気づいたのか、ふっと賢吾がこちらを見る。目が合ってうろたえた和彦は、なんと声をかけようかと迷ったが、先に賢吾が話しかけてきた。
「そう、深刻な顔をするな、先生。電話で聞いた限り、意識はしっかりしているそうだ」
「……そうは言っても、詳しい状況がわかるまで、安心はできない……」
 緊張からか、脈が少し速くなっている。息苦しさを覚えた和彦は、ゆっくりと深呼吸をする。すると、賢吾に手を握られた。
「いつもより手が冷たいな」
 こんなときに、と一度は手を引きかけたが、賢吾の手の温かさにほっとして、結局握り返していた。
「言われるまま、あんたについてきたけど……、ぼくなんかが一緒でいいのか?」
「なんか、って言い方はないだろ。先生は長嶺の者にとって、特別な存在だ。そもそも、先生も呼んでほしいと言ったのは、オヤジだそうだ」
「会長が?」
「医者である先生を呼んだのか、大事で可愛いオンナを呼んだのか、どっちだろうな。なんにしても、オヤジが呼んだことに変わりはないんだ。卑屈になることはない」
 本来なら、賢吾を気遣わなければならないのだろうが、これでは立場が逆だ。和彦は浅く頷いて返すと、ようやくシートに身を預ける。
 このときまで和彦は、車はまっすぐ病院に向かっているものだと思い込んでいた。しかし車は、すっかり見慣れた道を走り続け、ようやく状況を把握する。
 和彦が戸惑っている間に、目的地が見えてくる。総和会本部の建物だ。
 普段の総和会本部は、威圧的で立派な建物ではあるものの、住宅街の中に紛れ込もうという努力はしているようだった。出入りする人間は極力抑え、物騒な気配はうかがわせず、息を潜めて、静かに活動しているのだ。だが今は、本来の役目を隠そうとはしていない。
 建物の前の道は煌々と照明で照らされ、険呑とした男たちが堂々と姿を見せ、辺りを警戒している。ピリピリとした空気が見ているだけで伝わってくる。十一もの組から成り立っている巨大組織・総和会のトップに立つ男の居城であり、ここに、総和会の権力が集中していると、声高に宣言する必要もなかった。
 道は混雑しており、和彦たちが乗る車の前に、何台もの車が並んでいる。建物の前に立つ男たちは、慇懃に頭を下げては車の中に向けて何か話しかけ、少しすると車は走り去っていく。そのうち、男の一人が駆け寄ってくる。賢吾の指示を受けた助手席のウィンドーが下ろされると、会話を交わすまでもなかった。
 車はアプローチを誘導され、門を通る。駐車場に車を停めると、和彦は賢吾とともに、いつも通っているエントランスホールではなく、裏口から総和会本部内へと入る。
 総和会本部は、常に緊張感が漂っている場所だが、今日は物音一つ立てることすら躊躇するほど、空気が張り詰めていた。
 本当に、こんなときに自分がやってきてよかったのか――。和彦が空気に呑まれかかっていると、ふいに軽く腕を掴まれて引っ張られる。
「先生」
 賢吾に呼ばれて我に返る。促されるまま一緒にエレベーターに乗り込み、四階に上がる。
 扉が開いた瞬間、ぎょっとした。ラウンジに、思い詰めた顔の男たちが何人も待機していたからだ。男たちのほうも、扉の向こうから現れた賢吾を見るなり、一斉に深々と頭を下げた。賢吾のほうは軽く会釈をしただけで通り過ぎる。
 守光の身の回りの世話をしている男が、賢吾の訪れを待っていた。守光の住居スペースに足を踏み入れると、外で待機している男たちの多さとは裏腹に、玄関には数足の靴が並んでいるだけだった。
 不吉な予感に、和彦は玄関から動けなくなる。そんな和彦の肩を、賢吾が軽く叩いた。
「大丈夫か、先生」
 顔を強張らせたまま頷いた和彦は、賢吾とともに守光の部屋に向かおうとして、廊下に立つ南郷に気づいた。二人に気づいた南郷が頭を下げ、恭しい仕種で守光の部屋を手で示す。賢吾は、会釈すらしなかった。どこか傲然とした態度で南郷の前を通り過ぎ、そんな賢吾のあとをついていきながら、和彦は視線を伏せつつ頭を下げる。
 守光の部屋の襖は、開いたままだった。
 おそるおそる部屋を覗き込んだ和彦の視界にまず飛び込んできたのは、畳の上にあぐらをかいて座った千尋だった。続いて、布団の上で身を起こした、守光が。
「なんだ、元気そうじゃねーか」
 安堵したような、しかしわずかに怖い響きを帯びた声で賢吾が言う。元気そう、という表現はどうかと思うが、ひどい様子であることを覚悟していた和彦としては、守光の姿を見て、正直面喰らっていた。
 浴衣の上から羽織りを肩にかけた守光は、背筋も伸びており、顔色も特に悪いということはない。つまり、普段と変わらないように見えたのだ。
 賢吾がズカズカと部屋に上がり、千尋の隣にどかっと座り込む。
「――どうやら、皆に大げさに伝わったようだな」
 ようやく守光が口を開き、賢吾と千尋を見たあと、廊下に立ち尽くしている和彦に視線を向けた。あっ、と声を洩らした和彦は、慌てて襖を閉めようとする。
「すみません、気がつかなくてっ。ぼくは外で待って――」
「何を言っている。あんたも早くここに」
 守光に手招きをされ、救いを求めるように賢吾と千尋に見たが、やはり手招きされる。他人の自分がいていいのだろうかと思いながらも、三世代揃った長嶺の男たちの要求に逆らえるはずもない。和彦も部屋に入ると、静かに襖を閉めた。
「脈を測ってもらっていいかな、先生」
 守光が片手を差し出してきたので、布団の傍らに座った和彦は、さっそく守光の手首に指先を当てて脈に触れる。腕時計で時間を見ながら脈拍を測っている間、誰も言葉を発しようとしなかった。自分の手元に視線が集中しているのを感じ、緊張のあまり和彦自身の脈がどうにかなりそうだ。
「……脈は落ち着いています。息苦しくはありませんか?」
「今は大丈夫。ありがとう」
 ここでやっと賢吾が、和彦も知りたかった疑問を守光にぶつけた。
「それで、何があったんだ? よほど大事になっているのか、本部の外が、あんたの見舞いに来た連中で渋滞していたぞ」
 あの車の列はそういうことだったのかと、表情に出さないまま和彦は納得する。
「見舞いというより、わしの死に顔を拝むつもりで来たのかもな」
「俺も正直、オヤジが倒れたと聞いたときは、そうなるかと覚悟したんだが……」
 守光と賢吾が、それぞれ皮肉っぽい表情を浮かべる。一方の千尋は、どこか不貞腐れたように唇をへの字に曲げている。
「言っておくけど俺は、じいちゃんやオヤジと違って、人並みの心臓をしてるんだからな。さっさと俺を安心させてくれよ。あと、先生のことも。先生のほうが、病人みたいな顔色してるじゃん」
 長嶺の男三人から同時に視線を向けられる。和彦は何も言えないまま顔を強張らせていると、守光が話を再開する。
「不整脈を起こして、苦しくなって玄関で動けなくなったんだ。これまでも、ときどきあったんだが、今回のように動けなくなるようなのは初めてでな。それで手を借りて、こうして休んでいるんだが、予定をキャンセルしたことが、大げさに伝わったようだ」
「あんたに心臓の持病なんてあったか? 血圧の数値も、いままではそう悪くはなかっただろ。しばらくは死にそうにもないって、総本部の中で陰口を叩かれているぐらいだ」
 父子間の遠慮ないやり取りに免疫がない和彦は、賢吾の物言いにハラハラしてしまうが、当の守光は目を細めて笑っている。
「まあ、わしも年相応に、体にガタはきている。ただ、騒ぐほどのことでもない。総和会の運営には問題はないしな。今回も、わざわざ救急車を呼ぶほどのことではないからと、止めたんだ」
「……それで、外の騒ぎか? 面倒なもんだな、総和会の会長というのも」
「ますます、総和会が嫌いになったか?」
 守光の言葉には、刃が隠されている。それを突き付けられたことがわかったのだろう。賢吾は露骨に顔をしかめたあと、吐き出すように言った。
「心配して駆け付けた息子を、焚きつけるようなことを言うな。あんたがどう言おうが、周囲の人間の目には、あんたは『倒れた』ように映ったんだ。病人らしく、さっさと病院で診てもらえ」
「ああ、病院は明日行く。いい機会だから、検査入院の予約を入れた」
「悠長だな。今晩また何かあったらどうする気だ」
「そのために、先生にも来てもらった」
 守光がゆっくりとこちらを見たので、和彦は目を丸くする。
「えっ……」
「この家で、わしに付き添ってもらいたい」
 言葉より先に、和彦は首を横に振っていた。
「無理ですっ、ぼくに付き添いなんて……。怪我の処置ならできますが、心臓については完全に専門外です。迂闊にぼくが手を出して、かえって処置が遅れるようなことになったら――」
 そんな最悪の事態がリアルに想像できて、自分の顔から血の気が失せていくのがわかる。さすがの賢吾も多少険しい顔で取り成してくれようとする。
「おい、先生に無茶を言うな。医者が必要だというなら、明日と言わず、今からさっさと病院に行け」
「何もこの場で、わしの胸を切り開いてくれと言っているわけじゃない。体調の変化を見守ってほしいだけだ。顔色を見て、脈拍と血圧を測り、医者として気になるところがあれば、触診してもらって……。とりあえず明日の朝まで、わしの様子に気を配ってほしい」
「でも……」
「あんたに負担をかけるつもりはないが、だが、長嶺の男たちが面倒を見ている医者が、わしの大事に側についているという〈形〉は必要だろう。あんたは、わしの――オンナでもある」
 口調は柔らかながら守光の説明には、ささやかな反論など跳ね返してしまう堅固さがあった。和彦は何も言えなくなり、賢吾も唇を引き結ぶ。千尋は、この状況では傍観者であることを決め込んだように、三人のやり取りを真剣な面持ちで眺めている。
「ここに来たとき、他の者たちの様子を見ただろう。わしを心配してくれる者たちは大勢いるが、腹に抱えた思惑はさまざまだ。純粋に心配してくれる者もいるだろうが、損得勘定のみの者もいる。わしが弱ったとみるや、即座に動き出すだろう。だからこそ、わしの詳細な容態は、この階にいる者の中でも、ごく限られた者にしか知らせん。容態が重かろうが、軽かろうが」
 ここで守光が一旦息を継ぐ。苦しくなったのだろうかと、反射的に身を乗り出した和彦は、守光の息遣いを確かめようとする。守光は、大丈夫だと首を横に振り、口元に笑みを湛えた。このとき、自分の反応を試されたのだと知り、知らず知らずのうちに頬が熱くなる。
「賢吾も千尋も長嶺組という組織の人間である以上、〈弱った〉総和会会長の側に付き添えば、勘繰る人間は必ずいる。なかなか、難しいところだ。対面を取り繕うということは」
「……ぼくの存在は、都合がいいということですね。長嶺組とも総和会とも深い関わりはあるけど、どちらの組織の人間でもない」
「それだけではない。あんたは何より、信頼されている。どちらの組織からも。賢吾と千尋のオンナとしても、医者としても」
「――つまり、そんな先生を引きずって帰るとなったら、俺は、人非人扱いということだな」
 皮肉っぽい口調で呟いた賢吾が、ヒヤリとするような目で守光を一瞥する。それに対して守光は、あくまで穏やかな表情で返す。
「こんなときぐらい、気弱になった年寄りのわがままだと思ってくれないか」
「わがまま? 俺には恫喝にしか聞こえねーがな」
 わかりにくいが、これが賢吾の承諾の返事だったらしい。二人揃って和彦を見て、異口同音に尋ねてくる。かまわないか、と。
 和彦には頷く以外の選択肢はなく、さすがの千尋も呆れたような顔をして言った。
「俺だって、じいちゃんとオヤジからこう言われたら、断れねーよ」
 話がまとまると、守光の体調も考え、三人は一旦部屋の外に出る。南郷は相変わらず、廊下に立っていた。
 和彦は微妙に立ち位置を変え、南郷の姿が視界に入らないよう、賢吾の陰に入る。
「すまないな、先生。マンションに戻ってやっと落ち着いたってところだったのに、今度はこっちの騒ぎに巻き込んじまったな」
 賢吾ほどの男であっても、守光が決めたことに逆らえない。長嶺組組長としての立場もあるだろうが、体調がどう悪いのかはっきりしない父親を相手に、きついことも言えないのだろう。そして和彦は、自分以上にさまざまな事情の板挟みになっている男に、心細さや不安を訴えることはできなかった。
「会長の体のことなんだから、騒ぎに巻き込まれたとは思ってない。ぼくがオロオロしているのは、自分が医者として未熟だと自覚しているからだ。ぼくがついていて、会長に何かあったら――……」
「本人は平気そうだったし、明日の朝には病院に放り込むんだ。そう肩肘張るな、先生。手に余れば、すぐに救急車を呼べばいい」
 大ざっぱな励まし方だなと思いつつも、和彦はそっと笑みをこぼす。
「今から組の者に電話して、必要なものを部屋から取ってきてもらえ。明日、ここから出勤するなら、着替えがいるだろう」
「ああ、そうさせてもらう……」
 ここでふいに、賢吾が片手を伸ばしてきて、頬に触れてくる。目を丸くする和彦に、賢吾はこう問いかけてきた。
「大丈夫か、先生?」
 気遣うように顔を覗き込まれ、和彦は苦笑を浮かべた。
「ぼくのことはいいから、あんたはこんなときぐらい、会長の心配だけしたらどうだ」
「……倒れたといいながら、周囲への牽制をすでに考えている、食えない男のことを、か」
「どこかの誰かに、よく似ていると思うが」
 視線を逸らしつつ和彦がぼそりと呟くと、傍らで聞いていた千尋が短く噴き出す。そんな千尋の頭を、和彦は手荒く撫でてやる。
「お前は、一人で先に駆けつけて、よく落ち着いていられたな。いざとなると、やっぱり肝が据わっているんだな」
 千尋はくすぐったそうに首をすくめた。スーツをしっかりと着込んでいながら、その仕種がひどく子供っぽく見えて、和彦は少しだけほっとする。
「いや、電話で聞かされたときは、さすがにびっくりしたけどさ、本部についてみっともない姿を見せるわけにはいかないじゃん。長嶺の男としては。……俺なりに、必死だったよ。じいちゃんはあの通りだから、拍子抜けしたってのもあるけど」
 長嶺組の跡目という役目を背負っているとはいえ、千尋はまだ二十一歳の青年なのだ。一人で賢吾を待っている間、不安でなかったはずがない。しかもここは、普通とは言い難い場所だ。
 千尋の頭を撫でる手つきは、つい優しくなってしまう。それに気づいたのか、千尋が人懐こい犬のように身を寄せてきたが、場所と状況を弁えろと小声で窘める。
 和彦は、二人を玄関まで見送ろうとしたが、かまわないと断られる。千尋が先に玄関に向かい、少し遅れて賢吾があとに続く。
 南郷はまるで飾り物のように、廊下に立っていた。大きな体を壁際に寄せ、千尋が通り過ぎるときに頭を下げる。さらに、あとに続く賢吾にも――。
 ふいに、賢吾が足を止め、南郷に声をかけた。この瞬間、和彦はドキリとした。
「――南郷、オヤジのこと頼むぞ。俺は頻繁に、ここに顔を出せねーからな」
「承知しています」
「それと、先生のことも。うちの先生は繊細だから、あまり窮屈な思いはさせないでやってくれ」
 南郷は一層深く頭を下げ、どんな表情を浮かべたのか確認することはできなかった。賢吾は、じっと南郷を見下ろしていた。ゾッとするほど冷ややかで無機質な、蛇の目だ。その賢吾がふっとこちらを見て、目元を和らげた。
「じゃあな、先生。あまり気張りすぎるなよ」
 和彦はぎこちなく頷いた。


 普段以上に神経が過敏になっているのか、和彦の耳は、どんな些細な物音すら拾う。たとえ、浅い眠りの最中であっても。布団に横になったまま、誰かが廊下を行き来しているのがわかった。足音を立てないよう細心の注意を払っているようだが、ほんのわずかな衣擦れの音を消すことはできない。
 和彦は寝返りを打つと、開いたままの襖へと目を向ける。少し待つと、男が部屋の前を通り過ぎた。
 今夜の和彦は、いつもの客室ではなく、守光の部屋の隣の和室を使っている。何かあっても、微かな声や物音を聞き取ることができると思ったからだ。ただ、和彦以上に、守光に仕える男たちが気を張り詰めている。何かあったときのためにと、守光の部屋の前に交代で詰めているのだ。
 何かあれば呼ぶので、安心して休んでほしいと言われている和彦だが、熟睡できるはずもなく、ウトウトしては目を覚ますということを繰り返している。
 少しの間、横になったままぼんやりとしていたが、守光のことが気になる。そうなると眠るどころではなく、和彦は起き上がって廊下に出ていた。
 隣の守光の部屋のほうを見ようとして、ぎょっとする。フットライトで照らされた廊下の隅に、大きな影があったからだ。そこに大きな獣でもうずくまっているのかと思って目を凝らすと、壁にもたれかかるようにして座った南郷だった。
 和彦が横になる前、南郷は人に呼ばれて出ていったのだが、いつの間にか戻ってきたようだ。隊を率いる南郷ほどの男なら、寝ずの番をする必要があるとも思えないが、これが、南郷なりの守光への忠義の示し方なのだろう。
 立ち尽くす和彦に、南郷がゆっくりと視線を向けてくる。たったそれだけのことなのに、和彦は心臓を掴み上げられるような威圧感を感じていた。
「――どうかしたのか、先生」
 低く抑えた声が空気を微かに震わせる。和彦の肩も。
「会長の……、様子が気になったものですから……」
「そうか。だったら部屋に入ってくれ」
「……いいんですか?」
「いいも何も、あんたは医者だろ」
 歯を剥き出すようにして南郷が笑う。バカにされたように感じたが、単なる被害妄想かもしれない。考え過ぎということにして、わずかに開いた襖の隙間から、守光の部屋を覗く。スタンド照明のほのかな明かりのおかげで、休んでいる守光の様子を見ることができた。
 さらに襖を開けた和彦は、身を滑り込ませるようにして部屋に入る。逡巡したが、結局、襖を完全に閉めてから、守光が横たわっている布団に静かに歩み寄った。
 傍らに座ると、眠っているとばかり思っていた守光が目を開ける。驚いて咄嗟に言葉が出ない和彦に、守光が話しかけてきた。
「様子を見に来てくれたのか、先生」
「……すみません。脈だけ測らせてもらおうと思ったんですが、起こしてしまいましたね」
「気にしないでくれ。目を閉じてはいたが、眠っていたわけじゃない」
 布団の下から守光が片手を出したので、さっそく和彦は脈拍を測る。呼吸も安定しているので、急を要する状態にはなっていないようだ。守光の手を布団の中に戻そうとして、軽く指を掴まれた。ハッとして守光を見ると、もう目を閉じている。和彦は、守光の手を握った。なんだか、不思議な感覚だった。
「――……ぼくは、家族の看病というものをしたことがないんです。それどころか、誰かが体調を崩しても、心配して枕元に近寄ることもできなかった。ぼく以外の家族間で心配して、看病をしていました。だから正直、家族の体調を気遣うという感覚が、よくわからない。医者として患者を気遣うのと、どう違うのだろうかと、大学に通っていた頃や、医者になったばかりの頃は、不思議でした」
 迷惑だろうかと思いつつ話しかけると、目を閉じたまま守光は笑った。
「今は、わかるのかね?」
「今も、正直不思議な感覚です。他人のぼくが、こうしてあなたの側にいるのは。ぼくは今、どんな立場でここにいるのか、自分でもよくわからないんです」
 医者として、患者を不安にさせる発言だなと思ったが、こう表現するしかなかった。守光は、今度は声を洩らして笑う。
「不思議な縁だな。あんたとは。千尋とあんたの縁が、あんたを賢吾に引き合わせ、結果として、わしもあんたと出会えた。そのわしは、ずいぶん昔に、あんたの父親と縁ができていた。医者のあんたと深い関係を結んで、こうして診てもらって……」
「本当に、そうですね。ぼくと会長の縁が、一番不思議かもしれません」
「せっかくの縁だ。本当の家族になるのもいいかもしれんな」
「えっ……?」
 守光が薄く目を開き、このとき見えた眼光の鋭さに、和彦は一瞬息を止める。
「わしの養子にならんかね」
 和彦は、握った手と、守光の顔を交互に見ながら、何も言えなかった。守光は再び目を閉じ、穏やかな口調で続ける。
「冗談なのか本気なのか判断がつかない、という顔をしているな、先生」
「……賢吾さんに、同じことを言われたことがあります」
「なるほど。父子揃って、口説き文句も同じとは、血の繋がりは侮れんな」
 ふふ、と堪らず和彦は笑ってしまう。守光はそれ以上何も言わなかった。
 和彦はしばらく守光の手を握ったまま、落ち着いた呼吸音を聞き続けた。









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