と束縛と


- 第32話(2) -


 総和会本部地下のトレーニングルームで、和彦は控えめに奇異の視線を向けられる。自分でもわかっているが、明らかに存在が浮いているのだ。
 内心怯みそうになりながらも、体を動かしたい衝動には抗えなかった。吾川から、自由に使っていいと言われたのだからと、自分に言い聞かせつつ、人のいないランニングマシンに乗る。できることならスポーツジムに行きたいが、守光のもとで生活をしていると、外で自分勝手に過ごすのも気が引ける。
 要望を伝えれば叶えてはくれるのだろうが、そうなると、護衛の数が増やされたりと、大ごとになるはずだ。
 和彦はふっと息を吐き出して、マシンを操作する。走り出してしまえば、向けられる視線は無視できる。総和会本部内で、総和会会長のオンナに害意を直接ぶつけてくる者はいないだろう。
 あの男を除いては――。
 和彦は、数日前の南郷との行為を思い出し、足元が乱れそうになる。なんとか体勢を立て直したが、走り出したばかりだというのに、脈が速くなっていた。
 南郷の場合、正確には害意ではないのだ。まるで獲物を弄ぶように和彦に触れてはくるが、体を傷つけないよう細心の注意を払っている。その分、容赦なく和彦の心を嬲ってくる。
 ここで生活している限り、和彦には逃げ場がなかった。南郷に対しては、総和会会長のオンナという立場は、身を守る手段にはならない。むしろ、この立場だからこそ、南郷は平然と和彦に触れてくるといえるかもしれない。
 蘇った屈辱と羞恥のせいばかりではなく、いつもより速いペースで息が上がり、体温が上昇していく。汗が滲み出て、滴り落ちるようになるのはあっという間だった。
 足はとっくに重くなっているが、荒い呼吸を繰り返しながらもそれでも和彦は走り続ける。汗を流す分だけ、自分の中で鬱屈しているものが、少し軽くなっていくような気がするのだ。
 ようやくランニングマシンから降りたとき、トレーニングルームには人の姿はさらに少なくなっていた。ここぞとばかりに和彦は、ウェイトトレーニング用の器具が置いてあるスペースに移動し、ダンベルを取り上げる。
 いつもスポーツジムでやっているように片腕をゆっくりと動かしていたが、何げなく正面の鏡を見て、危うく声を上げそうになった。いつからいたのか、少し離れた場所に吾川が立っていた。鏡越しに目が合うと、軽く会釈で返される。
 和彦が慌てて振り返ると、吾川が歩み寄ってくる。
「――そろそろ夕食にしませんか?」
「あっ、すみません。つい夢中になってしまって。もしかして、会長をお待たせしてしまって……」
「それはご心配なく。ちょうど長嶺会長にお客様が見えられていますから」
 吾川に伴われ、トレーニングルームをあとにする。エレベーターの中で和彦は、すっかり汗で濡れたTシャツを軽く引っ張る。夕食の前にシャワーを浴びて着替えるしかないようだ。
 エレベーターが四階に到着して扉が開くと、いきなり見知らぬ男と出くわした。反射的に和彦は目を丸くしたが、吾川のほうは丁寧に頭を下げる。
「もうお帰りですか」
 吾川の問いかけに、男は笑顔で頷く。守光と同年代ぐらいの、柔和な顔立ちをした小柄な男だった。まるで近所の友人の家に遊びに来たかのような、気負ったところのない空気を持っており、服装も涼しげなポロシャツ姿だ。
 堅気だと、一目見て和彦は感じ取った。世の中には、堅気にしか見えない筋者もいるが、そういう人物ですら、肌を刺す鋭さを持っている。この世界で、臆病で非力な存在として生きている和彦だからこそ持ちうる感覚だ。
 吾川と二言、三言言葉を交わして、入れ違いにエレベーターに乗った男が、最後に興味深そうな眼差しを和彦に向けてきた。この男から、自分はどんなふうに見えているのだろうかと想像しながら、和彦も軽く会釈をする。頭を上げたとき、すでにエレベーターの扉は閉まっていた。
「……会長の、お客様ですか……」
「骨董を取り扱っている店を経営されているのですよ。長嶺会長とは昔から親交があって、誰よりも好みを把握されている方です。掛け軸なども、ほとんどあの方が手配されています。それに――一風変わったものも」
「一風変わった、ですか?」
「ええ、一風変わった、です」
 和彦が興味をそそられたと感じ取った様子だが、吾川はそれ以上何も教えてはくれなかった。


 文机に置いたノートパソコンに向き合い、持ち帰った仕事をしていた和彦はふと時間を確認する。そろそろ一息つこうと思ったが、その前に務めを果たさなければならない。
 客間を出た和彦は、サイドボードに仕舞ってある血圧計を抱えて、守光の部屋に行く。声をかけ、応じる声を受けて襖を開けると、守光もまだ仕事をしていた。
 畳の上に名簿らしきものが印刷された紙を広げ、それを眺めながら守光は電話で誰かと話している。出直そうかと思ったが、当の守光に手招きをされたので部屋に入った。
 守光が検査入院から戻ってきてから、朝と夜の二回、血圧を計るのが和彦の日課となっていた。これまでは吾川の担当だったそうだが、守光の体調をなるべく把握しておくためにも、ここに滞在している間は任せてもらうことにした。
 名簿を見ながら守光は、出席者の確認らしきことを電話の相手としているようだった。また会合があるのだろうかと、頭の片隅でそんなことを考えながら、守光の片腕を取って黙々と血圧を測る。
 守光の邪魔をしないつもりで、速やかに血圧計を片付けていた和彦だが、ふと顔を上げ、飾り棚の一番上に置かれた木箱に目を止める。きちんと紐が結ばれており、もしかすると箱書きが入っているような立派なものかもしれないと考えたとき、夕方、守光のもとに骨董を扱う人物が訪れていたことを思い出した。
 木箱の大きさからして、掛け軸を購入したのだろうか――。
 手を止め、木箱を見つめる和彦に気づいたのか、守光が声をかけてきた。
「何か気になるかね」
 慌てて隣を見ると、いつの間にか守光は電話を終えていた。
「あっ、いえ、箱が――」
「箱?」
 守光の視線が、飾り棚の上へと向けられる。
「ああ、あれか。古くからの友人が、骨董品以外に、いろいろと変わった品も扱っていてな。それで、頼んでおいたものが出来上がったというので、さっそく今日持ってきてもらった」
『出来上がった』という表現が引っかかったが、あえて確認するほどのことでもない。
 血圧を計り終えた和彦はすぐに客間に戻ってもよかったが、それではあまりに素っ気ない。守光が毎晩、自分との他愛ない会話を楽しんでいることを、なんとなくだが感じ取っていた。ただ、自分から話題を振るのは苦手だ。そんな和彦の気持ちを知ってか知らずか、畳の上の紙をまとめながら守光が言った。
「もうすぐ、ちょっとした行事があるから、今その出席者の確認作業をしているんだ」
「……その名簿ですか?」
「春の花見会のような大規模なものではないが、総和会にとっては欠かせない大事な行事だ。――今年は、あんたにも出席してもらおうかな」
 冗談めかした口調ながら、こちらを見る守光の目は真剣だった。このとき和彦の脳裏を過ったのは、守光から提案されている、総和会出資によるクリニックの経営の話だった。すでにもう逃げ場がない状態に追い込まれており、あとは和彦が頷くだけというところまできているが、守光はそこまではまだ求めてこない。
 あとほんのわずかだけ、強引に話を進めてしまえば、和彦は承諾するとわかっているはずなのに。
「そういえば、今日は地下で体を動かしたと言っていたが、使い心地はどうだったかね?」
 話題が変わったことに内心でほっとしながら、和彦は笑みをこぼす。
「立派ですね。スポーツジムに行かなくても、十分に体を動かせるマシンが揃っていて、プールまであるし。ぼくが行ったときは、人もあまりいませんでしたから、のびのびと過ごせました」
「ということは、あんたをここに閉じ込めても、運動不足にはしなくて済むということか」
 えっ、と声を洩らして和彦が目を丸くすると、守光は楽しげにこう言った。
「――冗談だよ」




 いくら体を動かしたところで、根本的な気分転換になるわけではないと、土曜日の昼下がりに和彦は痛感していた。
 平日は仕事で忙しいため、とりあえず体を動かしておけばストレスは発散できる。仕事がない土日については、これまでは、守光の体の状態を気にかけたり、総和会本部内での自分の身に置き方についてまだ戸惑っていたため、住居スペースで過ごしていても、不都合はなかったのだ。
 しかし、和彦自身、呆れるような順応性の高さが、ここにきて厄介な問題を引き起こしていた。
 鉄板で覆われて外の景色を見ることができない窓を眺め、重苦しいため息をつく。昼食をとり終え、未読の本に手を伸ばしたりしていたが、文章を目で追うには集中力が足りない。自分がこんなことをしたいわけではないと、和彦自身がよくわかっているせいだ。
 暇を持て余している和彦とは違い、守光は今日も忙しい。朝食は一緒にとったが、その後は予定が詰まっているということで、慌しく出かけていった。
 一人取り残され、正直気楽ではあるのだが、だからといってのびのびと過ごせるわけではない。
 客間の中をうろうろと歩き回った挙げ句、和彦は心を決めた。Tシャツの上からパーカーを羽織り、パンツのポケットに財布をねじ込む。
 住居スペースを出てエレベーターに乗り込むまでの間、誰にも出会わなかった。このまま一階まで向かおうかとも思ったが、すぐに考え直す。総和会本部の人の出入りのチェックの厳重さを思い出したのだ。あくまで和彦は、守光や、護衛と行動をともにしているおかげで、特別扱いを受けているだけだ。
 一人で行動するとなると、面倒なことになるのは目に見えている。だからといって引き返す気にもなれない。
 ただ、近所を散歩したいだけなのに――。
 とりあえず二階にいる誰かに、建物の外に出たい旨を告げて反応をうかがうしかないだろう。そこで悪戦苦闘する自分の姿を想像して、和彦はため息をつく。
 二階に着いたエレベーターの扉が開き、足元に視線を落としたまま降りた次の瞬間、横からの衝撃を受けて体が大きくよろめく。
「うわっ」
 危うく床に倒れ込みそうになったが、すかさず腕を掴まれて体を支えられる。
「すまない。大丈夫か」
「いえ、こちらこそ、よく見ていなかったもので――」
 なんとか体勢を持ち直し、顔を上げる。傍らに立っていたのは、四十代前半のスーツ姿の男だった。全体に鋭い雰囲気が漂う顔立ちの中、目元の険しさは特に際立っているが、それでいて物腰は非常に丁寧だ。
 きれいに撫でつけられた男の髪型になんとなく見覚えがあり、和彦はついまじまじと見つめてしまう。すると男が、少し困ったような顔で笑った。一瞬、鋭さが薄れる。
「――でかい図体の男が、戦車みたいにドカドカと歩くな、二神(ふたがみ)。怪我でもさせたらどうするんだ」
 凛とした声が和彦の耳に届く。その声に反応するように、男は掴んでいた和彦の腕を離すと同時に素早い動きで身を引いた。
 まず和彦の目に飛び込んできたのは、屈強そうな体をダークグレーのスーツで包んだ男たちの壁だった。その間から、すらりとした長身の男が姿を現す。他の男たちの堅苦しい格好とは対照的な白のワイシャツ姿で、凛とした声の主だと、直感でわかった。まさに声に相応しい外見をしていたからだ。
 目を丸くする和彦のもとに、足音を立てない印象的な歩き方で男がやってくる。年齢不詳、という言葉が頭に浮かんだが、それは、息を呑むほど秀麗な顔立ちを際立たせる魅力の一つだと感じた。色素の薄い瞳は思慮深さを、笑みを形づくる唇は人当たりの柔らかさを感じさせる。
 容易に人を惹きつける外見は、二十代だと言われても信じてしまいそうだが、髪には白いものが目立つ。守光のような見事な白髪というわけではなく、黒髪と絶妙に入り混じり、灰色がかって見えるのだ。そのため、顔立ちの若々しさとの違いが際立ち、結果として、年齢の判断がつかない。
 一度会えば絶対に忘れられない外見と雰囲気の持ち主だった。たとえ視界の隅にちらりと入っただけでも、視線が吸い寄せられる存在感を放っている。
 こんな人物が総和会本部にいたのかと、瞬きすらせず見つめる和彦に、男はまずこう声をかけてきた。
「ようやく会えた。――先生」
 不思議なほど親しみが込められた言葉に、まず和彦は戸惑う。
「あの……?」
「ああ、失礼。わたしは君をよく知っているけど、君はわたしをまったく知らないんだった。賢吾から聞かされていたから、すっかり顔馴染みのつもりでいた」
 男の口から出た『賢吾』という単語の響きは、和彦の鼓膜と心に小さな刺激を生み出した。
「機会があれば会わせてもらおうと思っていたのに、まさかこんなに早く会えるとは……。これも、縁があるということかな」
 わずかに首を傾げて男がじっと見つめてくる。瞳の色合いのせいで優しげな印象を受ける眼差しだった。この総和会本部にいて、緊張や威嚇、頑なさや冷徹さといったものを両目に宿していない人間は珍しい。あくまで自然体に見える。
 一体何者なのだろうか――。
 警戒とまではいかないが、率直な疑問が顔に出たらしく、男は一層眼差しを和らげた。
「すまない。一人で話して、戸惑わせてしまった。わたしは、御堂(みどう)秋慈(あきちか)。こんな場所にいて言うのもなんだが、怪しい者じゃない」
 名乗ってもらいはしたが、〈何者〉という疑問は解消されない。一体どういう立場でここにいるのか、まったくわからないからだ。何かしら肩書きを持っていることは疑いようもないだろう。総和会本部内で、これだけの男たちを引き連れて歩ける者は限られている。
 ただ、和彦が知っている光景とは様子が違う。肩で風を切る、という表現があるが、部下たちに囲まれている者の歩き方はまさにそれだ。手にしている力に酔っているにせよ、虚勢にせよ、他者を従わせているという力関係が生々しいほど伝わってくるのだ。
 しかし御堂にはそれがない。御堂を囲む男たちにしても、御堂に従っているというより、誠実な献身さのようなものがあり、周囲に対する威圧的なものが感じられない。
 ここで和彦は、一人の男と目が合った。さきほどぶつかった男だ。
「あっ」
 脳裏にある光景が蘇り、思わず声を洩らす。つい、男に話しかけていた。
「もしかして……、いつも黒のスーツを着ていませんでしたか?」
「それは――」
 男が微妙な表情を浮かべた横で、御堂が短く笑い声を洩らす。
「二神、お前の喪服姿はよほどインパクトがあったようだな。しっかり覚えてもらっているじゃないか」
「ええ。着ていた甲斐がありました」
 二神と呼ばれた男はまじめな顔で頷くが、和彦は心の中でささやかな訂正を入れたくて仕方なかった。
 総和会本部に出入りするようになって、一階でたびたび、黒のスーツを着た二神という男は見かけていた。最初は葬式に行くのだろうかと思ったが、二度、三度と重なれば、二神が日常的に黒のスーツを身につけているのだとわかった。
 二神が印象に残っていたのは、黒のスーツを着ていたこともあるが、物陰に身を潜めている姿を、ヤクザを演じている俳優のようだと感じたからだ。表情がどこか物憂げで翳りがあり、特別整った容貌をしているわけでもないのに極上の男に見せている。そのため、御堂と並び立つ光景は、素晴らしい映画のポスターのような趣きすらあった。
 自分の知っている裏の世界の男たちではないような――と、御堂を中心とした一団を呆けたように眺めている和彦に、御堂が問いかけてくる。
「それで、ここに用が? 内線で呼べば、すぐに誰か飛んでくるだろう」
 御堂と顔を合わせるのは初めてだが、ここでの和彦の扱いがどういったものか、把握している口ぶりだった。賢吾と親しいようなので不思議ではないが、また小さな刺激が心に生まれる。
「人を呼ぶほどのことではないんです。ただ、この周辺を散歩してくると、誰かに言っておこうと思っただけで……」
 和彦が答えた途端、御堂の唇の端が意味ありげに動いた。
「残念だが、本部の周辺を散歩するのは諦めたほうがいい。特に、君のような人は。誰に目をつけられて、連れて行かれるかわかったものじゃない。自ら進んで騒動を巻き起こすようなものだ。そもそも一人では、外出なんてさせてもらえないはずだ」
「……君のような、って……」
 色素の薄い瞳が、無遠慮なほど和彦を値踏みしてくる。一目見たときは思慮深いと感じた御堂の瞳だが、意外なほど感情を露わにする。今、瞳にあるのは、和彦への好奇心だった。
「君は、長嶺会長の大事な客人だ。それだけで総和会の内部の人間にとっても、外部の人間にとっても、君の価値は計り知れないものになる」
『客人』という表現は、気をつかってくれたものなのだろうかと、つい卑屈なことを考える。和彦が曖昧な返事を返すと、御堂は思いがけない提案をしてきた。
「散歩は無理だろうが、わたしとコーヒーでも飲みに出かけないか。わたしの護衛はついてくるが、代わりに、君自身は護衛をつけなくてもいい」
「あなたと、ですか?」
「仕事に復帰したばかりで、コーヒーを一緒に飲む友人がいないんだ。君とは違った意味で、わたしもいろいろあって、本部の人間からは遠巻きにされている」
 どうだろう、と問われた和彦は困惑しながら、御堂や、背後に控えている男たちを眺める。正直、警戒心は湧かなかった。賢吾とどういった関係なのかも気になるが、筋者らしくない物腰である御堂の正体に、和彦の好奇心は刺激される。
 そもそも、散歩に出る許可が下りるかどうかさえ怪しいのなら、選択肢は限られていた。
「――ご一緒させて、いただきます」
 おずおずと和彦が答えると、御堂が満足げに笑みをこぼした。


 総和会本部から車で十分ほど行ったところにある喫茶店は、なんとも可愛らしい外観から想像はついたが、内装もポップなデザインとなっており、目ににぎやかだった。それに、若い客が多い。
 店に一歩足を踏み入れて、内装と客層に怯んだ和彦だが、御堂のほうは平然と中へと入っていき、空いたテーブルへと案内されている。和彦も慌ててあとを追いかけ、女の子のグループに挟まれるという、これ以上なく居心地の悪い席へとついた。
 二人ともアイスコーヒーを頼んでから、すぐに御堂が口を開く。
「――不便だよね。本部から一番近いコーヒーが飲める店って、ここしかないんだから。もう少し行くと、ドーナツ屋があるけど、そこだとさすがに落ち着かない」
「ここもあまり……」
 和彦が控えめに言うと、おしぼりで手を拭いた御堂が小さく声を洩らして笑った。
「だけど、おしゃべりをするには向いている。ここにいる若い子たちなんて、みんな自分のことを話すのに夢中で、いい歳した男二人の話の内容なんて、きっと興味がない」
 御堂の言葉に、いよいよ好奇心が抑え切れなくなった和彦は、さきほどからずっと気になっていたことを思いきって尋ねた。
「あの……、失礼ですが、御堂さんはおいくつなんですか?」
「ああ、若い頃から年齢不詳の見た目だってよく言われるんだ。――今年、不惑になった」
「……つまり、四十歳?」
「髪を染めたらもう少し若く見られると言われているんだが、まあ、いまさら外見を取り繕っても仕方ない」
 そう言いながら御堂が、前髪を摘み上げる。一目見たときのインパクトが薄れてしまえば、御堂の灰色の髪は、生来のものかと思わせるほど違和感がなかった。
「数年ほど病気で伏せていて、ストレスに加えて薬のせいもあるんだろう。元に戻ることは期待してないよ」
「病気はもういいんですか?」
「自宅療養と通院で、体にメスを入れなくて済んだ。今は月に一回の通院だけだ。まあ、わたしはもともと、体を使う仕事は期待されていないから、そういうのは二神たちに任せっきりだ」
 御堂がちらりと窓のほうへと視線を向ける。この喫茶店には、二神が運転する車でやってきたのだが、さらにもう一台の車がついてきていた。御堂の護衛は厳重で、和彦一人が増えたところで、余裕で男たちの壁が守ってくれるだろう。
 アイスコーヒーが運ばれてきて、和彦はミルクを注ぐ。ストローに口をつけていると、隣のテーブルの女の子たちが海に行く予定を楽しそうに立てており、聞く気はなかったが、つい顔が綻んでしまう。ふと何げなく視線を上げると、そんな和彦を御堂が楽しそうに眺めていた。思わず頬が熱くなる。
「あの――」
「賢吾が、君をどんなふうに見ているのか、ちょっと想像してしまったんだ。この間会ったときは、思いきり惚気られたからね」
 賢吾が何を言ったのか、知りたいような、知りたくないような、複雑な気持ちになる。
「実際に君を見て、賢吾が言っていた意味がわかった」
「……なんて、言ってましたか。賢吾さ――長嶺組長は」
「君に振り回されているとか言ってたような……」
「振り回されているのは、ぼくのほうですっ。初めて会ったときからずっと」
 ムキになって弁解すると、御堂は口元を手で隠し、肩を震わせる。思いきり笑いたいところを、必死に堪えているらしい。和彦はさりげなく左右のテーブルに目を向けてから、努めて冷静にアイスコーヒーを飲む。
 総和会の人間に対しては、意識せずとも身構えてしまう癖がついている和彦だが、御堂に対しては調子が狂う。振る舞いがあまりに自然で、昔からの知人と話しているような親近感が湧くのだ。これが演技だとしたら怖いが、御堂自身の魅力だというほうがしっくりくる。
 御堂も、自分に親近感に近いものを抱いてくれていることを願いながら、和彦は一番気になっていることを尋ねた。
「――御堂さんと長嶺組長は、どういうお知り合いなのですか」
「腐れ縁」
 一言だった。予想外の答えに和彦は目を丸くする。冗談なのかとも思ったが、御堂はまじめな顔をして続けた。
「わたしの親類が、総和会に名を連ねている組を率いていたんだ、昔。わたしはヤクザだとかまったくわからない子供の頃から、その親類の家を出入りしていたんだが、子供がいなかった親類にずいぶん可愛がられてね。あちこち連れ回されているうちに、賢吾と顔を合わせるようになって、話もするようになった。わたしが中学生で、彼は……大学生だったかな」
 御堂のほうが年下なのに、賢吾を呼び捨てにできるのかと、変なところが気になってしまう。
「想像がつかないです。あの人の学生時代なんて……」
「今とあまり変わらない。計算高くて皮肉屋で、すでにもう、組を背負って生きる自分の将来を見据えていた。――あと、性格が悪かった」
 一拍置いてから、和彦は口元を緩める。賢吾についてここまで言えるということは、本当に親しいのだとわかった。御堂もニヤリと笑ったあと、何事もなかったようにまじめな顔となる。
「いろいろあって、わたしも組の仕事に関わるようになって、気がついたときには、総和会の一員だ。賢吾は長嶺組組長代理として、総和会にも出入りするようになって、わたしたちの腐れ縁は続いていたんだが……」
 御堂が自分の胸元に手を当て、ため息をついた。
「総和会の中で騒動が起こって、ちょうど同じ時期に、わたしが体を悪くした。正直、嫌なことが重なって、精神的にも滅入っていたし、この機会に足を洗ってしまおうと考えたんだ。療養と言って隠居生活に入って、このままわたしのことなんて忘れてほしいと思っていたけど――」
 御堂の視線が、ふっと和彦の顔に定まる。寸前までとは別人ではないかと思うほど、冴え冴えとした目をしていた。
「賢吾に唆されて、少しばかり嫌がらせをしたくなった」
「……誰に、ですか?」
「すぐにわかる。わたしと接触したことで、君も無関係ではなくなったから。あっ、こうして君をお茶に誘い出したのも、嫌がらせの一つなんだ」
 御堂は口元に笑みは浮かんでいるものの、目はまったく笑っていなかった。腹の内は読めないが、御堂の感情は読み取れる気がした。
 御堂の色素の薄い瞳にあるのは、冷たい怒りだ。触れた相手を凍らせて、砕いてしまうほど容赦のない。
 和彦の怯えを感じ取ったのか、御堂はすぐにまた目元を和らげた。
「君からの質問に答えてばかりだから、今度はこちらから質問してもいいかな」
「ええ、ぼくに答えられることなら」
「長嶺会長の体調のことはわたしの耳にも入っているんだが、確か、大したことはなかったはずだ。なのに、君はどうしてまだ本部に?」
「どうしてでしょう……」
 素直に答えたあとで、和彦はうろたえる。これではふざけていると取られかねないと考えたのだが、御堂はあごに指を当て、少し考える素振りを見せた。それから、納得したように頷いた。
「ああ、帰してもらえないのか」
 御堂はきっと、和彦が守光のオンナであることも知っているはずだ。三世代の長嶺の男たちとの、爛れた――としか表現できない関係をどう感じているのか、問うてみたい気持ちはあるが、どんな気遣いを滲ませた言葉をかけられたところで、自分の立場を恥じ入ることは目に見えていた。
 今の話を聞く限り、御堂は自分の力で総和会で居場所を得てきた人間だ。男たちから与えられた立場を甘受して、力に身を委ねているだけの自分とはあまりに違う。それを痛感したとき、和彦は御堂の存在に臆していた。
 筋者の男に対して、初めて抱く感情だった。比較対象として、御堂に劣等感を抱いたといってもいい。
「――先生?」
 御堂に呼ばれて我に返る。咄嗟に声が出せないでいると、気にしたふうもなく御堂はこんなことを言った。
「他の人間は〈先生〉と呼び慣れているようだけど、わたしはどうしても、今も診察してもらっている医者の顔が頭をちらつくんだ。だから君のことは、〈佐伯くん〉と呼んでいいかな」
「あっ、ええ、もちろんです。むしろ呼び捨てでもいいぐらいで……」
「それは遠慮しておく。わたしが君を、使い走りにでもしていると誤解されたら面倒だし」
「そんなこと――」
「君は、自分が周囲の男共からどれだけ大事にされているか、自覚したほうがいい」
 にっこりと笑いかけてきた御堂につられ、和彦もぎこちない笑みで返す。
 喫茶店を出ると、まだ戻りたくないという和彦の気持ちを汲み取ってくれたのか、御堂は二神に指示して、近辺を車で走ってくれる。ささやかなドライブだ。
 気分転換というには濃厚な時間を過ごし、総和会本部の建物が見えてきたとき和彦は、ほっとしたような、少し残念なような気分を味わった。
 駐車場に車が入り、御堂に丁寧に礼を述べて和彦だけが車を降りる。ここで、一人の男がこちらに向かってくるのに気づいた。
 駐車場に敷かれたアスファルトから立ちのぼる陽炎を蹴散らす勢いでやってくるのは、南郷だ。
 本能的な危機感から、ゾクリと寒気がする。和彦は車のドアに手をかけたまま、軽くよろめいていた。それに気づいた御堂が車中から声をかけてくる。
「佐伯くん?」
 その御堂も南郷に気づいたらしく、すぐに車から降り、和彦の傍らに立った。
 目の前に立った南郷は、珍しく怒気を露わにしていた。鋭い視線を向けた先は、御堂だ。
「――勝手に先生を連れ出して、どういうつもりだ、御堂」
 自分に向けられたわけでもないのに、南郷の低く抑えた声を聞いて、和彦の身は竦む。一方、凄まれた御堂のほうは表情を動かしもせず、淡々と応じた。
「ずいぶんな言い方だな。〈佐伯くん〉が散歩に行きたいと言うから、護衛のために同行しただけだ」
 本当かと問うように、南郷がこちらを見る。和彦が頷くと、忌々しげに舌打ちした南郷が、再び御堂と向き直った。
 荒々しく凶暴な空気を振り撒きながらも、和彦の前では悠然として、言動も最低限紳士的に振る舞っている男にしては珍しく、余裕がなかった。
 御堂はあえて挑発するように、南郷に冷ややかな笑みを向けた。
「長嶺会長のために、君が佐伯くんを大事にしているのはわかるが、こちらの事情も斟酌してほしいな、南郷。彼は、わたしの友人である長嶺組長にとっても、大事な人だ。つまりわたしにとっても、大事な人というわけだ」
 南郷と御堂が視線を交わす。まるで、眼差しで切りつけ合っているような迫力に、完全に和彦は呑まれていた。同時に、総和会会長の側近である南郷と、ここまで対等に言い合える御堂とは何者なのか、改めて気になった。
 いつの間にか御堂の秀麗な横顔に見入っていたが、ふいに南郷の手が肩にかかって我に返る。
「先生、こんな暑い場所にいつまでもいたら、体によくない。中に入ってくれ」
 南郷の手にわずかに力が入る。ギリギリのところで激情を抑えているのだと察した和彦は、逆らえなかった。御堂に頭を下げてもう一度礼を言うと、南郷に促されるまま歩き出す。
「勝手に出歩かないでくれ。外に出るときは、吾川か、うちの隊の誰でもいいから声をかけてほしい。三階に、隊の詰め所があるのは知っているだろう」
 建物に入ったところで南郷に言われ、内心では反発を覚えながらも、とりあえず頷いておく。和彦が逆らわなかったことで、南郷はようやくいつもの調子を取り戻し始めたのか、唇の端に鋭い笑みを浮かべた。
 この南郷に、一瞬にして余裕を失わせた御堂とは何者なのか、どうしても気になる。
 一緒にエレベーターに乗り込んだところで、たまらず和彦は南郷に尋ねた。
「南郷さん、御堂さんは一体、どういう人なんですか」
「一緒にいたのに、教えてもらわなかったのか」
「いろいろ話してはもらえましたが、総和会で何をしているかまでは……」
「――御堂秋慈は、第一遊撃隊の隊長だ」
 思いがけないことを聞かされて、和彦は絶句する。南郷は心底不快そうに唇を歪めた。









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