と束縛と


- 第31話(3) -


 両足を押し広げられても、和彦は抵抗できなかった。内奥から溢れ出るほどの潤滑剤を施されながら、屈辱と羞恥を嫌というほど味わわされたが、それでも、恐怖や嫌悪感は一切なかった。発情してひくつく和彦の秘部のすべてを目にしながら、南郷が、和彦以上に発情していたからだ。
 組み紐を巻き付けたまま、反り返って空しく震える欲望をてのひらで擦り上げ、ときおり痙攣する紅潮した内腿を撫で回し、たっぷり潤い、充血して蠢く内奥の入り口を視姦してくる。柔らかな膨らみにまで潤滑剤を垂らされ、てのひらで丹念に揉み込まれると、和彦は悲鳴を上げて乱れていた。
「あっ、あっ、やめ、て――」
 強い快感に哀願を繰り返したが、そんな和彦を見下ろしながら、南郷は卑猥な道具を内奥に含ませてきた。
「ひっ……」
 張り出した部分で内奥をこじ開けられて、腰を揺する。すぐに道具が引き抜かれ、また含まされた。弱い部分を執拗に張り出した部分で擦られ、和彦は短く呻き声を洩らし、下腹部をビクッ、ビクッと震わせる。欲望に食い込んだ組み紐が痛くて仕方ないが、その痛みすら凌駕してしまうほど、内奥を嬲られて、気持ちよかった。
「――先生」
 そう呼びかけてきた南郷に顔を覗き込まれる。緩んだだらしない顔を見られたくなくて、横を向こうとしたが、内奥にわずかに道具を押し込まれ、声が洩れた。
「俺を見ろ、先生。今のあんたは、絶対俺に逆らえない。意地を張るだけ無駄だ」
 円を描くように内奥で道具を動かされ、潤んだ吐息をこぼす。南郷に軽く唇を吸われ、仕方なく視線を向ける。今度は痛いほどきつく唇を吸われ、同時に道具の侵入が深くなる。見つめ合ったまま唇を吸い合い、忙しく呼吸を繰り返していた。
「ひあっ、あっ、はあっ、あぁっ……」
 内奥深くまで挿入された道具は、南郷の分身だった。力強く律動を始め、潤滑剤によって潤んだ襞と粘膜を、硬い感触で擦り上げることによって、敏感に、淫らに変化させていく。和彦はその律動を受け入れ、自ら大きく両足を開き、腰を揺らして歓喜していた。
「……オモチャで、この乱れっぷりか。本当にあんたは、いいオンナだ。体を繋いでいなくても、神経が焼き切れそうだ」
 楽しげに呟いた南郷が、和彦の欲望を再びてのひらで撫で上げてくる。組み紐で締め付けられ、熱くなっているものは、少しずつ感覚が麻痺してきているが、精を放ちたいという衝動だけはどんどん強くなっている。内奥を刺激され続け、もう限界だった。
 たまらず和彦は自らの下肢に手を伸ばし、指先で組み紐をまさぐる。結び目を解こうと、もどかしくまさぐっていると、南郷は目を細め、歯を剥き出すようにして笑った。
「いい光景だ……。足を広げて、尻に太いオモチャを咥え込んで、射精しようともがく姿は」
 南郷が、内腿に頬ずりをしてくる。その感触にゾッとしたが、内奥を抉るように道具を動かされ、腰が甘く痺れた。南郷の太い指が組み紐にかかり、期待に喉が鳴る。
「解いてほしいか?」
 低く囁かれ、和彦は南郷を見つめる。悠然としているが、粘りつくような欲望を湛えた獣の目が、じっと見上げてきた。和彦が口ごもると、潤滑剤で濡れそぼった欲望に、ふっと熱い息が吹きかけられた。ビクリと下腹部が震え、その拍子に欲望も揺れる。そこに、柔らかな膨らみを手荒に揉みしだかれると、もう理性がもたなかった。
「解いてほしいか、先生?」
 念を押すように南郷に問われる。南郷を睨みつけはしたものの、和彦は頷く。
「……解いて、ください……」
「なら、尻で一度イッてからだ」
 和彦が目を見開いたと同時に、道具が内奥から引き抜かれ、すぐにまた挿入される。奥深くまでしっかりと。衝撃に息が詰まったが、体の反応は正直だった。鳥肌が立つような肉の悦びが湧き起こり、内奥に埋め込まれた道具をきつく締め付ける。
「うあっ、あっ、あっ――」
 無意識のうちに、南郷の腕に爪を立てていた。それが、和彦の味わっている快感の強さを表していると思ったのか、南郷は痛がる素振りすら見せず、むしろ愉悦を感じたように頬を緩めた。
「本当に、どうしようもない淫奔なオンナだな。俺のことが嫌いでたまらないくせに、それでもこれだけ、感じてくれるんだ。あんたを大事にして、あんたに笑いかけてもらえる男たちにしてみたら、あんたは愛しくて仕方ないだろう。可愛い、可愛い、いやらしいオンナだ」
 のしかかってきた南郷にベロリと唇を舐められ、傲慢に命じられるままに口腔に熱い舌を受け入れる。内奥から道具が引き抜かれたかと思うと、震える欲望から組み紐が解かれていた。和彦は、南郷との濃厚な口づけの最中に射精した。
 閉じきらない淫らな肉の洞に三本の指が挿入され、喘ぎ声をこぼしながら締め付ける。淫靡な濡れた音を立てながら、大胆に掻き回されていた。和彦は腰を揺らしながら、嬉々として乱暴な愛撫を受け入れる。そして、また絶頂に達する。
 小刻みに震える和彦の胸元を舐めながら、南郷は残酷なほど淡々とした手つきで、内奥に再び道具を挿入してきた。
 もう許してほしいと、哀願した。しかしそれは、南郷の欲情と加虐性を煽っただけだった。


 深く息を吐き出した和彦は、ゆっくりと目を開く。たった今眠ったと思ったのに、もう目が覚めたと感じる物足りなさがあった。体中がまだ眠りを求めている。そのせいか、すぐには体が動かない。
 目を瞬きながら、室内が薄ぼんやりと明るくなっていることから、まだ明け方なのだと認識した。次に、床の間に掛けられた、金魚の掛け軸に気づき、意識しないまま口元に笑みを浮かべる。ただし、寝起きの幸福感を味わえたのは、ここまでだった。違和感に気づいたのだ。
 目の前に、大きな手があった。明らかに自分の手ではなく、和彦は軽く混乱したが、自分の状況を一つずつ確認して、理解した。
 和彦は、太く逞しい男の腕に、頭をのせているのだ。背に感じるのは、硬い壁などではなく、厚みのある男の体の感触だ。耳元では、深くゆっくりとした息遣いを感じる。体を強張らせた和彦は視線を動かし、布団の傍らに置かれた漆塗りの文箱を見つけた。
 この時点で和彦の脳裏に、昨夜の自分の痴態が生々しく蘇っていた。
 まだ、欲望の種火が体の奥に残っている。わずかに身じろいだ拍子に和彦はそのことに気づき、うろたえる。同時に、自分が何も身につけていない状態なのに、腕枕をしている男は服を身につけていることに、いまさらながら強い羞恥を覚えた。
 南郷は、和彦を嬲り続けながら、身につけているものを一切脱がなかった。佇まいはまったく違えど、守光と同じなのだ。
 和彦は起き上ろうとしたが、背後から突然声が上がり、身が竦んだ。
「――まだ、起きるには早いぞ、先生」
 怖くて、自分から振り返ることができなかった。耳元で男が――南郷が短く笑い声を洩らした。
「昨夜のあんたは、たまらなくよかった。本当にオモチャ遊びが好きなんだな」
 そんなことを囁きながら南郷が腰を撫で、さらに尻を揉んでくる。
「うっ……」
 尻の間に指が滑り込み、内奥の入り口をまさぐられた。
「まだ、熱を持ってトロトロに柔らかいな」
「や、め――……」
 内奥に二本の指がいきなり挿入されてきたが、痛みはなかった。それどころか、歓喜するように指を締め付ける。潤滑剤の滑りがまだたっぷり残っている襞と粘膜を擦り上げられ、和彦は腰を震わせる。
「この様子なら、またすぐにでもイッてくれそうだな。昨夜は尻だけで、何回イッたか――」
 内奥から指が引き抜かれて、体を仰向けにされる。すかさず南郷がのしかかってきて顔を覗き込まれたが、和彦は必死に睨みつける。そんな和彦の虚勢を嘲笑うように、南郷は再び指を内奥に挿入してきた。蠢めく指に呻かされ、和彦は呆気なく視線を逸らす。
「感じすぎて動かなくなったあんたを抱えて、ドロドロになった布団を入れ替えた。それに、枕まで提供した。少しぐらい感謝してほしいものだな、先生」
「……勝手な、ことをっ……」
「男の勝手に振り回されるのは慣れてるだろ。優しくて愛情深い、品がよくて淫奔なオンナのあんたなら」
 南郷に唇を塞がれそうになり、顔を背けたが、内奥の浅い部分を強く押し上げられて、腰が痺れる。あっという間に南郷に従わされ、強引な口づけを与えられた。口腔の粘膜を舐め回されながら、内奥を指で撫で回される。南郷を押し退けようと肩にかけた手は、形だけのものになっていた。寝起きで与えられるには、愛撫も口づけもあまりに強烈すぎる。
「うっ、うあっ、あっ……う、うっ」
 一旦内奥から指が引き抜かれ、柔らかな膨らみにも愛撫が加えられる。
「覚えてるか? あんた最後には、俺にここを弄られて、自分から腰を振ってよがっていたのを。感じすぎて、わけがわからなくなってたんだろ。反応がよすぎるのも、考えものだな。感じさせてくれるなら、誰にだろうが足を開いて、甘い声を上げる」
 和彦は屈辱感から、南郷の手を押し退ける。意外なほどあっさりと手が引かれ、和彦はもう一度南郷にきつい眼差しを向けてから、分厚い体の下から抜け出そうとする。すると南郷に簡単に体を転がされ、うつ伏せで布団に押さえつけられた。
「長嶺の男たちのオンナのうえに、他の男たちとも寝ていながら、あんたのその気位の高さはどこからくるんだろうな。昨夜も言ったが、俺にとってあんたは、知りたいことだらけだ」
 和彦の足掻きなどものともせず、南郷は悠々と背に覆い被さってきて、肩に唇を押し当ててきた。腰を抱え上げられ、胸元から腹部にかけて荒々しくてのひらを這わされる。
「あっ……」
 尻の肉を鷲掴まれて声が洩れる。内奥に三本もの指を挿入してきながら、南郷が背骨のラインをベロリと舐めてくる。和彦を襲った鳥肌が立つような感覚は、おぞましさと、肉欲の疼きだった。
「――もう少ししたら、吾川が呼びに来るかもな」
 南郷の言葉に、内奥に収まった指をきつく締め付ける。背後で南郷が低く笑い声を洩らした。
「先生、艶やかで浅ましいオンナらしく、乱れて見せてくれ。俺が満足したら、吾川が来る前に解放してやる。……俺は別に、見られても気にしないが、あんたはそうでもないだろ。外面ぐらいは、取り繕っておきたいはずだ」
 煽られた和彦は、唇を噛み締める。南郷は、和彦が本気で抵抗をしないとよく知っているうえで、言っている。返事ができない和彦にかまわず、南郷は両足の間に片手を差し込み、欲望に触れてきた。
「あんたは本当に、物騒な男好みの性質だな。……屈辱を与えられて――感じてやがる」
 南郷の手の中で、和彦のものは形を変えつつあった。なんとか愛撫の手から逃れようとしたが、腰が甘く痺れて動かない。内奥で揃って三本の指を曲げられると、もう限界だった。
「あうっ、ううっ」
 鼻にかかった呻き声を洩らすと、南郷に唆されるまま自ら足を開いて楽な姿勢を取る。すると南郷に片手を取られ、自分の両足の間に導かれた。
「自分で弄ってみてくれ。あんたの全身を撫で回したいが、手が足りない」
 頭で考えるより先に、和彦は首を横に振る。すると南郷の手が欲望にかかり、たまらず和彦は弱音を吐いていた。
「もっ……、嫌、だ……」
 次の瞬間、体をひっくり返されて、間近から射抜かれそうな鋭い視線を向けられた。縊り殺されるのではないかと、本能的な危機感に和彦は息を詰め、南郷をじっと見つめ返す。
 何秒か――何十秒だったかもしれないが、二人の間に緊迫した時間が流れていると、前触れもなく、単調な着信音が響いた。和彦には聞き覚えのない着信音で、考えられるのは南郷しかいないが、当の南郷はピクリとも動かない。その間に和彦の欲望の熱が、じわじわと冷めていく。
 南郷がふっと息を吐き出し、和彦の上から退いた。助かった、と率直に思った。
 まるで獲物をいたぶるような南郷の愛撫は、和彦の体から確かに快感を引き出しはするが、同時に痛いのだ。体ではなく、心が。
 慌てて起き上った和彦だが、頭がふらつく。布団に手を突き、じっとしていると、南郷の話し声が耳に届く。仕事の打ち合わせを始めたようだが、その口調は、さきほどまで卑猥な言葉を囁いていたとは思えないほど淡々としていた。
 和彦は、何も身につけていない自分の姿と、服を着ている南郷の姿を見比べて、惨めさに襲われる。布団の傍らでぐしゃぐしゃになっている浴衣を急いで掴み、羽織った。そんな和彦を、南郷は横目で眺めていた。目が合うと、薄い笑みを向けられる。
「ああ、午前中の委員会には顔を出す。できる限り目を光らせておかないとな。……本部から直接向かうから、迎えは必要ない」
 少しずつ南郷と距離を取りながら慌しく帯を巻き、なんとか立ち上がる。このとき漆塗りの文箱が目に入り、反射的に顔を背けた。蓋がわずかにずれており、中に入っているものを見ることができたが、朝から目にするには、あまりに卑猥すぎる。
 ふらりとした足取りで客間を出ようとする。南郷はもう、和彦を捕まえようとはしなかった。さんざん嬲って気が済んだのか、互いに遅刻はまずいと思っているのか。
 吾川がやってくる前に、和彦は浴室へと逃げ込む。熱いシャワーを浴びながら、とにかく必死に全身を洗う。仕事がなければ、いつまででも閉じこもっていたいところだが、そうもいかない。
 髪を乾かしてから、勇気を振り絞って客間に戻ってみたが、南郷の姿はなかった。それに、漆塗りの文箱も。布団も一見整えられており、何もかも悪い夢だったのだと錯覚を起こしそうになる。
 嵐に巻き込まれたようだと、大きく息を吐き出した和彦はその場に座り込んだ。


 異常に精神が高揚していた。
 患者への施術を行ったあと和彦は、手を洗いながら、正面の鏡に映る自分の姿をじっと見据える。
 満足に眠れず、肉体的にも精神的にも疲弊しているはずなのに、なぜだか疲労感が訪れないのだ。そのことになんら疑問を感じていなかったが、何げなく鏡を見てやっと、今の自分はおかしいのだと気づいた。
 自分ではそう思ったことはないが、周囲の男たちからさんざん優しげだと評される顔立ちは、今は様相が違う。やけに目つきが険しくなり、強い光を宿している。目の下にうっすらと隈が出来ているせいか、荒んで、どこかキツイ顔つきとなっていた。
 緊張と興奮と苛立ちと、どうやっても消せない欲情の残り火が、体の内から和彦を燃え上がらせ、神経を高ぶらせ続けているのだろう。
 まるで自分の顔ではないようだと思いながら、午前中の予約がすべて終わったこともあり、ついでなので勢いよく顔を洗った。
 濡れた前髪を掻き上げて、午後の予約を確認する。午前中が忙しかった分、午後は余裕のある状況となっており、少し考えて和彦は、昼休みの電話番として残っているスタッフにこう告げた。
「調子が悪いから、午後の予約の時間まで、仮眠室で横になるよ。誰から電話がこようが、起こさないでくれ」
 スタッフは何か言いかけたが、和彦の顔つきの険しさに察するものがあったのか、頷いた。
 仮眠室に入って鍵をかけた和彦は、すぐにネクタイを解き、ワイシャツのボタンも上から二つほど外す。横になろうとして、エアコンをつけてからブラインドを下ろした。
 倒れ込むようにベッドに横になると、あっという間に眠気が押し寄せてくる。意識がなくなる前に、目覚ましのタイマーをセットしておいた。
 すぐに眠れると思ったが、こんなときに限って、やけに自分の息遣いが気になった。普段より速く、荒い息遣い。まるで、快感に浸っている最中の、切迫したときのような――。
 目を閉じたその瞬間に、昨夜、南郷に嬲られた光景が、体に刻みつけられた感覚とともに一気に蘇った。もちろん、和彦自身の痴態も。


 総和会本部では、和彦の扱いはいつでも丁寧だ。最初はあくまで、長嶺組で囲われているオンナとしてのものだっただろうが、守光のオンナになり、南郷に詫びを入れさせたことなども重なった。その結果が、今の扱いだ。
 ただ和彦自身は、自分が巨大な組織でどういう存在にあるのか、いまだに理解はしていない。賢吾や守光の付属品――オンナとしての扱いなら、それはそれでいい。むしろ困るのは、佐伯和彦という個人として尊重され、丁寧に扱われることだった。
 こういう状況にあっても、総和会に取り込まれたくないと、心のどこかで抵抗感があるのだ。
「二階と三階は、先生が立ち入ることはあまりないでしょう。ご覧になりたいとおっしゃるなら、ご案内しますが」
 三階で一旦エレベーターの扉を開けた吾川が、こちらを見る。和彦は困惑しつつ、エレベーターの外の様子に控えめに視線を向ける。
 守光の居住スペースがある四階はまだ、多数の人間が宿泊できる研修施設だったというだけあって、ラウンジからしてホテルのような雰囲気も残しているのだが、三階はまさに会社のオフィスだった。
 エレベーターホール自体は狭いと言えるが、そのスペースを囲む透明な仕切りの向こうは、整然とデスクが並んでいる。パソコンに向かっているスーツ姿の男たちの姿もあり、この場面だけ切り取ってみれば、自分は一体どこに足を踏み込んでしまったのかと、混乱しそうだ。
「間仕切りで、階全体を見渡せないようにしていますが、総本部で活動している委員会の連絡所があったり、それぞれの組や隊の詰め所もあります。二階も似たような感じですが、来客を出迎えるために、こういう表現も妙ですが、少し開放的な造りになっています。この建物はもとは研修施設だったので、普通の会社として捉えると混乱するでしょう。四階の雰囲気はホテルのようですからね。今日は案内をしていませんが、食堂や風呂もあります。が、これらを先生が利用することはないでしょう」
「ない、ですか……」
「ないですね。先生は特別な方ですから、すべて四階でおもてなしさせていただきます」
 はっきりと言い切られ、和彦は曖昧な表情を浮かべるしかできない。
 今日は、検査入院を終えた守光が、体調に問題がなければ本部に戻ってくる日だ。クリニックでの仕事を終え、本部に〈立ち寄った〉和彦だが、その守光の姿はまだなかった。
 吾川なりに気をつかってくれたのか、本部内を案内すると申し出てくれ、和彦はそれを受け入れた。本部に興味があるからというより、主のいない住居で一人で過ごす居たたまれなさを、少しでも和らげるためだ。
「二階は午後から慌しくなり、夜も人の出入りは頻繁です。仕事でお疲れの先生にとっては、気忙しい思いはしたくないでしょうから、次は地下へご案内します」
 吾川の言葉に頷くと、ようやくエレベーターの扉が閉まる。和彦はさりげなく、斜め前に立つ吾川を観察する。
 これまで、室内にいても、まるで自らの存在を消しているかのように振る舞っていた吾川が、ここにきて突然、和彦と言葉を交わすようになったのは、やはり理由があるのだろう。当然、総和会本部内を案内すると申し出てきたことも。
〈あれ〉のせいだろうか、と和彦は心の中で呟く。
 守光のオンナであることは、あくまで和彦と守光の私的な繋がりだ。いままでは、この理屈が優先されていた。だが現在、総和会出資によるクリニック経営を和彦に任せたいという話が持ち上がっている。これを引き受ければ、和彦は総和会という組織とも堅固に繋がる。総和会会長という絶対的な存在の後ろ盾を得たうえで、確たる肩書きを持つのだ。
 総和会に属する男たちは、嫌でも和彦を値踏みすることになるはずだ。組織内の力のピラミッドの中で、和彦はどこに位置することになるか。そのうえで、どう接し、扱えばいいのかと。
 地下についてエレベーターを降りると、いつだったか千尋が言っていた通り、ジムもプールもあった。本格的なスポーツジムとまではいかないが、それでも、十分に体を動かせる広さがあり、マシーンも種類が揃っている。実際、トレーニングルームでは、Tシャツ姿で体を動かしている男たちの姿がある。
 普通のスポーツジムと違うのは、Tシャツから伸びた腕に、堂々と刺青が彫られている点だろう。刺青を見たぐらいでは、すでに驚かなくなっている自分に、和彦は密かに苦笑を洩らす。
「今はどこの施設も厳しいですからね。体に墨を入れていると。肌を晒して思う存分体を動かせる場所は限られます」
 和彦が視線を向ける先に気づいたのか、吾川が抑えた声で言う。
「ここは、二十四時間いつでも使えます。先生もご自由にお使いください」
「……ありがとうございます」
 吾川の言葉に、和彦はある予言めいたものを感じ取っていた。深読みと呼べる類のものかもしれないが、ただ、確信はあるのだ。
 水飛沫が上がっているプールに漫然と視線を向けていると、傍らに立った吾川がさりげなく腕時計を見る。そして、こう切り出した。
「そろそろ夕食をご用意しましょうか」
「えっ、ああ、はい……」
 吾川に促されて四階に戻った和彦は、守光の住居のドアを開けて驚く。部屋を出たときにはなかった三足の靴が並んでいた。
 慌てて部屋に上がると、普段、守光の護衛を務めている男たちの姿があった。和彦の姿を見て頷き、守光の部屋を手で示される。中を覗き込むと、すでに床が延べられており、傍らには、すでに着替えを済ませた守光が立っていた。平素と変わらない姿にほっとしていると、守光がこちらに気づき、薄い笑みを向けてくる。
「心配をかけたな、先生」
「いえ……。お疲れになったでしょう」
「たっぷり老人扱いされたおかげで、むしろ、ゆっくりさせてもらった。ただ、性分だろうな。ああいう時間の過ごし方は、一日で飽きる」
 守光はすぐに横になる気はないようで、上着を羽織ると、和彦を伴ってダイニングへと移動する。イスに腰掛けると、一人の男から大判の封筒を手渡された。
「これは……」
「血液検査の結果だ。それ以外の検査の結果は、来週聞きに行くことになっている。心電図検査のほうは、特に異常はなかったが、しばらく様子を見て何かあるようなら、今度はカテーテルを入れることになるだろう」
 和彦は封筒から検査結果を取り出し、目を通す。日々多忙に過ごし、人と会うことも多く、外食や飲酒を避けられない生活を送る守光だが、血液検査の数値を見る限り、特に問題はないようだった。
「ストレスや過労が原因ではないかと言われたよ」
 守光の言葉に、和彦は顔を上げる。
「そうだとしても、こればかりはわしの努力で減らせるものでもない。ひたすら耐えて、慣れるだけだ」
「……過酷、ですね」
「わしは、そういう家に生まれついたから、人より順応性はあるだろうし、覚悟もできている。人によっては、あんたの生活のほうが過酷だと言うだろうな」
「ぼくは――」
 話しかけた和彦だが、あとの言葉が続かなかった。そんな和彦を見つめながら、守光は目を細めた。優しい表情にも見えるが、目には鋭い光が浮かんでいるようにも見える。
 昨夜から今朝にかけて、この空間で自分と南郷とのあった出来事を、すべて見透かされているように思えた。しかし、守光自身は何もうかがわせない。
「さあ、夕飯にしよう」
 そう提案され、和彦はぎこちなく頷いた。


 風呂から上がった和彦は客間に入ると、延べられた布団を横目に見つつ、逡巡しながらも携帯電話を取り上げた。
 電話に出てほしいような、そうではないような、複雑な心理に心が揺れる。しかし、呼出し音が途切れ、耳に届いた魅力的なバリトンに、あっという間に心は搦め捕られた。
『――帰してもらえなかったか』
 開口一番の賢吾の言葉に、吐息を洩らすように笑ってしまう。
「会長が検査入院から戻ってきたから、それではお暇します、とは言えない。ぼくが帰ったところで、側近の誰かが側についているんだろうけど……」
『そういうことは、本来は家族の役目なんだろうがな。俺がずっとついているわけにはいかねーし、千尋じゃ心許ない。結局、先生に頼むことになる。こう言っちゃなんだが、先生の存在は、使い勝手がよすぎる』
「別に、咎めはしない。ぼくみたいな医者でもいいから、側にいてほしいと言われるんだ。……長嶺の人間ではないのに、こんなに信頼されていいんだろうかと、戸惑ってはいるけど」
『ヤクザに信頼されても、嬉しくねーだろうがな』
 返事がしにくいことを言わないでくれと、和彦は心の中で呟く。
『夕方ぐらいに、オヤジから連絡はもらっている。来週、検査結果を聞きに行くのは、俺が付き添う。すまないが、先生にはその日まで、本部に滞在してもらいたい』
「……あんたに、すまない、と言われるのは、ちょっと気分がいい」
『こんなことで気分がよくなってくれるなら、今度は土下座でもしてやろうか? きっと先生は、晴れやかな笑顔を見せてくれるだろうな』
 そんなわけないだろうと、和彦は電話の向こうにもしっかり聞こえるよう、大きくため息をついた。
「もういい……」
 本当は、言いたいことは他にあるのだ。ただ、守光が倒れたと聞かされてから、そこから検査入院となり、すぐに命の危険が脅かされる状態ではないとはいえ、それですぐに心配が払拭されるわけではない。組織を背負っている者なりに、和彦ではわからない気がかりもあるだろう。そんな賢吾に〈あんなこと〉を訴えられない。
 しかし勘のいい男は、和彦が言葉を呑み込んだことを察したようだ。
『俺は、総和会に近づきたくないが故に、自分のオンナを生贄に差し出したようなものだな』
「……ぼくは、使い勝手がいいんだろう」
 電話の向こうで賢吾が苦笑した気配が伝わってくる。
『それ以上に、いいオンナだ。どいつもこいつも先生に手を出して、骨抜きになる』
「そっ……、そんなことまで言わなくていいっ」
 動揺する和彦の反応をさんざん笑っていた賢吾だが、ふいに真剣な口調に戻って言った。
『――オヤジを頼む。とんでもなく食えなくて、ときどき心底憎たらしくて堪らなくなるが、それでも、俺のオヤジだ。それに、あの古狐に何かあると、何かと厄介だ。総和会の安寧は置いといて、長嶺の家と組の安寧のために、まだしばらく元気でいてもらわねーと」
 父親への複雑な情愛もあるだろうが、賢吾の口ぶりからして、それだけでもないようだ。組を守る立場としてもまた、総和会会長へは複雑な想いがあるのだろう。それは、賢吾だけではなく、総和会に関わる者すべてが抱く感情のはずだ。
 いまさらながら、自分がどれほどとてつもない組織の中心にいるのかと、重圧が肩にのしかかる。
 守光の住居に、南郷が自由に出入りしていることを当然賢吾は知っており、その南郷が、和彦に手出ししないと考えるほど、賢吾は甘くはない。すべて予見したうえで、和彦をこの場に置き、さらに滞在してくれと言っている。
 ひどい男だと詰る気にはなれなかった。『使い勝手がいい』と言われたことにも、傷つきはしない。長嶺の男たちのオンナでいるということは、つまり、そういうことだ。
 こう割り切ってしまったほうが、多少なりと、抱えた罪悪感も薄まる気がする。
 和彦は、嫌っている――恐れている南郷に嬲られても、感じてしまうことに。
 電話を切って、少しの間ぼんやりしていた和彦だが、急に喉の渇きを意識して、ふらりと立ち上がる。キッチンに行って水を飲んだあと、守光はもう休んでいるだろうかと気になり、部屋の前まで行く。足音は極力抑えたつもりだが、聡い守光には通用しなかったようだ。襖の向こうから声がかかった。
「――先生、入ってもかまわんよ」
 申し訳なく思いながら静かに襖を開ける。すでに横になっているかと思われた守光だが、文机について何か書きものをしていた。
「横になっていなくて大丈夫ですか?」
 和彦が声をかけると、肩から羽織をかけた守光が顔を上げる。
「病院で嫌というほど横になっていたから、まだ布団に入る気がしなくてね」
「そうだとしても、二、三日ぐらい、体を休めることを優先しても……」
「主治医がそう言うなら、従おうか」
 主治医なんてとんでもないと、和彦慌てて首を横に振る。守光は手紙を書いていたらしく、老眼鏡を外してから、文机の上を片付け始める。
「賢吾とは話したかね?」
 書き損じた便箋を破りながら守光が問いかけてくる。なんとなく部屋を出ていくタイミングを失った和彦は、守光の斜め後ろに正座する。
「ええ、つい今しがた、ぼくから電話をしました」
「仲睦まじくて、微笑ましいことだ」
 さりげなく守光から言われた言葉に、十秒ほどの間を置いて和彦は顔を熱くする。
「いえっ……、来週まで会長のお側にいることを、報告しただけですから……」
 振り返った守光が薄い笑みを浮かべている。翻弄されているなと、和彦は苦笑で返す。
「それでは、ぼくは客間に戻ります。何かありましたら、遠慮なくお呼びください」
「ありがとう」
 和彦が立ち上がったとき、守光が文箱に道具を仕舞って蓋をする。その文箱は、木目の美しいシンプルなデザインのものだった。中に収まっているものも、まさに手紙を書くために必要なものだけだ。
 ふいに胸の奥で湧き起こった妖しいうねりを、和彦は必死に抑え込む。守光がちらりと意味ありげな視線を向けてきた。
「あんたは、手紙はよく書くほうかね?」
 突然の守光からの問いかけに面喰いながらも、和彦はぎこちなく首を横に振る。
「いえ……。大半の用事は、電話かメールで済ませる癖がついて、改まって文章を書く機会はほとんどなくなってしまいました」
「少しずつ、書く習慣をつけていくといい。あんたの存在は、長嶺組だけではなく、総和会にとっても特別になる。そのうちあんたの名で、人や組織に対して、挨拶状や礼状を出す機会もあるだろう。……ふむ。あんたに似合う花を選んで、透かし入りの便箋を作らせるというのも、風情があるかもな」
「……もしかして、会長がお使いになっている便箋は……」
「総和会の代紋が透かしで入っている――と言いたいところだが、牡丹の花だ」
 見てみるかねと問われ、頷く。立ち上がった守光が飾り棚に歩み寄る。
「まとめて作らせてあるから、一冊あんたにあげよう。それで思いつくまま書いてみるといい」
「ぼくにはもったいないです……」
 守光に手招きされ、和彦も飾り棚に近づく。守光が扉の一つを開けた。中にあったのは、漆塗りの文箱だった。上品で美しい作りからは想像もつかないが、中に収まっているのは、和彦を淫らに攻めるための〈オモチャ〉だ。
 この文箱がどこに仕舞われているのか、実は和彦は今この瞬間まで知らなかった。守光は、和彦が快感で朦朧としている間に、どこからともなく持ち出していたからだ。その文箱を、南郷は客間に持ち込み、そして、ここに仕舞ったことになる。
 甘い眩暈が和彦を襲い、よろめく。すかさず守光に肩を抱かれて支えられた。
「大丈夫か、先生?」
 賢吾によく似た太く艶のある声で囁かれ、和彦はすがるように間近にある守光の顔を見つめる。何も言わずとも和彦の求めがわかったように、守光の顔がさらに近づき、唇が重なった。静かに唇を吸い合い、緩やかに舌を絡ませる。動揺するほどの情欲の高まりを、守光の口づけに鎮めてもらっていた。
 重ねたときと同様に、静かに唇を離す。吐息に紛れ込ませるように守光が言った。
「――オモチャ遊びは楽しかったかね」
 返事の代わりに和彦は、震えを帯びた吐息を洩らした。









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