と束縛と


- 第7話(1) -


 和彦が小さく呻いたとき、優しく頬を撫でられた。次に髪を梳かれて、思わずほっと吐息を洩らす。ただ、ひどく頭が重く、深沼の底で漂っているようで、意識がはっきりしない。
 もしかして自分は、本当に深い沼に沈められているのだろうかと、現実的でない不安感に襲われ、和彦はハッと目を開く。まっさきに視界に飛び込んできたのは、もちろん暗く澱んだ世界ではなく、木目の美しい天井だった。
「――大丈夫か、先生」
 ふいに傍らから、柔らかなバリトンで話しかけられる。そして、顔を覗き込まれた。
 賢吾の真剣な顔を間近に見て、和彦はドキリとする。まばたきもせず見上げていると、賢吾が眉をひそめ、やや強めに頬を撫でてきた。驚いてまばたきをすると、ヤクザの組長という物騒な肩書きを持つ男は、安堵したように表情を和らげた。
 珍しいものを見たと、ぼんやりと和彦は思った。意識はまだ完全に覚醒したわけではなく、強烈な眠気は健在だ。
 瞼を閉じそうになりながらも、なんとか現状を把握しようとする。
「ここ……」
「本宅だ。三田村が連絡を寄越してきたから、俺が運び込ませた。酒を飲んでひっくり返ったと聞いたときは、驚いたぞ」
 誰かに頭を掴まれて、ずっと揺さぶられているようだ。眠気と気持ちの悪さに、たまらず和彦はきつく目を閉じる。
「……ひっくり返ったって、誰が……」
「記憶が混乱してるのか? 秦という男の店で、気付けの酒を飲ませてもらったんだろ。急性のアルコール中毒なら、すぐに救急車を呼べと怒鳴るところだが、三田村の説明だと、ただ眠っているということだったからな」
 賢吾の大きな手に頬を包み込まれたとき、和彦は心地よさ以上に、ゾクリとするように肉欲の疼きを感じた。おかげで、曖昧な意識の中から、ある記憶だけが浮上する。
 再び目を開いた和彦は、優しい手つきとは裏腹に、賢吾がおそろしく怜悧な表情をしていることを知った。
「――怖かったか?」
 突然の問いかけに、咄嗟に和彦は返事ができない。かまわず賢吾は言葉を続けた。
「何があったか、だいたいは三田村から聞いた。……先生に絡んできた男は、鷹津という刑事だ。この間は先生に、知る価値もないと話したが、あの男にしてみれば、涎が出るほど知る価値があっただろうな。先生のことは。なんといっても、俺の弱みになるかもしれない、可愛い〈オンナ〉だ」
 和彦はゆっくりとまばたきを繰り返し、なんとか賢吾の話を頭に留めようとする。いろいろと考えようとするのだが、思考はどこまでも散漫だ。
「……蛇蝎の、サソリ……」
「ああ、そうだ。あれは、悪党ってやつだ。暴力団担当の刑事だったくせに、その立場を利用して悪辣なことをヤクザ相手にやらかして、それこそ蛇蝎みたいに嫌われていた。そこで、ある組が鷹津をハメたんだ。かなり大問題になってな、警察の監査室まで引っ張り出して、県警の本部長のクビが飛ぶかという話までいった」
 淡々と話す賢吾のバリトンの響きが耳に心地いい。ふっと意識が遠のきかけたが、もう少しつき合えと囁かれ、髪を手荒く撫でられる。和彦はわずかに身じろぎ、このときになってやっと、自分が浴衣に着替えさせられていることを知った。
「結果として、組はこれまでのことに目をつむり、警察も事態を内々に処理して穏便に済ませた。もっとも、鷹津はそうもいかない。警察側の事情もあって免職にできない代わりに、自己都合での退職を迫ったが、それを蹴ったんだ。交番勤務としてどこかに飛ばされた――と聞いていたが、最近になって暴力団担当係に戻ったそうだ」
 鷹津という刑事をハメた組とは、きっと長嶺組のことなのだろう。誰が中心になって進めたのか、考えなくてもわかる気がする。
「あんな毒にしかならないような男が現場に戻るぐらいだ。警察が本腰を入れるような事件の捜査をしている……と、考えると、一つ心当たりがある」
 賢吾の中に住む大蛇が、ゆっくりと鎌首をもたげていく光景が脳裏をちらつく。
「ここのところ、うちのシマどころか、総和会のいくつかの組も、シマを〈汚されて〉いる。三田村がここのところ忙しいのは、その件をあたっているからだ。鷹津が呼び戻されたのも、それが関係あるかもな」
「それがなんで……、千尋やぼくを脅すことになるんだ」
「少しは頭が冴えてきたか、先生?」
 ニヤリと笑いかけられて、和彦はまたぐったりと目を閉じる。すると、指先で唇を擦られ、わずかに口腔に含まされた。その感触で、秦にキスされたことを思い出した。
 体を駆け抜けたのは、絶対にこのことを賢吾に知られてはいけないという、純粋な恐怖だ。秦の行動をあれこれ推測するには、今は体の状態が最悪すぎた。
「鷹津は、組が動いてハメなきゃいけないぐらいには、刑事としてはそこそこ有能だ。が、性格に問題がありすぎる。あのキレた男が、職務なんて屁とも思ってないと知ったところで、俺は驚かないな。今は……私怨で動いているんだろう。俺を、どうやって痛い目に遭わせてやろうかって考えながら」
 やはり、鷹津をハメた張本人は、賢吾なのだ。ヤクザの言うことすべてを鵜呑みにする気はないが、和彦が受けた印象からして、鷹津を悪党と言った賢吾の表現は間違っていないだろう。
 悪党同士――蛇蝎が互いに睨み合う状況に、気づかないうちに和彦は巻き込まれてしまったのだ。
 ため息をつくと、和彦自身の唾液で濡れた指先が唇に擦りつけられる。人が動けないのをいいことに、賢吾は和彦で遊んでいるようだ。
「……危ないんじゃ、ないか。あんたの身が。あの男、ひどく嫌な感じがする……」
「光栄だな。心配してくれているのか?」
「あんな男につきまとわれたら、ぼくが迷惑なんだ。ヤクザより嫌な男に、初めて会った」
 短く笑い声を洩らした賢吾に、軽く唇を塞がれる。少し間を置いてまた唇を塞がれたとき、口移しで水を与えられた。喉の渇きを自覚した和彦は、素直に喉を鳴らして飲む。
「――ヤバイ男がウロウロしていることだし、いっそのこと、先生をここに閉じ込めておこうか」
 本気とも冗談ともつかないことを賢吾が洩らし、和彦はわずかに目を開ける。眼前に、大蛇を潜ませた怖い目があった。
「先生は、どんな男だろうが関係なく引き寄せるから、危なっかしくていけねー。一人寄ってきたと思えば、すぐに、二人、三人と――」
 まさか、秦とのことを知られたのだろうかと、内心動揺しながらも、このときばかりは強烈な眩暈が和彦を救う。
 気持ち悪さにきつく目を閉じると、瞼に賢吾の唇が押し当てられ、思わず吐息を洩らす。
「……蛇蝎の片割れは、あんた狙いだろ。ぼくのせいにするな」
「酔っていても、減らず口は健在だな」
 ここで和彦に限界が訪れる。一度は浮上した意識だが、賢吾に与えられた情報が頭の中で散らばっていき、何も考えられない。秦に飲まされた安定剤の効き目は抜群だ。
 眠い、と小声で訴えると、怖いほど優しい声で賢吾が応じた。
「ここは安全だ。しっかり眠ればいい。先生を守るための獣が、何匹も揃ってるからな」
 思わず笑ってしまった和彦だが、顔の筋肉がきちんと動いたか、自信はなかった。


 障子を通して、朱色を帯びた陽射しが部屋に差し込んでいるのを、薄目を開いた和彦は初めて知る。眠り込んでいるうちに、夕方になったのだ。
 もうそろそろ体を起こせそうだと思った次の瞬間、ある気配を感じて体を強張らせる。部屋にいるのは、和彦だけではなかった。いつの間にか足元に、人の姿があったのだ。
 反射的に体を起こそうとした和彦だが、獣のように飛びかかられるほうが早かった。布団の上に押さえつけられながら、覆い被さってきた相手の顔を見上げる。
 和彦としては、安堵の吐息を洩らせばいいのか、呆れてため息をつけばいいのか、微妙な相手だった。
 賢吾は、自宅の安全性を過信していたようだ。和彦を守るための獣が何匹も揃っていると言っていたが、獣の中に、一番手がかかる〈子犬〉を含めて考えていたらしい。
「……お前は、ぼくが昼寝を楽しんでいるように見えたのか? なんだ、この態勢は」
 滅多にないほど真剣な顔をした千尋が、犬っころが甘えてくるように肩に顔をすり寄せてきた。
「先生、全然起きないから、心配で離れられなかったんだ」
「ただ、酒を飲んでひっくり返って、眠っていただけだ」
「酔っ払って気を失ったにしては、様子がおかしいって、オヤジと三田村が話してたよ」
 さすがに、筋金入りのヤクザ二人の目を誤魔化せたと考えるのは、甘かったらしい。
 和彦は、秦に飲まされたものが安定剤だけではなかったことを思い出し、小さく身震いする。内奥に飲み込まされたローターの振動が、一瞬蘇っていた。
「先生?」
 怯むほど強い光を放つ目が、間近から顔を覗き込んでくる。和彦は障子のほうに視線を向けながら、平静を装った。
「どうして、急いで酒を飲む事態になったのかは、聞いたか?」
「――あいつに脅されて、連れていかれそうになったんだろ」
 そう言った千尋の言葉からは、抑えきれない怒りが迸り出ているようだ。
「あいつが先生に怖い思いをさせたのは、これで二度目だ。……俺だけ狙えばいいのに、あいつ、先生にも目をつけた」
「……脅されたのは確かだけど、気を鎮めるために酒を飲んでひっくり返ったのは、ぼくのせいだ。悪かったな、鷹津という刑事の件だけでも大変なのに、余計な心配をかけて」
 子供のような仕種で頭を振った千尋の顔を、和彦はまじまじと見上げる。父親は、蛇蝎云々と話しながら悠然としていたのに、一方の息子は、牙を剥いていきり立ったかと思えば、すでにもう途方に暮れた犬っころのような顔をしている。
 和彦は、片腕で千尋の頭を抱き締めた。
「そんな顔するな。お前は、キャンキャン吠えて怒っているほうが、こっちも安心する」
「なんだよ、それ……」
 ふて腐れたように言いながら千尋が、和彦の体にかかったタオルケットを押し退けてしまう。熱い体にきつく抱き締められ、その生々しさに身じろぐ。安定剤の効き目はもう消えたようだが、秦の淫らな愛撫の余韻は、厄介な疼きとなって体内に留まったままなのだ。
「千尋……、ぼくについてきていた組員の二人はどうなった?」
 千尋の気を逸らすためというより、本当に気になっていたことを問いかける。
「大丈夫だよ。ただ、職質されただけ。多分、先生と引き合わせないよう足止めしたんだ」
「……つまり本当に、鷹津って刑事はぼくを連れて行くつもりだったのか」
 秦がやった行為はともかく、あの場は秦に救われたということだ。
「――先生、俺も聞きたいことがあるんだけど」
 息もかかるほど間近に顔を寄せ、千尋が言う。和彦はその千尋の下から抜け出そうとしたが、がっちり押さえ込まれているので動けない。
「なんだ……」
「先生を助けた秦って奴、何者?」
「……三田村から聞かなかったのか」
「総和会の中嶋さんの友人。クラブ経営者。――最近、先生と仲良し」
 最後の言葉を告げるときだけ、千尋の眼差しが険しくなる。自分の知らないところであれこれ邪推されて探られるのも嫌だが、直情型の千尋らしく真っ向から問われるのも、息が詰まる気持ちだ。
 和彦は心臓の鼓動が速くなるのを感じ、動揺を懸命に押し殺す。
「クリニックのインテリアのことで、相談に乗ってもらっているんだ」
「ものすごく、イイ男なんだって?」
「三田村から聞き出したな……」
「そこでなんで、自発的に三田村が教えてくれたと考えないかな、先生」
「キャラクターの違いというものを、一度じっくり考えろ――」
 不意打ちで千尋に唇を塞がれ、強引に下着を引き下ろされる。秦に体に触れられたことを悟られると思い、和彦は必死に身を捩ろうとするが、ムキになったようにのしかかられ、下着が足から抜き取られる。
「千尋っ……」
「甘やかしてよ、先生。今ここで、俺のことを目一杯、甘やかして」
 子供のようにせがみながらも、千尋は野性味を湛えた大人の男の顔をしている。
 ため息をついた和彦は、千尋の頬を手荒く撫でてやる。
「ぼくのことを、心配してくれたんだな」
「当たり前だろ。先生は、俺にとって一番大事な人だ」
「……心配してくれるのはありがたいが、のしかかってきて、甘やかせ、と迫ってくるのはどうなんだ」
 こう話している間にも、和彦の体はうつ伏せにされ、腰を抱え上げられる。唾液で濡らされた指に内奥の入り口をまさぐられたかと思うと、肉を掻き分けるようにして挿入された。和彦は唇を噛み、身を強張らせる。
 内奥が、淫らに蠢いているのは自分でもわかった。ローターと秦の指で中途半端に官能を刺激され、秦の欲望によってこじ開けられかけた場所は、ずっと肉の疼きを鎮めたがっていたのだ。
「千尋、今は、嫌だ――……」
「でも、先生の中、すごく発情してる。俺の指に、吸い付いてきてる」
 ねっとりと撫で回すように内奥で指が動かされると、たまらず呻き声を洩らす。もっと深い場所を、逞しいもので押し開いてほしいと体が要求していた。
 和彦の無言の求めがわかったように、背後で忙しい衣擦れの音がしたあと、千尋の熱く滾ったものが擦りつけられた。
「あっ、ああっ」
 硬く逞しいものが、まるで歓喜するかのように収縮を繰り返す内奥に挿入されていく。それでなくても脆くなっている襞と粘膜を力強く擦り上げられ、和彦は腰を震わせながら、喉を鳴らす。満たされる感触が、たまらなくよかった。
 軽く腰を突き上げた千尋が大きく息を吐き出し、和彦の尻に両手をかける。欲望を呑み込んでいく様子をよく見ようとしているのか、双丘を割り開かれていた。
「はっ……、あぅっ、んっ、んっ……」
「先生って、酒に酔ったぐらいで、ここまで乱れる人だったっけ? それとも、寝起きだから? 怖い思いをしたあとだと、いつも以上に欲しがりになるのかな」
 言葉で煽っているのか、本気で知りたがっているのか、そんなことを呟きながらも、千尋はしっかりと腰を進め、容赦なく和彦を攻め立ててくる。
「あっ、あっ、あうっ」
 枕を跳ね除け、敷き布団の端を握り締めながら、背後からの千尋の果敢な攻めに耐える。
 ぐうっと内奥深くにまで欲望を埋め込んだ千尋が、一度律動を止め、和彦の両足の間に手を差し込んでくる。中からの刺激によって和彦のものは、はしたなく透明なしずくを滴らせながら、反り返って震えていた。
 もっと反応しろといわんばかりに扱かれ、和彦は懸命に嬌声を堪える。和彦のその反応に、千尋はひどく興奮したようだった。緩やかに腰が動かされ、狙い澄ましたように最奥を突かれる。
 室内に、二人の妖しい息遣いと、湿った淫靡な音が響いていた。
 そこに突然、障子の向こうから声がかけられた。
「――先生、起きているか」
 三田村だった。ビクリと体を震わせた和彦は、いまさら隠すようなことではないのに、何も答えられなかった。いくら声を取り繕ったところで、必ず三田村に今の状況を悟られる。
 和彦の動揺を察したのか、いきなり千尋が大胆に腰を使い、和彦の体は激しく前後に揺さぶられる。声を押し殺せなかった。
「ああっ、うっ、うあっ、ああっ――」
「いいよ、先生。ものすごく、中が締まってる。俺が突くたびに、ビクビク痙攣して、悦んでる。俺だけじゃなくオヤジや三田村にも、同じことされたら、こんなふうに反応してるんだよね」
 腰を抱き寄せられ、丹念に内奥深くを突かれると、息も満足にできないほど強烈な快感が迸り出てくるようだった。それに、あえて外の三田村に聞かせるような言葉に、ひどく官能を刺激される。
「千、尋……。千尋、もう、もた、ない……」
「うん、俺も、もう限界」
 そう応じた千尋が、力強い律動を繰り返し、和彦は翻弄される。なんとか自らの手で扱いて絶頂に達すると、それを待っていたように千尋の動きが速くなり、限界まで高ぶった欲望が一息に内奥から引き抜かれる。
 一応、和彦の体の負担を考えてくれたらしく、千尋も最後の瞬間は自分の手の中で迎えたようだ。
 剥ぎ取られた浴衣で後始末をされ、和彦は仰向けにされる。のしかかってきた熱い体を両腕で抱き締めてやると、千尋は満足そうに吐息を洩らした。和彦は、千尋のその反応にほっとする。
 甘やかされたい、大事にされたい、愛されたい。臆面もなく千尋からぶつけられるそれらの感情を、和彦は大事に思っている。ぶつけてくれる限りは、一欠片も余すことなく受け止めて、自分の中に残しておいてやりたいとも。
 そんな気持ちになれる千尋とのセックスを、和彦はいとおしんでいる。
 だが――、今日は少し文句を言いたかった。
「……お前は、心配の仕方が間違っている。いや、違うな。心配の解消の仕方が、間違っているんだ」
 いつの間にか、障子の向こうの三田村の気配は消えており、ほっとする。
 行為の最中の嬌声を聞かれることに諦めはついているが、行為のあとの会話――睦言ともいえるのかもしれないが――を聞かれるのは、苦痛だ。和彦の体は三人の男たちで共有されているが、睦言だけは、それぞれの相手に独占してもらいたいという傲慢な気持ちが、心のどこかにあった。
 人が真剣に話しているというのに、そんな和彦の唇に軽いキスを落とした千尋は、悪びれた様子もなくきっぱりと言った。
「俺、難しいことわかんない」
「……殴るぞ」
「怖いなー、先生」
 千尋が笑い声を洩らして肩に額をすり寄せてきて、和彦は殴る代わりに、手荒く千尋の髪を撫でてやる。
「――心配かけて悪かった」
「うん。気をつけて。……本当なら先生は、危ない目に遭わなくて済む世界で生きてた人なんだから。だから、こちら側の物騒な世界にいる先生を守るのは、俺たちの役目だし、責任だよ。俺だけじゃなくてさ、オヤジも三田村も、顔には出さないけど、すごく不甲斐ない思いをしてる。あと、先生に対して申し訳ないとも」
「似合わないな、ヤクザにそんな殊勝さは」
「許してやってよ。だって、先生が大事でたまらないからさ、俺も、オヤジたちも」
 こんな言葉で情に訴えかけてくるのも、ヤクザの手口なのだろうかと思いながら、その手口に和彦はまんまと乗せられていた。
「……ぼくだけじゃなくて、お前も気をつけろよ。お前に何かあるほうが、組長にとっても、組にとっても痛手だ。――ぼくも、つらい」
 千尋が小さく笑い声を洩らし、強くしがみついてくる。和彦はそんな千尋をしっかりと抱き締めてやった。


 夜に突然、部屋にやってきた和彦を見ても、賢吾は驚いた様子もなく、それどころか余裕たっぷりの笑みを浮かべた。
「――長嶺組組長のところに夜這いにくるなんて、大胆だな、先生」
 浴衣姿で座卓につき、分厚い本を開いている賢吾は、見惚れるほど渋い紳士そのものだ。だが、口から出た言葉は、紳士からは程遠い。
 四十半ばの男が言うようなことかと思い、和彦は顔をしかめる。賢吾にとっては満足のいく反応だったらしく、機嫌よさそうに手招きされ、和彦は障子を閉めた。
 賢吾の部屋は、一階の奥まった場所にある。書斎と寝室として二部屋を使っているが、壁や襖で区切られているわけではないので、広くて開放感がある。ただし、せっかくの立派な中庭は見えない。
 主の身を守ることに重点が置かれているこの家は、賢吾の部屋に行くまでに、組員が詰めた部屋の前を通り、さらに、頑丈なドアを開けてもらわなくてはならないのだ。和彦も、できることなら足を踏み入れたくない一角だ。
「今夜はもう、とっくに眠ったのかと思った。いろいろありすぎて、疲れただろ。しかも、うちのバカ息子が、心配しすぎて暴走した挙げ句に、その先生に無茶をやらかした」
 傍らに座った和彦に、賢吾がそう話しかけてきながら、片手を握り締めてくる。和彦はちらりと隣の部屋に視線を向けたが、すでに寝床は整えられていた。賢吾もそろそろ休むところだったのかもしれない。
「千尋の無茶は、いつものことだ。ぼくも慣れた。……暴走しているようで、きちんと加減を知っていて、ぼくを傷つけることも、痛い思いをさせることもないし」
「俺の躾のおかげか?」
 賢吾が意味ありげに笑いかけてきたので、軽く睨みつけてやった。
「――それで、どうかしたのか、先生」
「大したことじゃない……と、ぼくには判断ができないから、寝る前に一応報告しておこうと思ったんだ」
 昼間、薬のせいで嫌というほど眠ったせいで、夜になってからはなかなか寝付けなかったのだ。そして、何度も寝返りを打ちながらあれこれ考えているうちに、和彦はあることを思い出した。
「……携帯電話を落とした。鷹津という刑事の前で。多分――」
「奴なら、嬉々として拾っただろうな」
 自分のミスを責められた気がして、和彦は唇を噛む。すると、握られた手を引っ張られ、賢吾に抱き寄せられた。
「そんな顔するな。先生は何も悪くない。三田村に、秦という男に連絡を取らせて、詳しい状況は把握した」
 賢吾の言葉に、和彦は身を強張らせる。秦にされたことを意識して頭から追い払おうとするが、千尋との濃厚な行為の余韻も加わり、煩悶したくなるような疼きを呼び起こしてしまう。
 和彦のこの反応は、秦が望んでいるものだろう。罪悪感と恐怖から、すべてを賢吾に話すことなど不可能だった。
「あの場は、逃げ出して正解だ。下手に騒動になったら、それこそ公務執行妨害だなんだと難癖つけられて、警察に引っ張られる口実を与えるだけだ」
 話しながら賢吾の指にうなじをくすぐられ、髪の付け根を刺激される。和彦が小さく身震いすると、賢吾の唇が耳に押し当てられた。
「……鷹津に近づくな。あいつは、俺相手に報復したくてウズウズしている。そこに、先生みたいな美味そうな餌がふらふらしていたら――」
 耳朶にゆっくりと歯が立てられ、和彦は呻き声を洩らす。痛みと、ゾクゾクするような疼きが背筋を駆け抜けていた。
「喰らいつかれるぞ。先生がひどい目に遭わされると、さすがの俺も牙を剥かないわけにはいかなくなるからな。ヤクザと警察の円満な関係のためにも、先生はしっかり護衛に守られてくれ」
 最初に自分に喰らいつき、ひどい目に遭わせてきたのは誰だと思いながらも、和彦は吐息を洩らすように応じた。
「ああ……」
「携帯は諦めろ。先生の携帯なら、見られて困るような人間の番号や、メールはないだろ」
「長嶺組組長直通の携帯番号を登録してある。あと、その息子の携帯番号も」
「だったら、番号を変更するついでに、三人仲良く、同じ携帯に買い換えるか?」
 和彦は本気で呆れてため息をつき、その反応がおもしろかったのか、賢吾は声を洩らして笑う。そして、両腕で抱き締められた。この腕の強さと熱さは、体を求めてくるときの前触れだ。
「今夜は――」
「何もしない。ただ、同じ布団で寝るだけだ」
 間近から覗き込まれると、大蛇を潜ませた目の威力に逆らえない。和彦は賢吾の唇を軽く吸ってから頷いた。









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