と束縛と


- 第8話(2) -


 ヤクザの世界に引きずり込まれてから、異常な環境で毎日を忙しく過ごし、気がつけば、それが和彦の日常になってしまった。周囲にいるのは堅気という定義から大きく外れた人間ばかりで、遭遇する出来事も物騒なことが多い。
 しかし、そんな日々の中でも和彦なりに気持ちのバランスを取り、そうすることに慣れ始めていた。
 だからこそ和彦は、ここ最近の異変を確実に感じ取っていた。なんだか空気が落ち着かず、ざわついている。それともヤクザの世界では、この状況が普通なのだろうか。
 こんな仕事も普通なのだろうか――。
 駐車場に停められたワゴン車から降りた和彦は、ため息交じりに呟いた。
「――基本的なことを忘れているようだが、ぼくの専門は、あくまで美容外科だぞ」
 口中で和彦が呟くと、先に車から降りた三田村が首を傾げる。
「先生?」
「なんでもない」
 クリニックに取り付ける照明器具を選ぶため、専門店に出かけていた和彦の元に突然、診てほしい薬物中毒患者がいると三田村から連絡があり、一旦家に引き返して準備を整えたところに、当の三田村が迎えに来た。
 顔を合わせられたからといって、砕けた調子で会話を交わせる状態ではない。和彦には護衛が張り付き、三田村にも、今日は組員がついている。
 若頭補佐という立場上、三田村も手足のように使える組員が何人かおり、和彦の護衛の仕事に就く以外では、彼らを伴って動いているのだそうだ。自分の弟分だと言って、三田村が律儀に一人ずつ紹介してくれたので、和彦は顔も名も覚えていた。
 つまり、三田村が弟分の組員を伴っているということは、それ相応の事態なのだ。
 住宅街の中にある、特徴のない鉄筋アパートの三階へと案内されながら、たまらず和彦は三田村に話しかけた。
「……ぼくがこれから診る相手は、あんたが任されている仕事に関係あるのか?」
 三田村は無表情のまま、曖昧に首を振った。
「関係あるといえば、関係ある。組長の指示だ。――この手の患者の治療にも、今から先生に慣れておいてもらいたい、と」
 ここで和彦は、三階の通路に立つ人の姿に気づいた。派手な髪形をした、まだ二十歳になるかならないかぐらいの青年だ。三田村を見るなり、勢いよく頭を下げた。
 その青年がドアを開けた部屋に、促されるまま和彦は足を踏み入れ、その後ろで三田村は、護衛の組員に辺りを警戒しておくよう指示を出す。部屋に入ったのは、和彦と、三田村とその弟分の組員だけだった。
 理由は簡単だ。部屋は狭い1DKで、大きな男が何人も入ると、身動きが取れなくなる。それでなくてもすでに、組員が二人、部屋で待機していた。
 部屋に立ち込める煙草の匂いに顔をしかめつつ、三田村に肩を抱かれた和彦は、奥の部屋を覗く。
 痩せた青年が布団の上に寝かされ、全身を激しく震わせていた。蒼白となった顔色と、閉じた瞼が震えているのを見て、即座にその青年の傍らに座り込み、脈を取る。
「――薬物を摂取して、どれぐらいの時間が経った?」
 誰にともなく問いかけると、派手な髪型をした青年が震える声で答えた。
「お……、俺が気づいたのは、一時間前です。それまでは、薬を呑んだとか言って、ヘラヘラ笑っていたんです。でも、いつの間にかぐったりして、こんなふうに痙攣し始めて……」
 そう説明を受けた和彦は、青年を風呂場に連れていき、とにかく水を飲ませて吐かせ、胃を洗浄するよう組員たちに頼む。
 それは速やかに実行に移され、風呂場から激しい水音と嘔吐する苦しげな声が聞こえてくる。
「ぼくは、なんでも屋じゃないぞ」
 治療用の道具を小さなテーブルの上に並べていきながら、傍らに立つ三田村にぼそりと話しかける。三田村は表情は変えないながらも、優しい眼差しを向けてきた。
「でも先生は、こちらの無茶な要望に応えてくれる。美容外科専門だと言いながら、患者の腹に手を突っ込んで、大手術だってやるしな」
「死なせるな、と無茶な要求を言ってきたのは、あんたたちの組長だぞ」
「先生が相手だから、組長はそういう要求をしたんだ」
「……ぼくを働かせないと損だと思っているな、あの男」
 話しながらも点滴の準備をしていた和彦は、ふと、テーブルの下に落ちているピンク色の小さな錠剤に気づいた。一瞬キャンディーかと思ったぐらいカラフルで、手に取ってみると、錠剤にはアルファベットの刻印がある。
「何が含まれているかわからないから、手を洗ったほうがいい」
 和彦の手からさりげなく錠剤を取り上げ、三田村がそう忠告してくる。眉をひそめて顔を上げた和彦に対して、三田村は小さく頷いた。
「前から、この手の合成麻薬ってのは、ガキの間で流行っていたんだが、こいつは、特に性質が悪い。お菓子みたいな見た目で、手軽に気持ちよくなれる薬だと思って手を出したら、取り返しがつかなくなる」
「麻薬は麻薬だろ。どれも性質が悪い」
「この小さな粒が、一ついくらするかわかるか、先生?」
 和彦が首を横に振ると、三田村はティッシュペーパーを数枚取って、錠剤を包んでしまう。
「今の相場だと、一万円以上。合成麻薬の値段としては、なかなかの高さだ。だが、よく効く。含まれている〈砂糖〉の量が多いからな。一粒を飲むのはもったいないからと言って、砕いて分けて使う人間もいるらしい」
「使う?」
「少しずつ指に取って、粘膜に擦りつける。手っ取り早く楽しめて、相手がいれば二倍楽しめる――と、得意げに話すバカがいる」
「それは……」
 言いかけて、和彦はため息を洩らした。三田村の言う〈砂糖〉の意味がわかったからだ。そこに、風呂場から組員たちが、青年を引きずって出てきた。
「吐かせたものの中に、溶けかけた錠剤が五錠ありました」
 組員の報告に、三田村が珍しく口中で毒づく。そして和彦を見た。
「ここから先は、先生に任せる。俺たちは、薬に手を出して中毒になった奴に対しては、水を飲ませ続けて、体を縛り上げることしかしない。薬が抜けるか、廃人になるかは、そいつ次第。そうなる覚悟があってヤバイものに手を出したと判断している。ただ今回は、この薬が原因となると、荒っぽい手段は取りたくない」
 三田村は、手にしたティッシュペーパーの包みに視線を落とした。
 なんとなく、三田村が任されている仕事がどんなものなのか、推測できた。長嶺組だけでなく、総和会のいくつかの組が『汚されて』いると賢吾は言っていたが、おそらくこの薬物を指しており、その薬物の出所や売人について、三田村たちは調べているのだ。
 和彦はイスの角に点滴バッグを引っ掛けると、青年の腕に注射針を刺し込んでテープで留める。劇的に薬物中毒が改善される治療薬などないので、胃の洗浄をしたあとは、点滴によって薬物を体内から排出する。
 救急センターにいた頃、薬物中毒の患者の治療をしたことを思い出し、和彦は苦々しい気持ちとなる。救急から離れたことで、こういった患者を診ることはもうないと思ったのだが、最近は物騒な患者しか診ていない。
「治療に必要なものがあるから、買ってきてくれないか」
 和彦がメモを書いて三田村に見せると、そのメモにちらりと目を通した三田村は、組員の一人にメモを渡して指示を与える。
 その会話を聞きながら和彦は、薬物中毒と聞いて必要かもしれないと考えて持ってきておいた活性炭を取り出す。胃の洗浄と点滴だけでは不安なので、これも注入するつもりだった。
「――いつも感心する。先生は、どんな患者相手にも落ち着いているんだな」
 組員の一人が部屋を出ていくと、三田村に言われた。和彦は微苦笑を浮かべながら、注入用のチューブを袋から取り出す。
「結局のところ、痛いのも苦しいのも他人事、だからな。ぼくは、自分が痛くなければそれでいいって考えが染み付いているんだ。患者になるべく苦痛を与えない治療法を施せるが、それは、そういう方法を教わったからだ。医者としてのぼくには、人間的な温かみは求めないでくれ」
「でも、いい医者だ」
「……ヤクザに褒められてもな……」
 和彦が顔をしかめてみせると、三田村は微かに笑みを浮かべた。ふっと柔らかくなる視線を交わし合っていると、それを邪魔するように三田村の携帯電話が鳴る。
 電話に応じる三田村の口調から、相手が誰であるか推測するのは簡単だった。


「――怖くないか?」
 いつものように和彦の肩を抱いてきた賢吾が、唐突にそんな質問をしてきた。質問の意図がわからなかった和彦は、率直に問い返した。
「ヤクザが? それとも、あんたのことが?」
 運転席と助手席に座っている組員が、一瞬緊張する。和彦の感覚ではわからないが、組員たちにとっては空恐ろしくなるような返答だったらしい。賢吾は、喉を鳴らして笑っている。
 青年の薬物中毒の治療が一段落した和彦は、賢吾に昼食に誘われた。三田村の携帯電話にかけてきたのは、賢吾本人だ。
 三田村はまだあのアパートにいて、青年がどうやって薬物を入手しているのか探っているところだろう。決して青年が心配というだけで、あのアパートに組員たちが集まったわけではないのだ。
 一方の和彦は、にぎわう昼間のコーヒーショップで、ヤクザの組長と向き合ってサンドイッチを食べるという、貴重な経験をしてから、治療のためにアパートに戻っている途中だった。
「先生は、別にヤクザは怖がっていないだろ。ただ、俺のことはずっと怖がっている。……俺が聞きたいのは、ヤバイ薬なんてものがひょいっと目の前に現れて、怖くないかってことだ」
「……いまさら怖いものが一つ加わったところで、どう反応していいかわからない」
「先生のそういうところが、肝が据わっているというんだ」
 当然のように賢吾に手を握られ、和彦も握り返す。これまでのつき合いでなんとなく把握したが、賢吾は車中で体を寄せ合うのが好きらしい。それは、千尋のようにストレートな好意をぶつけてくる類ではなく、和彦の従順さを確かめるためのものだ。
 常にこういうことをしてくる男を、怖がるなというのは無理な話だ。
「ぼくが診た患者、千尋と同じ歳ぐらいだ。いや、もう少し若いのか」
「まだ二十歳になってない。うちの若衆の下で小遣い稼ぎをしているようなガキで、組員ではない。が、長嶺の名に少しでも関わっている人間だ。見捨てるわけにはいかねーだろ」
 和彦がじっと見つめると、賢吾はニヤリと笑った。
「俺がそんなに優しいはずがないと、言いたげだな」
「何も言ってないだろ……」
 目を逸らそうとしたが、すかさずあごに賢吾の手がかかり、顔を覗き込まれる。大蛇を潜ませた目が迫ってきた。
「先生が考えた通りだ。ガキを放り出さなかったのは、今のこの時期だからだ。長嶺組と繋がりのあるヤク中のガキが外をふらついていたら、警察にいい口実を与えるだけだ」
「口実……?」
「うちが、今出回っているあの薬の売買に関わっているかもしれない、と考える口実。警察は、薬の売買にどこかの組が関わっていると読んでいるみたいだ。だから――」
 和彦は反射的に、賢吾の手をきつく握り締めていた。賢吾は笑みを浮かべると、和彦の手を取り上げ、手の甲に唇を押し当てる。
「頭のいい先生だ。ここのところの騒動の全体像が、ぼんやりとでも見えてきたか?」
「……蛇蝎の片割れは、薬の件で動いているということか」
「薬の件だけなら、本来あの男は無関係だが、暴力団組織が関わっているとなると、そうもいかない。毒には毒をというわけだ。警察の上の連中としては、鷹津がまた何かしでかしたら、これ幸いとクビを切る気かもしれない。腹黒い俺としては、そこを期待しているんだがな」
 このとき和彦は、三田村の気持ちが少しわかった気がした。返事に困ることを言われたとき、反応のしようがないのだ。
 唇を引き結んだ和彦を、賢吾が意地の悪い笑みを浮かべてからかってきた。
「なんだ、フォローはなしか、先生。やっぱり俺は腹黒いか?」
「人に聞かなくても、自分でわかっているだろっ」
 機嫌を損ねたふりをして、さりげなく賢吾から離れようとしたが、それを許すほど甘い男ではない。反対に、さらに引き寄せられた挙げ句、あごを掴まれて唇を塞がれた。熱い舌に無遠慮に唇をこじ開けられ、口腔に押し込まれる。和彦は一瞬だけ体を強張らせたが、すぐに力を抜き、身を委ねた。
 たっぷり口腔の粘膜を舐め回され、引き出された舌を吸われたかと思うと、甘噛みされる。身震いしたくなるような疼きが生まれ、思わず和彦は賢吾の腕に手をかけた。そのまま舌を絡め合っていたが、ふと、ある考えが脳裏を過る。伏せていた視線を上げると、賢吾と目が合った。
 舌を解き、下唇をそっと吸い上げられる。囁くような声で賢吾が問いかけてきた。
「どうした、先生?」
「……ぼくは、組の事情に立ち入る気はない。だけど、どうしても気になることがある」
「いい傾向だ。自分は知らないと背を向けていたところで、先生の背にはしっかりと、組の事情がのしかかっているんだ。そろそろ、その重さを実感する頃だろ?」
 何もかも見透かしたような賢吾の口調が腹が立つ。しかし、無視できないのも確かだ。どれだけ目を閉じ耳を塞いだところで、和彦はとっくに、組の事情に頭の先まで浸かっている。あとは、和彦がそれらの事情を、自分の腹に呑み込めるかなのだ。
「――気を悪くするかもしれないが……、長嶺組は、本当に薬の件には関わってないのか?」
 賢吾がスッと目を細め、指先で和彦の頬をくすぐってきた。官能的な口づけで熱くなっていた和彦の体は、急速に冷えていく。
「うちの組は、薬関係は扱っていない。そもそも総和会には、組員が薬物で警察に挙げられたら、その組は即除名という会則がある。薬の商売をしている組は、総和会にはいられない」
 ここで唇を吸い上げられ、和彦もぎこちなく応じる。賢吾の言葉をどこまで信じればいいのかと困惑していると、腹黒いなどという表現では足りない怖さを持つ男は、言葉を続けた。
「が、それは裏を返せば、総和会に加入している組の名さえ表に出なければいいということだ。先生ならわかるだろ。うちの組は、長嶺組という一つの組織で成り立っているわけじゃない。傘下の組やフロント企業、下部組織……、名前や形態は違えど、長嶺組の代紋を使っているところは、いくらでもある」
「つまり、長嶺組の身内が薬を扱っていても、〈長嶺組の組員〉という肩書きでない限りは、総和会は見ないふりということか」
「総和会の活動資金の半分は、十一の組からの〈寄付金〉が占めている。肝心の組から寄付金が取れなきゃ、困るのは自分たちだ」
 賢吾は短く声を洩らして笑い、和彦の機嫌を取るように唇を啄ばんでくる。今度は応えず、きつい眼差しを向け続けていると、軽く息を吐き出した賢吾が体を離した。ただし、和彦の片手を握ったままだ。
「……そう睨むな、先生。例えとしてうちの組を出しただけだ。総和会にいる組のいくつかは薬を扱っているが、うちは違う。ただしそれは、任侠だとか美学とかいう立派な理由からじゃない。――俺は、臆病で慎重なんだ。非合法な稼ぎとして薬は魅力的だが、リスクが半端なくでかい。そのリスクをあえて冒すほど、長嶺組のシノギは悪くない」
 賢吾が、こんなことで和彦にウソをつく必要はない。ひとまず、この言葉を信じることにした。
 賢吾に後ろ髪を撫でられ、和彦はわずかに顔を背ける。
「こんな生活を送っていて、ぼくはいまさら綺麗事を言うつもりはない。何もかも買い与えられているが、その金は長嶺組が稼ぎ出したものだからな。薬も……、手を出す奴が愚かなんだと思っている。自業自得だ。ただ、あんなものを使って、ぼくの知っている人間が壊れていくのは見たくないと思っている」
「先生は優しいし、現実的だ」
 再び賢吾の唇が、手の甲に押し当てられる。
「エゴイストだと言いたいんだろう……」
「いいや。優しいんだ。それに、甘い」
 バリトンの魅力を最大限に引き出す囁きに、和彦の顔は熱くなってくる。後ろ髪を撫で続けている手に頭を引き寄せられ、賢吾の肩に額を押し当てた状態で会話を交わす。
「――俺は、薬を扱う奴も使う奴も、信用していない。すぐに、誰にでも尻尾を振る種類の人間だと思っているからな」
 内容は物騒ながら、耳元で聞く賢吾の声が心地いい。和彦は思わず、両腕を賢吾の背に回していた。すると賢吾の大きな手が、子供を甘やかすように背を撫でてくる。
「ぼくは薬を使ってはないが、他の人間からは、そんなふうに思われているかもしれない。力と金で、誰にでも尻尾を振ると……」
「先生は、主が誰かしっかりわかっているし、従順だろ。最初にしっかり躾けて、首にぶっとい鎖をしてあるからな」
 顔を上げた和彦が睨みつけると、予想通りの反応だったらしく、賢吾が笑いかけてくる。だが次の瞬間には表情を引き締め、怖い男の顔となった。
「……今回の薬の件は、気に食わない。人のシマでああいう商売をするなら、通すべき筋がある。それを通さないどころか、組の存在を、警察への目くらましに使っている節もあるんだから、腹も立つだろ。組のシマを汚すうえに、俺の面子を汚す行為だ」
「その手の物騒な話に興味はない」
「そうはいっても、荒事になったら、先生の仕事が増えるかもしれない」
 和彦は賢吾の頬をてのひらで撫で、そっと唇に噛みつく。背にかかったままの賢吾の手に、わずかな力が加わった。
「そうならないよう、努力はするんじゃないのか。組長としては」
「その組長のオンナっぷりに磨きがかかったな、先生」
 和彦はパッと体を離して、顔をしかめる。賢吾はニヤニヤと笑って、そんな和彦を意味ありげに見つめてくる。
 車が鉄筋アパートの前に着くと、あらかじめ連絡しておいたこともあり、三田村が待っていた。車が停まると同時に、速やかにドアが開けられる。
 和彦が降りようとすると、背後から賢吾に話しかけられた。
「――先生、俺は、自分の手を薬で汚すのは嫌だが、薬が生み出す旨みは好きだぜ」
 いきなり何事かと訝しみながら和彦が振り返ると、賢吾は唇に、凄みのある笑みを刻んでいた。
「金どころか、人脈も生み出すからな。うちの組とは関わりのない奴が、その旨みを俺の前に運んできてくれりゃ、最高だと思わないか?」
 凄まれたわけでもないのに、賢吾の空気に呑まれてしまった和彦は、咄嗟に言葉が出なかった。やはり、身を潜めてはいても大蛇は怖い。そこにいるだけで、恐怖の対象なのだ。
「そんな……、そんな都合のいい人間、どこにいるんだ」
「案外、身近にいたりしてな」
 ヒヤリとするような冷気に肌を撫でられた気がして、和彦は小さく身震いする。三田村に声をかけられなければ、そのまま動けなかったかもしれない。
「……お宅の組長、何か企んでいるのか?」
 走り去る車を見送りながら、傍らに立つ三田村に声をかける。表情を変えないまま三田村は首を横に振った。
「俺程度の人間が読み切れる人じゃない」
「だったら、ぼくはなおさら無理だな」
 三田村が何か言いたげな顔をしたので、和彦は素早く釘を刺した。
「そんなことはない、なんて言うなよ。そこは素直に、同意してくれ」
 こんなことでムキになる和彦がおもしろかったらしく、三田村は微笑を浮かべる。賢吾の凄みのある笑みを見たあとだと、ほっとするような表情だ。
 青年を診るため、さっそく部屋に向かっていたが、鉄筋アパートの階段の途中でふいに三田村が足を止めた。
「――あれから、秦は何か言ってこないか?」
 突然の問いかけに、和彦はビクリと肩を震わせる。隣に立った三田村が、容赦なく鋭い視線を向けてきた。
「あっ……」
 小さく声を洩らしてから、答えを逡巡する。怪我をした秦をやむをえず治療したことを、和彦は誰にも告げていない。もちろん、三田村にも。
 もう一度、秦が自分に絡んできたら、あとの対処は長嶺組に任せると言った。あのときは確かに本気だったのだ。それなのに、秦は、悪辣な脅迫者としてではなく、重傷を負って弱った姿で目の前に現れた。
 あの状態の秦を捕えるのは、ヤクザにとっては造作もないだろう。
 さきほど賢吾に言われた言葉が蘇る。和彦は、自分が優しい人間だとは思っていない。ただ、甘い人間であることは認めざるをえない。
「先生?」
 三田村に呼びかけられ、反射的に和彦はこう答えていた。
「大丈夫……。まだ何も言ってこない。さすがに自分の身が危ないと思ったんじゃないか」
 三田村は返事をしなかった。ただ、和彦を見つめてくる。向けられる厳しい眼差しから、三田村の気持ちは簡単に推し量れた。
 和彦の大事な〈オトコ〉は、保身のために秦を警戒しているのではない。ただ、和彦の身を案じてくれているのだ。
「何かあれば、すぐに知らせてくれ。こういう言い方は卑怯かもしれないし、そもそも効き目があるのかわからないが――、俺のためにも、先生は組の連中に素直に守られてくれ。そして、頼ってくれ」
 和彦は目を丸くしたあと、わずかに視線を伏せた三田村に笑いかける。
「……効き目十分だな、その台詞は」
「だとしたら、らしくないことを言った甲斐があった」
 三田村を煩わせたくなかった。和彦個人の事情に巻き込んで、組の中でさらに複雑な立場に追いやりたくない。
 だからこそ、やはり秦のことは言えなかった。自分の甘さが引き起こした問題である以上、できることなら、自分自身でケリをつけたい。
 和彦は一瞬だけ三田村の指先を握り締めてから、小さく呟いた。
「――大丈夫だ。心配いらない」




 スタジオで体を動かした和彦が、タオルで汗を拭きながらラウンジに向かうと、一足先にプログラムを終えたのか、中嶋がイスに腰掛けてスポーツ飲料を飲んでいた。和彦に気づくと、笑顔とともに会釈される。
「――先生、ずいぶんハードなのをスタジオでやってましたね」
 向かいのイスに腰掛けた和彦に、中嶋がさっそく話しかけてくる。見ていたのかと、思わず苦笑が洩れた。
「インストラクターに勧められたんだ。体力と持久力をつけたかったら参加してみませんか、って。一人でもくもくとマシンを動かすのも飽きていたし。さすがに、いきなり中級者クラスはきつかった」
「でも、様になってましたよ。パンチのときの腰の入り方といい、ハイキックでの足捌きといい」
「嫌いな人間を思い描くのがコツだな。そう思うと、狙いがズレない」
 音楽に合わせて体を動かすというと、まっさきにエアロビクスが頭に浮かぶのだが、インストラクターが勧めてきたのはボディアタックというプログラムだった。みんなと一緒に体を動かすということに気恥ずかしさを覚える性質の和彦も、全体の動きが格闘技のようだったため抵抗も少なく、興味半分で参加してみたのだ。
「誰を思い描いていたのか、聞くのが怖いですね」
 中嶋の言葉に、和彦は真顔で応じた。
「少なくとも、君じゃない」
「……先生も人が悪い……」
 二人は顔を見合わせ、同じ世界に身を置く者同士にしか通じない笑みを交わす。
 ここまでは、挨拶だ。すぐに二人は笑みを消し、テーブルに身を乗り出すようにして、声を潜めて話す。
「――彼の様子は?」
「よくなってきています。倒れて動けなかったときに比べれば格段に、と言えるぐらい。それでも、体中ひどい有様です」
 自分のことのように顔をしかめる中嶋は、とてもではないが、野心的なヤクザには見えない。ただ、この世界に足を踏み入れてわかったが、ヤクザであることを匂わせないヤクザのほうが、実は性質が悪い。
 その一人が中嶋なのだが、少なくとも秦の件で見せる表情は、本心だろう。それだけ、あの男――秦を本気で心配しているのだ。頭の切れる中嶋が、明らかに厄介事を背負っている秦をまだ自分の部屋に匿い、世話を焼く理由としては、それしか思いつかない。
「あれだけの内出血だ。さぞかし派手な痣になってるだろうな」
「ええ。男ぶりが台無しだと嘆いてましたよ」
「そんなことが言える余裕があるなら、大丈夫そうだ」
 和彦がこう言うと、途端に中嶋は表情を曇らせた。
「一応体を起こせるようにはなりましたが、息をするのもつらそうです。胸が痛いと言って」
「まあ、肋骨が折れているんだからな……」
 ここで二人の間に、不自然な沈黙が流れる。肝心な部分をはぐらかして会話することに、どうしても無理が生じてしまうのだ。
 組の事情にも立ち入らないし、ヤクザ個人やそれに近い人間の事情にも立ち入らない姿勢を貫きたい和彦だが、つい二日前に賢吾に言われた言葉が脳裏を過る。
 いくら和彦が知らないと背を向けたところで、組の事情はどんどんその背にのしかかっていく。和彦が関わった人間の事情もまた、そうやって背にのしかかるのだ。これはもう、和彦の意思だけではどうにもならない。
 汗で濡れた髪を手持ち無沙汰に拭きながら、とうとう和彦は切り出した。
「――……君は、何か感じているんだろう。彼が何かしらトラブルに巻き込まれていると。あの怪我は、酔っ払いに絡まれたとか、そういう生易しいものじゃない。痛めつけるという意図を持ったうえでの、リンチの跡だ」
「ええ、まあ。一応、暴力沙汰には慣れているので……」
 困ったような中嶋を見ていると、別に責め立てているわけではないのに、居心地が悪くなってくる。中嶋としては、和彦に何を言われても甘んじて受け入れるつもりなのかもしれない。
「秦さんからは、何か説明してもらったのか?」
「……それとなく、仄めかすようなことは。ただ、本名を教えてくれないように、秦さんはどこからどこまでが本当で、ウソなのか、境目がわからないような話し方をするんです。もしかすると、すべてがウソなのかもしれない。もちろん、その反対もありうる」
 何を教えてもらったのか、危うく和彦は無防備に尋ねそうになったが、このとき中嶋がようやく見せた、いかにも筋者らしい鋭い笑みに息を呑む。
「俺は、ヤクザですよ。単なるお人好しじゃない。確かに秦さんに恩はあるし、世話にもなってます。だけど、純粋に善意だけで助けたわけじゃないんです。……秦さんからは、金の匂いがする。しかも、真っ当な手段で得る金じゃない。秦さんを襲った連中も、その辺りに関係していそうなんです」
「だから……?」
「秦さんは、俺の手札になるかもしれない。危険な手札ですけどね。だからこそ切り札にもなりうる」
「……総和会で成り上がるために、か」
 冷めた口調で和彦が言うと、中嶋は軽く肩をすくめる。
「正直俺は、自分が元にいた組に戻る気はないんです。戻ったところで、俺より使えない人間が大きな顔して居座っている。だけど総和会は生え抜きの人間揃いで、学ぶべきことが多い。だからこそ、総和会での自分の居場所を確保しないといけないんです」
 普通の青年の顔をしていても、中嶋は内にたっぷりの野心を秘めたヤクザだ。そんなことはとっくにわかっていたことだ。ただ和彦は、ヤクザの言動を頭から疑ってかかるようにしていたせいか、中嶋の演技を見抜いていた。
「悪党ぶらなくても、君はヤクザのくせに優しい、なんて恥ずかしいことは言わないよ」
 目を丸くした中嶋が、まじまじと和彦を見つめてくる。どんな表情を浮かべていいかわからない、といった様子は、とうていヤクザには見えない。
「君が野心家なのも、そのためには他人を利用することも厭わないのもわかる。だけど、彼に対しては、その気持ちがいくらか控えめになるんだろ。恩のあるなしじゃなく……自分たちは似た者同士だと思っているんじゃないか」
 参ったな、と洩らした中嶋が苦笑を浮かべる。
「先生は、怖いですね」
「失敬な」
「――でも、甘い」
 今度は和彦が目を丸くする番だった。中嶋は目の前で涼しげに笑う。したたかなヤクザの素顔が覗いて見えるようだ。
「今みたいな話を聞いたら、俺の頼みを断れないでしょう?」
「頼みって……」
「もう一度、秦さんを診察してください。一応、先生に言われた通りの手当ては続けていますが、不安なんです。もしこれで異変がないなら、もう無茶は言いません。だからあと一回だけ、お願いします」
 テーブルに額を擦りつけるようにして中嶋が頭を下げる。その姿を見ながら和彦は、自分の迂闊さに歯噛みしたくなった。もう面倒事は嫌だと断りたいのに、中嶋が言った通り、断れない。打算だけではない中嶋と秦の奇妙な関係を知ると、和彦は非情に徹しきれないのだ。
 聞こえよがしにため息をつき、ぼそりと答えた。
「――……これが最後だからな」
 和彦の返事に、中嶋が顔を上げる。このとき一瞬見せたのは、心底安堵したような表情だった。こんな顔をされると、ますます断れない。
 ただ、流されるばかりではいけないと、和彦はある条件を出した。
「ぼくは、長嶺組に不信感を抱かれるようなことはしたくない。極力悟られないよう動くが、もしバレて、何をしているのか聞かれたら、正直に答える。君のことも、秦さんのことも」
 中嶋は厳しい表情で考え込んでから、頷いた。
「でも――」
「わかっている。ぼくだって、あれこれ追及されるのは嫌だ」
 これで話は決まった。
 一人で動けるのは夜しかないと和彦が告げると、一方の中嶋は、夜は総和会に詰めているということで、更衣室に移動してから合鍵を渡される。その合鍵を受け取ることに、和彦はためらいを覚えずにはいられなかった。また、秦と二人きりになってしまうのだ。
 しかしいまさら嫌だとは言えず、結局、合鍵を受け取った。









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