と束縛と


- 第32話(3) -


 御堂に関して、賢吾と電話で話した。
 別に、御堂が言っていたことは本当なのか確かめたかったわけではなく、ただ、御堂が話してくれなかったことについて、知りたかったのだ。特に、第一遊撃隊隊長という地位について。
 賢吾と話しながら、和彦は思い出したことがある。梅雨が明ける前の頃に起きた、英俊と会うことになってからの、一連の騒動だ。
 総和会の隠れ家で南郷とともに過ごしたあと、本部に賢吾が迎えにきてくれたのだが、同じ屋根の下に守光がいる状況で激しく求め合う最中、その賢吾が物騒なことを言っていた。
 総和会会長と第二遊撃隊隊長に対して、ささやかな嫌がらせを仕掛けた、と。
 御堂と顔を合わせたときの南郷の剣幕を思い返すと、〈嫌がらせ〉という表現が符合する気がした。御堂自身、賢吾に唆されて、嫌がらせをしたくなったと言っていたぐらいだ。賢吾と御堂の間で、策略――というほど露骨でないにせよ、何かしら共通認識があるのかもしれない。
 賢吾は、今の総和会の中で、第一遊撃隊は不遇の扱いを受けていると教えてくれた。看板だけが残り、隊員すらバラバラになっていた状況で、ようやく隊長の御堂が復帰し、これから隊として本当の瀬戸際なのだとも。しかし御堂は、南郷にはないものを持っているという。
 血統と人望だ――と告げた賢吾の声は、冷ややかな嘲笑を含んでいた。
 いろいろと聞こうと思っていたのだが、すっかり怖気づいた和彦は、賢吾と長々と話す気力をなくしてしまい、電話を切った。
 退屈などという気持ちはどこかに消え、ただひたすら、閉塞した本部の空気がつらかった。おかげで、休みが明けるのが楽しみなぐらいだ。
 今ならいくらでも患者からの予約を受け付けられそうだと思いながら、和彦は二階でエレベーターを降りた。御堂たち第一遊撃隊の詰め所は二階にあると、朝食の片付けにやってきた吾川に確認している。
 総和会本部には基本的に、曜日というものはない。守光の居住スペースがある四階以外では絶えず人が動いている。活気があるというより、粛々と自分たちの仕事をこなしているという印象があり、そこに緊張感も加わる。
 今日が日曜日だということを一瞬にして忘れさせる光景に、エレベーターホールで和彦は立ち尽くす。四階で過ごすことに慣れたとはいえ、別の階はやはり別世界だ。自分はここでは異物なのだと強く実感し、エレベーターに戻りたくなる。
 しかし実行に移す前に、透明な仕切りの向こうにいる男が和彦に気づき、慌てた様子で出てくる。用件を聞かれたので、正直に御堂に会いたいと告げた。相手が和彦だからなのか、男はわざわざ案内をしてくれた。
 広く開けたホールを通り抜け、廊下の角を曲がり、奥まった場所にある部屋のドアで立ち止まる。中からは男たちの話し声や、大きなものを動かしているような重々しい音が聞こえてくる。
 案内してくれた男に礼を言ってから、ドアをノックする。少し間を置いてドアが開き、二神が姿を見せた。
「おや、佐伯先生、どうかされましたか」
「いえ……、あの、御堂さんはいらっしゃるかと思ったのですが……、なんだか朝からお忙しそうですね」
「ちょっとした模様替えです。かまいませんよ、お入りください」
 本当にいいのだろうかと思いながらも、大きくドアを開けられて手で示されると無碍にもできない。和彦は恐縮しながら部屋に入った。
 真新しいデスクが並べられ、オフィスにあるようなキャビネットやラックなどが一通り配置されている。電話やパソコンも配線の最中で、模様替えというより引っ越しの最中のようだった。
「どうぞ、こちらに」
 二神に促され、隣の部屋へと案内される。こちらは応接室のようだが、やはり家具類は運び込まれたばかりのようだ。
 ソファの背もたれに浅く腰掛けるようにして、今日はスーツ姿の御堂が携帯電話で誰かと話していた。これは本当に申し訳ないときに来てしまったなと、和彦は困惑しながら二神を見る。
「ぼくはあとで出直してきますから――」
「かまわないよ、佐伯くん。座ってくれ」
 そう告げた御堂の声は、今日も凛としていた。
 御堂に手招きされ、二神にも軽く頷いて返されたので、中に入る。ぎこちなくソファに腰掛けると、携帯電話を切った御堂が、さらにスマートフォンを取り出して手早く操作したあと、隣の部屋に行って何事か話してから、すぐに戻ってきた。
「悪いね、バタバタして」
「こちらこそ、こんなに忙しくされているなんて思いもしなかったので、お邪魔してしまって……」
「今日は特別だ。手配していた家具やパソコンが届いたから、とりあえず連絡所らしくしておかないと、仕事が始められない」
「連絡所?」
「第一遊撃隊は再起動したばかりだから、隊員が集まれるような場所――、まあ、事務所や詰め所だね、それを、まだ持ってないんだ。当分の業務は、ここで何もかも行わないと。大所帯の第二遊撃隊は、あちこちの物件を管理しつつ、人を配置してあるから、上の連絡所はこざっぱりしていたな。うちは、あそこまでするには、まだまだ時間がかかる」
 さらりと第二遊撃隊の話題が出て、和彦はわずかに顔を強張らせる。そこに二神が、冷たいお茶を運んできた。二神が応接室を出て、ドアが閉まるのを待ってから、和彦は切り出した。
「――昨日、あれから大丈夫でしたか?」
「昨日……、ああ、南郷のことか。わたしはむしろ、あれから君が南郷に八つ当たりでもされたんじゃないかと、それが心配だったんだが」
「ぼくのほうは、何も」
「さすがにあの男でも、主の大事な人に対しては、最低限の礼儀は心得ているか」
 それはどうだろうと、これまでの南郷の言動を思い返した和彦は、苦い表情を浮かべる。もちろん、昨日会ったばかりの御堂に、何もかも打ち明けられるはずもなく、曖昧な返事で誤魔化した。
「……昨夜、長嶺組長と電話で話したんです。第一遊撃隊について、まったく聞いたことがなかったものですから。よく考えてみれば、疑問に感じなかったのが不思議ですよね。南郷さんの第二遊撃隊があるなら、第一遊撃隊はどこに、と」
「わたしも半ば引退するつもりだったし、周囲には、長嶺会長とわたしの関係が不穏だとも思われていたみたいだから、第一遊撃隊には誰も触れたくなかったんだろ。実際、活動はしていなかったわけだし。その間に、しっかりと第二遊撃隊――南郷は力をつけていったということだ。いろいろ聞いてはいたけど、まざまざと見せつけられると、複雑な心境だ」
 そういう御堂の口調は淡々としていた。本心を読み取ることはできないが、色素の薄い瞳は冴え冴えとした光を湛えており、触れてはいけないと思わせる凄みがあった。
 この人は何かに似ていると考えて、すぐに和彦はあるものを思い浮かべた。日本刀だ。鞘に収まっている限り、手を伸ばすことにためらいは覚えないが、美しい刀身を現したとき、冷たく光を反射する様に鋭い切れ味を想像し、ただ気圧される。
 外見で惑わされそうになるが、御堂には南郷とは違う怖さがあった。総和会で、部下を率いる地位にあるということは、相応の実力を持っているということだ。
 御堂は、南郷に対する心情をさらりと口に出すが、対する南郷のほうも、御堂には無関心ではないだろう。実際和彦は、南郷が言っていた言葉をよく覚えていた。
 嫌いな奴と顔を合わせたと南郷は言っていたが、あれは間違いなく御堂を指している。憎くて、妬ましいとすら、あの南郷が言っていたのだ。それに、暴力衝動を抑えられなくなるとも――。
 暗い憎悪を含んだ呟きが耳元に蘇り、和彦は寒気を覚える。
「……御堂さん、すごいですね。あの南郷さんと対等の地位にいるなんて」
「年齢が近いうえに、経歴がけっこう対照的、しかも肩書きが肩書きだから、何かと互いを意識することになるんだよ。――遺恨もあることだし」
 これ以上立ち入ってはいけないと思いつつも、興味をそそられる。
 厄介な己の好奇心を立ち切るように暇を告げようとしたとき、慌しい気配が絶えず伝わってきていたドアの向こうの雰囲気が一変した。一気に静まり返ったあと、規律正しい挨拶の声が上がったのだ。和彦はびくりと肩を震わせ、一方の御堂は落ち着いた様子で呟いた。
「おや、またお客さんかな……」
 次の瞬間、ノックされることなくいきなりドアが開く。現れたのは、見たこともない偉丈夫だった。
「綾瀬(あやせ)さんっ」
 驚いたように御堂が立ち上がり、そんな御堂に男が歩み寄る。和彦は呆気に取られながら、二人を見上げていた。
「耳が早いですね。幹部会に、復帰の承認をもらったばかりですよ」
「その幹部の一人から、連絡をもらった。お前のことだから、どうせうちの組には顔を出さないだろうと思ってな。こちらから押しかけた」
 綾瀬と呼ばれた男は、驚くほど低くしわがれた声をしていた。世間ではダミ声といわれる声だ。
 年齢は五十代半ばぐらいで、印象的な声よりも、南郷に勝るとも劣らない体格のよさのほうに和彦は圧倒される。頬には深い皺のような傷跡があり、平穏とはいえない人生を送ってきたのだろうと想像できる。
 ただ、荒々しさや凶暴性を匂わせるものは、綾瀬にはなかった。それどころか、どこかインテリ然とした雰囲気がある。自然体でありながら堂々とした佇まいは、年齢を重ねただけでは得ることはできないだろう。
「ここが片付いたら、すぐに挨拶にうかがうつもりだったのに……。わたしが義理を欠いたと、陰口を叩かれるかもしれませんね」
「お前のことを、そんなふうに言う奴はいやしない。不義理どころか、孝行息子だと喜んでるだろう。――会長も」
 御堂の凛とした声と、綾瀬のしわがれた声とのやり取りに、和彦の左右の耳は少し混乱していた。綾瀬の独特の声を聞いたばかりで慣れていないため、集中していないと、単語を聞き逃してしまいそうだ。
 和彦は、この世界で『会長』と呼ばれる人物は守光しか知らないが、二人の様子からして、どうやら別の人物のことを指しているようだ。
 部外者の人物が聞いていい会話ではないのかもしれないと、一人でうろたえる和彦に、ふと綾瀬が視線を向けてくる。男らしい顔が、露骨なまでに好奇の色を浮かべた。
「長嶺会長お気に入りの医者が、どうしてこんなところに……?」
 和彦は弾かれたように立ち上がり、説明しようとしたが、それを御堂に制された。
「不思議ではないでしょう。佐伯くんは、長嶺組――というより、長嶺家の所縁の人です。そしてわたしは、長嶺組長とは昔馴染みですよ」
「……お前と彼が親しいなどと、これまで聞いたことはないが」
「昨日、初めて会ったばかりです」
 澄ました顔で御堂が答え、綾瀬は面喰ったようにわずかに目を丸くする。しかし次の瞬間には、皮肉っぽく唇を歪めた。
「なるほど」
 意味ありげに頷いた綾瀬が、改めて和彦を見る。このときにはもう、和彦に対する好奇の色は払拭されていた。
「初めまして――と言いたいところだが、実は俺は、花見会の席で君を間近で見ている」
「そうなんですか……。申し訳ありません。あのときは初めてのことばかりで緊張していて、人の顔もまともに見られない状態だったものですから」
「そりゃそうだろうな。前には長嶺会長、隣には南郷がいれば。もっとも、それにしてはやけに落ち着いて見えたが、そうか、緊張しすぎて現実味が乏しかったというところか」
 まさにその通りだったので、苦笑して和彦は頷く。すると御堂が気をつかい、控えめに綾瀬に話しかけた。
「綾瀬さん、自己紹介してください。佐伯くんが、この人は何者なんだろうという顔をしてますから」
「ああ、そうか、俺の顔を知らないなら、当然正体も知らないんだな。――清道会組長補佐の綾瀬だ。よろしく、佐伯先生」
 聞き覚えがある、と言っては失礼だろう。清道会は、総和会を構成する組の一つの名だ。前に賢吾が、世間話の流れから、長嶺組に次ぐ影響力を持つ組として、清道会の名を挙げていた。その理由が――。
「総和会の前会長は、清道会の出だ。そして秋慈は、前会長の親類にあたる。その縁で、俺はこいつがガキの頃から知っている。図々しく押しかけてきたのも、そういうわけだ」
「押しかけてきたなんて。いつでも歓迎しますよ、綾瀬さん」
「よく言う。体を壊してからは、俺の見舞いすら拒否していた薄情な奴が」
 冗談のようなやり取りを交わした綾瀬と御堂がこのとき、視線を交わし合う、その瞬間の空気に、和彦はわずかな違和感を覚えた。
 綾瀬が手を伸ばし、御堂の髪を軽く払う。忌々しげに呟いた。
「なんだ、この髪の色は。早く染めろ」
「似合いませんか?」
「そういうことじゃない。いかにも病み上がりで、ぞっとしない。……まだ、不吉の影がつきまとっているようだ」
「ああ、なるほど。あなたが本当に言いたいことがわかりましたよ」
 納得したように御堂が頷き、なぜか綾瀬が苦々しげに唇を歪める。和彦がまったく入っていけない会話だった。自分がいては立ち入ったことが話せないだろうと、今度こそ暇を告げる。
「――……あの、ぼくはこれで……。すみません。大した用もないのに、お邪魔してしまって」
 応接室を出ようとした和彦を引き止めたのは、綾瀬だった。
「ゆっくりしていけばいい、佐伯先生。俺はちょっと秋慈の顔を見に寄っただけで、もう行かないといけないんだ」
「忙しいですね」
 そう言って御堂が肩を竦める。
「悠然としている余裕はなくてな。お前も復帰したとなると、さらに忙しくなるだろうが……、それはまあ、歓迎できる忙しさだ」
 御堂の見送りを断り、訪れたとき同様、慌しく綾瀬は応接室を出ていった。
 残された和彦と御堂はまず顔を見合わせたあと、微妙に複雑な表情を浮かべる。御堂に促されて、結局またソファに座っていた。ゆっくりと肩から力を抜き、ほっと息を吐き出すと、御堂がくすりと笑った。
「君ほどの人でも、緊張するんだな。長嶺の男たちとつき合いがあると、嫌というほど大物たちとは顔を合わせているだろう」
「ぼくはあくまで、オマケ程度の存在ですから。誰もぼくを意識していないでしょう。でも、相対することになると、やっぱり受ける威圧感が違うというか……。怖いし、圧倒されます」
「わたしは平気だろ」
 これまでの自分の言動を思い返し、和彦は勢い込んで御堂に言い訳する。
「御堂さんのことは、最初に会ったときに何も知らなかったせいで、意識しなくて済んだというかっ……。それに物腰も柔らかくて、ぼくに対して気軽に接してくれますし。それがありがたくて、決して軽んじているわけじゃ――」
「わかってるよ。そんなに必死に言われると、わたしが脅しているようだ」
 楽しげに笑う御堂を、和彦はついまじまじと見てしまう。さきほどの綾瀬とのやり取りといい、あくまで御堂は自然体だ。総和会のほんのわずかな部分を知っているに過ぎない和彦だが、それでもこう思うのだ。
 御堂は、総和会の中では、異質の存在だ。
 もうすぐ総和会に取り込まれてしまうであろう和彦自身、異質といえるかもしれないが、少なくとも御堂は、力を持ち、その力を振るう術を心得ている。
 和彦の胸の奥で、不快な感情の塊が蠢いた。
「――……御堂さんはやっぱり、長嶺組長たちと同じ世界の人なんですね。ぼくなんて、見ただけで臆してしまう人たちを相手に、対等に……、それ以上に渡り合っているんですね」
「君はほんの一年半前まで、まったく別の世界で生きていた人だ。育ちもいいと聞いている。最初から組と近い環境にいたわたしとは違うよ」
 だが今、和彦は御堂と同じ世界にいながら、まったく違う立場にいる。比べることすら失礼な、純然とした差がある。
 ここでようやく和彦は、不快な感情の塊の正体がわかった。男の身でありながら、〈オンナ〉としてこの世界にいることへの引け目を、御堂に感じているのだ。
 他の誰でもなく御堂にそんな感情を抱くのは、賢吾を昔から知っている人物だからなのか。秀麗な美しい見た目をしているからなのか。和彦が抗うことすらできない南郷と、張り合える立場にいるからなのか。理由はいくらでも思いついた。
「佐伯くん」
 いくぶん強い口調で御堂に呼ばれ、ハッとする。色素の薄い瞳に射抜かれそうなほどまっすぐ見据えられ、動揺した和彦は見つめ返すことはできなかった。
「すみませんっ。やっぱりぼく、部屋に戻ります。失礼します」
 急いで立ち上がった和彦は、頭を下げて応接室を飛び出す。何事かといった様子で、イスを抱えた二神がこちらを見たので、会釈をして通り過ぎた。
 階段で四階まで上がると、住居スペースの前に吾川が立っていた。どうやら和彦を探していたらしく、姿を見るなり、安堵したように表情を和らげた。
「午後からの先生の予定について、ご相談したいことがあったのですが、部屋に姿が見えなかったものですから。外出されたという報告も入っておりませんでしたし」
「……二階にいました」
 吾川が物言いたげな素振りを見せたが、あえて気づかなかったふりをする。
 はっきりと言葉に出されたわけではないが、どうやら和彦が御堂と接近することを歓迎していないようだった。吾川はまだ控えめな反応だが、南郷など露骨に拒絶感を示したぐらいだ。
 さきほど、二階で聞かされたことを踏まえると、なんとなくだが理由は見えてくるが――。
「ぼくは今日は、勉強のために論文に目を通しておこうと思ったのですが、午後から何か?」
「長嶺会長から、先生を買い物に誘いたいと連絡が入りまして……」
 危うく出そうになったため息を寸前のところで堪え、和彦は頷いた。




 数日の間に、御堂からお茶と食事に一回ずつ誘われたが、どちらも断った。携帯電話の番号はまだ交換していなかったため、吾川を通してのやり取りだ。
 そして和彦はこの数日間、自己嫌悪に苛まれていた。自分でも、御堂を避けているとわかっているからだ。きっと御堂も、和彦が避けていると察しているだろう。
 御堂に対して引け目を感じたことを、いまだに引きずっていた。いままでも平気だったわけではないが、受け入れたつもりになっていた〈オンナ〉という立場について、思いを巡らせてしまうのだ。
 堂々として華々しい御堂に対して、自分は力のある男たちの庇護を受けるだけの、非力な存在だと痛感したあと、そもそも比べてはいけないのだと、己の不遜さに消え入りたくなる。
 こんな気持ちを抱えている間は、とてもではないが御堂に合わせる顔がなかった。
 クリニックを閉めた和彦がビルを出て歩き出すと、背後からゆっくりと車が走ってきて、ぴたりと隣で停まる。素早く後部座席に乗り込んだところまでは、いつも通りだった。しかし今日は、後部座席に先客がいた。
 ゆったりとシートに座っている賢吾の姿を認め、車に乗り込んだ姿勢のまま和彦は固まる。
「どうして――」
「ドアを閉めて、シートベルトをしろ、先生」
 笑いを含んだ声で賢吾に言われ、素直に従う。賢吾が乗っているのだから当然だが、前に座っているのは長嶺組の組員たちだった。総和会の送迎にいまだに慣れない和彦としては、何日ぶりかのほっとできる感覚だ。
 いくらか期待を込めて、賢吾を見遣る。
「もしかして――」
「夜までという約束で、総和会から先生を〈借りた〉んだ。少しつき合ってくれ」
 こちらが尋ねたかったことを先回りしたように、賢吾が言う。和彦は落胆を隠しきれなかった。
「……そうか」
 夕食でも一緒にとるつもりなのだろうかと思い、あえて行き先は尋ねなかった。
 車が発進し、薄闇の気配が感じられる街並みを眺めていた和彦だが、次第に隣の男のことが気になってくる。珍しく、話しかけてこないなと思ったのだ。
 何かが、いつもと違う。
 和彦はドアのほうにわずかに体を寄せ、警戒しつつ賢吾をうかがい見る。賢吾は、唇をわずかに緩めていた。しかし、何も言わない。
 明るい繁華街を通り抜けて車が進んだ先は、独特の雰囲気がある一角だった。人気がないわけではないが、にぎわっていると表現するのはためらわれる。どんな店が並んでいるかは、出ている看板で一目瞭然だ。
「降りるぞ、先生」
 賢吾に声をかけられ、和彦は目を見開く。
「ここで?」
「風俗街なんて、お上品な先生は滅多にくることはないだろう。社会勉強だ」
 賢吾に体を押され、仕方なく和彦は車を降り、賢吾もあとに続く。
 否応なくいかがわしい看板が視界に飛び込んでくる。つい物珍しさからまじまじと見つめてしまうが、どういう店なのかわかると、途端に目のやり場に困る。
「――ここはうちのシマじゃないから、下手に組の者は連れて歩けねーんだ」
 落ち着かない和彦と肩を並べて歩きながら、賢吾がそんなことを言い出す。護衛の重要性をそれなりに理解している和彦はぎょっとする。
「それ……、危ないんじゃないのか」
「まあ、何かあっても大丈夫だろ。一応、話は通してあるしな」
「一応って……」
「心配しなくていい。それもこれも、先生の勉強のためだ」
 こんな場所で何を学べというのかと、ささやかな反発心から足を止めたが、賢吾に背を押されてすぐにまた歩き出す。
 夏らしい気温の高さと、どこからともなく吐き出されるエアコンの熱風が、一緒くたになって通行人に襲いかかってくるようだった。ときおり鼻先を掠める甘ったるい匂いは、通りすぎた女性がつけている香水だろう。それに酒と煙草の匂い。他の匂いは――よくわからない。
 賢吾に腕を掴まれ、路地へと入ってさらに数分ほど歩く。角を曲がって現れたのは、古い木造の建物が密集して建ち並んだ小路だった。
 こんなところにも住宅地があるのだと思ったが、それも一瞬だ。申し訳程度の小さな看板が出ているところがあり、玄関先には薄ぼんやりと電気もついている。どうやら飲み屋ではないようだ。どの建物もあまりに静かすぎる。
「ここがにぎわうのは、もっと遅い時間だ。さすがにそんな時間に、男二人だけで歩くわけにはいかないからな」
 囁くような声で賢吾が言い、倣って和彦も小声で尋ねる。
「どういう場所なんだ。さっきまでの通りとは、雰囲気がまったく違う」
「俺と先生は、合法と非合法の境を跨いできたんだ。堂々と明るいネオンを照らしている店は、風営法の許可を取ってある。法律が許す範囲で、男を癒す行為ができるんだ。だがな、ヤクザがシマにしているのは、相応の理由がある。この一帯は――」
 人気はほとんどないというのに、辺りをはばかるように賢吾が耳元に顔を寄せてきた。
「いわゆる連れ込み宿ってやつが並んでる。女を連れ込む場合もあるが、宿に女が待機しているところもある。仕切っているのは、ヤクザだ。皮肉だが、ヤクザが規律を作って、守らせている。そうやって秩序を保ち、女の安全を守っている。その女に体を売らせているのも――ヤクザなんだがな」
 説明を聞いて、この小路の薄暗さと、なんの商売をしているかわからない小さな看板の意味を理解した。
 これが社会勉強なのだろうかと、和彦は何も言えず、ただ賢吾を見つめる。和彦が何を考えたのかわかったらしく、賢吾は薄い笑みを浮かべた。
「今のは単なる基礎知識だが、先生が関わることはないから、別に覚えなくてもいいぞ」
「なら……」
 賢吾がある建物――宿を指さした。
「ここだ。いいか、先生。この宿に入ったら、何が起きても声は出すな。ただ、黙って見ていろ」
「……何が、あるんだ」
「怖いものだ。だが絶対に、目が離せなくなる」
 急に引き返したくなったが、賢吾が引き戸を開けて玄関に入り、こちらを見る。手を差し出されると、逆らえなかった。
 狭い玄関の横に受付窓があり、賢吾は何も言わず折り畳んだ万札を差し出すと、年配らしい女性の手が受け取った。玄関の正面にある勾配の急な階段を上がると、廊下には三つのドアが並んでいる。宿とは言っていたが、それらしい設備は見当たらず、民家と変わらない。宿泊施設としての営業許可など取っていないのだろうが、利用者が気にするとも思えなかった。
 賢吾とともに部屋の一つに入る。三畳ほどの広さしかない和室で、スペースの大半を、すでに敷いてある布団が占めている。それ以外には、スタンド照明と小さな鏡台があるぐらいだった。
 布団の傍らに置かれたスタンド照明をつけた賢吾が、襖の前に座り込み、手招きをする。この場ではとにかく賢吾に従うことにした和彦は素直に従い、賢吾の隣に座る。次の瞬間、この階に自分たち以外にも人がいるのだと知った。
 襖の向こうから激しい衣擦れと、忙しい息遣いが聞こえてくる。ハッとして賢吾を見ると、唇の前で人さし指を立てた。隣の部屋とは壁ではなく、襖で仕切られているだけなのだ。
 驚いたことに、賢吾が静かに襖を開ける。思いがけない行動に、制止することすらできなかった。
 ふわりと和彦の頬を撫でたのは、むせるような熱気と妖しい空気だった。顔を背けながら咄嗟に賢吾の腕を掴む。そんな和彦の耳にはっきりと、男の掠れた喘ぎ声が届く。さらにもう一人、低くしわがれた声も――。
 まさかと思いながらも、開いた襖の間から、おそるおそる隣の部屋を覗き込む。まっさきに和彦の目に飛び込んできたのは、布団の上に横たわり、大きく両足を広げられた御堂の姿だった。その両足の間で、人の頭が蠢いている。何をしているかは明らかだった。
 激しい動揺のため、和彦の心臓の鼓動は狂ったように速くなり、息苦しくなる。意識しないまま口元に手をやり、荒い呼吸を繰り返す。そんな和彦の肩を抱き寄せながら、賢吾も隣の部屋を覗く。いや、〈覗く〉という表現は正しくないだろう。襖は数十センチ開いており、二人の姿はまったく隠れていないのだ。
「うっ、あぁっ――」
 御堂がゾッとするほど艶めかしい声を上げ、腰を捩る。すると、御堂の両足の間から男が顔を上げる。特徴のある声だけではなく、大きな体から予測はついていたが、綾瀬だった。
 数日前、総和会本部で平然と話していた二人が、全裸で淫らな行為に及んでいるということに、思考が追いつかない。しかし、そんな和彦を置いたまま行為は続けられる。
 まるでこちらに見せつけるように、綾瀬が御堂の腰を引き寄せる。御堂の欲望は高ぶり、反り返っていた。その欲望を舐め上げながら、綾瀬の指が柔らかな膨らみをまさぐり、揉みしだく。上擦った声を上げた御堂が胸を反らし、布団に後頭部を擦りつけるようにして悶えた。
「はあっ、あっ、あっ……、い、い……」
 すでにもう綾瀬の愛撫を受けたらしく、御堂の胸の突起は左右とも真っ赤に色づき、濡れていた。白い肌にはいくつもの鬱血の跡や、中にはうっすらと歯型も残されている。それが見て取れるほど、二人の距離は近い。御堂が洩らす吐息の熱さすら感じられそうなほど。
 唾液で指を濡らした綾瀬が、御堂の片足を逞しい肩に抱え上げる。このとき綾瀬の上体が大きく動き、ここで初めて和彦は、綾瀬の右肩に影のようにのしかかっている存在に気づく。
 精緻に彫られた刺青だった。右肩から腕にかけての一部しか見えないため、どういう図柄なのかはわからないが、墨一色でありながら、濃淡を使い分けて彫られた羽毛らしきものからは、柔らかな質感が伝わってくるようだ。
「うあっ」
 綾瀬の指が、御堂の内奥をこじ開ける。秀麗な顔をわずかに歪めた御堂に、つい和彦は、自分もこれまで味わってきた苦しさを重ねてしまう。
 もっと御堂を丁寧に扱ってほしい、という心の声が届いたわけではないだろうが、綾瀬の愛撫が淫らさを増す。さんざん指で嬲っていた柔らかな膨らみに舌を這わせ始めたのだ。御堂が大きく腰を揺らし、愛撫から逃れようとする素振りを見せたが、綾瀬が口元に笑みを浮かべた。
「逃げるな、秋慈」
 綾瀬の舌は貪欲だった。柔らかな膨らみだけではなく、指を含まされた内奥の入り口にすら愛撫を施し、まさに御堂を舌で味わっている。震える欲望の先端から透明なしずくが垂れると、美味そうに啜りながら、内奥からゆっくりと指を出し入れする。
 綾瀬の肩に担ぎあげられた御堂の片足が、爪先までピンと張り詰める。御堂の欲望を深々と口腔に含んだ綾瀬は、内奥に挿入する指の数を増やし、卑猥な動きで内奥を解す。スタンド照明のほのかな明かりの下でも、御堂の内奥が妖しく色づいているのはわかった。発情の色だ。
「はあ、はあ、あっ、も、う……、綾瀬さん――」
 御堂の手が、綾瀬の髪を撫で回し、掻き乱していく。ひくつく内奥にしっかりと指が根本まで挿入された次の瞬間、御堂が大きく息を吐き出して、小刻みに腰を震わせた。少し間を置いて、綾瀬がゆっくりと頭を上げる。
「……味は変わってないな」
 綾瀬が発した言葉に、御堂は怒ったように目元を険しくする。
「そういうことまで、しなくていいのに……」
「お前の味を確認しておきたかった」
 綾瀬が御堂に覆い被さる。ここでやっと、綾瀬の腕の部分の刺青も見ることができたが、立派な羽の一部だった。一体どんな生き物なのだろうかと考えているうちに、綾瀬の刺青を愛撫するように、御堂がてのひらを這わせる。
 賢吾や三田村の刺青を撫で回す自分の姿が思い出され、和彦は目を背けたくなるような羞恥に襲われるが、一方で、目が離せない。御堂を見ていながら、自分が知らない自分の姿を見ていると思ったのだ。つまり、男たちが知る、和彦の姿だ。
 御堂の両足を押し広げるようにして、綾瀬が逞しい腰を割り込ませる。二人は間近で見つめ合い、唇を重ねた。淫靡な湿った音が、やけに大きく聞こえる。
 貪るように唇を吸い合い、差し出した舌を大胆に絡めながら、下肢では御堂が、綾瀬の腰に両足を引っかける。余裕のない動きで綾瀬が、張り詰めた欲望を御堂の内奥の入り口に押し当てた。
 見ている和彦のほうが息を詰め、賢吾の膝に手を置く。賢吾はその手をきつく握り締めてくれた。
「あううっ」
 内奥の入り口をこじ開けるようにして、綾瀬の欲望がわずかに押し込まれると、御堂が苦しげに声を上げる。動きを止めた綾瀬が、御堂の乱れた灰色の髪を掻き上げた。
「――……久しぶりすぎて、俺の形は忘れたか」
「あなたこそ、わたしの感触なんて覚えてないでしょう」
「責めるなよ。病人だったお前に無体はできないと、見舞いに行くのも我慢していたんだ。……だが、ずっと焦がれていた。夢に見るほどな」
 和彦は、体の関係があるから恋人同士だと決めつけられるほど、甘い認識は持っていない。しかし、御堂と綾瀬のやり取りを聞いていると、特別な仲なのだろうとは思った。体だけの関係だと割り切っているような淡泊さは、二人にはない。
 まるで、自分と賢吾のような――。
 綾瀬が腰を進め、喉元を反らした御堂がゆっくりと目を細める。その表情の美しさに、和彦は見惚れていた。
 内奥を緩やかに突き上げながら、綾瀬は片手で御堂の欲望を掴み、律動に合わせて扱く。最初はつらそうに呻き声を洩らしていた御堂だが、次第にその声が上擦り、艶を帯びていく。
 綾瀬の手の中で欲望は形を変え、再び透明なしずくを垂らしていた。さらに、御堂の内奥も変化しつつあるようだった。
「やっぱり極上だな、この肉は。俺のものに吸いついて、ねっとりと絡みついてくる」
 円を描くように綾瀬が露骨に腰を使い、御堂が立て続けに悦びの声を上げる。上体を伏せた綾瀬が、上気した御堂の肌に浮いた汗を舐め取った。愛しげに肌に唇を這わせ、執拗に愛撫の跡を散らし、あからさまに所有の証を残していく。
「んっ……、あっ……ん」
 胸の突起を激しく吸い上げられて、御堂が喘ぎ声をこぼした瞬間、和彦は身の内を撫で回されたような感覚に襲われ、鳥肌が立つ。それは、強烈な疼きだった。たまらず賢吾に一層身を寄せ、手荒く髪を撫でてもらう。
 前触れもなく綾瀬が繋がりを解いたかと思うと、弛緩している御堂の体をうつ伏せにして、腰を抱え上げた。背後から覆い被さるようにして、再び内奥に欲望を挿入した。
 二人の体の位置がわずかにズレたおかげで、和彦はやっと、綾瀬の右肩から右胸にかけて彫られた刺青を見ることができた。
 立派な羽から、鷲の姿を想像していたが、鳥というにはあまりに異形だ。さまざまな生き物の特徴を併せ持っているのだ。漠然と、ある空想上の生き物の名が頭に浮かぶ。
 鳳凰、と声に出さずに唇を動かしていた。
「ああっ――、あっ、あっ、んあっ……」
 背後から果敢に突き上げられるだけではなく、両足の間をまさぐられて、御堂の嬌声がますます大きくなる。そんな御堂を、綾瀬が言葉で嬲る。
「隠居している間、どれだけの男を咥え込んだ。お前なら、若い連中も喜んで相手になってくれただろう。それとも、いつもお前に忠実に仕えている二神だけか?」
「……下衆な、話題ですね」
「俺は昔から、下衆だろう」
「少なくとも、マシな、下衆でしたよ」
 綾瀬が体を震わせて笑う。笑い声はまるで、雷の轟のようだった。
 会話を続ける余裕がなくなったのか、御堂の息遣いが切迫してくる。自ら求めるように腰を揺らし、綾瀬がそんな御堂の腰をしっかりと抱え込む。
 御堂の体が一瞬強張ったあと、布団に精を迸らせる。その直後に、綾瀬が唸り声を洩らし、乱暴に腰を突き上げた。最後の瞬間を、御堂の中で迎えたのだ。
 背後から御堂の体を抱き締めるようにして、綾瀬が覆い被さる。御堂は息を喘がせながら、綾瀬の手に自分の手を重ねた。張り詰めていた空気が一気に緩み、乱れていた二人の息遣いが少しずつ静まっていく。
 これで行為は終わりかと思われたが、身じろいだ綾瀬が、愛しげに御堂の肩に唇を這わせながら、汗に濡れた紅潮した体を撫で回していく。
「久しぶりだからな。じっくり堪能しておかないと。どうせお前、しばらくは忙しくて、相手なんてしてくれないだろ」
 綾瀬の言葉に、疲れ切った様子の御堂は唇だけの笑みを浮かべた。
「いざとなったら、こちらの予定なんて蹴散らすくせに」
「我慢強いだろ、俺は。お前に待てと言われたら、いくらでも待ってやる。だから、こんなときぐらい――」
 綾瀬の片手が、御堂の両足の間に差し込まれ、妖しい動きをする。御堂が短く声を洩らし、腰を揺らした。
「いい締まりだ……。俺をもう一度勃たせるぐらい、造作がないだろ、秋慈」
「……あなたが、昔のままなら」
 綾瀬が低く笑い声を洩らしたところで、賢吾は静かに襖を閉めた。しかし、興奮冷めやらぬ和彦は、襖の前から動くことはできない。御堂と綾瀬の行為に圧倒され、呑まれていた。
 熱くなっている頬をスッと撫でられて、緩慢な動作で賢吾を見上げる。いろいろと尋ねたいことはあったが、宿に入る前に言われたことを思い出す。先に立ち上がった賢吾に手を差し出されたので、その手を掴んでなんとか和彦も立ち上がる。
 足元を気遣われながら狭い階段を下り、そのまま宿を出たとき、暗い小路を、看板の控えめな明かりが照らしていた。しかも、さきほどより人通りが増えている。ここがどんな場所であるか知ったうえで歩いているのか、何も知らぬまま通り抜けているのか、もう和彦にはどうでもよかった。少なくとも和彦自身は、知ってしまった。
「大丈夫か、先生」
 ようやく賢吾の声を聞いてほっとする。促されるまま歩き出しながら、和彦は宿を一度だけ振り返った。
「どうしてぼくに、あの二人の――」
「秋慈からの提案だ。お前に見てもらい、知ってほしいと」
「何、を……?」
 正面を向いたまま、賢吾が淡々とした口調で答えた。
「――秋慈は昔、二人の男の〈オンナ〉だった」









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