と束縛と


- 第7話(4) -


 昨日買ったばかりの携帯電話を通して、忌々しいほど魅力的なバリトンが語りかけてきた。
『たっぷり休めたか、先生?』
 昼間だというのに、いまだに怠惰にベッドに潜り込んでいた和彦は、寝癖がついたぐしゃぐしゃの髪を乱暴に掻き上げる。
「……患者に異変が?」
『いいや、落ち着いているという報告を受けている』
「だったら――」
『こちらが望む以上の働きをしてくれたご褒美に、デートに誘いたい。今すぐ準備をしろ』
 またこのパターンかと思い、和彦はクッションに片頬を押し当てた。
「嫌だ。今日は夕方までのんびりしてから、患者を診る予定なんだ」
 千尋と携帯電話を買い替えに行ったあと、結局和彦は、疲れ果てた体を引きずるようにして昼食込みのデートにつき合ったのだ。早く眠りたいという気持ちもあったが、何日ぶりかで患者の容態以外のことを話し、犬っころのようにじゃれついてくる千尋との空気に触れていると、疲れがいくらか癒されるようだった。
 一人で部屋に戻ってからは、すぐにシャワーを浴びてベッドに潜り込み、こうして賢吾の電話で起こされるまで、ほぼ丸一日眠っていたことになる。
『冷たいな。俺の息子には、疲れてボロボロになっていても、デートにつき合ってやったんだろ? 新しい携帯電話は、同じ機種の色違い。ストラップはお揃い、だったか? 昨夜、千尋がたっぷり自慢してくれた』
「……仲いいな。あんたたち父子」
 電話の向こうから、機嫌のよさそうな笑い声が聞こえてきた。
『息子に先を越されて悔しいから、俺も同じ機種で、先生と同じ色に替えた。俺は、ストラップはつけない主義なんだ』
 自分が今話しているのは、本当にヤクザの組長なのだろうかと、一瞬疑いたくなるような会話だ。
『先生のために、ここまでする男がいるんだ。デートにつき合ってくれてもいいだろ』
「嫌だと言っても、強引につき合わせる気だろ」
 この瞬間、前触れもなく寝室のドアが開き、電話越しに聞いていたバリトンが、直接耳に届いた。
「――その通り。さすが先生、よくわかっている」
 咄嗟に反応できず、ベッドの上で硬直する和彦を、傍らまで歩み寄ってきた賢吾がおもしろそうに見下ろしてくる。実に自然に手から携帯電話が取り上げられた。そして、当然のようにベッドに押さえつけられ、ゆっくりと賢吾がのしかかってくる。
「……十日も働き通しだった医者を労わってやろうという優しさは、ないのか?」
 無駄だと思いつつ和彦がこう言うと、賢吾はニッと笑う。
「可愛いオンナを愛してやろうという欲望は、溢れるほどあるぞ」
「なん、だ、それ……」
「先生こそ、十日も禁欲を通した男を労ってやろうという気はないのか? しかも、労う相手は俺一人じゃないぞ」
 和彦の体からブランケットを剥ぎ取った賢吾が、ドアのほうを振り返る。つられて和彦もそちらを見ると、ドアのところに三田村が立っていた。
 この状況には、嫌というほど覚えがあった。和彦と三田村との間で特別な交流があると賢吾に知られたとき、仕置きとばかりに、三田村の見ている前で抱かれた。挙げ句、賢吾に貫かれながら、三田村によって絶頂に導かれ、後始末までされたのだ。
 顔を強張らせた和彦を見下ろしながら、賢吾が楽しそうに目を細める。この男の本性が現れているような、ゾクゾクするほど残酷な表情だ。
「そんな顔するな。先生と三田村の関係は、俺公認だ。ビクビクする必要はないだろ」
 和彦の頬を撫でながら賢吾がそう囁き、柔らかく唇を吸い上げてくる。油断ならない手は、すでに和彦が着ているTシャツをたくし上げ、素肌を撫で回していた。
 寝起きで鈍いはずの神経は、賢吾の手が動くたびに覚醒させられ、高められていく。強引にTシャツを脱がされて深く唇を塞がれる頃には、おそろしく肌が敏感になっていた。たったこれだけで、官能が刺激されたのだ。
 スウェットパンツと下着をまとめて賢吾に引き下ろされ、傲慢な手つきで和彦のものは握られる。
「あうっ……」
 思わず反らした喉元をねっとりと賢吾に舐め上げられ、そのまま口腔に無遠慮に舌が差し込まれた。
 濃厚な口づけを与えられながら下肢を剥かれると、もう和彦に抗う術はない。三田村が見ている前で、賢吾を受け入れるしかない。
 疲れ果てて帰ってきて、ようやく体を休められたと思ったら、こんな仕打ちを受けるなんて――と、本来なら屈辱と羞恥に震えるはずだった。だが和彦は、すぐに自分の身に起こっている異変に気づく。
 何も身につけていない体を賢吾に押さえつけられ、舌を絡め合いながら、三田村の強い視線を感じていた。その視線に、狂おしい愉悦を覚える。
「あっ、あっ……」
 容赦なく賢吾に両足を大きく開かされ、握り締められたものを露骨な手つきで扱かれる。和彦は上半身を捩るようにして、強い刺激に身悶える。
「寝起きだというのに、反応がいいな。いつもなら、ごねる先生を宥めながら、なんとか相手してもらうところなのに、今日は――最初から乗り気だ」
 先端をいきなり強く擦り上げられ、和彦は声を上げる。さらに爪の先で弄られ、足を突っ張らせて感じていた。
 和彦のものを扱きながら、賢吾は片手でワイシャツのボタンを外し始める。上半身裸となって再びのしかかられたとき、熱い体を両腕で抱きとめていた。
 愛撫を期待して、触れられないまま凝っている胸の突起を舌先で弄られ、和彦は上擦った声を上げる。次の瞬間には、賢吾は胸の突起をきつく吸い上げ、歯を立ててきた。
「くぅっ……ん」
 体が、男から与えられる強い刺激を欲していた。ほんの十日ほど、誰とも体を重ねなかっただけだというのに、自分でも戸惑うほどの渇望感がある。患者を診ている間は意識していなかったが、男に求められることが和彦にとっての日常で、自然なことになっていた。
 加減を忘れた賢吾の愛撫は痛いほどで、肌にくっきりと鬱血の跡が散らされる。消えてしまった自分の刻印を刻みつけているようだ。
 両足を抱え上げるようにして大きく左右に開かれ、賢吾が内腿に顔を寄せた。
「あうっ」
 内腿の弱い部分に噛み付かれて和彦は声を上げる。反射的に賢吾の頭を押し退けようとしたが、和彦の反応を楽しむように再び噛み付かれた挙げ句に、そうすることが当然のように、柔らかな膨らみを片手できつく揉みしだかれる。
「んあっ、あっ、あっ、痛っ……」
「そうか? あっという間に涎が垂れてきたぞ、先生」
 反り返った和彦のものを舐め上げて、賢吾が低く笑う。和彦はビクビクと下肢を震わせ、熱い吐息をこぼす。
「ここは、三田村に可愛がってもらってるか? それとも、あえて触れさせないようにしているか? 三人の男と寝ているんだ。先生なら、それぞれ違う攻められ方をしたいとわがままを言っても、俺は驚かねーがな」
 強弱をつけて柔らかな膨らみを揉み込む賢吾に、先端から滴る透明なしずくを丹念に舐め取られてから、和彦のものは熱く湿った口腔にゆっくりと呑み込まれる。
 賢吾にこうされるときの高揚感と快感は異常だ。ヤクザの組長という肩書きを持ち、何人ものヤクザを従わせている男が、たかが若い医者でしかない和彦のものを口腔で愛撫しているのだ。倒錯した興奮が、快感に拍車をかける。
「ふっ……、あっ、んあっ、ああっ――。賢、吾さっ……」
 熱い舌にねっとりと先端を舐め回され、ビクビクと腰を震わせて感じてしまう。賢吾の名を呼ぶとき、賢吾の愛撫は淫らさと情熱を増すのだ。
 賢吾の髪に指を差し込み、掻き乱す。上下に賢吾の頭が動き、締め付けてくる唇に和彦のものは扱かれながら、きつく吸引される。
 性急に追い上げられ、和彦がもう少しで絶頂に達しようとした瞬間、待っていたように賢吾がピタリと愛撫をやめ、顔を上げる。和彦は息を喘がせて賢吾を睨みつける。ときどき、賢吾はこういうことをする。求める以上の快感を与えてくれるかと思えば、求めているのに快感を与えるのをやめてしまうのだ。
 残酷な大蛇の性質を持つ賢吾としては、後者のほうが楽しいらしい。
「俺のものを尻に突っ込まれながらイッちまう先生を見るのが好きなんだ。ああいうときの先生は、ゾクゾクするほど色っぽくて、いやらしい。これは、俺だけじゃなく、千尋や三田村も同意見だろうな」
 反り返ったまま空しく震えるものを軽く撫でられて、和彦は顔を背ける。
「――……性質が悪い男ばかりだ……」
「その性質の悪い男たちに気持ちよくしてもらうのが、好きなんだろ。先生」
 賢吾の言葉に、ベルトを緩めてファスナーを下ろす音が重なる。片足だけはしっかりと抱え上げられて胸に押し付けられると、興奮を物語るように熱く滾った賢吾のものが内奥の入り口に擦りつけられた。
 三田村が見ている前での卑猥な行為に、和彦はうろたえるほどの羞恥を覚える。同時に、全身に甘美な感覚が駆け抜けていた。
「欲しがってるな。ひくついているのが丸見えだ」
 笑いを含んだ声で賢吾に指摘されたが、言い返すこともできない。このまま口を噤んでいようかと和彦は思ったが、すぐに声を発することになる。賢吾が強引に押し入ってこようとしたのだ。
「いきなりは無理だっ……」
「なら最初に、指で弄られるのがいいか、舐められるのがいいか、先生が選べ」
 和彦は、楽しそうな賢吾を睨みつけたあと、相変わらずドアの傍らに立ったままの三田村にも視線を向ける。こういうとき、ごっそりと感情をどこかに置き忘れたような三田村の無表情に救われる。
「さあ、どっちがいい? どっちでも、たっぷり先生を感じさせてやる」
 耳に唇を押し当てながら賢吾に唆され、和彦は陥落した。
「――舐めて、くれ……」


 背後から大きく突き上げられて和彦は悲鳴を上げる。同時に、二度目の絶頂の証をシーツに飛び散らせていた。
 絶頂の余韻で、内奥深くに押し込まれている賢吾のものをきつく締め上げていたが、いきなり引き抜かれて、和彦の体は仰向けにされる。すぐにまた、内奥に凶暴な欲望を挿入された。
 和彦は喘ぎながら、まるで子供のように賢吾にすがりつく。汗で濡れた背に両腕を回すと、力強い律動が再開される。
「二度もイかせたのに、まだ俺のものにしゃぶりついてくるな、先生の中は。やっぱり、大好きなものを中に出してもらわないと、満足できないか?」
 汗を滴らせながら賢吾がにんまりと笑い、和彦は睨みつけることもできない。今の和彦は、賢吾から与えられる快感に完全に支配されていた。
 唇を吸われると、言われる前に賢吾の口腔に舌を差し込む。内奥で賢吾のものが蠢き、奥深くを逞しいもので掻き回される。
 和彦はビクビクと腰を震わせ、たまらず賢吾の背に爪を立てる。あの見事な大蛇の刺青に傷をつけるかもしれないと気遣う余裕もなく、賢吾も嫌がらなかった。それどころか、深く息を吐き出してこう言った。
「ゾクゾクするほど感じるな。痛いことが嫌いな先生が、俺に痛みを与えてくるってのは」
「……ヤクザの中でも、あんたは特に、性質が悪い」
「褒め言葉だ。ヤクザの俺にはな。――さあ、先生、熱いものをたっぷり中に出してやる」
 両足を抱え上げられ、狙い澄ましたように内奥深くを強く突き上げられる。一度目で喉を反らして声を上げ、二度目で快感のあまり眩暈に襲われる。三度目で、注ぎ込まれる熱い精の感触に恍惚とした。
 和彦は、賢吾にしがみついたまま息を喘がせる。すると、ここまでの手荒さとは打って変わった優しさで、髪を撫でられ、啄ばむようなキスを与えられた。
「――今回は、よくやった。執行部の中じゃ、あいつはもう助からないと思っている人間もいたが、それをお前は助けた」
 突然の賢吾の言葉に、和彦は目を丸くする。そこで、ここまで抑えつけていた最低限の好奇心が表に出ていた。
「あれは、どういった人間なのか、聞いていいか?」
「長嶺組の分家の幹部だ。そして刺した人間も、長嶺組の下部組織の人間だ。つまり、内輪揉めだ」
 体を起こした賢吾が、内奥からゆっくりと欲望を引き抜く。息を詰めて苦しさに耐えながら、和彦の視線は自然に三田村のほうへと向いていた。
 改めて考えると、異常な状況だ。和彦は、今この場にいる二人の男と関係を持っているが、一方との行為を見せ付けることも、それを見続けることも、本来ならありえない。なのにこうして現実に起こっているから、特殊な繋がりを三田村との間に感じる。
 和彦がどこを見ているかわかっていながら、やめろとも言わずに賢吾が唇を首筋に這わせる。
「もともとソリが合わない者同士で、ここのところゴタゴタが続いて、うちの執行部が介入を始めたところに、今回の事件だ。もし、刺された幹部が死ぬようなことになったら、幹部を殺したほうの組織に絶縁処分を下さなきゃならん」
「それは本意じゃない、か……」
 賢吾のものが引き抜かれた内奥に指が挿入され、蠢かされる。和彦は小さく声を洩らした。
「絶縁しても、組織として存続できる。だが、長嶺組や総和会という後ろ盾を失ったら、まずは商売はできない。そうなったら、組員たちの生活が危うい。俺は、面子は大事にするが、それは組織に属する人間がいてこその面子だ。一部のバカが勝手にケンカをやらかして、それで幹部が死んで、一方だけを厳しく処断したら、禍根が残る」
 話しながらも賢吾は指を動かし続け、内奥から自分が注ぎ込んだ精を掻き出している。
「だから俺は、可能な限り死なせるなと言ったんだ。何事も、円満に片がつくほうがいいだろ?」
「円満……。あんたが言うなって言葉だな」
「先生の憎まれ口聞きたさに言ってるんだ。組長とは言っても、俺も可愛いもんだ」
 自分で言うなと口中で呟いてから、和彦は賢吾と唇を重ねる。そっと唇を離すと、賢吾に囁かれた。
「――三田村も欲しいだろ、この場所に」
 わざと湿った音を立てて内奥を指で掻き回される。ぐっと唇を引き結んだ和彦は賢吾を睨みつけるが、大蛇にはまったく効いていない。それどころか、楽しげに笑っている。
「今日は、お仕置きじゃないぜ? 先生に対するご褒美だ。先生も三田村も忙しい中、楽しむ時間を作ってやったんだ」
「だからあんたは、性質が悪いと言うんだっ……」
 どれだけ和彦と三田村が密やかに関係を深めても、それは賢吾の許しがあってのものだ。そのことを忘れないよう、賢吾はこんな形で思い知らせようとしている。もちろん、和彦も三田村も拒めないのを承知のうえで。
 和彦の上から賢吾が退き、三田村が呼ばれる。まるで機械のように無機質な動作で三田村がのしかかってきたが、蕩けた内奥の入り口に押し当てられたものは、熱く硬く張り詰めている。
 いくら相手が三田村とはいえ、賢吾の前で反応しないと身構えていた和彦だが、呆気なく決意は揺らぎ、激しい羞恥のあまり顔を背ける。ベッドの端に腰掛けた賢吾が低く声を洩らして笑い、そんな和彦の髪を撫でてきた。
「いいな、先生。初心な小娘が、初めて男を受け入れるときみたいな姿だ」
 ゆっくりと挿入されてくる三田村のものを、和彦の内奥は嬉々として迎え入れ、締め付ける。
「うっ、あぁっ」
 三田村の顔をまともに見られなくても、自分の内にいるのは三田村だとよくわかる。愛しいオトコの欲望だ。
 緩やかに突き上げられるようになると、和彦はすがるように三田村を見上げ、両腕を伸ばしてしがみつく。
「あっ、あっ、い、ぃ――……」
 和彦の耳元で『先生』と呼んだ三田村が乱暴に腰を突き上げ、二人はしっかりと繋がる。賢吾を受け入れ、精すら受け止めた場所は、三田村に対しても従順で、貪欲だ。粘膜と襞を擦り上げられるたびに、身を捩りたくなるような肉の愉悦を生み出す。
「はあっ、あぁっ……ん。三田、村、三田村っ……」
 三田村の激しい動きに翻弄される和彦を、賢吾は枕元に腰掛けて見下ろしていた。目が合うと、三田村の頭を抱き締めていた片方の手を取られ、手の甲に唇が押し当てられる。
「三田村も愛しい、うちの千尋も可愛い。何より、俺を大事にしなきゃいけない――。大変だな、先生」
 賢吾の言葉に和彦は視線を伏せると、ワイシャツ越しに三田村の肩に噛み付く。即物的に交わることしか許されない今は、これが和彦にできる精一杯の三田村への愛撫だ。
 それでも気持ちは伝わったらしく、三田村は熱い精を、和彦の内奥深くにたっぷり与えてくれた。




 患者の診察を終えた和彦は、日用品を買い込み、夕食を済ませてから帰宅する。
 組員と別れて部屋に一人となると、ダイニングのイスに腰掛けてほっと一息つく。先にシャワーを浴びてこようかと考えていて、親機のボタンが点滅していることに気づいた。誰かが留守電にメッセージを残したのだ。
 和彦に用がある人間の大半は、携帯電話に直接連絡してくるため、珍しいこともあるものだと思ったが、肝心の携帯電話の番号を変更したばかりだ。しかもまだ、ごく限られた人間にしか、そのことを知らせていない。
 慌てて留守電を再生すると、メッセージを吹き込んでいたのは中嶋だった。折り返し連絡が欲しいということだが、どことなく中嶋の声が緊張しているように感じ、和彦は気になる。
 シャワーは後回しにして、さっそく新しい携帯電話から、中嶋の携帯電話に連絡する。
『先生ですか?』
 コール音が途切れると同時に、急き込むように問われて面食らう。一瞬和彦は、電話をかけた先を間違えたのだろうかと思ったぐらいだ。
「あっ、ああ……」
『よかった。先生の携帯が繋がらないかもしれないと聞いていたんで、自宅のほうにかけさせてもらったんです。携帯の番号、変えたんですね』
「いろいろ事情があって。バタバタしていたから、君に知らせるのが遅くなったんだ。そのせいで手間をかけさせたみたいだな」
『いえ。こっちの事情で電話をかけておいて、手間なんて……』
 やはり、中嶋の様子がおかしい。和彦は率直に尋ねた。
「中嶋くん、どうかしたのか? なんだか声の調子がいつもと違う――」
『先生っ、頼みがありますっ』
 どうやら中嶋は切迫した状況にいるらしい。
「……ぼくで相談に乗れることなら……」
『先生が、長嶺組や総和会にとって大事な医者なのはよくわかっています。だけど俺には、先生しか心当たりがないんです。――診てほしい人間がいます』
 和彦は眉をひそめ、慎重に言葉を選びながら答える。
「総和会にいる君ならわかるだろ。ぼくは、長嶺組に飼われている人間だ。組の許可なく誰かを診ることはできない。なんなら、ぼくから組に頼んで許可をもらって――」
『ダメなんです。組には知られたくない。……微妙な立場にいる人間で、組とは関われないんです』
「それなら、救急車を呼べばいいんじゃないか?」
『病院で診てもらったら、警察に連絡される危険があります。だからこそ、先生に診てもらうしかないんです。……手の出血もひどいし、息遣いも苦しそうで……。数人の人間から襲われたらしいんです。俺が電話で呼ばれて駆けつけたときにはもう、倒れていて』
 和彦の良心としては、中嶋の頼みを聞き入れたい。だが、もしこのことを賢吾に知られたときが怖かった。それに、鷹津という刑事に付け狙われているかもしれない状況で、組に知らせず動くのは、危険すぎる。
 さすがにそこまで中嶋に説明するわけにもいかず、和彦はひたすら断る。だが、中嶋は引き下がらなかった。
『お願いします。俺も、単なる知人や友人なら、先生に診てほしいなんて言いません。だけどその人は、俺にとって特別なんです。ずっと世話になりっぱなしで、何も返せていない。このまま何もしないなんてできません』
 和彦が知る限り、中嶋は野心家だ。計算ができる男なりに、和彦の存在は利用価値があると思っているはずだ。ただしその利用価値は、あくまで長嶺組や総和会という後ろ盾があってのものだ。和彦も、中嶋が総和会の人間だからこそ、あれこれと教えてもらっていた。
 そんな中嶋が、個人的な情に訴えてきたのは予想外だった。
 困り果てた和彦は何度も髪を掻き上げていたが、電話の向こうから絶えず聞こえてくる中嶋の懇願を無視して受話器は置けなかった。
「――……君は、診てほしい人間への借りが一つ返せていいかもしれないが、ぼくに対してはどうなんだ? 今度はぼくに対して、借りを一つ作ることになるぞ」
『かまいません。先生が必要とするときに、俺は何があっても借りを返します。だから今回は、俺を助けてください』
 中嶋が本気で言っているのは、よくわかった。仮にこれが演技だったとしても、騙された自分を責めることはできないだろう。つまりそれぐらい、真剣だということだ。
 和彦は乱暴に息を吐き出すと、こう尋ねる。
「怪我の状態を、できるだけ詳しく教えてくれ」
 電話の向こうで、中嶋が安堵の吐息を洩らした。和彦は一瞬、中嶋には内緒で、長嶺組に事情を説明しようかと思ったが、中嶋が総和会にいられなくなる事態を危惧すると、それはできなかった。
 野心家が、リスクを覚悟で連絡してきたのだ。それに報いなければいけない気がした。
 中嶋から怪我の詳細と、どこに行けばいいのかを聞いた和彦は、電話を切るとすぐに出かける準備を始める。
 今日はもう、組員が部屋を訪ねてくることはなく、携帯電話での定時連絡があるだけだ。電話に出て二、三言話せば済むので、部屋の電気さえつけておけば、和彦が出かけていることがバレる可能性は低い。――何事もなければ。
 エレベーターでエントランスに降りながら、和彦の心臓はドクドクと大きく鳴っていた。近所への買い物程度なら、組員と鉢合わせしても平気だが、さすがに大きなバッグを持った状態では、なんの言い訳もできない。最悪、逃げ出そうとしていると取られるかもしれない。
 慎重にエントランスをうかがうが、人の姿はなかった。早足で外に出て辺りをうかがうと、すぐにタクシーを停めて乗り込む。向かう先は、中嶋のマンションだった。


 中嶋のマンションは繁華街のすぐ近くにあった。人と車が行き交う雑多な通りで、夜とはいってもにぎやかだ。
 治安に少々不安を覚えそうな場所だが、中嶋のような仕事や、水商売をしている人間にとっては、これぐらいのほうが周囲に気をつかわなくていいのかもしれない。
 渋滞に巻き込まれながら、なんとかタクシーをマンションの前で停めてもらうと、和彦は素早く周囲を見回してから降りる。皮肉なもので、渋滞のおかげで背後の車の特定が簡単だったため、尾行がついていないと確認するのは容易だった。
 エントランスの前で、到着したと中嶋に連絡を入れ、オートロックを解除してもらう。
 部屋があるというフロアまで上がると、中嶋がドアを開けて待っていた。和彦を見るなり、心底ほっとしたような表情を浮かべ、軽く片手を上げた。
「……本当に来てくれたんですね」
 和彦が歩み寄ると、そんな言葉をかけられる。
「あれだけ頼まれたからな。だけど、先にこれだけは言っておく。――少しでも面倒事になりそうだと判断したら、組に報告する。その後の君の立場まではこちらも責任は持てない」
 頷いた中嶋に促され、和彦は部屋に入る。
「君こそ、いいのか? 総和会に知られたらマズイんじゃないのか」
「それで怖気づくぐらいなら、先生に治療を頼んだりしませんよ。俺としては、先生にこうして来てもらうのは、大きな賭けなんです。……あの人は、先生は絶対他言しないと言い切ってましたけど」
「あの人……?」
 和彦が住んでいるマンションほどではないが、それでも一人暮らしにしては十分すぎるほど広いリビングを通って、奥の部屋へと案内される。中を覗いた和彦は、大きく目を見開いた。
 ワイシャツを引き裂かれたボロボロの姿でベッドに横たわっているのは、秦だった。
 一目見て殴られたとわかる顔を苦痛に歪めた秦が、気配に気づいたのかこちらを見る。和彦と目が合うと、こんなときでも艶っぽい存在感を持つ男は、そっと笑いかけてきた。









Copyright(C) 2009 Tomo Kitagawa All rights reserved.
無断転載・盗用・引用・配布を固くお断りします。



第7話[03]  titosokubakuto  第8話[01]