と束縛と


- 第7話(3) -


 電卓を叩いた和彦は、表示された数字を見て、一声低く唸る。
 クリニックに入れる医療機器・備品は決めたのだが、医療 機器に関しては、どの専門商社と取引するかという点で、頭を悩ませていた。いままで医療機器の価格など、聞いたところで他人事だったのだが、いざ自分が導入するとなると、やはり臆してしまう。例え、ヤクザの金を使うにしても。
 やはり商社間の入札で、今後のメンテナンスまで含めた価格を決めてしまうほうが、結果として安くつくかもしれない。
 コンサルタントに勧められながら、大まかな金額を計算してはためらっていた和彦だが、とうとう覚悟を決める。
 入札の話を進めてもらうよう連絡するため、子機に手を伸ばそうとしたとき、突然、電話が鳴った。驚くと同時に、反射的に子機を取り上げる。
「もしもし――」
 電話は、長嶺組の組員からだった。
『先生、至急、診てもらいたい人間がいます』
 前置きなしの言葉に、和彦の全身にビリッと緊張感が駆け抜ける。今の境遇になってから、すでに組関係者を何人か診ているが、それでもこの感覚は消えない。
 医者として患者の命を預かるという意味での緊張感はもちろんだが、和彦の場合、美容外科専門医として何年も過ごしてきているため、自分の手に負える患者であるのだろうかと身構えてしまう。
 指導医も先輩もいない中、長嶺組に飼われる医者としての和彦は、常に孤独で心細いのだ。
「至急ということは、ひどい状態なのか? 今の脈拍と呼吸が知りたい」
 話しながら和彦は書斎を出ると、着替えを準備する。腹を刺されて大量に出血していると聞かされ、思わず顔をしかめていた。
「手術の準備を整えておいてくれ。それと、血液も。型はわかっているんだな?」
『大丈夫です』
「ぼくが行くまで、絶対に目を離さないように。異変があれば、すぐに連絡してくれ――と、今は携帯電話がないんだ」
『今迎えに向かっている者の携帯に連絡します。それまでは、この電話で』
 わかった、と応じてから、一旦電話を切る。
 平日の午前中とは思えないほど、のんびりと過ごしていた和彦だが、このときから状況は一変する。
 慌ただしく出かける準備を整えると、クロゼットから、中身の詰まったバッグを取り出す。出かけた先で手術を手がけるようになって、要領もわかってきた。ある程度必要なものは、自分で持ち込むということだ。
 もう一度電話がかかってきて、容態を聞いてから指示を与えていると、迎えの組員がやってくる。まるで小旅行にでも出かけるように装いながら、和彦は車に乗り込んだ。


 長嶺組は、ビルのテナントやマンション・アパートの部屋を、常時いくつか契約している。何かの商売をしているよう装う必要があったり、誰かを匿うときのために、そうやって物件を押さえているのだ。もちろん名義は、組とは関係ない第三者のものを使っている。あくまで、合法的に。
 そのマンションの一室を、クリニックが開業するまでの簡易手術室としたのだそうだ。和彦が、長嶺組に初めて医者として協力したとき、手術できる場所ではないと、さんざん文句を言ったのがきっかけなのだと聞かされた。
 それに、何かあるたびに総和会に力を借りる事態を、賢吾も苦々しく感じていたらしい。
 こうした部屋があることは、長嶺組の一部の人間しか知らない。総和会にも報告していないということで、賢吾なりに考えがあるようだ。
 だからこそ、ここで和彦の手術を受けられるのは、長嶺組の人間か、その長嶺組の傘下の組織に所属する人間だけだ。
 ただ、手術室とはいっても、設備は病院に比べれば大きく劣る。なおかつ、ここに運び込まれるということは、命に関わる怪我をしているということなのだ。できることなら和彦は、即座に病院に行けと忠告したかった。
 スリッパに履き替えた和彦がリビングに行くと、五人の男たちが思い思いの姿勢で待機していた。その中の二人の男の顔に、見覚えがあった。
 和彦が口を開く前に、その男たちが深々と頭を下げる。
「わざわざお越しいただき、ありがとうございます」
「これが仕事なのでかまいませんが……、どうして、長嶺組の執行部のあなた方まで、ここに?」
 長嶺組の運営方針を決定する幹部の集まりが執行部で、その方針は、長嶺組だけでなく、傘下の組織にまで通達されるほどの強制力を持つ。賢吾とは頻繁に顔を合わせている和彦でも、執行部の幹部たちとは、会う機会は滅多にない。
「――先生に手術していただく人間が、現在、執行部が介入している事案の当事者なんです」
 Tシャツの上からすっぽりと手術衣を着込み、帽子を被った和彦は、眉をひそめる。回りくどい言い方に、理解するのに少々時間がかかり、考え込みながらも手を洗って消毒を済ませる。
「つまり、ぼくが今すぐ事情を知る必要はないということですね」
「はい。早急に手術に取り掛かっていただけるとありがたいです」
 必要がない限り、ヤクザの事情に立ち入らない姿勢を保っている和彦としては、こんな会話を交わしても疎外感に襲われることはない。
 ペーパータオルで手を拭いてラテックス手袋をしてから、奥の〈手術室〉へと向かう。もとはベッドルームなのだが、その名残りを留めているものはなかった。
 広めの部屋の中央に手術台が置かれ、傍らには、移動式の照明器具や、古いタイプながらも手術に必要な機械や道具が一式揃えられている。床や壁一面にはビニールが貼られ、手術台の周囲には、足が滑らないようラグが敷かれていた。それ以外には、何もない部屋だ。
 あとは、どういう経緯で長嶺組と関わりを持つことになったのか知らないが、これまでも和彦の手術を手伝ってくれた中年女性二人がおり、一人は点滴を取り替え、もう一人はバイタルサインをチェックしていた。おそらく元看護師か、本業の合間の危険なアルバイトといったところだ。個々の事情にも、和彦は立ち入るつもりはなかった。
 手術台の上に横たわった男の顔色は蒼白で、腹部に当てられたガーゼは血に染まっている。
 ドアを閉めようとした和彦に、幹部の一人が声をかけてきた。
「組長から伝言を言付かっています」
「なんと?」
「――可能な限り死なせるな、とのことです」
 賢吾なら言いかねない台詞だとひどく納得する一方で、あの男がここまで言うのなら、患者はなんらかの価値がある人物なのだろう。
 努力はしてみると応じた和彦はマスクをする。外からドアを閉めてもらい、ベッドに歩み寄った。
 間近で血塗れの傷口を覗き込んでから、ひとまず血を洗う。その傍ら、輸血用の血液をどんどん準備するよう指示を出す。足元で山になっているガーゼの量からして、出血がひどすぎる。
「……他人事だと思って、簡単に言ってくれる……」
 さきほどの賢吾からの言付けを思い返し、和彦は口中で毒づく。
 腹を刃物で刺されたという説明を受けたのだが、正確には、腹を裂かれていた。刺した挙げ句に、明確な殺意を持って刃物を動かしたようだ。臓器の損傷がどれぐらいのものなのか想像もつかず、大きく開腹して確認するしかない。
 麻酔医がいないと、手術を最後まで終えられるかすら怪しいと思いながら、和彦は注射器を手にする。額には、じっとりと嫌な汗が滲んでいた。


 患者の脈拍が落ちてきたことに焦りを覚えながら、和彦は裂けた腸管を切除していく。一度の開腹で必要な処置をすべて行うのは無理だと判断してしまうと、手術の方針を決めるのは早い。
 和彦は温めた生理食塩水で慎重に傷口の洗浄を行いながら、とにかく出血と、腹部の汚染に気をつけて処置を急ぐ。
 大腸が傷ついているのを見たときは、さすがにヒヤリとしたが、縫合手術で問題はなさそうだった。
 今は応急手当として、傷ついた臓器に、腹膜を当ててやるほうが先だ。
 血塗れのガーゼを足元に落とし、和彦が腹部に手を突っ込もうとしたとき、突然、インターホンの音が鳴り響いた。肩を大きく震わせ、反射的に顔を上げる。ドアの向こうから、組員たちの慌ただしい気配が伝わってきた。誰かがこの部屋を訪れるという事態は、予想外のことらしい。
 こちらが気にするまでもなく、誰かが上手く対処してくれるだろうと思ったが、和彦のこの予想は裏切られることになる。
 ドアの向こうの落ち着かない空気に集中力を奪われながらも、慎重にメスを動かしていたところ、控えめにドアがノックされ、和彦と同じ手術着を着込んだ組員が入ってきた。手術中、和彦が頼んだものをたびたび運び込んでいるため、こんな格好をしているのだ。
「先生、困ったことになりました」
 今以上に困ったことがまだあるのかと、うんざりしながら和彦はメスを置く。かろうじて、患者の今のバイタルサインは安定を保っているが、次の瞬間にはどうなるかわからない、油断できない状態だ。
「なんだ?」
「――刑事が、外に来ています」
 このときの和彦は、驚きすぎて、かえって反応できなかった。その反応を落ち着いていると取ったのか、組員が早口で説明を続ける。
「先生の知り合いで、渡したいものがあると言い張っているんです。そもそも、今ここに先生がいることは、組員でも一部の者しか知りません。多分、先生を乗せた車が尾行されたんだと思います。相手が本当に刑事かというのも怪しいですが、ここに長嶺の人間がいるとわかったうえで、先生と会わせろと言っているのだとしたら、厄介です。もし刑事なら、下手をしたら踏み込まれるおそれもあります」
 あることが脳裏を過り、和彦は尋ねずにはいられなかった。
「ドアの向こうにどんな男がいるか、レンズを覗いてみたか?」
「大柄で、濃い顔をした男です。歳は、四十になるかならないかぐらいで。それに、レンズの死角に入っていてよく見えませんが、いるのは一人ではないようです」
 それを聞いて和彦は、乱暴に息を吐き出す。忌々しいが、ここに押しかけてきた男が誰なのか、わかってしまった。そして、決して無視して済む相手ではないことも。
 腹を開いたままの患者を見つめてから、和彦は覚悟を決める。
 バイタルサインを一定に保つことだけに集中するよう助手の女性二人に指示を与えると、血塗れのラテックス手袋を捨ててから、手術着とスリッパを脱いで部屋を出る。
 気色ばんだり、浮き足立っている組員たちに対して、すべて自分に任せるよう開口一番に言い放った和彦は、速やかに指示を与えた。
 玄関に並ぶ靴を片付けさせてから、一人の組員を残して全員、空いている部屋へと移動させたのだ。何があっても物音を立てないよう言っておくことも忘れない。
「あんたは、ただぼくの後ろにいて、話を合わせればいい。余計なことは絶対言うな」
 インターホンを通して、〈自称・刑事〉という男と話した組員にそう言いつけてから、和彦はやっと玄関に向かう。慌ただしく指示を出している間も、まるで嫌がらせのようにインターホンは鳴りっぱなしだったのだ。
 乱暴にドアを開け、目の前に立つポロシャツ姿の男を認識した瞬間、和彦の全身を不快さが駆け抜ける。
「――……やっぱり、あんただったか」
 嫌悪感を隠そうともしない和彦に対して、本物の刑事である鷹津はニヤリと笑いかけてくる。相変わらず無精ひげを生やし、長めの髪をオールバックにしており、正体を知った今でも、刑事には見えない。鷹津を観察していて、ドアの陰に立つ二人の男の存在に気づいたが、彼らもやはり刑事なのだろう。
 動揺は、鷹津に対する嫌悪感が押し殺してくれる。それほど和彦は、鷹津という刑事が苦手――というより、生理的に受け付けられない。理屈を必要としないほど、嫌いなのだ。
「何か用でしょうか、刑事さん」
 素っ気なく問いかけた和彦の目の前に、携帯電話が突き出される。和彦が落としたものだ。思わず鷹津を睨みつけると、笑って言われた。
「わざわざ届けてやったのに、いらないのか?」
 仕方なく受け取ろうとしたが、寸前のところで躱された。このときにはもう、鷹津は笑みを消し、恫喝するような鋭い表情となっていた。
「ここで何をしている?」
 今度は、和彦が笑みを浮かべる番だった。背後の組員をちらりと振り返ってから答える。
「〈友人〉と、お茶を飲みながら談笑していたんですよ」
「ヤクザのお友達か?」
「さあ。友人は友人ですよ。……最近の警察はサービスがいいですね。携帯電話をわざわざ、友人とお茶を飲んでいる場所にまで届けてくれるなんて」
 和彦が手を差し出すと、やっと鷹津は、てのひらに携帯電話をのせる。が、携帯電話ごと手を握り締められていた。鷹津の体つきそのものの、大きくごつごつとした硬い手だ。
「――こんなところで、ヤクザのオンナとヤクザが何をしている? 只事じゃないはずだ。長嶺組の組員が、わざわざお前を迎えに来て、ここに連れてきたんだ。中で、何かしているはずだ」
「だからお茶を――」
「ふざけるなっ」
 鷹津が大声を上げ、鉄製のドアを拳で殴りつける。その迫力に身が竦んだ和彦だが、意地でも表情は動かさなかった。鷹津の手を乱暴に振り払い、携帯電話を取り戻す。
 大きく息を吐き出し、あくまで落ち着いた口調で応じた。
「友人に迎えに来てもらって、お茶を飲みながら話していたんですよ。それは違うと言い張るなら、何か証拠でもあるんですか」
「中を見せろ」
「かまいませんよ」
 和彦の返事に、背後で組員が小声で呼びかけてきた。
「先生、それは――」
 ニヤリと笑った鷹津がさっそく靴を脱ごうとしたが、すかさず和彦は、片手を突き出した。
「ぼくは医者なんで詳しくはないですが、テレビでよく言ってますよね。『令状を見せろ』って台詞」
 射殺されそうな眼差しを鷹津から向けられた。普段の和彦であれば怯むどころか、足が震えるだろうが、今は違う。嫌悪感しか与えてこない鷹津に一撃を与えられたと、ただ確信していた。
 今度は和彦が、ニヤリと笑う番だった。ここまでの慇懃な口調をかなぐり捨て、挑発的に言い放つ。
「その様子だと、あんたにも有効みたいだな、この手は。――なら、さっそく見せてもらおうか。一般市民がお茶を飲んでいるところに押しかけてきて、部屋を見せろと言い張る根拠ってやつを」
「一般市民? ヤクザのオンナが、人並みのこと言うな」
「そのことを責めるなら、やっぱり根拠が必要だ。ヤクザと寝ることは犯罪だという、根拠が。一般市民の住居に踏み込むのに、刑事の道徳心を振りかざすだけでどうにかなると思ってるのか、あんた」
 和彦と鷹津は睨み合う。先日、秦と一緒にいるところを急襲されたときは、この得体の知れない男相手にどう対処すればいいのかわからなかった。何より、一般人である秦に迷惑をかけられないという思いがあった。
 しかし今の和彦は、人一人の命をこの手に預かっている最中だ。だからこそ自分の身を守らなければならない。皮肉だが、和彦のこの姿勢は、部屋で身を潜めている組員たちを守ることにもなる。
 冷静に考えてみれば、この場で鷹津に救いを求めれば、何もかも終わるはずなのだ。どれだけ嫌悪していようが、刑事という鷹津の立場は強力だ。和彦を確実に、長嶺組から切り離してくれるだろう。だが、そんなことはできないと、自分でわかっていた。
 和彦は、自分が置かれた境遇に愛着にも似た感情を抱き始め、それを簡単には投げ出せない。
「どうしても入りたいと言い張るなら、警察と弁護士立ち会いの下でだ。ここに警察はいる、なんて言うなよ。まともな警察を呼ぶ。……もっとも、まともな警察なら、ぼくじゃなく、あんたを排除すると思うが」
 どうする、と低く問いかけると、鷹津は返事をしないまま、ただ和彦を見つめてくる。身を潜めた大蛇のように、ただ静かでひんやりとした賢吾の目とは違い、今日の鷹津の目はドロドロとした感情で澱み、熱を孕んでいる。燃え上がることのない、燻り続けるだけの厄介な熱だ。
 患者の容態が気になるが、焦りを読み取られないよう、和彦は必死に強気を装う。すると鷹津は唇を歪めた。
「――今日は、肝が据わった目をしてるな。ヤクザのオンナらしくない、ムカつく目だ」
「なんとでも言ってくれ」
 ここで鷹津が、脱ぎかけていた靴を履き直す。そして和彦に笑いかけてきた。
「俺の用は、お前に携帯電話を届けにきただけだからな。友人同士、楽しくお茶を飲んでいたところを邪魔して悪かった」
「いいえ。ご親切にありがとうございました」
 たっぷりの皮肉を込めた会話を交わし、このまま鷹津は玄関を出ていくかと思ったが、ふと何かを思い出したように振り返った。思わず舌打ちしそうになった和彦だが、寸前で堪える。
「まだ何か?」
「携帯電話を届けてやったんだから、礼に茶の一杯ぐらい飲ませてもらえないかと思ったんだ。なんなら、ここで飲んでやってもいい」
 和彦は、鷹津を睨みつける。さっさと帰れと追い返そうとしたところで、のらりくらりと躱されるだけだと、一瞬にして悟った。
 どうするべきか――。そう考えたのは、わずかな間だった。
「お茶なんかより、もっといいものがある」
 和彦の提案に、鷹津は薄笑いを浮かべた。
「興味があるな。なんだ」
「――ヤクザのオンナからのキス」
 鷹津の表情が凍りついたのを、和彦は見逃さなかった。畳み掛けるように言葉を続ける。
「滅多にもらえないものだろ。男も女も関係なく、あんたは誰からも好かれそうにないからな。ぼくからの〈好意〉だ。受け取ってくれるだろ?」
 鷹津は、何も言わなかった。唇を引き結び、憎々しげに和彦を睨みつけて玄関を出ていく。和彦はドアがゆっくりと閉まるのを見届けてから、即座に鍵をかける。
 鷹津がまたやってくるのではないかという危惧もあるが、悠長に身構えている時間はなかった。
 この先の対応は、長嶺組の人間で決めてくれと言い置いて、急いで手を洗い直してから患者の元に戻る。
 自分の言動が鷹津を刺激したのは確実で、どんな報復があるのだろうかと怖くもあるのだが、今は、手術に集中する。それが和彦の役目で、面倒事の始末は、ヤクザの役目だ。




 和彦は十日ほど、自宅に戻れない日々が続いた。一時も目が離せない患者に付き添い、容態が落ち着くのを待ってから、早急に二度目の手術を行う必要があったからだ。
 ヤクザのオンナなどになってから、もっとも禁欲的な日々だったかもしれない。患者の傍らにいる間、とてもそんな気分にはならなかったし、何より、医療行為以外に使う体力が残っていなかった。
 賢吾と千尋、それに三田村が部屋を訪れなかったのは、幸いといえるだろう。
 床に敷いたマットの上で寝返りを打った和彦は、少しも疲れが取れていないのを自覚しつつ、仕方なく体を起こす。最初から仮眠程度のつもりで横になったのだ。
 部屋を出ると、組員二人がダイニングで雑魚寝をしていた。和彦が外に出られないため、ここでの生活や治療に必要なものを彼らに頼んで運び込んでもらっているが、本来の仕事は、護衛だ。マンションの周囲でも、長嶺組の組員たちが交代で見張っているらしい。
 恐れているのは他の組の襲撃などではなく、警察――というより、鷹津だ。令状をでっち上げて踏み込んでくる事態を想定しているのだ。
 患者を動かせないため、別の部屋に移動するわけにもいかず、和彦だけでなく、長嶺組にとっても緊張感の高い日々が続いているようだ。
 顔を洗って戻ってくると、もう一人の組員がテーブルの上にせっせと朝食を並べていた。目が合うと、いかつい顔に似合わない笑顔とともに、聞きもしないのに教えてくれた。
「いつもの、組長からの差し入れです」
 どこかのレストランで作らせた朝食を、毎朝賢吾はこの部屋に運び込ませている。和彦の体調に配慮しているらしい。朝からこんなに食べられないという訴えは、当然のように無視されていた。
 朝食をとる前に和彦は、患者の様子を診る。二度目の手術も終え、容態は安定している。ただ、固形物を食べられるようになるには、しばらく時間はかかるだろう。刃物で裂かれた臓器をあちこち縫い合わせているため、当分はベッドの上での生活となる。
 傷が癒えても、日常生活ではかなり苦労するだろうが、少なくとも一命は取り留めた。この結果に賢吾は満足したようだ。
 点滴や、傷口のガーゼは組員によってすでに交換されている。和彦の言いつけはしっかり守られており、患者の容態も落ち着いているため、和彦がもう付きっきりで側にいる必要はないだろう。
 やっと外に出られると思った途端、気が抜けたのか、和彦は久しぶりに空腹を認識できた。


 患者に異変が起きたらすぐに連絡してくるよう、何度も念を押して和彦が玄関を一歩出たとき、なぜか目の前には千尋が立っていた。
 嬉しそうに顔を綻ばせ、目をキラキラと輝かせている千尋を見て、和彦の脳裏に浮かんだのは、人懐こい犬っころの姿だ。パタパタと振る尻尾がついていれば完璧だったと思いながら、ぎこちなく千尋の側に歩み寄る。
 一応、和彦の飼い主の一人は千尋なのだが、これでは立場は逆だ。まるで和彦のほうが、この犬っころの飼い主のようだ。
「お前、なんでここに……」
「先生、今日は自分のマンションに戻るんだろ」
「どうして知って――」
 言いかけたところで、答えがわかってしまった。朝のうちに賢吾に連絡をして、今日から自宅に戻ることを告げたのだ。それを賢吾が千尋に伝えたのは、当然のことだろう。そして千尋は、じっとしていられずにここまで来た。
「……悪いが、さすがに今日は、遊んでやれないぞ。お前と一緒にできることと言ったら、せいぜい同じベッドで、仲良く並んで寝ることぐらいだ」
「うん、それでもいいよ」
 本当に嬉しそうな顔で返事をするから、千尋は怖い。和彦は大きくため息をつくと、千尋の髪をくしゃくしゃと掻き乱す。
「昼食にはまだ早いから、コーヒーぐらいならつき合える」
「コーヒーはいいから、マンションに帰る前にちょっとだけ俺につき合ってよ。すぐに済むから」
 何事かと、露骨に訝しむ視線を和彦が向けると、苦笑しながら千尋に腕を取られて引っ張られる。
「先生、鷹津って刑事相手に、派手にやらかしたんだろ」
「失敬な。派手にはやらかしていないぞ。円満に話し合いを――」
 千尋からニヤニヤと笑いかけられ、和彦は顔をしかめる。鷹津との間でどんなやり取りを交わしたか、和彦自身の口から説明はしなかったのだが、あのとき側にいた組員によって詳細に長嶺組内に伝わったらしい。
 エレベーターに乗り込みながら千尋は、まるで自分のことのように嬉しそうに語る。
「オヤジとやり合ったこともある嫌な刑事相手に、一歩も引かなかったんでしょ? 先生って荒っぽいことは絶対嫌ってタイプかと思ってたけど、なんか最近、どんどんイメージが変わってきてるよ」
「それは……、堅気らしくなくなってきたってことか?」
「そういうんじゃなくてさ、なんていうか――、うちの組の連中は最初、先生のことを、オヤジが気まぐれで連れてきた風変わりな愛人としか思ってなかったんだ。俺もそれは肌で感じてた。だけど、今はそう思ってない。先生は、オヤジや俺だけじゃなく、組そのものにとって必要な人になった」
「そうやって甘いことを言うのが――」
「ヤクザの手口?」
 言いたいことを先に言われ、ますます和彦は顔をしかめて見せる。すると千尋は楽しそうに声を上げて笑った。
 ただ、和彦にとっては笑いごとではない。ヤクザに認められるということは、世間からの乖離が大きくなったということだ。ヤクザの世界に馴染んでいき、抜け出せなくなりそうな感覚は日々味わっているうえに、鷹津と対峙したとき、和彦は今の生活に感じている愛着を認識した。
 愛着は、執着だ。この生活を手放したくないと思うようになったら、自分は――。
「先生」
 千尋に呼ばれてやっと、エレベーターが一階に到着していることに気づく。和彦は慌ててエレベーターを降り、マンションから少し離れた場所に停められた車へと導かれる。
「それで、どこに行くんだ?」
 後部座席に乗り込んでから和彦が尋ねると、千尋は片手を差し出してきた。
「先生、鷹津に返してもらった携帯持ってる?」
 やっと千尋の目的がわかり、素直に携帯電話をてのひらにのせてやる。
「これから、新しい携帯買いに行こうよ。そして、番号も変更しよう」
「そうだな。正直、あの刑事が触っていたものを、いつまでも持っていたくない」
「オヤジに内緒で、俺と先生、色違いの同じ機種にしよう。ストラップはお揃いで」
「……聞いているだけで恥ずかしくなってくる……」
 そう呟きながらも和彦は、嫌とは言わない。千尋の中では決定事項になっているはずなので、反対すると可哀想だ。
 にんまりと笑った千尋が、車が走り出した途端、待ちかねていたように和彦をしっかりと抱き締めてきて、吐息を洩らした。
「何日ぶりだろ、先生の感触……」
 不覚にも、和彦の胸は詰まる。たまらなく、千尋を愛しいと感じていた。
「――……甘ったれ」
 優しい声で囁くと、子供のように照れた顔をした千尋が、当然のように唇を重ねてきた。









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