と束縛と


- 第8話(1) -


 秦の顔を見た瞬間、全身の血が凍りつくような気がした。自分の足で立っているという感覚すらなくなったが、手に持っていたバッグを足元に落とした音で、ようやく和彦は我に返る。
「彼が……」
 硬い声を発すると、隣に立った中嶋が頷く。
「電話で秦さんの名前を出さなかったのは、そう頼まれたからです。俺としては、秦さんの名前を出したほうが、先生は助けてくれると言ったんですけど、頑として聞き入れなくて」
「それで、ぼくを騙すようにして呼び出したのか」
 意識しないまま、和彦の口調は怒りを含んだものとなる。
 秦がどうして、電話で自分の名を出すことを許さなかったのか、その理由が和彦にはわかっていた。誰も好きこのんで、リスクを冒してまで脅迫者を助けたりはしない。だからこそ秦はまず和彦を呼び出し、現場で自分の存在を知らせることにしたのだ。
 中嶋の様子からして、二人の間に何があったのか関知していないのだろう。つまり中嶋は悪くない。理屈ではそうなのだが――。
「先生っ」
 和彦が帰ろうとすると、中嶋が驚いたような声を上げる。かまわず行こうとしたが、素早く中嶋が前に回り込んできた。和彦の異変に気づいたらしく、中嶋まで強張った顔をしている。
「どうかしたんですか?」
 必死の顔で問いかけられ、和彦はわずかに視線を伏せる。
「……悪いが、彼は診てやれない。組に隠れて医療行為を行うのは、やっぱりやめておきたい。あとあと面倒になる」
「でも、ここまで来てくれたじゃないですかっ」
「気が変わった」
 中嶋を避けていこうとしたが、すかさず両腕を広げて阻まれる。さすがに和彦も鋭い視線を向けた。
「そんなに医者に診てもらいたいなら、救急車を呼べばいい。病院から怪我についてあれこれ詮索されても、彼は組関係者じゃないんだ。警察に連絡されても、なんとでも切り抜けられるだろう」
「組関係者じゃなくても、組と繋がりはあります。そこを突っ込まれると、秦さんの立場が危うくなりかねないんです」
「それは、ぼくが心配することじゃない」
 和彦が言い切ると、中嶋が唇を引き結び、初めて見せる厳しい表情となる。恫喝されるのだろうかと身構えそうになったが、次の瞬間、中嶋は意外な行動に出た。
 床に額を擦りつけるようにして、土下座をしたのだ。
「中嶋くんっ……」
「お願いしますっ。秦さんを診てください。先生だから、頼るんです。俺がもっと総和会の中で力があれば、別の方法もあったかもしれない。だけど今は――先生しかいないんですっ」
 中嶋は必死だ。このまま和彦が玄関に向かおうとしたら、今度は足にしがみついてきても不思議ではない。見た目は普通の青年でも、本性は切れ者のヤクザだ。相手を従わせる手段など、いくらでも持っているだろう。
 それに、あまりに中嶋が必死で、振り切って帰るのは良心が咎めた。賢吾なら、それは良心ではなく、和彦の甘さだと言って鼻先で笑いそうだが。
 和彦は軽く息を吐き出すと、部屋に引き返す。
「先生……」
「一応、君に世話になったという自覚はあるからな」
 秦が横になっている部屋に入った和彦は、まず中嶋にハサミを持ってこさせ、破れたワイシャツを切って脱がせる。少し迷ってから、中嶋に手伝ってもらい、スラックスも脱がせた。ベルトで腹部を圧迫したくなかったし、何より、全身の検分をする必要がある。
 その間、秦は苦しげな呼吸を繰り返すだけで、目を開けなかった。意識が朦朧としているのか、痛みで目も開けられないのだろうが、和彦は頓着しない。それよりも今は、診察に集中する。
 秦の引き締まった体を一目見て、そっと眉をひそめる。顔の殴られた跡からある程度の惨状は予測していたが、それを上回る暴行の跡が残っていた。拳で殴られたものではなく、硬い棒状のものでめった打ちにされてできたものだ。
 普通、殴られるとわかったら人は体を丸め、その結果、背や脇腹が傷だらけになるものだが、胸や腹がこれだけひどい有様だということは、秦の体は押さえつけられたうえで、容赦なく痛めつけられたということになる。
 秦の体に慎重に触れながら、骨折していないか探る。病院に運べば、内臓からの出血も早期にわかるのだろうが、ここでは、なんらかの異変が出るまで知ることはできない。
「……肋骨が折れている」
「やっぱり。秦さんをここに連れて来るとき、胸が痛いと言っていたんです」
 中嶋に秦の体を少しだけ抱え起こしてもらい、背の怪我も診る。こちらも打撲がひどい。ただ、頭には腫れもなく、殴られた形跡はなかった。少なくとも、秦を殺すために暴行したわけではないようだ。
「一体、彼に何があったんだ」
 独りごちるように和彦が洩らすと、自分に投げかけられものだと思ったのか中嶋が応じる。
「俺も詳しいことは何も。ただ、手を貸してほしいと秦さんから電話があって駆けつけたら、ボロボロになって倒れていたんです。どこか別の場所で暴行されて、逃げてきたらしいんですが、相手が何人だったとか、そもそもこんな目に遭った理由はなんなのか、教えてもらえませんでした。ただ、先生に連絡を取るよう指示されて……」
「それで素直に従ったのか?」
 和彦の口調は、つい呆れたものとなる。それを中嶋は感じ取ったのか、苦い表情を浮かべた。
「秦さんは特別なんですよ。借りがあるというより、恩がある。俺が組に入ったばかりの頃、仕事でヘマをやらかして、借金を背負わされたことがあるんです。まだ二十歳そこそこのガキに返すあてなんてない額ですよ。そこで助けてくれたのが、秦さんなんです。組に入れるようお膳立てしたのは自分だから、放っておけないと言って」
「金を貸してくれたのか?」
「それだと、俺の将来の役に立たないからと、組での金の稼ぎ方を教えてくれました。あっ、ヤバイ方法じゃないですよ。一応、真っ当な方法です。――借金を返せたうえに、俺は組の若衆の中でも、かなりの発言力を持てるようになったんですけど、僻みで人間関係がゴタゴタするのは、ヤクザも堅気も一緒です。そういうのに嫌気が差して、俺は幹部に推薦してもらって、総和会に入ったんです」
 中嶋の話を聞きながら、和彦は休みなく秦の怪我を診ていく。右手にしっかり巻かれたタオルを外してみると、さらにネクタイをぐるぐる巻きにしてあった。止血のつもりだったようだ。
 刃物でも掴んだのか、てのひらはざっくりと切れており、血が流れ出ている。幸か不幸か、切り傷はてのひらだけのようだ。
「彼は、何かトラブルを抱えていたのか? これは、ちょっとしたケンカ程度の傷じゃない」
「聞いたことはありません。クラブ経営も上手くいっているようだし、あちこちの組に顔が利くからこそ、秦さんの店で揉め事を起こす人間はいません。……とはいっても、俺も秦さんのことを詳しく知っているわけじゃないんです」
 意外に思って和彦がまじまじと見つめると、中嶋はちらりと笑った。
「仲良くしてもらってますけど、けっこう謎が多いんですよ、秦さんは。だからいまだに、秦静馬が本名なのかどうかすら知らない。俺は、実は秦さんが妻子持ちだったとしても、驚きませんね。本当のところ、いろんな組とのつき合いも、どこまで深いものなのか、よくわからない」
「……物腰は柔らかで紳士だが、実際はヤクザそのものみたいな男でも驚かない、か?」
「まあ、見た目通りの人だったら、したたかに組と渡り合うなんてできないでしょう。だけどその面を、秦さんは他人に見せない。ちょっと怖いですよね。そう考えると」
「でも、慕っているんだろ」
 和彦の言葉に、真剣な顔で中嶋は頷く。
 中嶋と秦と飲んだとき、二人はあくまで仲のいい先輩・後輩、もしくは友人同士に見えたのだが、中嶋の話を聞いて、表情を見ていると、そう単純なものでないことがわかる。崇拝という言葉が頭を過りもするが、それよりむしろ、シンパというほうがより近いかもしれない。
 中嶋は、秦という男に何か共鳴するものを感じ、それを守ろうとしているのだとしたら、献身的ともいえる態度に納得できる。
 ヤクザの世界の、一種独特な男同士の結びつきは濃厚で、和彦には理解しがたいものがあるが、ヤクザである中嶋と、ヤクザのごく側に身を置く秦の結びつきも、また独特だ。
 中嶋と話しているうちに妙な熱に感化されてはたまらないと、和彦はバッグを開け、ひとまずてのひらを縫う準備をする。総和会の仕事で、和彦の治療に同行することが多い中嶋も慣れたもので、こちらが指示を出す前に、処置がしやすいよう秦の手の血を拭き取り、消毒をする準備を調えてしまった。
「うちは救急箱すらないので、必要なものがあったら言ってください。すぐに買いに行ってきます」
 自分がいると邪魔になると思ったのか、今度はこんなことを申し出てきた中嶋に、和彦は鎮痛剤と冷湿布、コルセットや氷を頼む。実際、すぐに必要なものばかりだ。
 中嶋が慌ただしく出ていくと、和彦も仕事をこなすことにする。
 キッチンで手を洗って戻ってくると、秦は目を開けていた。和彦を見るなり、唇を歪めるようにして痛々しい笑みを浮かべた。
「……中嶋の奴、好き放題言ってましたね」
 目を閉じたまま、和彦と中嶋の会話を聞いていたらしい。和彦はベッドの傍らに置かれたイスに腰掛け、手袋をしてから局所麻酔の準備をする。すると秦が、興味深そうに和彦の手元を見つめてきた。
「先生、それは……」
「麻酔薬だ。心配しなくても、美容外科医は、麻酔薬の扱いには慣れている。持病はないな?」
 必要以上に素っ気なく応じた和彦は、苦笑しつつも秦が頷いたのを確認してから、傷口に注射針を入れる。
「――何があったんだ」
 沈黙で間がもたないため、そんな質問をぶつけてみる。案の定、秦は天井を見上げたまま答えない。和彦も本心から知りたいわけではなかったので、それ以上は問いかけず、代わりにこう言った。
「中嶋くん、本気で心配していたぞ。いかにも厄介なトラブルを抱えていそうなあんたを、見捨てもせずに自分の部屋に連れ込んだぐらいだ。後輩からの人望はあるみたいだな」
「中嶋は、頭が切れすぎるんです。しかも、要領がいい。そのせいか、どことなく他人を見下したようなところがある」
 中嶋が他人を見下すという点に関しては、賢吾も同じことを言っていたなと、ふと和彦は思い出した。
「だからこそ、自分より頭のいい人間にはすぐに懐きますよ。先生とか。そのうえ、面食いですからね」
 じろりと秦を睨みつけた和彦は、麻酔が効いているのを確かめてから、傷口を縫っていく。こんな男のてのひらに、どれだけ無様な縫い目を作ってもいいと思いながらも、美容外科医のプライドとして、いい加減な仕事をするのは我慢できない。
「――先生」
「縫っているときに話しかけるな、気が散る」
「黙って聞き流してください。……中嶋に、先生と連絡を取るよう頼んでおいてなんですが、正直、先生が来てくれるとは思っていませんでした。嫌われたという自覚はあるんですよ」
 和彦はちらりと視線を上げ、秦に鋭い視線を向ける。いつもと変わらない穏やかな口調で話している秦だが、手の怪我は麻酔が効いていても、他の部分が痛んでいるのだろう。苦しげな顔をしている。
「中嶋くんに感謝するんだな。連絡してきたのが彼じゃなきゃ、ぼくは引き受けなかった」
「そうなったら、〈あのこと〉で脅すつもりでした」
「……傷口の縫い目をジグザグにするぞ」
 短く噴き出した秦だが、それが肋骨に響いたらしい。すぐに呻き声を上げた。少しだけいい気味だと思いながらも和彦は、処置の手は抜かない。
 縫った跡を消毒してから、しっかりとガーゼを当てて包帯を巻く。風呂には入るなと言いかけたが、この体では入りたくても不可能だろうと思い、和彦は別のことを口にした。
「中嶋くんが戻ったら、体中に湿布を貼ってやる。多分今夜、熱が出るぞ。それと、胸も圧迫して固定するから、しばらくは不自由するだろうな」
「それで、先生が通ってきてくれるんですか?」
「一度だけだ。これで、彼に対する義理は果たした」
「わたしに対しては、何もなしですか」
 和彦が睨みつけても、秦は薄い笑みを浮かべるだけだ。肋骨が折れている辺りを殴りつけたい衝動に駆られたが、そんなことをしてあとで中嶋に非難されるのは嫌だった。秦はともかく、中嶋との繋がりを断つ気はないし、関係を険悪にもしたくない。
 中嶋が戻ってくるまで別の部屋にいようと、和彦が黙って立ち上がりかけたそのとき、突然、秦が急に呻き声を洩らして片手で胸を押さえた。包帯を巻いたばかりの右手も動かそうとしたので、それを見た和彦は慌てて秦の上に覆い被さり、右腕を押さえる。
「縫ったばかりなんだから、動かすなっ」
 折れた肋骨が肺に刺さっていたなら、とっくに苦しんでいたはずだと思いながら、秦の胸元に手を押し当てようとする。すると、その和彦の手が、反対に掴まれた。
 ハッとして目を見開いた和彦の前で、秦が薄い笑みを浮かべる。店で和彦を嬲ってきたときと同じ、したたかな笑みだ。
 医者として秦と接していた和彦も、さすがに状況を理解した。
「……騙したんだな」
「痛いのは本当ですよ。――痛くて、苦しくてたまらない。本当はこうして話すだけでも、脂汗が滲んでいます」
「だったらおとなしくしていろ」
 和彦は秦の上から退こうとしたが、しっかりと手を握られているため、動けない。怪我人の手を振り払うことなど本当は容易いのだが、ひどい有り様の体を見下ろしていると、手荒なまねができない。
「先生は、優しいですね。いや、甘いのかな」
「その甘さに付け込むのが、あんたの手口だろ」
「――悪い男ですから、わたしは」
 悪びれることなくヌケヌケと言い切った秦が、包帯を巻いた右手をゆっくりと動かしたため、和彦は肘を押さえていた手を反射的に離す。怪我人を相手に揉み合う気はなかった。
「動かすなと言っているだろう。まだ麻酔が効いているから平気だろうが、下手をしたら縫い直すことになるぞ」
「もちろん、先生が縫ってくれるんですよね?」
 本人が言う通り、秦の額にはじっとりと汗が滲んでいた。折れた肋骨どころか、全身が痛くてたまらないのだろう。
「……中嶋くんが鎮痛剤を買ってくるまで、黙っていろ。市販のものだから、そう強い効き目は期待できないだろうが、少しは楽になる――」
 秦の右手が後頭部にかかり、和彦は全身を強張らせる。ゆっくりと頭を引き寄せられると、逆らえなかった。それどころか、秦の胸に体重をかけないよう、必死にベッドに手を突いて自分の体を支える。
 これは、和彦の優しさでもなんでもない。患者に対する医者としての当然の気遣いだ。そこを秦は逆手に取った。
「先生なら、暴れませんよね? わたしは今、肋骨が折れていて、てのひらは縫ったばかりです。先生がちょっと抵抗するだけで、ひどいことになる」
「それは……、自業自得だ」
「なら、態度で示してください」
 さらに頭を引き寄せられて、息もかかるほど間近に秦の顔が迫る。あっ、と小さく声を洩らしたときには唇を塞がれていた。
 反射的に頭を上げた和彦だが、秦が顔をしかめる。それだけで、和彦はもう動けなくなる。途端に秦はニヤリと笑った。まだ麻酔が効いているので、てのひらの傷が痛むわけがないのだが、麻酔が効いているからこそ、縫ったばかりの傷に負担をかけられない。
「――わたしが満足するまでキスしてくれたら、おとなしくしますよ」
 そう言った秦の表情は、普段の優雅さはなく、やはり苦しげだ。
 ヤクザだけでなく、ヤクザの世界のごく近くに身を置く男も、まともではない。そう思いながら和彦は、間近から秦を睨みつける。それでも、再び頭を引き寄せられて唇を塞がれても、今度は身じろがなかった――身じろげなかった。
 すでにもう発熱しているのか、やけに熱い秦の唇と舌が、和彦を求めてくる。唇を吸われ、こじ開けるようにして口腔に舌が侵入してくる。感じやすい粘膜を柔らかく舌先でまさぐられ、歯列をくすぐられてから、下唇と上唇を交互に吸われていた。
 戸惑うほど穏やかで、優しいキスだ。だが、官能的だ。
 体の奥が熱くなるのを感じ、和彦はわずかにうろたえながら、秦と間近で見つめ合う。すると、唇を触れ合わせたまま秦に囁かれた。
「こんなキスじゃ、先生も満足できないでしょう?」
「……調子に乗るな」
 秦が洩らした熱い吐息が唇に触れ、再び秦の舌を口腔に受け入れてしまう。それどころか――。
「んっ……」
 舌先が触れ合い、探り合っているうちに、秦に舌を搦め捕られていた。握られていた手が放され、秦の左手が和彦が腰にかかる。この瞬間、ゾクリとするような疼きを感じた。
 本意ではないものの、秦と緩やかに舌を絡め合う。妙な脅迫による口づけを終わらせるためには、やむをえなかった。
 そのうちに、後頭部にかかっていた秦の手が退けられる。同時に熱っぽい吐息を洩らし、つらそうに目を閉じた。
 和彦は少々意地の悪い気持ちになりながら、やっと体を起こす。
「……先生に生気を分けてもらえました」
 掠れ声で秦がそんなことを言い、本気で和彦は呆れた。本来は殴りたいところだが、代わりに秦の乱れた前髪をさらりと梳いてやる。
「話して痛みを誤魔化そうとしているだろ」
「わかりますか?」
「――余計なことを言う前に、中嶋くんが戻ってきたら、きちんと礼を言えよ」
 秦がちらりと笑みをこぼす。
「先生は優しいですね」
「おかげで、ヤクザに付け込まれてばかりだ」
 苦々しく和彦が応じると、秦は短く声を洩らして笑った。


 必要なものを買い揃えて中嶋が部屋に戻ってくると、和彦は冷湿布を貼るなどして必要な処置を手早く済ませる。胸を固定するためコルセットを装着した秦の口に、鎮痛剤を放り込んでやり、今後の対応をメモに書き記して中嶋に渡した。
 さすがに夜の定時連絡を済ませたとはいえ、部屋をいつまでも空けておくのは心配だったため、中嶋とゆっくりと話す余裕もなかった。それに、秦との間に何があったのか、悟られるのが嫌だったというのもある。
 何かあれば携帯電話に連絡するよう、新しい番号とメールアドレスとともに中嶋に言っておいたが、帰宅した和彦がシャワーを浴びて出てくると、さっそくメールが届いていた。秦の容態に問題が起きたというわけではなく、丁寧な礼のメールだ。
 中嶋には申し訳ないが、返信を送った和彦は、即座にそれらのメールを削除する。長嶺組の誰かにメールを調べられでもしたら、今夜の秘密の行動を知られてしまう。
 頼まれたからとはいえ、我ながら大胆な行動を取ったと、和彦は小さく身震いする。もし賢吾にバレたらと考えると、怖くてたまらなかった。
 気が高ぶっているせいで、おとなしく書斎に閉じこもる気にもなれず、冷蔵庫を開ける。食料は大して入っていないのに、飲み物の種類は豊富だ。外食が主の和彦の生活パターンに合わせて、この部屋に通ってくる組員たちがよく飲み物を補充してくれるのだ。
 グラスに氷を放り込み、オレンジジュースを注ぐ。しばらくアルコールは自重したかった。
 和彦はソファに腰掛け、グラスに口をつけながらテレビのニュース番組をぼんやりと眺める。だが、ある暴力団の幹部が撃たれたというニュースが流れると、無意識に眉をひそめてチャンネルを替えていた。
 こんな生活に入る前は、社会の害悪になるような存在がどうなろうが気にも留めなかったが、今は違う。胸苦しさを覚えるのだ。
 突然、インターホンが鳴り、ドキリとする。反射的にソファから腰を浮かせて和彦が考えたのは、和彦の今夜の行動が知られ、在宅を確認するために組員がやってきたのではないかということだった。
 身構えながらインターホンに出た和彦は、テレビモニターを見てから微妙な顔となる。映っていたのは、千尋だった。
 何か用かと聞くのも野暮で、エントランスのロックを解除してやる。
 部屋に上がってきた千尋は珍しくスーツ姿で、まとっているのは、香水と化粧品の柔らかな香りだ。
 玄関に入るなり、人懐こい犬っころのように嬉しそうな顔をして、千尋が抱きついてくる。
「せーんせっ」
 あまりの勢いに少しよろめいた和彦だが、なんとかしなやかな体を受け止めつつ、ドアの鍵をかける。
「……機嫌がよさそうだな。酔ってるのか?」
「うん。きれいな女の人がたくさんいる店に行ってた」
「そうか。こんなに酔ってるなら、まっすぐ本宅に帰ればよかっただろ」
 何げなく和彦が応じると、顔を上げた千尋が不満そうに唇を尖らせた。
「さらりと受け流さないで、少しぐらい嫉妬してみせてよ」
「バカ。こんなことで嫉妬してたら、こっちの身がもたない。だいたいお前、カフェでバイトしている頃、よく合コンだなんだって、女の子と遊んでたじゃないか」
「あれは、友達のつき合い。今夜は、組のつき合い。――本気のつき合いは、先生だけ」
 大まじめな顔で言い切った千尋だが、酔いのせいか、目の焦点がかなり怪しい。突然の千尋の訪問ということで体を強張らせていた和彦だが、いつの間にかいつものように接してしまう。
 普段以上に甘ったれな犬っころぶりに拍車がかかっており、神経を張り詰めて相手をしていると、かえって異変を悟られそうだ。酔ってはいても、千尋の嗅覚はバカにはできない。
「とにかく上がれ。ここに寄ったということは、泊まっていくんだろ」
「……うん。いい?」
 首を傾けて問いかけてきた千尋が、次の瞬間には、甘えるように和彦の肩に額をすり寄せてくる。そんな千尋の頭を片腕で抱き締めて、和彦は応じた。
「ぼくが追い返すとは思ってないだろ、お前」
 悪びれることなく頷いた千尋の頭を、思いきり撫で回してやる。
 和彦は、千尋を支えながら寝室に連れて行き、ベッドに横にさせる。とことん和彦に甘えるつもりなのか、千尋は大の字になってしまい自分で何もしようとはしない。仕方なく和彦は、千尋の靴下を脱がせてから、体の上に馬乗りになる。千尋が楽しそうに笑い声を上げた。
「すげー。これから先生に犯されそう」
「あんまり変なこと言うと、部屋から叩き出すぞ」
 ジャケットを脱がそうとして、ポケットに入った携帯電話に気づく。色は違うが和彦と同じ機種、ストラップまでお揃いというもので、見るたびに気恥ずかしくなるのだが、ヤクザの世界にいて、妙なところで純真なままの千尋が可愛くもある。
 一方の自分は――と考えると、和彦は自己嫌悪に陥らずにはいられない。とっくに純真さなどなくしてしまい、狡猾で計算高くなるだけだ。そのくせ、秦に簡単に口づけを許してしまった。
 和彦は大きくため息をつくと、サイドテーブルに千尋の携帯電話を置いてから、自分もベッドに転がる。嬉々として千尋にさっそく抱き寄せられ、有無をいわさず唇を塞がれた。
「こら、今夜はおとなしく寝ろ――」
 口でそう言いながらも和彦は、千尋と唇を啄ばみ合っていた。
「組のつき合いって、お前の父親も一緒だったのか?」
 穏やかなキスの合間に問いかけると、千尋は小さく首を横に振る。
「総和会絡みの会合で、俺はじいちゃんについて行ったんだよ。俺みたいな二十歳そこそこのガキなんて、じいちゃんやオヤジの威光がないと、幹部クラスには相手にしてもらえないから、そうやって顔と名前を売るんだ」
「……売らなくても、知られてるんじゃないのか。だいたいお前、長嶺組を継ぐことは決まってるんだから、今からそういうことをするなんて……」
「ヤクザの世界じゃ、血統っていうのはそんなに大事にされてないんだ。あくまで実力主義。だから、ひいじいちゃんからじいちゃん、そしてオヤジ、俺、って形で続こうとしている長嶺組は、珍しいっていうか、異端なんだよ。じいちゃんが総和会の会長になったから、なおさら注目度アップで、俺の肩にのしかかる期待と重圧は半端じゃない――」
 もっともらしい顔で大事な話をする千尋だが、その手は油断なく動き、和彦が着ているTシャツをたくし上げて、スウェットパンツと下着を引き下ろしにかかっている。
「跡を継ぐことが決まっているから楽なんじゃない。継ぐことが決まってるから、キツイんだ。みんな、今から俺を値踏みしてる。じいちゃんやオヤジは怖くても、俺ならどうにかできるかもしれない、と舌なめずりしてる奴もいるだろうな。俺としては、そういう甘い期待をぶち壊して、高笑いしてやりたいんだ」
「……大人なんだか、ガキなんだか、お前が言っていることを聞いていると、わからなくなる」
「大人だろ、立派な」
 意味深にそう囁いてきた千尋に片手を取られ、スラックスの上から高ぶりに触れさせられる。
 スーツ姿でしたたかに笑う青年を、和彦は目を丸くして見つめる。まるで、千尋ではないみたいだ。いや、確かに千尋なのだが、新たな一面を見せ付けられ、和彦は戸惑っていた。
「――……スーツなんて着ているせいか、別人みたいだ、千尋……」
「迫られて、ドキドキする?」
 正直に答えると調子に乗らせるだけだと思い、和彦は顔を背けようとしたが、傲慢な手つきであごを掴まれて、深い口づけを与えられる。
 その間にも千尋にさらにスウェットパンツと下着を引き下ろされ、とうとう脱がされてしまう。
 覆い被さってきた千尋が、余裕ない手つきでスラックスの前を寛げながら、和彦の胸元を舐め上げてくる。和彦はわずかに息を弾ませて言った。
「泊まってもいいから、今夜はおとなしくしていろっ……」
「それは無理。――きれいな女に囲まれて、ちやほやされながらずっと考えていたのは、先生のことだった。早く先生を抱きたくて仕方なかった」
 そんな情熱的なことを言いながら、目を輝かせた千尋が自分の指を舐める。胸の突起に吸い付かれながら、和彦の内奥の入り口は濡れた指にまさぐられる。
「んっ、んうっ……」
「力抜いててね。――入れるよ」
 二本の指が、狭い内奥をこじ開けるようにして挿入されてくる。片足を抱え上げられて、千尋の指が付け根まで収まると、下肢に甘苦しさが生まれる。
 内奥を解すため、ゆっくりと指を出し入れしながら、千尋の唇が気まぐれに体のあちこちに押し当てられ、和彦が控えめに喘ぎ始めると、唇を何度も吸い上げられる。
「はあっ」
 ねっとりと指で内奥を撫で回されて喉を震わせた和彦は、千尋の肩に手をかけたが、このとき、胸元を撫でる滑らかでひんやりとした感触に気づく。千尋が締めているネクタイだ。
 思わず手を伸ばして触れると、それに気づいた千尋がにんまりと笑いかけてくる。
「ネクタイが気になる?」
「別に……、ネクタイが珍しいわけじゃない。ただ、お前がネクタイを締めているのが不思議で――」
「興奮する?」
「違うっ」
 和彦の反応がおもしろいのか、声を洩らして笑っていた千尋だが、ふいに、内奥から指を引き抜いた。代わって押し当てられたのは、熱く脈打っている千尋の欲望だ。
「あっ……」
 千尋はスラックスの前を寛げただけの姿で、和彦の中に押し入ろうとしていた。
 それは、ひどく新鮮な興奮だった。千尋がスーツ姿であるということも珍しいし、十歳も年下の青年がほとんど服装を乱すことなく、裸に近い姿となっている自分にのしかかっているのだ。
 スーツ姿の賢吾に傲慢に体を繋がれるのとは、まったく違う感覚だった。
「んうっ」
 内奥に太い部分を呑み込まされ、それだけで和彦は乱れてしまう。
「なんか、この格好、すっげー卑猥。俺が先生をイジメてるみたい。先生が俺に逆らえなくて、恥ずかしい姿にされて、こんなもの尻に入れられて――」
 一度は引き抜かれた千尋のものが、ゆっくりとまた内奥を犯し始める。触れられないまま和彦のものは反り返り、先端から透明なしずくをはしたなく垂らしていた。
 和彦がシーツを握り締め、押し寄せてくる快感に耐えていると、緩やかに腰を動かしながら千尋がネクタイを解き、首から抜き取る。次に和彦の両手首に、そのネクタイを巻きつけて結んでしまった。
「千尋っ……」
 和彦が声を上げると、千尋はさらに腰を進め、これ以上なくしっかりと繋がる。
 両手は体の前に回しているうえ、ネクタイによる拘束そのものも緩いため、結び目を歯を使って解くことは難しくない。これは、〈拘束ごっこ〉と呼べるものだ。
 和彦の姿をじっくりと眺めて、千尋が吐息を洩らす。
「ますます、卑猥になったね、先生」
「お前、あとで覚えていろよ」
 負け惜しみのように和彦が言うと、すかさず濃厚な口づけを与えられた。内奥では、興奮しきった千尋のものが堪え切れないように蠢き、脆くなった和彦の襞と粘膜を擦り上げてくる。
 二人は、刺激的な遊びに夢中になり、そこで得られる快感に酔いしれていた。
 千尋に乱暴に内奥を突かれながら、和彦は上半身を捩るようにして乱れる。その姿がまた、千尋の興奮を煽るらしく、反り返ったまま震えるものを扱かれてから、柔らかな膨らみも手荒く揉みしだかれ、強い刺激に和彦は悲鳴を上げる。気がついたときには、熱い精を噴き上げ、下腹部を濡らしていた。
 喘ぐ和彦の唇を軽く吸って、千尋が囁いてくる。
「――先生、中、いい?」
 内奥深くで、千尋の若々しい欲望が脈打っている。和彦は縛められたままの両手を動かし、千尋の頬を撫でた。
「シャワーを浴びたばかりだから、嫌だ」
 千尋は一瞬目を丸くしたが、和彦の仕掛けた軽い遊びに気づいたらしい。ニヤリと笑ったあと、表情を改めてこう言った。
「俺のオンナのくせに、嫌なんて言うな」
 この瞬間、和彦の体を電流にも似た痺れが駆け抜ける。今夜の千尋は、何もかもが違う。だからこそ和彦は惑乱させられ、普段にはない感じ方をしてしまう。
 甘ったれの犬っころではない千尋も、十分に魅力的だった。
 千尋が大きく腰を動かし、迸り出た精を和彦は内奥深くで受け止める。自分でも抑えられないまま、淫らに腰が蠢いていた。
 手首を縛めるネクタイを解いて千尋がしがみついてきたので、ジャケット越しの背を撫でる。
「千尋、スーツが汚れるぞ……」
「――先生は、俺のオンナだ」
 唐突に、真剣な声で千尋が耳元に囁いてきた。何事かと目を見開く和彦の顔を、声同様、真剣な表情を浮かべて千尋が覗き込んでくる。
 行為の最中の戯れのやり取りが、千尋の中の〈雄〉を刺激したのかもしれない。
 和彦が知る男たちの中で、千尋の独占欲や嫉妬心の表現は誰よりも率直だ。つまりそれだけ、純真なのだ。そんな気持ちを傾けてもらえるほどの価値が、果たして自分にあるのだろうかと思いながらも、千尋がぶつけてくる気持ちを和彦は貪欲に受け入れる。
「そうだ……。ぼくは、長嶺千尋のオンナだ」
「だから俺は、大事にするよ。今はまだ、何もできないし、何も持ってないけど、でも、先生を大事にできるし、気持ちだけはたくさんあげられる」
 自分にはもったいない告白だなと思いながら、和彦は両腕でしっかりと千尋を抱き締める。
「……それで十分だ、千尋」
 千尋は、まるで小さな子供のように頷く。その仕種が、たまらなく愛しかった。









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