夜、中嶋の部屋に向かう手順は前回と同じだ。二度目とはいえ、さすがにマンションの前からタクシーに乗り込むまでは、緊張のあまり指先が冷たくなって痺れていた。
しかも、いざ中嶋の部屋の前まできても、違う緊張感が和彦を襲う。
秦がまた、何か仕掛けてくるのではないか――。
それを予期していながら、こうして部屋を訪れるのは、まるで自分が何かを期待しているようで、嫌でたまらなかった。だが、中嶋と約束したため、いまさら引き返すわけにもいかない。
これが、和彦の甘さだろう。ヤクザにいいように利用されるとわかっていても、持って生まれた甘さは容易に捨てられないのだ。
合鍵を使ってドアを開けると、玄関に電気はついていたが、廊下やダイニングは暗かった。どうやら秦は眠っているようだと見当をつけ、和彦は気配を殺して靴を脱ぐ。
秦が使っている部屋を覗くと、こちらも電気は消えていたが、テレビはついていた。ただ、ベッドに秦の姿はない。
「先生――」
突然、背後から声をかけられて、和彦は飛び上がりそうなほど驚く。慌てて振り返ると、やや前屈み気味の姿勢で秦が立っていた。
「何、してるんだ……」
硬い声で和彦が問いかけると、秦は苦笑めいた表情を見せ、あごに手をやった。顔を殴られた跡はいくらかマシになったようだが、やはり端麗な顔立ちには不似合いだ。
「洗面所でヒゲを剃っていたんですよ。中嶋の奴に、ひどい顔だと言われたんで。……ちょうどよかった。先生にみっともない姿を見られなくて済みましたね」
「……殴られてズタボロになった姿を見ているんだ。いまさら何を見たって平気だ」
ベッドに戻るよう促すと、秦は素直に従う。ぎこちない動きでベッドに腰掛けた秦に対して、和彦は余計なことを言わず、無造作にパジャマの上着を脱がす。
一旦、コルセットを外して診察する。もっとも、診察とはいっても、折れた肋骨は安静にしていればひどいことにはならず、体中の打撲も、痛む部分は湿布を貼るしかない。日を置いて新たな症状が出ていないか、それが心配だったが、大丈夫そうだ。
右手の傷も診てみたが、和彦が何かする必要もなく、ガーゼは取り替えられ、包帯もきれいに巻かれていた。秦の体に貼られた湿布を見ても思ったが、中嶋は和彦の言いつけ以上に甲斐甲斐しく、秦の世話をしているようだ。
秦は自分の切り札になるかもしれないと言いながら、普通の青年の顔をして野心をたっぷり抱えたヤクザは、本当はどんな気持ちで、この性質の悪い男の面倒を看ているのか。中嶋の気持ちを想像して、和彦の胸は不穏にざわつく。
愛欲に満ちた和彦自身の今の環境のせいもあるし、何より、秦という男の存在が鮮やかで艶かしく、謎に満ちているせいだ。
自分のような存在と、秦のような存在は、本来は近づくべきではないのだと、なぜかこの瞬間、甘さを伴った危機感が芽生えた。
「先生?」
秦に呼ばれ、我に返る。何もなかったふりをして和彦は、コルセットと上着を押し付けた。
「もう、ぼくが診る必要はないだろ。我慢できるなら出歩いてもかまわないが、無茶はするな。体中の派手な痣が消えたら、一度きちんとした病院で、レントゲンを撮ってもらうことだな」
「その口ぶりだと、先生はもう診てくれないんですか?」
秦は、コルセットを傍らに置き、慎重な動きで上着を羽織る。
「ぼくは、美容外科が専門だ。それに本来、あんたを診る義理もないしな。……中嶋くんの頼みで来ただけだ」
「あいつは、先生を信頼しているうえに、それなりに扱い方も心得たようですからね」
「彼にまで、甘いと言われたよ」
秦は小さく噴き出したが、それが胸に響いたらしく、次の瞬間には呻き声を洩らす。ささやかだが、和彦の溜飲を下げる。
念のため、治療に必要そうなものは最低限持ってきたのだが、一切使わなくて済んだ。和彦はバッグを手に立ち上がろうとする。
「帰るんですか?」
秦からかけられた言葉に、反射的に鋭い視線を向ける。
「用が済んだんだから、当たり前だ。こっちは自由に一人で動き回れる立場じゃないんだ。もし、得体の知れない男の元にいたなんて知られたら、どんな目に遭うかわからない」
「――でも、手荒なことはされないでしょう。蛇みたいに冷酷で怖いことで有名な長嶺組長が、強引な手段で手に入れた〈オンナ〉を大事に可愛がっていると、部外者のわたしの耳にも入っているぐらいです。手荒なことなんてとんでもない。先生相手だと、せいぜい淫らなお仕置きでしょうね」
挑発されているとわかっていながら和彦は、秦の頬を平手で殴った。考えてみれば、賢吾のオンナであることを指摘されて、感情的な反応を示したのはこれが初めてかもしれない。
「ぼくを……、ぼくを振り回して、怒らせて、何が目的なんだ。言っておくが、君がこうして、のうのうと体を休めていられるのは、ぼくが長嶺組に何も報告していないことを忘れるな」
「ええ、忘れていませんよ」
「本当か? 長嶺組の力があれば、あんたを襲った人間のこともわかるかもしれない。そうなれば、あんたが選べばいい。長嶺組に引き渡されるか、自分を襲った人間たちに引き渡されるか。……選ぶ権利はやる。どちらに痛めつけられたいのか」
秦は真剣な顔となって、和彦が殴った頬を撫でる。単なるハッタリを言っただけで、秦の答えなど本気で求めていなかった和彦は、この隙にと立ち去ろうとしたが、すかさず秦に手首を掴まれた。
「――先生にも、選ぶ権利をあげますよ」
手を振り払わなかった時点で、和彦は秦の話に引き込まれていた。
「わたしにもう少しつき合ってくれるか、今この場で、わたしが長嶺組に連絡を入れるか。お宅の組長のオンナをお預かりしていますとでもいえば、長嶺組は大騒ぎでしょうね。今度ばかりは、先生の忠実な騎士もすぐに駆けつけるというわけにはいかないでしょう。先生がどこにいるのかわからないんですから」
和彦は、秦を睨みつける。一方の秦は、肋骨が折れて、体中が痣だらけだということを感じさせない艶っぽい笑みを浮かべ、掴んでいた和彦の手首を離す。
「……目的はなんだ。ぼくを脅すということがどれだけ危険か、承知しているはずだ」
「危険であると同時に、魅力的ですよ。先生は、総和会の中ですら絶対の発言力を持つ長嶺組に庇護され、大事に大事に扱われている。長嶺組長の単なるセックスパートナーじゃない。先生は、長嶺組にとってのビジネスパートナーでもある」
「ぼく個人にはなんの力もない」
「ありますよ。先生は自覚してないだけで。――総和会より怖いともいえる組織が、先生の守り神になっている。それは先生の力です」
この男は何を切り出してくるのかと、和彦は静かに身構える。
「長嶺組の前組長は、今は総和会の会長ですが、その前組長と並ぶ切れ者ぶりで、さらに容赦ない性格だと言われているのが、現組長です。身内を完全に支配して統率する代わりに、寛大で柔軟な組織運営をすると言われています。ただし、それを阻害する人間は簡単に切り捨てるとも言われてますけど」
「だから、なんだ……」
「長嶺組長は警戒心が強く、慎重です。外部の人間は信用しないし、まず関わりを持たない。まともに話ができるのは、身内に引き入れてからだそうです。身内にすれば、自分の腹ひとつで生殺与奪が決められるから、と物騒な噂を聞いたことがありますが。わたしは、そんな長嶺組長――長嶺組を後ろ盾にして、商売がしたいんです」
中嶋だけでなく、秦も野心家だ。しかも、危険な野心を持っている。毒気にあてられたような眩暈を感じ、和彦は頭に手をやる。
「……本人にそう訴えたらどうだ。中嶋くんのツテを頼れば、会うぐらいはできそうだろ」
「総和会を通す気はないんです。わたしは長嶺組とサシで、ビジネスの話がしたい。それに、少々厄介な事情を抱えていて、まともに取り合ってもらえる可能性が低いんです」
「だから、ぼくにどうにかしろと? 無理だ。ぼくは組の事情に首を突っ込む気はないし、自分のことで手一杯だ。力になるにしても、相手は選びたいしな」
手厳しい、と洩らして秦は肩をすくめる。しかし、落胆した様子はない。和彦が承諾するとは思っていなかったのだろう。
秦の今の話には、切迫感がないように感じた。事実を話していないようでもあり、和彦の反応をうかがうために、それらしい話をでっち上げたようでもある。とにかく、掴み所がない。
「いままで適当に、あちこちの組とつき合いながら店を経営していたんなら、どうして今になって、長嶺組と近づく必要がある。……あんたの話は、何かおかしい」
「先生は勘がいい」
そう言ったきり秦は口を噤み、ただ柔らかな眼差しで和彦を見つめてくる。一分はその時間に耐えられた和彦だが、秦はもう続きを話す気がないのだと悟ると、ため息をついた。
「話がそれだけなら、ぼくは帰る。――今聞いたことは、全部忘れる。それだけじゃなく、この部屋であったことも」
「残念ですね。わたしはむしろ、先生との間にあったことを忘れられないよう、心と体に刻みつけておきたいんですが」
そう言って秦が片手を差し出してくる。和彦が軽く目を見開くと、秦は美貌を際立たせるような艶っぽい笑みを浮かべた。
「円満にこの場で別れられるよう、また秘密を持ちましょう。わたしは先生とのことを誰にも言いません。先生も、わたしとのことを誰にも言わない。それを確実に履行するために必要な秘密ですよ」
「……ぼくが拒否すれば、すぐに組に連絡する、か」
「互いに脅し合って、この場から動けなくなるという選択肢もありますよ」
本当のところ、ヤクザに囲まれて生活している和彦にとって、秦は恐怖の対象にはなりえない。
それどころか実は、立場としては自分のほうが上かもしれない――。そう考えた自分自身が、和彦は怖かった。〈力〉が、物事を考える物差しになるのは、ヤクザの思考そのものだと感じたからだ。
何かに急き立てられるように、バッグを足元に落とした和彦は秦に歩み寄り、強引に顔を上げさせて唇を塞ぐ。すぐに唇を離したが、ベッドに腰掛けたままの秦は艶を含んだ眼差しで和彦を見上げながら、両腕を腰に回してくる。引き寄せられ、逆らえない流れに身を任せるようにして、和彦はもう一度秦の唇を塞いだ。
柔らかく秦に唇を吸われてから、示し合わせたように舌先を触れ合わせ、緩やかに絡める。同時に、腰には秦の腕が絡みつき、抱き締められる格好になっていた。
微かに濡れた音を立てて唇を離すとき、唾液が糸を引く。それを惜しむように秦に軽く唇を吸われた。
「……先生は、本当に甘いですね。脅しにもならない脅しに屈して、わたしを助けてくれるんですか?」
「ぼくはそんなに優しくない。別に、あんたがどれだけ痛めつけられようが、かまわない。ただ――」
「ヤクザの力を頼るのが嫌なんですね。自分の言葉一つで、ある組織が整然と力を振るう様は、興奮できて、甘美でしょうね。ヤクザの世界から抜け出せなくなるほど」
話しながら秦が、和彦が羽織っているパーカーを脱がせ、Tシャツをたくし上げていく。素肌をまさぐられながら、和彦はまた秦と唇を重ね、引き出された舌を優しく吸われた。
「――あいにくわたしは悪党ですから、先生の弱みは遠慮なく利用させてもらいますよ」
口づけの合間に秦に甘く囁かれる。女をたぶらかすことに慣れた男は、〈オンナ〉をたぶらかすことにもためらいを覚えないらしい。
力を行使したくない和彦と、力を持っていない秦が、互いの口を秘密で封じ合おうとするのは、ひどく茶番じみている反面、たとえようもなく淫靡だ。
Tシャツを脱がされた和彦は、手を引かれてベッドの中に招き入れられた。
秦の愛撫は、押し寄せる波のように、穏やかな快感を繰り返し与えてくる。
痕跡を残さないよう、肌に唇を押し当てはするものの、強く吸い上げることはしない。代わりに、熱く濡れた舌が肌を這い回る。
「うっ、あぁ……」
胸の突起を執拗に弄っていた舌が、今度は耳の形をなぞり、舐められる。その一方で、熱く高ぶった二人の欲望はもどかしく擦れ合い、その焦れるような快感に和彦は乱れる。
肋骨を折っているため、動きが制限される秦の愛撫は、性急さとは無縁だ。慎重に体を動かしながら、じっくりと和彦に触れてくる。それとも、もともとこういう攻め方を好む男なのかもしれない。
「――先生」
秦に呼びかけられ、唇を啄ばみ合う。緩やかに舌を絡めるようになると、擦れ合う二人の欲望を秦が片手で握り込み、ゆっくりと上下に扱き始める。秦の手の感触だけでなく、密着し合う互いの欲望の感触にも感じてしまう。
「あっ、ああっ、はぁっ……」
喉を反らして声を上げると、喉元に秦の丹念な愛撫が施される。口腔深くに舌が差し込まれ、下肢から快感を送り込まれるのと同時に、唾液を流し込まれた。
濡れた音を立てながら、秦の唇が首筋から肩、肩先から腕へと押し当てられ、指先を舐められる。
「きれいな指ですね。先生の指が器用に動く様子を見ていると、ゾクゾクするんですよ。この人は乱れ始めると、どんな指の動きをするのかと想像して」
「……一応、気をつけているんだ。あんたの痣だらけの体にしがみつかないよう」
和彦の言葉に、秦はニヤリと笑った。
「余裕ですね、先生」
胸に痛みが響かないよう、秦は慎重に体を起こす。それでも、まったく痛みを感じないというわけにはいかないらしく、わずかに顔をしかめた。
上着を羽織ったままの秦とは違い、和彦はもう何も身につけていない。どんな反応も隠しようがなかった。
和彦の体に、秦は丹念に両てのひらを這わせてくる。両足を開かされて腰が割り込んでくると、和彦の熱くなって反り返ったものは秦の片手に捉えられ、ゆっくりと上下に扱かれる。
「あっ、あっ――……」
「本当は、先生のここも舐めたいんですけどね。前屈みになると、息が詰まりそうなほど胸が痛むんです。残念です。……本当に残念だ。こんなに従順で、快感に素直な先生をたっぷり味わえないなんて」
透明なしずくを滴らせる先端を、指の腹でヌルヌルと擦られる。小さく声を上げて和彦が体を捩ると、片足を抱え上げられ、内奥の入り口を今度は擦られていた。
「あっ」
秦の店のパウダールームでされたように、内奥を指でこじ開けられ、挿入される。
「……ひくついてますね。やっぱり、素直な体だ。そうであるよう、長嶺組長にずっと愛されているんでしょうね。三田村さんは、そんな先生に溺れている、といったところですか」
指の動きに合わせて、顔を背けて喘いでいた和彦は、思わず秦を見上げる。秦は唇に笑みを刻んだ。
「なんとなく、ですよ。店に駆け込んできて、先生を大事そうに抱えているあの人を見たら、そんな気がしたんです。――で、先生は、長嶺組長の一人息子とも仲がいいと聞いているんですが」
話しながら秦の指は内奥から出し入れされ、感じやすい襞と粘膜を擦り上げていた。和彦が一瞬、答えを拒むように唇を噛むと、浅い部分をぐっと指の腹で押し上げられ、痺れるような感覚が生まれる。
「あうっ……」
「もしかして先生は、長嶺組長だけの〈オンナ〉じゃないんですか?」
肉を掻き分けるようにして、長い指が付け根まで内奥に挿入されると、条件反射のように嬉々として締め付ける。目を細めた秦が、内奥で指を蠢かし、掻き回す。
喉を鳴らした和彦は、シーツを握り締めながら言った。
「だったら、なんだ……。ヤクザ三人と同時に寝たら悪いと、悪党を自称するあんたが言うのか?」
目を丸くした秦が、和彦を見下ろしてくる。得体の知れない生き物を見るような眼差しは、次第に興奮の色を帯びたものへと変わっていった。それに伴い、指による内奥への淫らな愛撫は大胆になり、中で指を曲げられて強い刺激を与えられる。
「うあっ……、あっ、ああっ」
ビクビクと腰を震わせて感じると、秦はあっさりと指を引き抜き、楽しげに笑った。
「……わかりますよ、先生にハマる理由が。ハンサムで清潔感があって爽やかな青年医師で、物腰は穏やか。皮肉屋だけど、反面、他人にとてつもなく甘い部分もある。そして、したたかで、底知れない色気があるんです。そのギャップが、たまらない。先生本人は、ヤクザの世界にずっぷり浸かっていながら、まだ堅気としての一線だけは守ろうと足掻いている。そこは、健気ですね。取り澄ました顔の先生を知ったうえで、刺激的な別の顔を知ったら、もうハマったも同然だ」
内奥の入り口に、指ではなく、熱い感触が押し当てられた。この瞬間だけは、相手が誰であろうが身震いするほど感じてしまう。
「わたしも、先生にハマったと言ったら、四人目に加えてもらえますか?」
「何、言って……」
「秘密を共有するという前提抜きでも、先生とこうするのは、麻薬めいた魅力があるんです。一度味わうと、やめられなくなりそうな――」
秦の逞しい欲望が、蕩けて弱くなっている内奥の入り口に擦りつけられたかと思うと、ゆっくりと侵入を開始する。
「あっ……」
「先生、力を抜いてください。絶対に、乱暴にはしませんから。そう振る舞いたくても、わたしの今の体では無理なので、安心してください」
一度は、薬の力を借りて強引な行為に及ぼうとした秦だが、今はとにかく優しく、紳士的だった。それとも、怪我のせいなのか。和彦には判断がつかない。
そもそも、秦とこんなことをしている理由が、快感に霞む頭ではわからなくなってきている。
互いを秘密で雁字搦めにして、秘密を守る。そうして新たに生み出した秘密は、とてつもない罪悪感と恐怖を与えてくるだろう。
この男は、和彦がそれらに耐えてまで守る価値があるのか――。
太い部分に内奥をこじ開けられ、秦が深く腰を進めようとする。緩く首を左右に振って和彦が喘ぐと、一度動きを止めた秦に、反り返った欲望を扱かれながら、もう片方の手に胸の突起を弄られる。
快感に流されてしまう前に、やっと和彦は言葉を紡いだ。
「……あんたは、何者だ」
片手を伸ばして秦の頬に触れる。秦は軽く目を見開いたあと、和彦のてのひらに唇を押し当てて笑った。
「秦静馬がわたしの本名だと、信じていないんですね」
「名前だけの問題じゃない。あんたの存在そのものを言っているんだ。ぼくを〈オンナ〉扱いしている男は、一人は長嶺組の組長で、もう一人はその息子。そして、ぼくの〈オトコ〉は、長嶺組の若頭補佐。……あんたは?」
深い質問だと言って、秦は笑った。和彦がもう、自分を受け入れる気はないと察したらしく、行為をやめる代わりに、覆い被さってくる。そんな秦の体を、初めて和彦は両腕で抱き締めた。
しかし和彦は、この抱擁を後悔することになる。
秦がなかなか体を離してくれず、その間和彦は、秦の体の重みとともに、抱えた秘密の重さと怖さに、ひたすら耐えなければならなかったのだ。
別れ際、玄関で秦に抱き締められてから、和彦は部屋をあとにした。
エレベーターの中で、もう二度と秦と会わないということはおそらく不可能だろうなと、ぼんやりと考える。秘密を共有してしまったということもあるが、秦との間に確かな結びつきができたことを実感していたのだ。
賢吾や千尋、三田村との間で生まれた結びつき――縁と、同種だ。肉欲と切っても切れない縁で、それはすぐに、情へと変化する。さすがに和彦も、それぐらいは学習していた。
複雑になった事態と人間関係を、自分はどうするつもりなのか、考えたくなかった。体も心も、秦から与えられた感覚にまだ酔っている。そのくせ、熱い欲望を受け入れなかったせいか情欲の火が燻っており、胸が甘苦しい。
今、自分を知っている人間と会いたくなかった。特に、体の関係を持っている男たちとは。一目見て、和彦の異変に気づくはずだ。
エントランスを出ると、乾いた夜風に、汗ばんでいる肌をさらりと撫でられる。
和彦は髪を掻き上げてから、歩き出す。深夜とはいえ、繁華街に近い場所柄、通りかかるタクシーを停めるのは容易なのだが、少し歩きたい気分だった。
しかし、十歩も歩かないうちに足を止めることになる。ふいに背後から、短くクラクションを鳴らされたからだ。
反射的に振り返った和彦は、狙っていたようなタイミングで車のヘッドライトの光に目を射抜かれ動けなくなる。
その隙に、車のドアが開いた音がして、誰かが側にやってくる気配がした。
「――妙なところで出会ったな」
かけられた男の声には覚えがあった。鳥肌が立つほどの寒気に襲われ、まだ目が眩んでいながらも、和彦はその場から立ち去ろうとしたが、腕を掴まれ阻まれる。
「放せっ」
手を振り払おうとしたが、容赦なく力を込められる。小さく呻き声を洩らした和彦は、男を――鷹津を睨みつけた。
思いがけない場所で思いがけない男に出会い、頭が混乱していた。それでも、鷹津に対する嫌悪感だけは正常に働いていた。
全身で拒絶を示す和彦とは対照的に、そんな和彦の反応を楽しんでいるかのように鷹津は薄い笑みを浮かべていた。やっと獲物を捕えられたとでも言いたげな表情だ。
「この時間、電車は走ってない。タクシーだと、マンションまでの運賃もバカにならないだろ」
「あんたに関係ない」
「乗れ。送ってやる」
「けっこうだ」
ふん、と鷹津は鼻先で笑い、掴んでいた和彦の腕を放す。後ずさるようにして離れようとした和彦の目の前で、鷹津は思わせぶりに携帯電話を取り出した。
「長嶺のオンナを、危ない夜道に一人放り出して帰ったら申し訳ないからな。組に連絡して、誰かを迎えに来させてやる。それまでは、俺が一緒にいてやる。あー、ここの住所は――……」
鷹津の芝居がかった独り言を聞いて、和彦は気色ばんでやめさせようとする。
「余計なことをするなっ」
鷹津に近づいた途端、再び腕を掴まれた。このとき鷹津の顔には、勝ち誇ったような表情が張り付いていた。それでなくても彫りの深い顔立ちをしている男だ。造作は悪くないが、表情の一つ一つにインパクトがありすぎて、それがひどく和彦を不安に――不快にさせる。
通りかかった車のライトで濃い陰影がついた鷹津の顔は、何より、怖かった。
あの賢吾と対立している男なのだと、肌で実感させられる。息を呑む和彦に、鷹津は粗野な笑みを向けてきた。
「俺が送っていってやろうか?」
問いかけではなかった。和彦ができる返事は一つしかない。
「ああ……」
ため息をつくように答えると、携帯電話を畳んだ鷹津が助手席のドアを開け、仕方なく和彦は乗り込む。
シートベルトを締めると同時に、乱暴に車が急発進した。
膝の上にのせたバッグを、和彦はぎゅっと掴む。鷹津に対する嫌悪感と警戒心から、全身の毛が逆立ち、ゾクゾクと寒気がする。車に乗るしかなかったとはいえ、痛いほどの後悔を噛み締める。
信号で車が停まったとき、降りることは可能だろうか――。
火花が散りそうなほど苛烈な勢いで、思考を働かせる。和彦は鷹津を敵だと認識している。それでなくても、鷹津に二度ばかり恥をかかせているため、どんな手酷い目に遭わされても不思議ではない。
こんな形で、秦との間にあった行為の余韻が冷めるのは、皮肉だ。いや、自業自得というべきなのかもしれない。
これ以上なく体を強張らせている和彦に、唐突に鷹津が話しかけてきた。
「――ヤクザなんかとつるんでいても、ロクなことにはならないぞ」
ビクリと肩を震わせて、和彦は思わず鷹津を見る。前を見据えている鷹津の口元には、相変わらず嫌な笑みが浮かんでいた。
「一般人を尾行するような人間が、もっともらしい忠告をするな」
「つまり、一般人じゃないお前に、文句を言う権利はないということだな」
「……そこの車道脇で車を停めてくれ。降りる」
「不愉快なのは、お互い様だ。マンションまで我慢しろ」
鷹津の言葉の一つ一つが、神経に障る。敵意という剥き出しの棘に切りつけられているようだ。和彦を脅してくるという点で秦も同じだが、少なくともあの男は、言動だけは柔らかく、蜜のように甘い。
それに、寸前まで和彦は、秦と――。
よりによって最悪の男に、最悪の場面で出会ってしまい、和彦は激しく動揺する。せめてもの救いは、暗い車中ということで、蒼白となっている顔色を見られなくて済むことだけだ。
「お前、少し前までは、大きな美容クリニックで働いていたんだろ。その前は、救急病院にいた。軽く調べてみたが、医者として評判は悪くなかった。若いのに、腕もよかったみたいだな。それに、親兄弟は――」
「ぼくの家族のことは言うなっ」
声を荒らげて和彦が睨みつけると、ちらりと一瞥した鷹津は唇を歪めるようにして笑う。
「俺も、お前の家族になんざ興味はない。俺が興味あるのは、長嶺だけだ」
ウィンドーをわずかに下ろした鷹津が、和彦に断ることなく煙草を咥える。煙草の煙が流れてきたので、仕方なく助手席のウィンドーも下ろした。
「俺は、あの蛇みたいな男が、蛇らしく地べたを這いずり回る様が見たいんだ」
「……自分がされたことへの腹癒せか?」
鷹津から返事はなかったが、急にアクセルを踏み込み、前を走る車に派手にクラクションを鳴らす。あまりに乱暴な運転に、和彦はシートの上で硬直してしまう。
「お前も、長嶺には人生をめちゃくちゃにされかかってるんじゃないのか」
「ああ。だけど、ぼくは被害者だが、あんたは違う。刑事なんて肩書きは持っているが、あの組長と同じ、悪党だろ」
和彦は無意識のうちに、パンツのポケットに入れた携帯電話をまさぐる。中嶋の部屋で秦と会っていたなど知られるわけにはいかないので、当然、長嶺組の人間に電話はできない。それでも、自分を守ってくれる唯一の存在としてすがらずにはいられなかった。
「ハッ、あの男にいろいろ吹き込まれて、それを信じてるのか、佐伯」
鷹津に姓で呼ばれるのは、抵抗があった。おそらく何度呼ばれようが耳に馴染まないだろうと、根拠のないことを感じさせる程度に。
「ヤクザの言うことは、頭から疑うことにしている。そのぼくが、あんたを一目見て感じたんだ。嫌な奴だと。実際、ヤクザより嫌な奴だ……」
「口には気をつけろよ。このまま警察署に連行してやってもいいんだぞ」
「……なんの罪で?」
ここで鷹津はニヤリと笑った。
「お茶をご馳走してやるためだ」
ちょうど信号待ちで車が停まる。迷わず和彦はバックルに手をかけようとしたが、鷹津に手首を掴まれて止められた。和彦は一瞬怯えてしまい、目を見開いたまま粗野な男の顔を見つめる。鷹津は煙草を指に挟み、こちらに煙をふっと吹きかけてきた。
「――俺は悪党で嫌な奴だろうが、少なくとも、お前からヤクザという疫病神を引き離すことはできる」
この瞬間、和彦の気持ちは大きく揺れた。救われたとすら思ったかもしれない。
すぐに我に返ったが、そんな和彦に鷹津は、口元には笑みを浮かべながら、しかし怖いほど鋭い眼差しを向けていた。車のライトで浮かび上がる鷹津の目は、冷たい光を湛えながら、ドロドロとした感情の澱(おり)が透けて見える。
「最近まで、真っ当に生きてきたピカピカのエリートが、薄汚いヤクザのオンナになんてされるんだ。つらいだろ? それでも逃げ出せないのは、最初に恐怖を植え付けられるからだ。それが奴らの手で、逃げ出せないお前がおかしいわけじゃない。だが、いい加減抜け出さないと、お前は被害者じゃなくなる。――ヤクザそのものになる」
掴まれた手を持ち上げられ、指を撫でられる。その感触にまた鳥肌が立ちそうになる。和彦はなんとか気丈に振る舞って鷹津を睨みつけたが、まったく堪えていないのは、顔を見ればわかる。
「メスを握る行為は同じでも、表の世界で堂々と医者として握るか、裏の世界でヤクザに飼われながら握るかじゃ、まったく違う。どっちがいいかは……考えるまでもないよな? 堅気なら」
指先をきつく握り締められてから、パッと放される。煙草を揉み消して鷹津は車を出し、和彦はわずかに痛む指先に視線を落とす。
「……ぼくが、助けてほしいと泣きついても、あんたはきっと助けてくれない。それどころか、利用しようとするだろうな」
「俺は、刑事だぜ? 善良な市民を守るのが仕事だ」
「あんたは蛇蝎のサソリだ。長嶺組長と悪党同士、睨み合って、威嚇し合って、噛み合っているのがお似合いだ。本当はあんたも、そうしたいんだろ。ぼくは、そのための餌だ」
短く声を洩らして鷹津は笑った。
「ヤクザに毒されてるんじゃないか、佐伯。俺はそんなに物騒じゃない」
そういう鷹津の目は、ひどく物騒だった。急に心細さを覚えた和彦は、唇を引き結んで顔を背ける。いろいろあって疲れているところに、剥き身の刃のような存在感を放つ鷹津と話していると、それだけで神経がザクザクと切りつけられるようだ。
息が詰まりそうな緊張感で、車内の空気が張り詰める。そこに沈黙が加わると、まるで拷問だった。
だからこそ、自宅のマンションが見えたとき、和彦はいまだかつてないほどの安堵感を味わう。
車が停まると、努めて落ち着いた態度でシートベルトを外したが、同じくシートベルトを外した鷹津が助手席側に身を乗り出してきて、腰の辺りをまさぐってくる。突然のことに和彦が体を強張らせ、声すら出せないのをいいことに、鷹津の手がパンツのポケットに突っ込まれた。
鷹津の目的はすぐにわかった。体を離した鷹津の手に、買い換えたばかりの和彦の携帯電話があった。取り返そうと手を伸ばしたが、簡単に躱された挙句に、首の後ろを鷹津の片手で掴まれた。
眼前で鷹津が下卑た笑みを浮かべる。和彦が鷹津のこういう表情を嫌悪していると知ったうえで、わざとこんな笑い方をしているのだ。
「送ってやった礼に、キスでもしてくれるか? この間はしてもらわなかったからな。今は二人きりだし、人目を気にしなくていいぞ」
「――……携帯を返せ。買い換えたばかりなんだ」
「知っている。ちょうど新しい番号を知りたいと思っていたところだ」
断る、と和彦は短く答える。次の瞬間、首の後ろにかかっている鷹津の手に力が込められ、ぐいっと引き寄せられる。さらに鷹津との顔の距離が近くなり、気が遠くなりそうなほどの強い嫌悪感に、和彦は体を強張らせる。
「俺とお前の携帯番号を交換するだけだ。優しいだろ? 何か困ったことがあったときは、すぐに俺に連絡してこいというわけだ。……嫌とは、言わないよな?」
ひそっと囁かれ、このとき唇に鷹津の息がかかる。そこが和彦の限界だった。微かに首を縦に動かすと、ようやく解放される。
ドアに身を寄せる和彦を見て、鷹津は馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「安心しろ。お前が俺を毛嫌いしているように、俺もお前を――汚いと思っている。男のくせに、ヤクザのオンナなんてしてるんだからな。しかもついさっきまで、別の男のモノを咥え込んでいたんだろ?」
投げつけられた言葉を否定もできず、和彦は打ちのめされる。その間に、鷹津は手早く携帯電話を操作する。和彦の手にすぐに携帯電話は戻ってきたが、確認するまでもなく、鷹津の携帯番号が登録されているだろう。
「削除するなよ。別に、長嶺にバレてもいい。自分のオンナに、また俺が接触したと知ったときのあいつの顔を想像したら、それだけで酒が美味くなるからな」
無意識のうちに和彦は肩を震わせていた。屈辱と恐怖からだ。恐怖は、鷹津に対するものではない。賢吾にすべて知られたときのことを想像してのものだ。
「おい、聞いているか――」
鷹津に手荒に肩を掴まれ、我に返る。和彦は反射的に、怯えた眼差しを鷹津に向けていた。驚いたように鷹津がわずかに目を見開き、何か言いかけたが、その前に和彦は車を降りて、マンションのエントランスに駆け込んだ。
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