と束縛と


- 第31話(2) -


 翌朝、病院に向かう守光を見送った和彦は、慌しく出勤の準備を整える。
 長嶺の本宅から出勤することは、すでにもう珍しくもなく、図々しい話だが、もう一つの自宅のような感覚さえある。だがさすがに、総和会本部からの出勤となると、勝手がまったく違う。
 一挙手一投足を観察されているようでもあるし、主がいなくなった住居を、自分が自由に使える状況にあるというのも、なんだか居心地が悪い。そもそもこの特権は、和彦が守光のオンナであることで、得られているのだ。
 いまさら、他人からどう思われようが、気にかける時期は過ぎているのであろうが――。
 アタッシェケースを持って玄関を出た和彦を出迎えてくれたのは、守光の身の回りの世話をしている男だった。守光に同行するのかと思っていたが、あくまで男の仕事は、守光の住居空間を守ることにあり、この建物を一歩出てからのことは、護衛担当の者たちに任せるのだそうだ。
「そうはいっても、病院は完全看護なので、護衛ができることは病院の外を張って、人の出入りを確認するだけです。検査の間は、千尋さんが付き添ってくださるそうですが」
 エレベーターに乗り込みながらそう説明を受けた和彦は、総和会だけではなく、長嶺組も大変だなと思う。総和会にとっては会長である守光が、長嶺組にとっては跡目である千尋が気がかりだろう。この二人がともに行動するとなれば、普段であれば大勢の護衛が周囲を囲むのに、病院では二人だけなのだ。しかも夜は、守光は一人で病室で過ごすことになる。
「それは心配ですね……」
「長嶺会長の代になってから、総和会という組織そのものは融和を謳って、対外的には穏やかな姿勢を取っています。そのおかげで、敵対行動を取られることはずいぶん減りました。ただ、総和会を今の形に作り上げるために、長嶺会長自らは、厳しい姿勢を見せることがありました。我々が危惧しているのは、組織の外よりも――」
 男はここで言葉を呑み込む。しかし和彦は、続きの言葉を察することはできた。これまで、守光本人だけではなく、賢吾や千尋もそれとなく匂わせてきたことだ。
「今、長嶺会長に何かあれば、総和会内は荒れます。そうなったとき、わが身と組織は安全であると言い切れる者は、誰もいないでしょう。それを承知で行動を起こす者がいるとは思いません。護衛をつけるのも、念のためです。佐伯先生も委縮されないよう、普段通りの生活を送ってください。快適に過ごしていただけるよう、そのためのサポートは惜しみませんから」
 男の物言いにわずかな違和感を覚え、和彦は首を傾げる。自分は一体何に引っかかったのだろうかと考えようとしたが、開いたエレベーターの扉を押さえて男がこちらを見る。
「先生、一階です」
「はいっ……」
 エントランスホールに向かおうとした和彦だが、やはりさきほどの言葉が気になり、男を振り返る。
「あの、さっき――」
「いまさらですが、きちんとした自己紹介はまだでしたね。わたしのことは、吾川(あがわ)とお呼びください。この建物で滞在いただく限り、長嶺会長だけではなく、佐伯先生のお世話もさせていただきます。遠慮なく、ご用を申しつけください。長嶺会長にも、重々言われておりますので」
 和彦は、複雑な表情となるのを抑えられなかった。吾川と名乗った男は、守光の生活全般の世話を担当しているだけあって、四階の住居スペースに自由に出入りしている。守光が呼ぶまでもなく、いつの間にかそこにいて、必要なことを行い、静かに立ち去るのだ。当然、これまでも和彦は、この吾川には世話になってはいた。守光の〈オンナ〉として。
 佐伯和彦という個人として認識はされていないのだろうなと、心の中では思っていたのだが、こうして名乗られたことで、その認識を改める瞬間が来たと感じた。和彦もまた、守光の世話をしている年配の柔らかな物腰の男を、吾川という個人として認識した。
 些細なことだが、総和会にまた深入りしたと実感するのだ。
「……吾川さん、今日はぼくは、クリニックからまっすぐマンションに帰ります。明日の夕方、ここに立ち寄る予定ですが、そのときはよろしくお願いします」
 和彦の言葉に、吾川は返事の代わりか、頭を下げる。いってきますと声をかけ、和彦は自動ドアを通った。
 アプローチにはすでに車が待機しており、和彦が姿を現すと、車の傍らに立っていた男が後部座席のドアを開けた。長嶺組の車に対しては、こんなことをしなくていいと気軽に要求できるのだが、ここが総和会本部ということもあり、何も言えない。
 礼を言って車に乗り込むと、途端に疲労感に襲われる。それと同時に、こめかみがズキリと痛んだ。明け方まで何度も守光の様子をうかがっていたため、睡眠不足気味だということもあるが、外の曇天具合を見るに、気圧のせいかもしれない。
 もしくは悪い前触れか、と考えたところで和彦は、これは不吉すぎるなと、ブルッと身震いをしていた。


 午前中の最後の患者の施術を終え、手を洗いながら和彦は一声唸る。すぐに治るかと思われた頭痛に、まだ苛まれていた。我慢できないほど痛いというわけではないが、神経に障る。
 鎮痛剤を飲む前に、何か食べておいたほうがいいのだろうと思いながらも、外に出るのが億劫だ。なんといっても、クリニックの外で待機しているのは、総和会の護衛なのだ。男たちの視線を気にかけつつ食事をするのは気が進まない。仕方なく和彦は、近くのコンビニに弁当を買いに行くというスタッフに、自分の分も頼む。
 平日は、自分の足で歩くといえばクリニック内がほとんどのため、昼食時は数少ない外の空気を吸う機会なのだが、そうもいっていられない。
「……ああ」
 デスクの引き出しに入れておいた携帯電話の電源を入れて、小さく声を洩らす。千尋からの留守電を聞いた和彦は、仮眠室に入ってから電話をかける。待ちかねていたように、千尋はすぐに電話に出た。
「今、話して大丈夫なのか?」
『うん。じいちゃんが使っている個室にいるから、平気。そのじいちゃんは、検査に行ってるよ。先生から説明受けたけど、心電図をとる機械をつけたまま、明日まで過ごすんだって』
「それで、会長の様子は?」
 一度はベッドに腰掛けた和彦だが、外が気になって窓を開けてみる。相変わらず天気は悪いが、雨は降っていない。午後から天候が荒れるのではないかと、ふと考える。昨日から今日まで気忙しく過ごしていたため、天気予報を見ていないのだ。
『心配ないよ。調子が悪そうって感じでもないし、泰然自若としてる。むしろ俺のほうが、何かあるんじゃないかって、緊張で胃がキリキリしてさ』
「怖いことを言うなよ。ぼくまで胃がどうにかなるだろ」
『――心配してくれてる? じいちゃんと、俺のこと』
 こんなときでも長嶺の男らしいなと、和彦は苦笑を洩らす。
「当然だろ。お前や会長に何かあったら、長嶺組も総和会も大変だ」
『そうじゃなくて、先生個人は、ってこと』
「ぼくのことを大事にしてくれている人がつらい思いをするのは、嫌だ。……この答えじゃ、不満か?」
 電話の向こうから、千尋の笑い声が聞こえてくる。
「千尋?」
『先生のことを大事にしてる俺の気持ち、伝わってるんだと思ってさ。なんか嬉しくなった』
 聞いているこちらは気恥しくなってくると、和彦は心の中で応じる。
「大げさだ。誰だって、同じことを思うはずだ」
『でも、先生みたいな目に遭った人は、同じことは思わないよ、きっと。先生は、優しいんだ』
 さすがにムキになって否定しようとしたが、千尋はさらに続けた。
『……じいちゃんに聞いたよ。先生が一晩の間に何度も、様子を見にきてくれたこと。実の息子でもそこまでしてくれないのに、だってさ』
「側にいたら、お前でも、組長でも、同じことをやったよ……」
 和彦の脳裏に蘇ったのは、一晩中、守光の部屋の前に陣取っていた南郷の姿だ。それは、主人に誠心誠意尽くしている忠義ゆえなのかもしれないが、今の千尋の言葉を聞いた和彦は、どうしても考えてしまうのだ。まるで、父親を心配する、孝行息子のようではなかったか、と。
 かつて賢吾が、総和会の中で、南郷は守光の息子としての役割を与えられていると言っていた。他人の和彦よりも、守光と血の繋がっている賢吾のほうが、より強く、何かを感じているのかもしれない。
『先生、どうかした? 急に黙り込んで』
「いや……、少し気が抜けたというか。――会長の検査が終わったら、お前は帰るんだろ」
『うん。護衛がついてない状況で、俺とじいちゃんが一緒にいると、総和会も長嶺組も心配が倍増するんだよ。病院の外で、冷や冷やしながら待機してると思う』
 その護衛たちの苦労が、今の和彦は少しだけ理解できる。守光に何かあったらと、昨晩から今朝にかけて、和彦は似たような緊張感を味わっていたのだ。
 ドアの向こうから、和彦を呼ぶ声が聞こえてくる。買い物を頼んだスタッフが戻ってきたのだ。
「悪い、千尋。呼ばれてるんだ」
『あっ、うん。じいちゃんは大丈夫だって、伝えたかっただけだから』
 電話を切った和彦は、すぐに返事をして仮眠室を出た。


 昼間飲んだ鎮痛剤が切れたのか、ふいにズキリと頭が痛む。疲れと眠気の両方から、後部座席のシートにぐったりと身を預けていた和彦は、沈鬱なため息をついた。
 自宅マンションに帰り着いたら、さっさと鎮痛剤を口に放り込み、ベッドに潜り込みたかった。少し休まないと、思考が正常に働きそうにない。
 さらに深くシートにもたれかかろうとした和彦だが、車が本来曲がるはずの道をまっすぐ進んだことで、目を見開く。まさか、と思って口を開きかけた瞬間、間が悪いことに携帯電話が鳴った。反射的にジャケットのポケットに手を突っ込もうとして、携帯電話の着信音が違うことに気づく。
 微妙な表情となって和彦は動きを止める。ハンドルを握る男が、バックミラー越しにこちらを一瞥した。早く出ろと急かすように鳴り続ける着信音に我慢できず、仕方なくアタッシェケースを開け、もう一台の携帯電話を取り出す。里見との連絡に使っているものだ。
 表示されているのは、里見の携帯電話とは別の番号だった。
『感心だな。番号を替えなかったのか』
 電話に出ると、前置きもなしに皮肉に満ちた口調で言われた。ここでまた頭が痛み、和彦はなんとなく理解した。朝から悩まされていた頭痛は、確かに悪い前触れだったのだ。
 総和会の車に乗っている最中に、英俊から電話がかかってきたのだ。組み合わせとしては、最悪だ。
「替えたところで、里見さんに迷惑がかかるだけだと思ったからね。だけど、こうして声を聞くと、やっぱり替えておけばよかった」
『プリペイド携帯だと、いくらでも替えがきくだろ。――携帯の番号から、少しは何かわかるかと期待したこともあったんだがな。お前にあれこれアドバイスしている人間は、慎重だ』
 そんなことまでしていたのかと和彦は絶句すると、気配から察したのか、楽しげに囁くような声で英俊が言った。
『――お前、自分の父親が、どの省庁で権力を振るっているのか、忘れたわけじゃないだろ。今は、わたしがお前を追っている。しかしわたしも、暇ではないんだ。いい加減、厄介事を片付けたいと思っている』
「つまり、これまでは本気でなかったと言いたいのか」
『兄弟で平和的な話し合いがケリがつくなら、そのほうがいいだろう。しかしお前は、そのつもりがないようだった』
 和彦は眉をひそめると、自分の喉元に手をやっていた。いまだに、英俊に首を絞められかけた感触が残っているのだ。
『手段を変える。里見さんはあまりにお前に肩入れしすぎていて、少々信頼感に欠ける。里見さんを餌に、お前をおびき寄せる手段も、もう使えないだろうしな』
「よく……、そんな言い方ができる。あの人は、兄さんにとってかつての上司で、今も仕事でつき合いがあるんだろ。それに、父さんにとっても、かつて目をかけていた部下だ」
『父さんにとって、何より信用できるのは、血の繋がりということだ。どれだけ子飼いの部下がいて、強い影響力を持って多数の人間を動かせたところで、信用しているのは、家族だ。……お前ですら』
 吐き出すように言われた英俊の最後の言葉が、毒のしずくとなって和彦の鼓膜へと染みていく。英俊は、ただ、思うように物事が進まない苛立ちを、和彦にぶつけるために電話をかけてきたわけではない。これは英俊なりの、暗い呪詛を含んだ宣言だ。
 和彦を絶対に捕えるという。
 悪寒に大きく身震いした拍子に、和彦は顔を上げる。いつの間にか車は、朝通ってきた道路の反対側を走っていた。つまり、向かう先は――。
「あのっ――」
 運転手に話しかけようとしたが、まだ電話を切っていないことを思い出す。どうしようかと迷ったのは数秒で、車から飛び降りるわけにもいかない和彦は、結局シートに身を預け直した。
 脈打つように頭が痛み、英俊と話すことが猛烈なストレスになっていることを実感する。
「この間も言ったけど、ぼくは家の事情に関わるつもりはないし、邪魔をするつもりはない」
 どうせ訴えたところで、英俊は聞き入れるつもりはないだろう。すでにもう徒労感に襲われた和彦は、昨夜守光と交わした会話を思い出していた。権力を振るうというなら、守光もまた、同じだ。多数の人間を思うように動かせるが、その影響力は俊哉とは違い、どす黒い凶悪さを伴っている。つまり、いざとなれば手段を選ばないということだ。
 和彦は、守光の影響力の下にいる。頭痛のせいで意志が弱くなり、その力に一瞬だけ身を委ねてしまった。
「――……ぼくはもう、とっくに成人だ。自分で自分の人生を取捨選択できる。何もかも従うしかなかった子供の頃とは違う」
『何が言いたい』
「佐伯の姓を捨てるというのは、どうかな。……一番手っ取り早い、抵抗の仕方だよ。そして多分、佐伯家にとって、痛烈な抵抗となる」
『お前……』
「父さんが失いたくないのは、〈佐伯和彦〉だ。手に入れるために、あの父さんが奔走したぐらいだそうだし」
『どうして――』
 英俊が何か言いかけたが、和彦のペースに巻き込まれていることに気づいたのだろう。一呼吸間に、いつもの落ち着きを取り戻していた。
『今、お前の面倒を見ているのが、どれだけ頼りになる人間かは知らないが、ずいぶん強気だな。だが――父さんは甘くはないぞ。わたしと違ってな』
 さきほどの英俊の宣言めいた言葉も相まって、不穏な影に足首を掴まれたような感覚に襲われる。英俊は、苦し紛れのこけおどしなどしない。こうも俊哉の存在を仄めかすということは、何かが、あるのだ。
『お前の発言は、しっかりと父さんに伝えておく』
「……携帯の番号は、替えるから」
『別に、替えなくていいぞ。わたしはもう、かけるつもりはない』
 唐突に電話が切られる。和彦は、耳元から引き剥がすように携帯電話を離すと、そのまま少しの間、ぼうっとしてしまう。我に返ったのは、運転手の男に呼ばれたからだ。
「――佐伯先生」
 ハッとした和彦は、前方を見る。
「到着しました」
 車は、総和会本部の前に停まっていた。
 朝の時点で和彦は、漠然とした不安は感じていたのだ。総和会は、自分を自宅マンションに送り届けるつもりはないのではないか、と。その不安は的中したというわけだ。
 和彦は手にしていた携帯電話の電源を切ると、アタッシェケースを持って車を降りる。ここで抗議をするほどの気力は、和彦には残っていなかった。


 身の置き場がないとは、まさに今の自分の状況を指すのだろう。
 ダイニングのイスに腰掛けた和彦は、手持ち無沙汰から鎮痛剤の箱を手の中で弄ぶ。夕食後に飲んだ鎮痛剤はとっくに効き目が表れ、今のところ頭痛は治まっている。英俊と話して興奮したせいか、一時は吐き気がするほどひどかったのだ。
 風邪の症状が出ているわけでもないので、たっぷり睡眠を取れば、さほど気にするほどでもないはずだ。そう、考えていたのだが――。
 本来であれば、自宅マンションで一人、ゆっくりと落ち着いた時間を過ごしている頃なのだろうが、和彦が現在いるのは、総和会本部内にある守光の住居だ。主である守光は、病院に検査入院しているというのに、なぜか和彦が、その守光の住居に今晩も泊まることになっていた。
 ぜひお世話させてくださいと、柔らかながら、否とは言わせない口調で吾川に押し切られたのだ。守光の住居を使わせてもらえるということは、それだけ信用されているのだと思うべきかもしれないが、和彦には、ここまで厚遇されることが、かえって怖い。どんどん総和会に取り込まれていると感じ、おそらくそういう事態になっているのだろう。
 何より怖いのは、総和会側の思惑が透けて見えていながらも、和彦は拒むことができないということだ。今晩は帰りたいと本気で訴えるなら、長嶺組組長に迎えに来てもらうしかない。当然、そんなことができるはずもないのだが。
「――佐伯先生」
 背後から声をかけられ振り返ると、吾川が立っていた。普段、守光のためだけに仕えているであろう男は、和彦に対しても細やかな気遣いを見せてくれ、積極的に話しかけてくるでもなく、夕食や風呂の準備を整え、和彦が部屋を移動している間に片付けを済ませ、己の存在を意識させまいと努めている。おかげで和彦も、吾川と同じ空間にいることは苦痛ではない。
「床を延べましたから、いつでもお休みください。昨夜からあまり眠れなかったでしょう。わたしは同じ階におりますから、ご用があるときは、遠慮なく内線でお呼びください」
「あっ、はい、ありがとうございます」
 慌てて立ち上がった和彦が頭を下げると、吾川も丁寧に一礼してから立ち去る。玄関のドアが閉まる音がした途端、一気に気が緩んだ。起きているのもつらいほど、体に疲労が溜まっていた。
 和彦はダイニングの電気を消すと、ふらふらとした足取りで客間に入り、ほっと一息をつく。
 何げなく床の間に目を向ければ、水辺で泳いでいる金魚を描いた掛け軸が掛かっていた。涼風がこちらにまで届きそうな爽やかな画に、少しの間和彦は見入ってしまう。もう夏なのだと、唐突に実感していた。
 ようやく我に返ると、ハンガーにかけたジャケットのポケットから、携帯電話を取り出す。
 千尋には夕方、もう一回連絡しており、守光は一通りの検査を終えて、病室で安静にしながら心電図を測っていると聞いた。千尋自身は長嶺の本宅に戻っており、新たな着信も残っていないことから、心配する事態にはなっていないようだ。
 もう一台の携帯電話は、ポケットから出すことさえしなかった。帰路につく車中での英俊との会話を思い返すと、触る気にもなれないのだ。
 長嶺組から連絡が入るかもしれないと、携帯電話を枕元に置いた和彦は、今夜はもう休むことにする。
 万が一を考えて窓を開けるわけにもいかず、仕方なくエアコンはつけたままにしておく。月明かりは今夜は期待できないため、部屋の電気を消したあと、布団の傍らにあるライトの明かりを最小限に絞ってつけておく。そうすると、横になっても、床の間の掛け軸をぼんやりとながら眺めることができるのだ。
 蒸し暑い日に、どこか池のほとりを散歩してみるのもいいなと、取り留めのないことを考えていた。子供の頃、少しだけ憧れていた、大きな水槽に金魚を飼ってみるのもいいな、とも。
 肌掛け布団に包まって、心地のよい夢想に浸っているうちに、抗いきれない眠気がすぐに押し寄せてきて、和彦の意識を搦め捕る。
 どれぐらいウトウトしていたか、唐突に、不快感にじわじわと眠りを侵食されていることに気づいた。
 頭の片隅で、これは一体なんだろうかと思った和彦だが、その頭が痛かった。鎮痛剤の効き目が切れたのだと、鈍い思考でようやく結論を出したとき、頬に微かな風が触れる。エアコンの風ではないと、本能的に判断していた。
 和彦は目を開けると同時に飛び起き、這うようにして逃げようとしたが、すかさず腰を掴まれた。
「離せっ」
 身を捩り、尚も抵抗しようとしたが、それ以上の力で引き戻され、南郷に顔を覗き込まれると、一瞬にして動けなくなった。
 このとき、ズキリと頭が痛み、記憶がフラッシュバックした。頭痛と南郷という組み合わせは、総和会の隠れ家での出来事を思い出させるには十分で、ここで和彦は理解した。
 朝から感じていた悪い前触れとは、英俊からの電話などではなく、今この瞬間のことだったのだと。
「――あんたは本当に、躾がいい。こちらが凄むまでもなく、一瞬にして抵抗の無益さを理解する。可愛がられるオンナの条件というやつか。まあ、このきれいな顔を、喜んで殴る悪趣味な奴なんて、そうそういないだろうが」
 南郷のこの言葉は、決定的だった。体はすでに竦んで動かないが、抵抗しようとする気力すら、呆気なく粉砕される。
 和彦が逃げないと確認したのだろう。腰に回した腕を離した南郷は、悠然と布団の上にあぐらをかいて座った。そんな南郷をうかがうように見ていた和彦だが、あるものに視線が吸い寄せられる。南郷が片腕で抱え持ったものだ。和彦はそれに見覚えがあった。ただし、持ち主は今、病院にいる。
 南郷はこれ見よがしに、漆塗りの立派な文箱を布団の傍らに置いた。このとき、やけに重みのある音がして、反射的に和彦は身を引こうとしたが、南郷に肩を抱かれ、反対に引き寄せられた。
 浴衣の布越しに、南郷の太い腕の感触と体温を感じる。半ばの無意識のうちに、逞しい胸に手を突いて拒もうとしたが、南郷は歯を剥き出すようにして笑った。
「そう怖がらなくても、取って食いやしない。――まだ」
 物騒な言葉を囁かれ、鳥肌が立った。視線を背けた瞬間に食われてしまいそうで、瞬きもせず見つめる和彦の肩を、南郷はやけに優しい手つきで撫でてくる。撫でながら、一層体を密着させ、さらには顔を寄せてきた。
 あごを持ち上げられ、獣の息遣いが唇にかかる。まず、下唇を吸われた。和彦は微かに声を洩らして首を振ろうとしたが、下唇に軽く噛みつかれて、南郷を受け入れざるをえなくなった。
 上唇と下唇を交互に吸われ、甘噛みされながら、合間に南郷が言われた。
「覚えているだろ、隠れ家で最後に俺としたキスを。あのときのあんたは、けっこう乗り気だった。ああいうキスをしようぜ」
 間近で南郷を睨みつけた和彦だが、痛いほど唇を吸われたあと、おずおずと南郷と舌先を触れ合わせる。南郷の手に手荒く後ろ髪をまさぐられ、背筋に熱い疼きが駆け抜けていた。もう片方の手には、喉元を優しく撫で上げられる。首を絞め上げられるかもしれないと考えているうちに、太い鞭のような舌に歯列をこじ開けられて、口腔を犯されていた。
「んうっ」
 込み上げてきた吐き気を堪えている間にも、南郷の舌に口腔の粘膜をたっぷり舐め回される。喉元にかかった手を意識しながら、和彦は微かに喉を鳴らして受け入れていた。舌を引き出され、露骨に濡れた音を立てながら吸われる。
 南郷と交わした口づけは覚えていた。自分を粗野で暴力的な人間に見せる利点を知り抜いている男は、口づけもまさにその通りだ。和彦を威圧し、怯えさせながら、思うままに振る舞い――巧みに快感を引き出す。
 喉元にかかった南郷の手が動き、浴衣の合わせから入り込む。胸元を手荒な手つきで撫で回されているうちに、和彦の意思とは関係ない反応として、胸の突起が凝っていく。それを待っていたように南郷の指に摘み上げられた。痛みを感じるほど強く抓られ、喉の奥から声を洩らす。
「……優しくしてほしいか、先生?」
 揶揄するような口調で南郷に問われ、和彦は顔を背ける。かまわず南郷が続けた。
「優しくしてほしいなら、俺にも優しくすることだな」
 再びあごを持ち上げられ、唇を塞がれる。同時に指の腹で胸の突起をくすぐられ、和彦はビクリと背を反らした。南郷に唇を吸われ、おずおずと吸い返す。すぐに南郷の口づけは熱を帯び、その熱に和彦は感化される。
 帯を解かれ、浴衣を肩から落とされながら、南郷と唇を吸い合ってから、舌を絡める。胸の突起を指で挟まれ、くんっと引っ張られる。小さな疼きが胸に生まれ、和彦の呼吸が弾んだ。
 南郷に抱き寄せられたまま、布団の上にゆっくりと押し倒され、のしかかられる。急に怖くなって南郷の下から抜け出そうとしたが、本気ではない和彦の抵抗を封じるなど、造作もないことだろう。南郷は喉を震わせるように笑い声を洩らし、露わになった胸元をベロリと舐め上げてきた。不快さに、一瞬息が詰まる。
「――先生、聞きたいことがある」
 顔を強張らせる和彦にかまわず、浴衣を脱がせながら南郷が話しかけてくる。
「今日、クリニックからの帰りの車の中で、あんたが電話で話していた相手は、あんたの兄貴、でいいんだな?」
「……そんなことまで、報告を受けているんですか」
「あんたは、総和会にとって大事な会長の、オンナだ。そのうち、ビジネスパートナーにもなるようだが。とにかく、あんたも大事な存在だ。守るうえで、あれこれと知っておかないとな」
 南郷の手が下着にかかり、さすがに制止しようとしたが、ささやかな抵抗など嘲笑うように一気に引き下ろされ、脱がされていた。南郷の前に裸体を晒し、たまらず和彦は顔を背けたが、視線の先には、掛け軸の中の金魚がいた。
「電話の相手は……兄です」
「揉めていたようだな。そもそもあんたが隠れ家に来ることになった原因も、その兄貴だったはずだ。なのに、連絡を取り合っているのか」
「取り合ってはいません。多分、今日で最後です。……あっ」
 硬く凝った胸の突起を、いきなり情熱的に吸われ、舌先で弄られる。さらに、南郷の片手が両足の間に差し込まれ、欲望を握り締められた。
 和彦は間欠的に声を上げ、与えられる愛撫に反応する。布団の上に爪先を滑らせ、大きく背を反らし上げると、頭上に伸ばした手で畳を掻く。素直に認めたくはないが、体が――肌が、南郷の唇や舌、手の感触に馴染みつつあった。南郷も同じことを感じたのか、こんなことを呟いた。
「今夜のあんたは、実にいい。……そそられる。もともと愛想のいい体だったが、俺に撫で回されて、もう悦んでいるだろ」
 羞恥よりも、屈辱感に襲われ、南郷にきつい視線を向けると、ニヤリと笑って返される。
「自分の兄貴と、険悪な雰囲気だったそうだな。あんたが佐伯の姓を捨てるとか、どうとか」
「……南郷さんには、関係ないでしょう」
「さっき言っただろ。あんたは、オヤジさんの大事なオンナ。俺にとって関係は大ありだ」
 南郷の大きな手に包み込まれた欲望を扱かれ、次第に和彦の下肢から力が抜けていく。知らず知らずのうちに足を開き、それに気づいて慌てて閉じようとしたが、南郷に膝を掴まれた。
「いいじゃねーか、先生。いまさら俺の前で、恥ずかしがらなくても」
 両足が閉じられないよう、ぐいっと腰を割り込ませてきた南郷が、これみよがしにチノパンの前を寛げる。引き出された南郷のものはすでに高ぶっており、その反応を目の当たりにした和彦は腰を引きずるようにして体を起こす。座ったまま後退ろうとしたが、のっそりと這い寄ってきた南郷に容易く捕まった。
 引き寄せられて、背後からしっかりと両腕で抱き締められ、うなじに唇が押し当てられる。腰には、南郷の凶暴な欲望が当たっていた。
「――あんたの実家には何かあると、俺は踏んでいる。多分、オヤジさんも」
 耳の後ろから囁かれ、和彦は肩を震わせる。
「名家から弾かれた放蕩息子という感じじゃないからな、あんたは。好き者ではあるが、長嶺組の跡目に目をつけられる以前は、色恋沙汰で揉めたこともないし、金銭絡みもきれいなもんだ。次男坊としては、出来過ぎているぐらいだ。だが、あんたは佐伯家と疎遠でいようとした。そして佐伯家も、それで好しとしていながら、妙な執着の仕方をしている」
「あっ」
 南郷の手が胸元を這い回り、もう片方の手が再び両足の間に入り込む。ただし触れてきたのは――。
「ひっ……、あぁっ、それ、嫌っ……」
 柔らかな膨らみをゾッとするほど優しい手つきで包み込まれ、和彦は上擦った声を上げる。与えられる感覚を予期しただけで、腰が震える。なんとか腰を上げようとして、すかさず南郷の指が妖しく蠢いた。
「うっ、うぅっ」
 指先で弱みを探り当てられ、弄ばれる。
「総和会も長嶺組も、あんたと、あんたの実家のことは徹底的に調べ上げている。隙のない、完璧なまでの名家だ。オヤジさんは個人的に、あんたの父親について知っているようだが、詳しいことは俺も教えてもらっていない。ただ、絶対に佐伯家に手を出すなと厳命されている」
 容赦なく与えられる刺激に、和彦は必死に南郷の手を押し退けようとしたが、少し乱暴な手つきで柔らかな膨らみを揉みしだかれ、結局南郷の腕にすがりついていた。
「……本当に、よく躾けられている体だ」
 そう言って南郷が、反り返って震える和彦の欲望を軽く扱く。
「しっかりしろよ、先生。まだ、ここからが本番だ」
 怖い囁きに体が震える。だが、体の奥で肉欲のうねりが生じたのも確かだ。
「代々続く名家に生まれた、頭もいい色男のあんたが、どういう理由で親兄弟と距離を置きたがるのか。生まれも育ちも、俺とまったく対照的なあんたが、今はこうして俺の腕の中にいる。その過程にあるものが、知りたくて仕方ない。――先生、あんたのことが知りたいんだ」
 囁かれ、頬に手がかかって顔を横に向けると、南郷に唇を塞がれる。執拗に柔らかな膨らみを攻められ、半ば恫喝されるように南郷と激しく唇を吸い合い、舌を絡める。
 長い口づけの最中、南郷に手を取られ、和彦は自身の欲望を握らされた。すっかり熱くなった欲望の先端からは、快感を知らせるしずくが垂れていた。
「オンナのあんたが、ここを熱くして欲情している姿は、いやらしくて気に入っている。最初は、男の体になんてさほど興味はなかったんだがな。興味があったのは、長嶺組長やその跡目、うちのオヤジさんが骨抜きになっているオンナという存在に対してだった。……そのうち、俺もなるかもな」
 骨抜きに、と意味ありげに呟いた南郷が手を伸ばし、箱を引き寄せた。蓋を開け、中に収まっているものを和彦も見てしまったが、やはり、守光が所有しているものに間違いなかった。
 南郷が箱からまず取り出したのは、鮮やかな朱色の組み紐だった。
「足を開いてくれ、先生」
 耳元で囁かれ、和彦は逆らえなかった。南郷の胸に体を預け、両足を立てて開くと、欲望を握られて緩く扱かれる。快感を送り込まれながら、欲望に組み紐が巻き付き、ゆっくりと根本から絞め上げられる。
「あうっ、うっ、うくっ……ん」
 和彦の欲望を組み紐でいたぶりながら、南郷は興奮していた。首筋や耳にかかる息遣いは荒く、猛々しい獣がすぐ側にいるような錯覚すら覚える。
「よく似合ってる。普段、澄まし顔のあんたを知っているせいか、たまんねーものがある」
 組み紐を結んだ南郷の興味は、さらに奥にある場所に移る。尻の間をまさぐられ、内奥の入り口を軽く擦り上げられただけで、和彦は腰を揺すって反応していた。
「あっ、嫌っ……、触らないで、くださいっ……」
「さっきもそんなことを言ってたが、ずいぶん感じてたな。嫌がるということは、感じすぎると自分でわかっているということか。まあ、俺もさんざん触ってきたから、知ってはいるんだが」
 南郷が指にたっぷりの潤滑剤を取り、再び尻の間をまさぐってくる。ひんやりとした感触に身震いするが、かまわず南郷は内奥の入り口をまさぐりながら、潤滑剤を塗り込めてくる。そして、太い指がヌルリと内奥に押し入ってきた。和彦は異物感に呻き声を洩らし、南郷の腕に手をかける。爪も立てていたが、意に介した様子もなく南郷は指を付け根まで埋め込んだ。
 滑る指に、襞と粘膜を撫で上げられ、背筋に強烈な疼きが駆け抜ける。内奥は必死に南郷の指を締め付けていた。
「やっぱり好きだろ。こうやって、尻を弄られるの。必死に締め付けてくるぜ。これならすぐ、二本目もいけそうだな」
 言葉通り南郷が指の数を増やし、内奥の入り口を押し広げられる。自分の秘部が容赦なく男の指で犯される光景を、必死に視覚しないようにしていた和彦だが、淫靡に湿った音を立てながら、内奥を指で掻き回されるようになると、無関心を装うことは不可能だった。
 背けていた視線を自分の両足の間に向けると、組み紐で絞め上げられた欲望が、先端から透明なしずくを滴らせていた。苦しいはずなのに、明らかに快感で反応している。南郷はまるで見せつけるように、内奥から大胆に指を出し入れしていた。
「はっ、あぁっ、あっ――……」
 深々と押し込まれた指が、狭い内奥で曲げられる。思いがけず中を強く刺激され、甲高い声を上げた和彦はビクビクと腰を震わせていた。数瞬、頭の中が真っ白に染まる。
 気がつけば、上体を捩り、南郷の胸にすがりついていた。内奥から指を引き抜いた南郷が唇の端に笑みを刻み、ひそっと囁いてきた。
「――イッたな、先生」
 抱き寄せられ、唇を吸われる。たったそれだけで、体の奥が疼いていた。和彦はわけがわからないまま南郷の口づけに応え、唇を吸い返し、誘い込まれるまま、南郷の口腔に舌を侵入させていた。素直になった褒美のつもりなのか、組み紐が巻き付いたままの欲望を撫で上げられる。
 思う様、和彦の舌を味わったあと、南郷が楽しげな声で、怖いことを言った。
「尻も解れたことだし、あんたのお気に入りの〈オモチャ〉で遊んでやろう」
 いつの間にか南郷の手には、卑猥な道具が握られていた。賢吾と千尋には秘密のはずのそれを、南郷は知っているどころか、使おうとしている。
 そのことの意味を理解したときには、和彦の体は布団に横たえられていた。









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