と束縛と


- 第31話(4) -


 パシャッと水音を立て、池で泳ぐ魚が跳ねた。鯉だろうかと、思わず身を乗り出しかけた和彦に、笑いながら守光が言う。
「フナだよ。この池は釣りが禁止されているから、魚がよく肥えて育っている。跳ねたフナは、立派な大きさだったよ」
「……あまり、詳しくなくて。池にいるといえば、鯉ぐらいしか思いつかないんです」
 子供のような反応を見せたことに恥じ入りながら、和彦は小声で応じる。このとき風が吹き、紗の羽織をさらりと撫でていく。陽射しの強い夏の日に、羽織を着ての外出は暑くてたまらないのではないかと心配していたが、まだ着慣れない着物姿であるということを抜きにして、意外なほど着心地はいい。
 守光が贈ってくれたのは、暑い時期に着るのだという紗という生地の着物と、羽織だった。着物は黒だが、透けて見えるほど薄い生地のためか重苦しい感じはない。着物の下に身につけた麻の長襦袢が、思いのほか肌触りがいいおかげでもある。和彦が特に気に入ったのは、淡い藤色の羽織だった。わずかに灰色が混じってはいるが華やかで、とにかく涼しげで美しい色合いなのだ。
 いきなり着物一揃いを贈られて、目を白黒させる和彦に、共に着物を着て散歩に行こうと守光が言い出したときは、一体何事かと思った。吾川に手伝ってもらいながら着物を着つけ、なんとか車に乗り込んだときには、それだけで疲労感に襲われたが、こうして外の空気に触れていると、それも忘れてしまう。
 客間の床の間にかかっている金魚の掛け軸を見て、池のほとりを散歩してみたいなと夢想していたが、今、守光とともに歩いているのは、まさに大きな池のほとりだった。
 寺の敷地内にある池で、深緑の水を湛えており、木々の間から差し込む陽射しを受けて、神秘的な雰囲気を醸している。こういうところなら、ヌシともいえる生き物が棲みついていても不思議ではないなと、つい子供じみた想像をしてしまう。
 静かなところだった。土曜日だからといって人が多く訪れるような場所ではないようで、この池にたどり着くまでの間、年配の婦人一人とすれ違っただけだ。散歩と言って連れ出された和彦としては戸惑うしかないのだが、連れ出した当人である守光にはしっかり目的があったようだ。
 寺に着いてから、和彦に少しの間待つよう言って、連絡を受けていた様子の住職に伴われ、本堂へと入っていった。
 ほんの数分ほどで守光は出てきたが、一体本堂で何をしていたか教えてはくれなかった。和彦も、あえて尋ねはしなかった。池に行くまでの道には、数えきれないほどの小さな地蔵が並んでおり、その姿を眺めていると、寺を訪れる人たちの事情はさまざまなのだと、漠然と思ったからだ。
 総和会会長という肩書きを持っている守光も、さすがに寺の敷地内で己の存在を誇示するつもりはないようだ。寺の駐車場に仰々しい護衛の男たちを待たせ、和彦と、もう一人の男だけを伴っていた。
 フナ以外の魚が泳いでいるかもしれないと、どうしても気になって池を覗き込んでいた和彦は、乱れた髪を何げなく掻き上げる。
「――着物がよく似合っている」
 ふいに言われた言葉が自分に向けられたものだと気づくのに、数秒の時間が必要だった。和彦はハッとして隣を見る。守光は池ではなく、和彦を見て目を細めていた。
「覚えていてくださったのですね。前に、ぼくに着物を仕立てるとおっしゃっていたことを」
「平日は、あんたは仕事があるからそうもいかんだろうが、休みの日には、わしと一緒にいる間は、ちょっとした外出でも、こうして着物を着るといい」
 和彦の脳裏に蘇ったのは、ほんの二日ほど前に守光から、手紙を書く習慣を身につけるよう言われたことだった。そして今の発言だ。総和会会長のオンナとしてこうあってほしいという要求なのだ。
 表情を変えたつもりはないが、守光が微苦笑を浮かべる。
「そう、堅苦しく考えなくてもかまわんよ。わしがただ、あんたの着物姿をもっとみたいだけだ。それでなくても物腰が丁寧なあんただ。着物を着ていると、所作がもっと美しく見えるだろうと思ってな」
「……まだまだ着慣れなくて、歩き方もぎこちないですし、恥ずかしいです」
「それはそれで、見ているほうは頬が緩む」
 守光がまた歩き出したので、最後に池を一瞥した和彦はついて行く。なんとなく気後れして、守光の斜め後ろを歩きたくなるのだが、守光はそれを許さない。和彦が隣にくるまで立ち止まるのだ。
 守光の様子をうかがいながら、石垣に沿うようにして咲いている紫陽花にも目を向ける。すでにもう見ごろを過ぎ、梅雨時は鮮やかな青さで景色を彩っていたであろう紫陽花は、ところどころ枯れかかっていた。
 雨の日に、三田村に見守られながら紫陽花を眺めたことを思い出し、慌てて意識から追い払う。守光と一緒にいて、他の男のことを思ったなどと、悟られるのが怖かった。
「あんたとの約束は、できる限り果たしたいと考えていたが、結局、蛍を見ることはできなかったな」
 蛍、と口中で反芻した和彦は、知らず知らずのうちに頬を熱くする。どういう状況で交わした会話か思い出したのだ。守光は穏やかな口調で続けた。
「まあ、焦らなくてもいいだろう。また来年がある」
「そうですね……」
 頷いたところで、まだ鮮やかな色を残している数少ない紫陽花に目を止める。見入ってしまい、足元への注意を怠ったところで、小石につまずいて軽くよろめく。転ぶほどではなかったが、和彦の腕を取って支えたのは、さきほどから二人の側に付き従っていた南郷だった。
 顔を強張らせながらも、頭を下げて礼を言う。
「……ありがとうございます。大丈夫です」
 南郷は何も言わず手を離し、和彦はさりげなく身を引く。
 護衛の男たちが待機を命じられた中、南郷だけは当然のように同行し、守光もまた何も言わなかった。南郷だけは、やはり特別なのだ。
 特別だから、〈あれ〉に触れることも許されているのか――。
 守光の部屋の飾り棚に仕舞われている漆塗りの文箱を思い出し、そっと身を震わせる。あのとき守光は、和彦の戸惑いの理由を把握しているような口ぶりだったが、それ以上は何も言わなかった。
 自分のオンナと、自分の側近との間に淫らな行為があったとしても許容しているのだと、和彦は感じた。
 そもそも、守光に忠義を尽くしている南郷が、守光を裏切るような行為を積極的に行うとは考えにくい。何もかも、守光に報告していた――いや、守光の命令によるものだったのかもしれない。
 急に空恐ろしさを感じ、着物の下でざっと肌が粟立つ。和彦は足を止め、先を歩く二人の男の背をじっと見つめる。なるべく考えないようにしていたが、いよいよ現実を真正面から受け止めるときがきたのだ。
 和彦がそうすることを、〈オモチャ遊び〉を仄めかした守光は望んでいるのだろう。
 自分から切り出すべきか、切り出されるのを待つべきか。立ち止まったまま逡巡する和彦を、守光と南郷が同じタイミングで振り返る。
「どうかしたかね、先生。もしかしてさっき、足を痛めたんじゃ……」
「いえ、なんでもありません」
 二人の元に歩み寄ると、守光がさりげなく南郷に目配せをする。意図を察したように南郷は頷いた。一体何事かと困惑する和彦に、守光は前方を指さした。
「もう少し歩こうか」
 和彦が守光と肩を並べて歩き出しても、南郷はその場に立ち止まったまま動かなかった。ちらりと背後を振り返った和彦に、かまわず守光が話しかけてくる。
「――病院のベッドでただ横になっている間、反省したことがある。あんたに対して、言葉が足らなかったと」
 和彦は、すぐには心当たりが思い浮かばなかった。わずかに首を傾げると、守光は唇の端に薄い笑みを刻む。
「新しいクリニックの開業についてだ」
 あっ、と声を洩らした和彦は、反射的に守光の顔をうかがい見ていた。先日、そろそろ結論を出してほしいと言われていたが、医者としての自信を失いかけ、そこからどうにか立ち直ったところに、守光が倒れたという知らせを受けて総和会本部に詰めたりと、とてもではないが大きな選択ができる余裕はなかった。
 そう説明することが言い訳がましく思え、和彦は口ごもる。守光は機嫌を損ねた様子はなく、ゆったりとした足取りで歩きながら続けた。
「先日は、あんたに綺麗事を言いすぎた」
「……ぼくは、組織が個人に対して示せる〈誠意〉だと……」
「組織の形式のために、特別な医者であるあんたが必要だとも言った」
 守光に言われた内容は覚えている。完璧な医者であることは求めていないとも言われたのだ。ずいぶん明け透けな話をされたと感じたが、あれでも守光にとっては綺麗事になるらしい。
 一体、さらに何を言われるのかと、和彦は身構える。
「言ったことにウソはない。医者としてのあんたに期待している。ただ、総和会会長として、あんたに任せるクリニックには、別の面でも期待している」
「別の面、ですか」
「総和会が出資したクリニックができることで、新たな金の流れができる」
 すぐには意味が理解できなかった和彦は、ただ守光の顔を見つめる。
「美容クリニックがどういうものか、あんたが持つ知識には到底及ばないだろうが、わしも簡単ながら説明を受けた。――扱っている高価な医療機器や薬剤などを、海外から購入することも多いそうだが」
「ええ、そういうクリニックもあると思います。規模によっては、医療機器を揃えるために、軽く億単位の金額がかかるでしょう」
「それは、魅力的な額だ」
 守光の横顔にあるのは、怜悧な表情だった。和彦はその表情に見覚えがある。打算含みの話をするとき、賢吾もよく似た表情を見せるのだ。組の仕事について、賢吾はあまり深くは語らないが、それとなく和彦に匂わせるときがある。そんなとき和彦は、耳を塞ぎたい気持ちをぐっと堪え、なんでもない顔をして聞き流す。
 自分は、決してきれいとは言えない組の金で生かされていると、頭では理解しているし、気持ちでも納得はしている。罪悪感と不安感を、苦い薬のように飲み下す術は身につけたつもりだ。
 それでも、今和彦の隣にいるのは、十一の組で構成される組織の頂点に立つ男で、この先の会話を想像しただけで息が止まりそうになる。
「総和会は、十一の組同士の抗争の抑止と監視を目的として設立され、そこに、互助会としての側面も加えることで、組織として上手く機能している。力のある組が主導権を握り、組織を回す。どうしたって、多少力の劣る組は相応の発言力や影響力となるが、それでも総和会にいる理由の一つは、実にわかりやすい」
「恩恵があるからですね」
「十一の組から上納金を吸い上げたうえで、配分をしている。総和会として得た利益も加えて。組織としての関係が強固であればあるほど、総和会という名の集金マシーンは威力も増す。だが、集めるだけでは金は使えん。まっとうな商売をして集めた金ばかりではないからな。そこで、世間に流せる金として、洗う必要がある」
 マネーロンダリング、と和彦は心の中で答える。あえて声に出す必要もなかった。知っていて当然とばかりに守光は頷いたからだ。
「方法については、あんたは知らなくていい。ただ、総和会が出資するクリニックには、多くのダミー会社が背後につくことを覚えておけばいい。あとは、専門の人間たちが上手くやってくれる。あんたはあくまで――医者だ。総和会の新しいビジネスの顔だ」
 残酷だなと思った。守光にここまで話させたことで、和彦はもう完全に、断るという選択肢を失った。もとより守光は、和彦に否が応でも引き受けさせるつもりだったはずだ。それでも体裁としては、和彦に選択させるつもりではあったのだ。
 飲み下すにはあまりに苦しすぎて、和彦はこう吐露していた。
「ぼくはっ……、あなたにとってただのオンナでいることは、できないのですか?」
 守光の返答はさらに残酷だった。
「――できんよ。あんたは、わしにとって特別なオンナだ」
「そんな……」
「あんたが聞きたがった答えだ。特別だから、先日は養子の話もした。あれも本気だよ。佐伯家と縁を切りたいというなら、いくらでも手を貸そう」
 守光が立ち止まり、片手が伸ばされる。一瞬、首を絞められるのではないかと本能的な怯えに駆られたが、もちろんそんなことがあるはずもなく、愛しげに頬を撫でられる。
 込み上げてきた苦さは、なんとか飲み下した。そして和彦の胸に広がるのは、諦観と許容という感情だった。長嶺の男たちに大事にされるということは、狂おしいほどの激情と、今胸にある感情を繰り返し噛み締めることの繰り返しだ。
 ただ、さすがに動揺してしまう。
 和彦が微かに唇を震わせていることに気づいたのか、守光は穏やかに微笑みかけてきた。
「散歩でするには、生臭い話だったかな。――さあ、引き返そう、先生」
 守光がこの場で返事を求めなかったことに内心安堵しながら、はい、と和彦は答えた。


 外で昼食をとったあと、帰りの車中で和彦は一言も発しなかった。
 口を開くとため息が出そうで、ずっと唇を引き結んでいる。機微に聡い守光は、そんな和彦に話しかけてくることもなく、あくまで自然に、手を握ってきた。そうされることが嫌ではない和彦は、黙って手を握り返す。
 近づいてくる総和会本部の建物をぼんやりと眺めていると、ふいに車中の空気が変わった。肌に突き刺さるような緊迫感に、一体何事かとシートからわずかに身を起こす。すると、握られた手にぐっと力が込められた。
「心配いらんよ。任せておけばいい」
「えっ?」
 守光の視線が前方に向けられ、つられて和彦も同じ方向を見る。
 いつもは閑静な総和会本部の前に、明らかに異変が起こっていた。数人のスーツ姿の男たちが、殺気立った様子で一角に集まっている。誰かを取り囲んで話しているようだが、それにしては雰囲気がおかしい。
 和彦はシートベルトを外すと、思わずシートから身を乗り出して、前方を食い入るように見つめる。男たちに囲まれている人物の顔は見えないが、後ろ姿に見覚えがあった。この瞬間、全身の毛が逆立ちそうになった。
 前を走っていた車が緩やかにスピードを落として停まる。素早く車から降り立った南郷が、和彦たちが乗っている車に向けて大きく腕を振り、先に行くよう示した。そして当人は足早に、男たちが集まっている一角に向かおうとする。和彦は悲鳴のような声を上げていた。
「停めてくださいっ」
 守光が訝しげにこちらを見る。
「先生?」
「……あそこにいるのは、ぼくの知人です。ぼくに用があって来たんだと思います」
「対処は南郷に任せておけばいい」
「南郷さんは――」
 ダメだ、とはっきり口にすることはできなかった。その代わり行動に出る。和彦が飛び降りかねないと判断したのか、車が停まる。転がり出るように車から降りた和彦は、男たちのほうへ駆け出す。ただ、足元は草履のうえに、着物の裾が気になっておぼつかない。
 和彦に気づいた南郷が皮肉っぽく唇を歪め、ゆっくりと首を横に振る。
「先生、危ないから中に入ってくれ」
「何が危ないんですか」
 キッと睨みつけて、南郷の傍らを通り抜ける。呼びかける前に、男たちに囲まれた人物が振り返り、その顔を見た途端、和彦は怒鳴りつけていた。
「こんなところで何をしてるんだ、あんたはっ」
 男たちに威圧的に取り囲まれたことよりも、和彦に怒鳴られたことが不快だったらしく、鷹津が顔をしかめた。
「何もしていない。ただここに立って、建物を眺めていただけだ。俺の記憶では、ここは公道のはずだが、こいつらは、立ち止まらずにさっさと行けと因縁をつけてきた」
 鷹津は、男たちの神経を逆撫でするように睥睨する。そして、剥き出しの敵意を視線に込めて、南郷に向けた。この場にいる男たちの中で、少なくとも南郷は、鷹津の正体を知っている。
 今のこの状況は、どちらにとってより危険なのか。和彦は瞬時に判断して、鷹津に詰め寄った。
「ぼくの質問に答えろ。ここで何をしている?」
 鷹津は、ひどく冷めた目で和彦を上から下まで眺めた。
「……お前、そんな格好もするんだな」
「何、言って……」
 会話が噛み合っていないと困惑したのは一瞬だ。鷹津はふてぶてしいほどの落ち着きぶりで話し始めた。
「お前がマンションに戻らなくなるのは珍しいことじゃないが、長嶺の本宅にも姿を見せないとなると話は別だ。クリニックに出勤はしているが、近くに待機している護衛が、見たことのない面子に変わっていた。あの蛇みたいに執念深い男が、自分の監視下以外にお前を置くとなると、考えられるのは――」
 鷹津は忌々しげに総和会本部を一瞥する。
「数日前に、総和会本部が騒々しくなっていると情報が入りはしたものの、その後の動きはなかった。お前がなぜか、総和会本部で生活しているということ以外はな」
 一体何があったのかと、鷹津が眼差しで問うてくる。いつもであればドロドロとした感情の澱が透けて見える目は、今は危険なほど感情を剥き出しにしている。怒りと、和彦にはよくわからない、ギラギラとした獣じみた感情だ。
 和彦は、自分の手に繋がった鎖の先で、狂犬が暴走しかかっているような怖さを覚えた。
「聞きたいことがあれば、携帯に連絡してくればよかっただろ。どうして、こんな目立つマネを……」
「総和会会長のオンナっぷりを見てやろうと思った。――見事なもんだな、佐伯」
「……皮肉が言いたくて、ここまで来たのか? 頭がおかしくなったんじゃないか、あんた。自分の立場を考えろっ」
 自分でもどうしたのかと思うほど、心の底から怒りが湧き起こる。和彦の剣幕に、意外そうに鷹津が目を丸くした。
「もしかして、俺の心配をしているのか」
 ムキになって否定しようとしたが、側までやってきた南郷の視線を強く感じ、大きく息を吐き出す。
「早く立ち去ってくれ。……迷惑だ」
「――せっかく来てくれたんだから、中に招待するが」
 揶揄するような口調で言ったのは、南郷だ。和彦は思わず睨みつけたが、南郷は、鷹津を見据えていた。挑発的な笑みを口元に湛えて。それを受けて鷹津は、ゾクリとするほど冷たい一瞥をくれた。
「いいのか、そんなことを言って」
「光栄だろ。暴力団担当の刑事の立場で、総和会本部に足を踏み入れるのは。ここはまだ手入れを食らったことはないからな。もっともあんたは、総和会本部がどうこうよりも、この先生がどういう環境に置かれているかのほうが、大事だろう?」
 あからさまな南郷の挑発に、鷹津は挑発で返した。いきなり和彦の肩を掴み寄せたのだ。
「わざわざゴキブリの棲み家に足を踏み入れなくても、こいつだけ保護すればいい。面倒がないだろ。お互いに」
 このとき初めて、南郷が不愉快そうに顔をしかめた。和彦の前では、悠然と物騒な笑みを浮かべることが多い男が、やっと本性を現したのだ。南郷から漂う粗暴さや荒々しさにそれでなくても気圧される和彦だが、そこに敵意が加わると、自分に向けられたわけでもないのに身が竦む。
「手を離してもらおうか。その先生は、うちの大事な客人だ」
「ゴキブリが取り澄ました言葉を使うな。こいつは、長嶺の男たちのオンナ、だろ」
「そしてあんたは、そんな先生の番犬だったな。ここまで来るぐらいだ。よっぽど心配してのことだろうが、生憎、大事に大事にしているぜ。――なあ、先生?」
 南郷に片手を差し出され、怯む。南郷の意図を察して、一瞬反発心が芽生えたが、和彦にはその手を払いのけることはできない。
 鷹津と南郷が初めて顔を合わせたときから感じていたが、この二人の男はおそろしく気質が合わない。鷹津と賢吾も関係としては最悪だが、まだ互いの利害のすり合わせを行える程度には、話ができる。
 しかし、相手が南郷となると、鷹津は普段の狡猾さすらかなぐり捨てようとする危うさが漂う。利用もできない敵だと、鷹津はそう南郷を認識しているのだ。
 どちらの男に対する感情なのか、自分でも判別できないが、和彦は心の中で呟いた。怖い、と。
 傍らの鷹津を見て、肩にかかった手をそっと押し返す。
「大丈夫だから、帰ってくれ。ここで揉めてほしくない」
「と、先生が言っている」
 茶化すように言った南郷を鋭く一瞥した和彦は、声を潜めて鷹津を諭す。
「……あんたが刑事の肩書きを失うと、ぼくが困る。あんたにはまだ――、ぼくの番犬でいてもらわないと」
 鷹津はそっと目を細めると、何も言わず身を翻して立ち去った。入れ替わるように和彦の傍らに立った南郷が、鷹津の後ろ姿を見送りながら、皮肉げに呟く。
「よく躾けられた番犬だ。ああいう厄介な男を上手く手懐けられる秘訣を知りたいもんだ」
「あまり……、あの人を挑発するようなことを言わないでください」
「言う相手が違うな。俺が仕えているのは、オヤジさんだ。あんたが命令できるのは、あの刑事に対してだけだ」
「命令じゃありません。頼んでいるんです」
「――考慮しよう」
 そう応じて、南郷が再び片手を差し出してくる。和彦は気づかなかったふりをして、顔を背ける。次の瞬間、ゾクリとした。
 とっくに本部の敷地に入ったと思っていた車がまだ停まっていた。後部座席の様子までは見えないが、車中からこちらの様子を見ることはできるだろう。
 鷹津を庇う和彦を、南郷すら従わせている老獪な男はどう感じたか――。
 和彦の額にじっとりと浮かんだのは、冷や汗だった。


 四階の守光の住居に戻った和彦は、促されるまま吾川に羽織を脱がせてもらう。
 ダイニングのイスに腰掛けると、差し出された冷たいおしぼりを受け取る。暑さでのぼせたのか、鷹津と南郷の対峙に気が昂ぶったのか、少し頭がぼうっとしていた。おしぼりを額に押し当て、次に、汗ばんだ首筋を撫でていると、そこに冷たいお茶も出る。口を湿らせたところでやっと人心地がついた。ここで、大事なことを思い出す。
「あの、会長は……?」
 和彦より先に本部に入ったはずなのに、部屋にはまだ守光の姿はなかった。
「三階で先に所用を済ませられるそうです」
「……そう、ですか」
 鷹津の件で何か手を回しているのではないかと危惧するのは、考えすぎだろうか。
 落ち着かない気持ちを持て余しながらお茶を飲み干すと、すかさず吾川にお代わりを勧められる。それを断り、着替えるために立ち上がる。
 着物を脱ぐのを手伝ってほしいと吾川に言おうとしたが、その吾川が深々と頭を下げたのを見て、和彦は振り返る。守光が、南郷を伴ってダイニングに入ってきた。
「先生、わしの部屋に来てくれ」
 すぐに、さきほどの件だとわかった。和彦は顔を強張らせながら、守光のあとについて部屋に入る。吾川が出してくれた座布団に座ると、静かに襖が閉められ、守光と二人きりになった。
「――さっきの男は、県警の暴力団担当係の刑事で間違いないかね」
 開口一番の守光の言葉に、和彦はピクリと肩を震わせる。口調は穏やかながら、守光の声には夏の暑さすら跳ねつける冷ややかな響きがあった。
 やはり、見逃してくれるほど甘い組織ではない。和彦は短く息を吐き出して、覚悟を決める。いまさら隠し立てするようなことはなかった。
「そうです。……名前についても、もうご存じだと思いますが……」
「最初に話していたのは、賢吾だった。あんたのために、いい番犬をつけてやったと。次に話していたのが、南郷だ。あの刑事は、先生に狂っている性質の悪い犬だと、おもしろいことを言っていたが――、今日見て、納得した。確かに、刑事の肩書きを持ちながら、総和会本部の前で張り込むなど、正気の沙汰じゃない。しかもそれが、職務に駆り立てられてのものじゃなく、あんた個人のためだ」
 守光の口ぶりからして、すべて南郷から伝わっているようだ。自分の口からの説明が省けるということは、しかし和彦には救いにならない。
「……ぼくが、マンションにも本宅にも姿を見せないため、心配したようです。普段は、用がなければ連絡も取り合うこともないので、正直、今日のような行動は予想外で……」
「仮にあの刑事が、うちの者に小突かれたと訴えたら、我々は何もできん。素直に取り調べを受けるしかないんだ。領分を弁えない者には、総和会の力など通用しない。当然、駆け引きもできない。そういう手合とは関わりを持たないのが一番だが、賢吾には賢吾の考えがあるんだろう。しかし、今は状況が変わっている。あんたは長嶺組組長だけではなく、総和会会長であるわしのオンナだ。わしの言うことにも従ってもらわないと困る」
 守光の言うことは、理解できる。鷹津の存在に危惧を抱いて当然のことだ。視線を伏せて守光の話を聞いていた和彦だが、次に言われた内容に、ハッと守光の顔を見つめていた。
「――あの男を手放すんだ」
 和彦は大きく目を見開く。
「手切れ金なら、こちらで用意するし、話もつけよう。あんたは何も心配せず、長嶺の男たちにとって善きオンナであり、ときには息抜きとして、安全な男たちと関係を持てばいい」
 全身が熱くなったのは、羞恥からなのか、それ以外の感情からなのか、あえて和彦は考えなかった。
「それは――」
「あんたの番犬は、あんた恋しさに、さらに狂うだろう。それは、わしらだけでなく、何よりあんたにとって危険だ」
 動揺と混乱によって、頭の中が真っ白になる。だが、長い時間ではなかった。石を投げ込まれた湖面が大きな波紋を広げたあと、何事もなかったように静けさを取り戻すように、和彦はすぐに冷静になる。いや、冷静という言葉では足りない。一瞬にして心を凍りつかせた。
 守光の目をひたと見据え、和彦は囁くような声で告げた。
「――あの男は、ぼくに執着しています。今、手放すほうが、より危険です。もともと、長嶺組長……賢吾さんを憎んでいる男です。ぼくが追い払えば、確実に賢吾さんだけではなく、長嶺の男たちを逆恨みし、牙を剥くはずです。だからまだ、しばらくはこのままに。妙なまねをしないよう、ぼくが首輪をつけておきます」
 本当は和彦には、自分が鷹津に執着されているという確信などなかった。賢吾を恨み、憎みながらも、長嶺組と繋がっていることで得る利益を計算したうえで、鷹津は、長嶺の男たちの〈オンナ〉である和彦を大事にしているのだと思っている。
 互いに、情が芽生えつつあることは薄々感じてはいるが、それはひどく曖昧で脆いもので、確認し合った途端、砕け散ってしまいそうだ。だから、口にしない。触れもしない。繋がるのは体と利害だけ。鷹津との関係は、そういうものなのだ。
 守光に見つめ返されながら和彦は、内心ではひどく怯えていた。今、目の前にいる総和会の頂点に立つ男は、表面上はあくまで端整で穏やかな人物だ。一方で背には、九本の尾を持つ禍々しい狐を背負っている。その狐がどれほど凶悪で凶暴、冷酷な生き物なのか和彦は知らない。守光は一度もうかがわせたことはないからだ。
 それ故に、存在をうかがわせる守光の目を見るのは怖かった。いつ、恐ろしい狐と目が合ってしまうかと。
 賢吾がそうであるように、長嶺の男は、背負った獣を身の内に飼っていると、和彦は信じていた。
 あともう少しで気圧され、目を逸らしそうになったとき、ようやく守光が口を開いた。
「あんたの健気さは、性質が悪い。男を駆り立てて、さらに骨抜きにしていく。品がよくて優しげな見た目とは裏腹に、本当に悪いオンナだ……」
「健気なんて――」
「あの男も大事、この男も大事。さらには面子も守ってやりたい。気にかけるものが多くて大変だろう、先生。人によっては八方美人と悪し様に言うかもしれんが、そうでなくては、長嶺の男たちのオンナは務まらん。いや、あんたの場合、務めているという認識すらないか。性分だ。男たちに大事にされる、悪いオンナの性分」
 守光は口元に鋭い笑みを刻んだ。
「わしは、あんたのそういうところも気に入っている。愛でて、大事にしてやりたい。今後のためにも。――刑事のことは、しばらく様子を見よう。あんたが上手く躾けてくれることを期待して」
 ほっとしかけた和彦だが、守光の話はこれで終わりではなかった。穏やかな表情のままこう切り出したのだ。
「――さて、ささやかとはいえ、総和会会長を危険に晒したことに対して、あんたに罰を与えねばならない。しかもあんたは、危険の元凶を庇った。わしに恥をかかせたんだよ」
 全身から一気に血の気が失せた。まっさきに和彦の頭に浮かんだのは、一体どんな痛みを与えられるのかということだった。
 和彦が見せた恐怖の表情を堪能するように、膝同士が触れるほど側に寄ってきた守光が、顔を覗き込み、さらに手を伸ばしてくる。頬を撫でられて、総毛立った。痛みを予期して、奥歯を噛み締めて耐えていると、守光は低く声を洩らして笑った。
「あんたを痛めつけたりはしない。大事で可愛いオンナだ。相応しい罰というものがある」
 守光の手が頬から肩へと移動し、そっと引き寄せられる。和彦はおずおずと座布団から下りると、肩を抱かれるまま守光へと寄り添う。優しくあごを持ち上げられて、唇が重なってきた。
 体を強張らせたまま、守光の意図が読めず戸惑う和彦は、視線を伏せることすらできなかった。優しいとも厳しいとも、冷ややかとも表現できる守光の双眸を、魅入られたように覗き込む。守光にしても、和彦の両目を見つめていた。
 自分の中には何もないというのに、と自嘲気味に考えていた和彦だが、ここで異変に気づく。肩を抱いていた守光の手が今度は背へと下り、ついには腰の辺りにかかる。帯を解かれながら、唇を吸われる。ぎこちなく口づけに応えているうちに、着物を肩から滑り落とされていた。
 羽織を脱いだ守光に、深く胸に抱き寄せられる。和彦は片手を取られ、着物の上から守光の高ぶりに触れさせられた。この瞬間、まるで初めて触れたように激しくうろたえ、守光に訴える。
「ぼくに対する怒りは当然だと思います。ですが、心臓に負担をかける行為は、まだ控えてくださいっ……。何かあったら――」
「それは承知している。いい機会だから、あんたに罰を与えると同時に、オンナとしての嗜みを教えるだけだ」
 再び守光に唇を塞がれ、口腔を舌でまさぐられているうちに、半ば条件反射として和彦も応える。舌を絡め合い、唾液を啜り合いながら、溶け合うほどに深い口づけを交わす。
 ようやく唇を離したとき、守光がよく通る声でこう呼びかけた。
「――南郷、入れ」
 和彦は守光の腕の中で、顔を強張らせて息を呑んだ。


 身が燃えるような羞恥から、全身から汗が噴き出し、まだ羽織ったままの長襦袢が肌に張り付く。その感触が奇妙な拘束感を生み出すが、一方で、腰から下を剥き出しにされているため、心許ない感覚も生み出す。
 和彦には、屈辱と羞恥を与えることが効果的だと、守光は知り抜いていた。それらを和彦から引き出すのに、誰が適任であるかも。
「ひっ……」
 内奥に潤滑剤を注ぎ込まれ、短く悲鳴を上げる。さらに指が突き込まれ、掻き回されると、ぐちゅぐちゅと濡れた音が室内に響き渡る。うつ伏せとなって突き出した腰が、痺れたように熱くなっていた。それ以上に熱いのが、腰にかかった南郷の大きな手だ。羞恥で身じろぐことすら許さないように、和彦の腰を押さえ続けていた。
 南郷に体をまさぐられ、何度もきわどい行為に及ばれているが、味わう屈辱も羞恥も慣れることはない。相手によっては、これらの感情すら媚薬のような効果をもたらせてくれるが、南郷に限っては――というより、今この状況においては、甘美な感覚は程遠い。
「ううっ、うっ、うあっ」
 内奥に深く挿入された指にじっくりと襞と粘膜を撫で回され、長襦袢の下で鳥肌が立つ。繊細な肉を何度も擦り立てられているうちに、半ば強引に肉の悦びを引きずり出されていた。
 自分の意思とは関係なく、南郷の指を締め付けた途端、たっぷり注ぎ込まれていた潤滑剤がトロリと内奥から溢れ出し、尻を伝って内腿へと垂れていく。南郷の興味が、ある部分へと移る。
「あっ、ああっ――……」
 腰にかかっていた南郷の手が、内奥から溢れた潤滑剤に塗れた柔らかな膨らみへとかかり、少し手荒に揉みしだかれる。ガクガクと腰を震わせながら和彦は、助けを求めるように自分の目の前に座っている人物を見上げる。
 さきほどから繰り広げられている行為をどう感じているのか、守光は口元に笑みを湛えていた。オンナと側近の従順ぶりを愛でているのだろうかと、快感に溶けかけている頭で和彦はそんなことを考える。
 守光に優しく頬を撫でられてから、あごの下に手がかかる。和彦は這うようにして守光にすがりつくと、優しく頭を撫でられた。いつものように守光は、端然とした佇まいを保ちながら、しかし容赦なく、淫らに和彦を攻め立てる。今日も同じではあったが、その手法が違っていた。
 和彦は、自らの手で着物の下から守光の欲望を引き出し、初めて舌を這わせる。
「――賢吾と千尋の味を、あんたはその柔らかな舌で知っている。そしてとうとう、わしのも味わうというわけだ」
 感嘆しているのか揶揄しているのか、守光の口調からうかがい知ることはできない。和彦にわかるのは、守光がひどく興奮しているということだった。
 守光の体への負担を考えると、制止すべきなのだ。だが当の守光は頓着せず、むしろ和彦の戸惑いに愉悦を覚えている節すらある。南郷にしても、守光を諌めるどころか、積極的に和彦の欲望を煽り、守光を目で楽しませている。
 長襦袢をたくし上げられ、突き出した腰を震わせて内奥を嬲られている様は、さぞかし浅ましく、淫らだろう。相手が守光でなければ、和彦は泣き出しているかもしれない。
 守光と南郷によって与えられる屈辱と羞恥は、甘い毒だ。たまらなく嫌なのに、体の奥から官能が溢れ出てくる。
「わしに教えてほしい。普段どうやって、わしの息子と孫を甘やかしているのか」
 守光の指に髪を梳かれ、たったそれだけの刺激が、ゾクゾクするほど心地いい。そこに追い打ちをかけるように、南郷が内奥で指を蠢かす。
 和彦は熱い吐息をこぼすと、震える舌で守光の欲望を舐め上げてから、先端に唇を押し当てる。
 焦らすように軽く吸い上げてやると、千尋はすぐに息を乱し、切なげな声で和彦を呼ぶのだ。賢吾は常に余裕たっぷりで、和彦の好きなようにさせるが、高ぶりを覚えると、やや強引に頭を押さえつけてくる。
 二人の長嶺の男の好みを、和彦は唇と舌を駆使して実践してみせた。守光は何も言わない。ただ、まるで子供でも褒めるように頭を撫でてきた。
 この時間が延々と続くのかと思ったとき、和彦は顔を上げて息を詰める。さんざん南郷の指で蕩けさせられた内奥に、硬く滑らかな感触が押し当てられた。すでに体に馴染みつつある感触だ。
「心配しなくていい。痛い思いはさせん。――さあ先生、続けてくれ」
 守光の欲望をゆっくりと口腔に含んでいくと同時に、内奥に道具を含まされる。下腹部に広がる苦しさから呻き声を洩らすと、南郷の片手が前方に回され、欲望を握り締められる。被虐的な状況にありながら、和彦の欲望は熱くなり、先端を濡らしていた。
 前後を刺激されて背をしならせると、頭上で守光が微かに笑い声を洩らした。
「……尻だけでなく、喉の奥も締まったな」
 内奥深くに道具を含まされたまま、和彦は頭を上下に動かし、守光の欲望に奉仕する。オンナとしての嗜みを教えると言っていた守光だが、指示を与えてくることはない。和彦の恭順ぶりを愛でるように、ただ頭を撫でてくるだけだ。
 和彦は自分が、考える意思を持たない肉の人形になったような錯覚に陥りそうになるが、そのたびに意識を引き戻すのは、南郷の道具を使っての攻めだった。
 内奥を道具でじっくりと犯されながら、口腔は守光の欲望で犯される。感じやすい粘膜を擦り上げられていることに変わりはなく、気がつけば、畳の上に精を迸らせていた。
 下肢から力が抜けると、逞しい腕に腰を支えられて、内奥から道具が引き抜かれる。
 倒錯した行為の仕上げは、口腔で守光の精を受け止め、嚥下することだった。









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