と束縛と


- 第6話(4) -


「あんた……」
 愕然とする和彦を嘲笑うように、男は唇の端を微かに動かした。人を小馬鹿にしたような、嫌な笑みだ。だが、粗野な外見の男にはよく似合っていた。
 特徴的な外見は相変わらずだ。オールバックにした癖のある長めの髪と、国籍不明の外国人のような彫りの深い顔。無精ひげはさらに伸びており、黒のソリッドシャツにジーンズというなんでもない格好なのに、近寄りがたさを放っている。秦が、一目見て警戒した理由もわかる。
「この間、長嶺のガキが、警察を呼ぶと吠えていたから、今日は俺が先に呼んでやった」
 男が一歩踏み出し、和彦ではなく、秦が身構える。男は、また嫌な笑みを浮かべ、露骨に値踏みする視線を秦に向けた。
「護衛と、イイ男を伴ってお買い物とは、いいご身分だな。――長嶺のオンナってのは」
 男にこう呼ばれた瞬間、和彦の体は熱くなる。血が逆流しそうだった。自分で認めている立場ではあるし、賢吾によって心と体にこの言葉は刻みつけられてもいる。だが、正体不明の男に、こんな明るい店内で呼ばれることは、屈辱でしかない。
 生理的嫌悪感しか抱けない男を本当は見たくもなかったが、ギリギリのところで本能を抑えつけ、和彦は男を睨みつける。
「……ぼくの護衛が、どうして警察を呼ばれないといけないんだ」
「わからないか? お前が助けを呼びたくても、あいつらはここに駆けつけられない。昼間から、こんなところでヤクザが何をしているのか、ネチネチと聞かれているかもな。警官は、点数稼ぎでこんな仕事は嫌になるほどきっちりこなすから、すぐには解放されないぞ。そして、あいつらから切り離されたお前が一緒にいるのは、その男だけというわけだ」
 咄嗟に和彦が考えたのは、秦には迷惑をかけられないということだった。
 和彦が遠慮がちに向けた視線から、何を考えたのか察したらしく、人当たりのいい笑みを浮かべることの多い秦が、険しい表情を見せる。
「先生、こんな危なそうな男は相手にしないほうがいいですよ」
「だけど――」
「賢明だな。だが、そっちが相手にしなくても、こっちから殴りかかって騒動を起こせば、すぐに警官が飛んできて、面倒事になる。ヤクザのオンナの騎士を気取ったところで、いいことはないぞ」
「この人は、組とは一切関係ない」
 和彦は、男にきつい眼差しを向ける。男の言葉には悪意が満ちており、それが和彦を不快にする。言葉だけではない。所作の一つ一つが、何もかもが生理的に受け付けられない。
 男はスッと目を細め、和彦を見据えてくる。冷たく凍りつくような目だった。そのくせ、粘つき、ぎらつくようなものが微かに覗き見えたりもしている。どこか賢吾の持つ冷たさと似ているが、あの男の持つ冷たさは不純物が一切ない。だが、目の前に立つ男は、さまざまなものが混じり合い、濁っている。
「――善良な一般人を巻き込みたくなかったら、これから俺と二人きりで話をしろ。お前にはいろいろと聞きたいことがある」
「絶対嫌だ」
「ここで俺が騒いで、外のパトカーに一緒に乗ってみるか?」
「困ったことがあれば、すぐに長嶺の顧問弁護士に連絡するよう言われている。……得体の知れない男に脅されたときとか」
 男はまた、人を小馬鹿にしたような笑みを浮かべた。
「あの蛇みたいな男がご執心だと聞いたときは、冗談かと思ったが、まさか、本当だったとはな。――俺がお前を連れて行ったと知ったら、さぞかし悔しがるだろうな。あの、傲慢な下衆が」
 和彦は黙って携帯電話を取り出し、長嶺組の顧問弁護士の事務所にかけようとする。すかさず男が大きく前に踏み出し、和彦の手から携帯電話を払いのけた。
 床に落ちた携帯電話を思わず目で追ったとき、和彦の手首は強い力で掴み上げられた。
「あっ……」
 痺れるような痛みに、一瞬にして抵抗できなくなる。
「一緒に来い。ちょっとお茶を飲みながら、談笑するだけだ」
 この状況でふざけたことを言う男に対して、和彦は本気で恐怖を覚える。このまま頷かなければ、手首を容赦なく捻られると思った。
 人目がある場所でこんなことをして、警官と関わることにも躊躇を見せない男は何者なのか、見当をつけるのはさほど難しくない。
「あんた、もしかして――」
 和彦が口を開いたそのとき、視界の隅で素早く何かが動く。次の瞬間、秦と男の姿が重なり、わずかな間を置いて秦がゆっくりと体を離す。同時に、和彦の手首を掴んでいた手からふっと力が抜けた。
「お前っ……」
 低く呻いた男が前のめりとなり、腹を押さえて咳き込む。
「先生っ」
 秦に腕を掴まれたかと思うと、強引に引っ張られて歩かされる。男は手を伸ばして追いかけてこようとしたが、早くこの場から逃げろと誰かに命令されたように、和彦の足は勝手に動く。秦とともに階段を駆け下りていた。
「――……さっき、あの男に何を?」
 一階に向かいながら、背後を振り返った和彦は尋ねる。まだ、男は追いかけてこない。
「拳をちょっと腹に入れただけです」
「そんなことしたらっ――」
 ちらりと口元に笑みを浮かべた秦だが、その目は油断なく一階のショールームを探っている。
「心配いりません。あの男、かなり鍛えているみたいなので、そう堪えてませんよ。だから……すぐにここを離れないと」
 そう言いながら秦が向かっているのは、店の正面出入り口だ。
「でも……」
 店から出ないよう言われているため判断を迷った和彦に対して、秦は鋭い口調で言った。
「あのキレた刑事に捕まったら、どんな微罪で警察署に連行されるか、わかりませんよ」
 ハッと目を見開いた和彦に対して、秦はこの状況に不似合いな艶やかな笑みを浮かべた。
「まあ、もっとも、微罪どころか、わたしは暴行罪になるかもしれませんが」
 足早に店を出た途端、秦が走り出し、和彦も倣う。走りながら、店を振り返る。できることなら、店の裏にある駐車場の様子を確認しておきたかったが、それはもうできない。のこのこと戻ったら、今度こそあの男――おそらく刑事であろう――に捕まってしまう。
「とにかく今は、一刻も早くここから離れましょう」
 秦はすでにこの先の行動を決めているらしく、考える素振りも見せずに、通りを走るタクシーを停めた。戸惑う和彦に向けて、片手が差し出される。
「乗りましょう。わたしの車も駐車場に置いたままなので、タクシーで移動しないと」
 和彦は、もう一度店の方角を振り返ってから、秦に続いてタクシーに乗り込んだ。


 タクシーに乗っている間、頭の中が真っ白で何も考えられなかったが、座り心地のいいソファに腰を落ち着けてしまうと、自分は安全な場所にやってきたのだという安堵感から、今度は思考がオーバーフロー気味になっていた。
 手足が小刻みに震えていることに気づいた和彦は、懸命に自分の手を擦り、震えを抑えようとする。すると、すぐ側で物音がした。顔を上げると、秦がテーブルの上にグラスや水のボトルを置いているところだった。
「あの――」
「すぐに、アルコールを準備しますから、欲しいものがあれば遠慮なく言ってください。なんといってもここは、客に飲ませてなんぼの、ホストクラブですから」
 秦にそう言われて、和彦は喉に手をやる。この店についてから、まっさきに水を飲ませてもらったのだが、さらに喉の渇きを覚えた。
 興奮しすぎて、体の水分がずいぶんな速さで汗になったのかもしれない。着ているシャツが汗で濡れて、少し不快だ。それでも、空調を入れた店内の空気はゆっくりと冷え始めていた。
 和彦がほっと息を吐き出すと、隣に腰掛けた秦に笑いかけられる。
「何を飲みます?」
 水でいい、と言いかけたが、まだ震え続けている自分の手を眺めてから、和彦は精神安定剤代わりに、アルコールをもらうことにした。
「……ワインを」
「かしこまりました」
 秦の慇懃な受け答えに、やっと和彦は微笑することができる。実は唇を動かすのも苦労するほど、顔の筋肉が強張っていた。
 ワインが注がれたグラスを手渡されると、和彦は一気に飲み干す。
 インテリアショップを飛び出した二人がタクシーに乗ってから、どこに向かうかという話になったのだが、秦が提案したのは、自分が経営している店の一つに来ないかというものだった。
 刑事と思しき男が和彦をつけ狙っていたのは間違いなく、このまま長嶺の本宅や組事務所、和彦のマンションにまっすぐ向かうのは危険だと言われれば、納得するしかない。どんな理由で、あの男が踏み込んでくるかわからないのだ。
 長嶺組のテリトリーに、警察が踏み込む理由を与えるわけにはいかないし、和彦自身、医者として長嶺組や総和会で行ってきたことを洗われると、立場が危うい。マンションには、クリニック経営のために偽造された書類が山のようにある。
 自分が何をやってきたか、一つ一つは理解していた。そして今日、自分は警察と関われない存在になってしまったのだと、身をもって痛感させられた。
 和彦は大きく体を震わせる。あの男に対する嫌悪感が蘇ったことと、これまで築いてきた生活を失うかもしれないという怖さからだ。
「大丈夫ですか?」
 秦の腕が肩に回され、このときコロンの香りがふわりと和彦の鼻先を掠めた。
 柔らかくいい香りではあるが、特徴的ではないと思っていた秦のコロンだが、時間とともに香りが変化したらしい。特徴がないどころか、甘いのに刺激のある香りは、官能的ともいえた。不思議なもので、香りの変化とともに、秦自身の印象も一変したように感じた。
 たとえば、さりげなく和彦の肩に回された腕の力強さや、熱さだ。まるで自分が、秦に接客されている女性客になったように、その感触を意識してしまう。
 空になったグラスにまたワインが注がれ、和彦はそれもすぐに飲み干した。
 大きく息を吐き出して、辺りを見回す。時間を意識させないようにという配慮なのか、この店は目立つところに時計を飾っていないのだ。
「――さすがにまだ、先生のお迎えはこないですよ。電話をして、十分も経ってませんから」
 和彦が何を気にしているのかわかったらしく、柔らかな苦笑を浮かべた秦に言われる。見透かされたことに顔を熱くした和彦は、あえて話題を逸らした。
「店の従業員の方は、まだ出勤されないんですか?」
「夕方からですね。開店準備に取り掛かるのは。だから、安心して寛いでください」
 曖昧な返事をした和彦の視線は、ついカウンターの電話へと向く。タクシーの中で物騒な話をするわけにもいかず、秦の経営するこのホストクラブに着いてすぐ、電話を借りた和彦は、三田村の携帯電話に連絡した。
 気が高ぶって混乱していたため、自分でも要領の得ない説明だったと思うが、それでも三田村は事態を素早く理解してくれた。
 組長にも連絡を取って、すぐに迎えに行く――。
 三田村は、ハスキーな声で力強くそう言ってくれ、和彦はやっと人心地がついた気がしたのだ。
 今頃三田村は、忙しく動いているだろう。多分、三田村から説明を受けた賢吾も。そんな中、気持ちを落ち着けるためとはいえ、騒動の渦中にいる自分が秦の隣でワインを飲んでいるのは、ひどく気が咎めた。
「――恋人を待っているような顔ですね、先生」
 突然の秦の言葉に、和彦は目を丸くする。普段であれば、簡単に躱して冗談にできたのだろうが、今の和彦はあまりに無防備だった。つまり、何も言い返せないどころか、ひどくうろたえてしまったのだ。そんな和彦を、秦は艶を含んだ表情でじっと見つめてくる。
「迎えにきてくれるのは、先日の花火大会のとき、必死な様子でクラブまで先生を捜しに来た方ですか? 確か、三田村さん……」
「ぼくの本当の護衛です。というより、頼めば、家の片付けすらしてくれるので、世話係みたいなものですね」
「今日は先生についていなかったのは、どうしてですか?」
「最近、本来の仕事が忙しいみたいです。組のトラブル処理に当たっているそうです。ぼくは、組絡みのそういった事情には首を突っ込まないようにしているので、詳しくは知りませんが」
 ワインをグラス二杯飲んだぐらいでは酔わない和彦だが、今日は気が高ぶっているせいか、軽い酩酊感がもう押し寄せてくる。ただ、悪い気分ではない。
 グラスを置き、自分の手を見る。すでに震えは治まっていた。ごく自然な動作で、秦がその手を握ってくる。
「ああ、やっと震えが止まりましたね」
「……すみません。パニックになって、秦さんにご迷惑を……」
「仕方ありませんよ。先生の反応が、普通の反応です。いきなり怪しい男に絡まれて、同行者は外で警官から職質を受けている。挙げ句に、その怪しい男から二人きりで話したいと言われて、強引に連れて行かれそうになったら――、他人のわたしですら、思わず暴力に訴える」
 最後の言葉は冗談めかして言った秦が、拳を作って見せてくれる。和彦の気持ちを解そうとしているのだ。思わず笑みをこぼすと、秦は新たなグラスに、水でかなり薄めたウィスキーを入れてくれた。
「これぐらいなら、大丈夫でしょう。今日はもう、迎えにきてもらったら、すぐに休んだほうがいいですよ。……何も考えないで」
 片手を取られてグラスを持たされる。じっと見つめてくる秦の眼差しの威力に、酩酊感もあってか和彦は逆らえなかった。実際、アルコールの力を借りて、男から与えられた嫌悪感や恐怖感から逃れるのは、いい手だろう。
 すでに三田村には、状況を説明してある。今頃、和彦たちがいたインテリアショップの駐車場にも、長嶺組の人間が向かっているはずだ。
 自分にできることは何もない。ただ、守られるのを待つだけだ――。
 和彦は薄いウィスキーをゆっくりと飲みながら、あえて物騒な話題を避け、今日見たインテリアのことを話す。
 ソファやテーブル、スリッパやカーテンに、患者に出すコーヒーカップのこと。それに、店のショールームで見て気に入った、自宅の書斎に合いそうな書棚についても。
 この頃になって和彦は、自分が今味わっているのは酩酊感ではなく、実は強い眠気であることに気づいた。
 気が抜けたせいだろうかと思いながら、ほとんど空になったグラスを置いて目を擦る。
「先生?」
「すみません、ちょっと顔を洗ってきます。いつもより、酔いが回るのが早いみたいで」
 秦にタオルを手渡され、パウダールームに案内される。女性客相手ということで、ここも秦の気配りとセンスが徹底しており、広くはないが、きれいなパウダールームだった。
 女性専用の場所を、男の自分が独占しているのも妙なものだと思いながら、和彦はさっそく洗面台に歩み寄る。汚れ一つないほど磨かれた鏡に、目の焦点が怪しくなった和彦自身が映っていた。
 ふうっと大きく息を吐き出して、顔を洗う。ついでに口をすすいだ。さすがにこんな緊張感のない顔をして、これ以上アルコールをとるわけにはいかない。というより、もう体が受け付けないかもしれない。
 頭を上げようとして足がふらつき、咄嗟に洗面台の縁に掴まる。頭を揺さぶられているような眩暈と、脱力感がひどい。なんとか水を止めて顔を拭いたときには、たまらずその場に屈み込みそうになっていた。
「――大丈夫ですか、先生」
 いつの間にやってきたのか、秦の声がした。なんとか視線を鏡に向けた和彦は、そこに映る秦の姿を捉えた。
「すみ、ません……。なんだか、体がおかしくて……」
「気が高ぶっているせいで、いつもより酒の回りが早かったんでしょうね。中嶋と三人で飲んだときは、けっこういいペースで飲まれていたから、わたしも気安く勧めてしまいました」
 秦に支えられながら洗面台から離れようとしたが、途端に足から力が抜ける。すかさず秦に受け止められ、和彦も秦のシャツを握り締めた。さすがに、ここまで急激な変化を示す自分の体に対して、ある疑念が湧いた。
 本当に、ただアルコールに酔っただけなのか――。
 和彦は、間近にある秦の端麗な顔をまばたきもせず凝視する。和彦の眼差しの意味がわかったのか、秦は笑った。穏やかでも、艶やかでもない、怖いほどしたたかな笑みだった。
「焦らず、〈いい人〉として先生と親しくなるつもりだったんです。だけど今日は、あまりに絶好の機会すぎた。ヤバそうな男が先生を脅して怯えさせ、その先生を守る屈強な護衛はいないうえに、こうして、わたしのテリトリーであるこの店に連れ込めた。いい具合に、先生はふらふらですしね」
 秦が何を言っているのかよくわからなかった和彦だが、襲いかかる眠気を振り払うように頭を振ってから、ようやくあることを確信した。
 自分は、秦に欺かれていたのだと。
 その言葉を裏付けるように、どこか楽しげな口調で秦は続けた。
「先生は、無防備すぎますよ。それとも、少し前まで普通の生活を送っていた人間というのは、そういうものなんでしょうか。……ヤクザや、ロクでもない人間とばかりつき合っていると、よくわからなくなるんですよ。普通の感覚というものが。――わたしは自分が、ロクでもない人間だという自覚があるぐらいですから」
「何を、言って……」
「一人でのこのことわたしについてきて、もしわたしが、長嶺組長を恨んでいる人間だったら、どうするつもりだったんですか? あのヤバそうな男とグルだったら?」
 和彦は目を見開くと、緩慢な動きで秦の手から逃れようとしたが、簡単に上体を洗面台に押さえつけられた。背にのしかかられるような格好となり、振り返ることすらできない和彦は、鏡を通して秦を見つめる。秦は余裕たっぷりに笑っていた。
「冗談ですよ。わたしは長嶺組に恨みはないし、あの男も知りません。ただ、先生に興味があるだけです。ヤクザの組長のオンナで、医者で、しかも近いうちにクリニック経営者だ。わたしみたいに、ヤクザではないけど、限りなくヤクザに近い不安定な世界に生きる人間としては、先生みたいな人と親しくなっておいて損はないと計算するわけです」
 和彦は懸命に、鏡越しに秦を睨みつける。
「こんなことをして、逆効果だと思わないんですか? 頭のいいあなたなら、それがわからないはずがない……」
「評価されていて嬉しいですよ。もちろん、こうする目的はあります」
 ここで秦に腰を引き寄せられたかと思うと、いきなり両手が前方に回され、コットンパンツのベルトを緩められていく。
「な、に、して――」
「あっさり先生を解放したら、わたしの命がありませんからね。だから、保険を掛けておきます。……あの長嶺組長のオンナと、誰にも言えない秘密を持つというのは、ゾクゾクしますよ。たまらなく、興奮する」
 秦の口調はあまりに穏やかで、しかも笑みすら浮かべているため、和彦は心のどこかで、冗談ですよ、という秦の一言を期待していた。だが、その期待は簡単に裏切られる。
 和彦は、鏡の中で自分の顔色が、蒼白から、羞恥の赤へと染まっていく様を呆然と見つめていた。秦の手によってパンツと下着を引き下ろされ、膝で引っかかる。
「この世界で、特殊な立場にいるなら、もう少し用心深くなったほうがいい。そうでないと、誰に狙われるかわかりませんよ、先生」
 剥き出しになった腰を撫でながらの秦の言葉に、和彦は必死に羞恥を押し殺し、鏡に映る秦を睨みつける。しかし、すぐに強い眩暈に襲われ、きつく目を閉じていた。
「……それを、身をもって教えてくれるために、こんなことを……?」
「単なる親切で、ここまでできませんよ」
 秦の手に両足の間をまさぐられ、和彦のものがひんやりとしたてのひらに包み込まれる。ここ最近味わっている誰の手とも違う感触に、鳥肌が立っていた。
「この先しっかり警戒して、こんな不埒なまねを許すのは、わたしだけにしてください。そうすることで、わたしたちの秘密は旨みを増す」
「自分勝手な、理屈だ……」
「先生がそれを言いますか。ヤクザなんて、自分勝手な奴ばかりでしょう。そして先生は、そのヤクザに囲われて、大事に大事にされている」
 話しながらも秦の手は、和彦のものをゆっくりと扱いていた。なんとか体を起こそうとするが、両手に力が入らない。だったらいっそのこと、体の感覚も麻痺すればいいのに、秦の手から送り込まれる刺激だけは鮮明だ。
「うっ……」
 急に秦の手の動きが速まり、無視できない快感から這い上がってくる。和彦が唇を噛み締めると、背に覆い被さってきた秦の唇が耳に押し当てられ、思わず身震いしてしまう。背に、ゾクリとするような疼きが駆け抜けていた。
「長嶺組長にたっぷり愛されているんでしょうね。わたし相手にも愛想がいい体だ」
 秦の指に、欲望の形をなぞられる。こんな状況でも、和彦のものは男の愛撫に対して従順だった。しっかりと反応していたのだ。
「もう、やめ、ろ――」
「まだですよ。もっとしっかり、先生の秘密を知りたいんです。たとえば、こことか……」
 和彦が鏡を凝視していると、秦が思わせぶりに指を舐める。その指がどこに向かうか察したとき、必死に洗面台の上で上体を捩ろうとしたが、弛緩している和彦の体を容易に押さえつけて、秦の指が内奥の入り口をこじ開け始める。
「あぁっ」
 ビクビクと腰を震わせて、和彦は秦の指を呑み込まされる。内奥の造りを探るように慎重に指が蠢かされ、感じやすい襞と粘膜を擦り上げられていた。
 異物感に呻いていた和彦だが、秦の指が、ある意図をもって浅い部分を執拗に擦り始めたとき、鼻にかかった声を洩らしていた。すでに両足から完全に力が抜け、洗面台に上体を預けきってしまうと、秦にすべてを支配されているも同然だった。
「……しずくが垂れてますよ、先生」
 笑いを含んだ声でそう言った秦が、ハンカチで和彦のものを包み、軽く扱いてくる。意識しないまま内奥に挿入された指を締め付けると、巧みに蠢かされていた。
 強烈な眠気と快感に、和彦の意識は朦朧とする。理性は見事にねじ伏せられ、秦に何をされているのかすら、認識が怪しくなっていた。
「安定剤ですよ。効き目が強いんで少ししか混ぜなかったんですが、さすがにあれだけの量の水を飲むと、効果は抜群ですね」
 秦の言葉に、ひどく納得していた。ここまで体の自由を奪われ、意識が飛びかけているのは、アルコールのせいではなく、水に混ぜられた安定剤のせいだったのだ。この店にきて、大きなグラスで水を飲んだが、水割りにもその水は使われていたのかもしれない。
「まだ寝ないでくださいね。もう少し、先生に楽しんでもらいたいので」
 内奥を指で掻き回されて解される。この頃には和彦の息遣いは乱れ、熱を帯びていた。
「はあっ……、はあ、はっ――……」
「ここにいつも、長嶺組長の熱いものを受け入れて、擦り上げてもらっているんですよね? 物欲しげに、よく締まってますよ。たまらないでしょうね。先生のここに受け入れてもらって、愛してもらったら」
 付け根まで挿入された指に、焦らすように小刻みに内奥を擦られる。和彦が知る男たちなら、熱く逞しいものを含ませてくれる頃だ。ただし、秦は違った。
「もう、指じゃ物足りないですよね。いいものを用意してあるんですよ。先生を傷つけないよう、気持ちよくなってもらうために」
 顔を伏せた和彦には、秦がなんのために身じろいだのか確かめようがなかった。ただ、すっかり慎みを失った内奥の入り口に、硬く滑らかな感触が擦りつけられて、ビクリと腰を震わせる。
 それがなんであるかわかったのは、内奥に含まされてからだった。秦の指で奥まで押し込まれ、前触れもなく小刻みに振動する。
「ひあっ……」
 背後から伸びてきた秦の手にあごを掬い上げられた和彦は、鏡に映った自分の顔を嫌でも見てしまう。目を潤ませ、頬を上気させた、明らかに発情した男の顔が、目の前にあった。背後には、堪えきれないような笑みを浮かべた秦がいる。
「わかりますか、先生? 今、先生の中に、ローターが入っています。すごく美味しそうに咥え込んでますよ」
 そう囁かれると同時に、内奥深くに押し込まれて震えるローターが引き抜かれそうになる。秦がコードを引っ張ったのだ。和彦は反射的に内奥をきつく収縮させていた。
「うっ、ううっ」
「締め付けてますね。気に入りましたか? このおもちゃ」
 再び秦の指によってローターが内奥深くに押し込まれ、そのうえ、振動が強くなる。足掻くように片手を伸ばした和彦は、鏡に触れる。すると、その手の上に秦が手を重ね、握り締めてきた。
 ハンカチで包まれた和彦のものが緩く上下に扱かれ、内奥深くで響くローターの振動も加わり、和彦は一人静かに乱れる。そんな和彦の耳に何度も唇を押し当てながら、秦は掠れた声で囁いてきた。
「――これは、わたしと先生の秘密ですよ」
 ようやく和彦が顔を上げると、鏡越しに秦と目が合い、美貌の男は艶然と微笑む。喘ぐ和彦の唇の端に、そっと唇が押し当てられていた。
「名残惜しいですが、そろそろ終わりにしましょうか。先生の忠実な騎士が、いつ駆け込んでくるかわかりませんから」
 すぐにローターが引き抜かれるのかと思ったが、内奥の入り口に、さらに熱く硬い感触が押し当てられる。
「あっ」
 和彦は思わず声を上げるが、かまわず〈それ〉はこじ開けるようにして、すでにローターを呑み込んでいる内奥に、太い部分を呑み込ませようとする。
 秦に犯されようとしている――。
 そう強く認識したとき、和彦の体に嫌悪と同時に、甘美な感覚が駆け抜けた。
「んあっ、あっ、あっ、あうっ……」
 ハンカチ越しに秦の手に扱かれ、和彦は精を迸らせていた。
 スッと体を離した秦によって、半ば強引にローターが引き抜かれる。激しく息を喘がせ、体を震わせる和彦に対して、秦は愉悦を含んだ声でこう言った。
「先生との最初の秘密としては、上出来ですね。先生の奥を味わえないのは残念ですが、焦ることもないでしょう。これからも仲良くできるでしょうから」
 和彦はすでにもう、怒りも羞恥も戸惑いも感じることはできなかった。わずかに残る意識で、秦が自分が思っていたような男でなかったことと、迎えにくる三田村に、こんな姿は見られたくないということを考えるので、精一杯だ。
 秦に格好を整えられ、抱きかかえられるようにして体を起こされても、その腕から逃れることすらできない。
 そんな和彦を、秦は両腕でしっかりと抱き締めてきた。
「――先生みたいな人でなかったら、わたしもこんな手段は取らなかったんですけどね。なんとなくわかるんです。先生に対して、この手段は有効だと。これで先生は、嫌でもわたしを意識せざるをえない。先生の引いた境界線の内側に、わたしも入れたということですよ」
 秦の顔が近づいてきて、和彦はなんとか顔を背けようとしたが、ささやかな抵抗はあっさりと無視され、唇を塞がれる。
「んっ……」
 柔らかく唇を吸われて、舌先でくすぐられる。自分では歯を食い縛ったつもりだったが、もしかすると口腔に秦の舌を受け入れたかもしれない。和彦にはもう、よくわからなかった。
 支えられながらパウダールームを出て店内に戻ると、恭しいほど丁寧にソファに座らされようとしたが、突然、店に駆け込んでくる慌ただしい足音がした。
「先生っ」
 しっかり耳に馴染んでいるはずのハスキーな声が、いままで聞いたことのないような動揺を滲ませていた。あれだけ言うことをきかなかった和彦の体が、何かの力を得たようにしっかりと自分の足で立つことができ、秦を押し退ける。
「三田村っ……」
 救いを求めるように手を伸ばすと、駆け寄ってきた三田村に受け止められる。
「先生っ? 先生、しっかりしろっ」
 必死に三田村に呼ばれたが、その声すらすぐに耳に届かなくなる。
 和彦は、三田村の腕の中で、完全に意識を手放していた。









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