と束縛と


- 第9話(2) -


 受付用のカウンターデスクやキャビネットが運び込まれただけで、クリニックの待合室らしくなってきたなと、腕組みしながら和彦は思う。そんな和彦の傍らを、診察室に置くデスクを抱えた業者が通り過ぎていく。
 医療機器の搬入はまだ先だが、ひとまず家具や備品だけは、運び込んでもらうことにした。できることなら、早いうちに人が過ごせる環境を整え、ここで書類仕事などをしたいと考えているのだ。そうすれば、いざ開業してから使い勝手が悪いと不満を洩らすこともないはずだ。
 来週は、クリニックに置く家電製品を買いに行く予定で、買い物好きの和彦としては楽しみにしている。当然のように千尋もつき合ってくれることになっており、すでにもう、家電量販店巡りをメインとしたデートプランは出来上っているそうだ。
 エレベーターホールから待合室まで通じる廊下の窓には、カーテンレールの取り付け工事が行われていた。カーテンがいいかブラインドがいいかずっと迷っていたのだが、改装工事が終わった待合室の雰囲気を見て、ようやくカーテンに決めたのだ。
 工事が終わったあとは、他の部屋に取りつけるブラインドとロールスクリーンの採寸をしてもらうことになっている。
 インテリアについては、秦が頼れなくなったため、結局、和彦が乏しいセンスを駆使して家具を選んだ。小物などについては、開業までの間にゆっくりと選ぶつもりだが、買い物仲間ともいえる千尋を密かに頼りにしている。
 置かれたばかりのソファに腰を下ろした和彦は、ほっと息を吐き出して背もたれに体を預ける。
 ヤクザと関わりを持ってから慌ただしい生活を送っているが、ここ最近は、身近にいる男たちの思惑もあって、精神的な重圧まで加わっている。
 クリニックが無事に開業できるまで、自分の体はもつのだろうかと、和彦はふと考えたりもするのだ。いまさら、この生活を投げ出すこともできないのだが――。
 このまま座り続けていると、しっかり寛いでしまいそうな気がして、和彦がソファから立ち上がろうとしたとき、ポケットの中で携帯電話が鳴った。電話に出ると、ビルの外で待機している組員からだ。
『先生、鷹津が来ました』
 和彦は表情を変えないまま、静かに息を吸った。
 鷹津がなんの行動も起こさないとは思っていなかったが、やはり動揺してしまう。それでも、前回顔を合わせたときとは違う。和彦にはもう、鷹津に対して弱みとなる秘密は持っておらず、怯える必要はないのだ。
『クリニックに向かうんだと思います。今から俺たちも上がります、先生は非常階段から――』
「いや、動かなくていい。刑事相手なら、下手をするとあんたたちのほうが危ない。ここはぼく一人じゃないから、手荒なことはしないだろう」
 人間性はともかく、鷹津は刑事という肩書きを持っている。それは強みではある反面、鷹津にとっては足枷ともなっている――はずだ。
 しきりに心配する組員をなんとか言い含めて電話を切ったのと、背後から声をかけられたのは、ほぼ同時だった。
 肩を震わせた和彦は、携帯電話を握り締めたまま振り返る。連絡を受けた通り、鷹津が立っていた。家具を運び込むため、クリニックの出入り口のドアを開けたままにしておいたのだが、図々しく待合室まで入り込んできたのだ。
 鋭い視線を向ける和彦を、鷹津は不愉快そうに見つめてくる。和彦の存在に思うところがあるのかもしれないし、単に、外の陽射しの強さに辟易した気分を引きずっているのかもしれない。
 今日は無精ひげを剃ってあるあごを撫でながら、ようやく鷹津が口を開いた。
「ヤクザのオンナが、ここで何を始める気だ」
 周囲に聞こえそうな声で言われ、和彦は咄嗟に、テーブルの上に置いてあったタオルを掴み、鷹津に投げつけた。一応、無礼な男に当たりはしたが、悠然と受け止められた。和彦は立ち上がり、鷹津を睨みつける。
「……なんの用だ」
「この辺りで、よく長嶺組の人間がちょろちょろしていると、所轄の人間から聞いた。どうやら、ヤクザのオンナの護衛目的のようだが、さて、そのヤクザのオンナはここで何をしているのか、という話だ」
 嫌な男だと、心底思う。『ヤクザのオンナ』というのは事実だが、鷹津に言われるたびに、どうしようもなく不愉快な気持ちになる。それを狙って、鷹津は連呼するのだ。しかも、他人の耳があるところで。
「もう一度言ったら、警察を呼ぶからな。薄汚い不審者が不法侵入の挙げ句、意味不明の言葉を喚いているといって」
 鷹津は、ドロドロとした感情がこびりついたように粘つき、ぎらついた目で和彦を見据えてくる。
 最初の頃に見せていた冷たく凍りつくような目は、もしかすると賢吾と対峙するために身につけた、この男なりの武器なのかもしれない。少なくとも今のような目のほうが、鷹津には相応しい気がする。
 和彦は敵意と嫌悪感を隠そうともせず、鷹津を睨みつける。一方の鷹津は、オールバックにした髪を撫でてから、澄ました顔で切り出した。
「この間、俺が言ったことだ。さっさと返事を聞こうと思って電話したときは、お取り込み中みたいだったからな。だからわざわざ、こうして足を運んでやった」
「刑事って職業は、暇みたいだな」
「ヤクザのオンナのほうは、尻を休ませる暇もないみたいだな」
 和彦は、感情を覆い隠した鷹津の顔を見つめた後、冷めた声で吐き捨てた。
「そんなことを言うために来たんなら、満足しただろ。さっさと帰れ」
「おい、冗談だ。まさか、本当のことを言われて怒ったのか?」
 この男が嫌いでたまらなかった。だが、自分一人で追い返せる自信はなく、だからといって護衛の組員をここに呼びたくはない。
 待合室を行き来する作業員をちらりと見た和彦は、指先をわずかに動かして鷹津を奥の部屋へと誘導する。
 一応、仮眠室となるこの部屋には、すでに最低限の家具が運び込まれている。簡易ベッドに小さなテーブルとイスといったもので、和彦一人が仮眠をとるには十分だ。だが、家具を運び入れた状態で大柄な鷹津と一緒だと、圧迫感を感じる。
「――長嶺は、かなりお前に入れ込んでいるようだな。女に店を持たせる……という話はよくあるが、まさか、クリニックを開業させるなんてな。さすが、長嶺組長は豪気だ」
 台詞とは裏腹に、鷹津の口調は芝居がかったように皮肉に満ちていた。クリニックの開業については、和彦自身、危ない橋を渡っている最中のため、迂闊なことは言えない。
 露骨に聞こえなかったふりをして、イスに腰掛ける。鷹津も深く追及はせず、軽く鼻を鳴らしてから、ベッドに腰掛けた。
「長嶺から逃げ出す気はないのか?」
 まるで世間話でもするかのように、さらりと鷹津が切り出す。このとき煙草を取り出したので、和彦は睨みつけていた。改装を終えたばかりのこの部屋に、最初に煙草の匂いを染み込ませたくなかったのだ。
 和彦の視線に気づいた鷹津が苦い表情を浮かべ、意外なほど素直に煙草を仕舞う。これでやっと、会話を交わせる気になる。
「……逃げ出すだけなら、いつでもできる。別にぼくは、監視されているだけじゃない」
「逃げ出す気も失せるほど、ヤクザのオンナってのはいい生活が送れるみたいだな」
「嫌味を言いに来ただけなら、さっさと帰ってくれ。ぼくは、あんたと違って忙しい」
 立ち上がろうとした和彦だが、かまわず鷹津は会話を続ける。
「長嶺組から、お前を引き離してやるというのは、本気だ」
「あんたが、タダ働きをするようには見えないんだが」
 熱のこもらない口調で和彦が応じると、鷹津はニヤニヤと嫌な笑みを浮かべ、座るよう指先で示す。仕方なく和彦はイスに座り直した。
「お前が、俺の親切な申し出を断れば、遠慮はしない。他のヤクザどもと同じように扱う」
 これまでも遠慮したことなどなかっただろうと思いながらも、さすがの和彦も声には出さない。賢吾とは違い、鷹津が和彦の憎まれ口を軽く受け流すとは思えなかった。
 鷹津は、賢吾の言葉を借りるなら、サソリだ。こちらに確実にダメージを与える毒を持っており、相手が長嶺組に関わりのある人間だとすれば、容赦なく毒針を突き立ててくるだろう。特に、弱い相手には。
「だったら最初から、ぼくを尾行したり、手間のかかることをしなくてよかっただろう」
「長嶺に、お気に入りのオンナに逃げられるという屈辱を与えてみたかった」
「――陰険」
「よく言われる。なんといっても俺は、男にも女にも好かれない人間だからな」
 いい加減、鷹津を睨みつけるのも疲れた和彦は、窓から見える景色に視線を向ける。すると、横顔に鷹津の強い視線を感じる。ここまで触れなかったのが不思議だった話題を、やっと鷹津は切り出した。
「お前は、若頭補佐とも寝ているのか」
 反射的に鷹津のほうを見そうになった和彦だが、ギリギリのところで堪え、じっと窓を見据え続ける。鷹津と顔を合わせたら、確実に言われると思っていたことだ。だが、それでも顔が熱くなるのは抑えられない。
「三田村、と呼んでいたな。長嶺の忠実な犬も、三田村といったはずだ。有能で、組長によく仕えて、長嶺組の前組長……今は総和会の会長か――も気に入っているという男だ。若頭に引き立てられるのも間近だと言われていた」
「ぼくが知る限り長嶺組には、三田村という男は一人しかいない。多分、あんたが言っている三田村だろうな」
 クールに応じながら鷹津を一瞥すると、奇妙な生き物でも見るような眼差しが向けられていた。そこには、好奇心と嫌悪、他人に不愉快さをもたらす熱っぽさが含まれている。
 ほう、と声を洩らした鷹津は、皮肉っぽく唇を歪めた。
「大した度胸だな。組長のオンナが、その忠犬と浮気しているのか」
「脅すネタができたと思ったのだとしたら、残念だな。組長は知っている。というより、組長公認だ。――三田村は、ぼくのオトコだ」
 鷹津の表情は純粋な嫌悪に占められたが、和彦はなんとも思わなかった。お互い様だ。
「……ヤクザに目をつけられた可哀想な一般人じゃないわけだな。ヤクザの組長のオンナになって、その犬をオトコにして……。はっ、大したもんだ。お前みたいに図太い奴は、滅多にいないぞ」
 罵倒されて和彦が感じるのは、自分はもう、前の自分とは違うのだという静かな達観だった。ヤクザに囲まれて生活していると麻痺してしまうが、こうして刑事の鷹津に言われると、今いる世界は自分の一部になったのだと痛感する。
 そして、その世界を汚されたくないとも。
 和彦は、自分の率直な心の声に、思わず笑ってしまう。鷹津から険しい顔で睨まれたが、それでも笑いを止めることはできず、とうとう声を洩らして肩を震わせる。
 最初に辱められ、なし崩しのように賢吾と関係を持ち、協力させられてきて、とうとうこんな気持ちを抱くに至った自分に、呆れる反面、感嘆してしまう。それらを含めて、自分の愚かさが愛しくもある。
「何がおかしい……」
「別に。ヤクザのオンナと、その犬の最中の声を、あんたはどんな顔して電話の向こうで聞いていたのかと思ったら、おかしくなっただけだ」
 挑発的な和彦の言葉に、鷹津は皮肉で返してくるかと思ったが、唇を引き結んで睨みつけられた。今にも食らいつかれそうな迫力に、さすがに和彦も笑みを消し、虚勢で睨み返す。
「――……ぼくは、あんたの力を借りる気はない。もし仮に逃げ出したくなっても、あんたにだけは絶対頼らない」
 和彦がドアを指さすと、鷹津は黙って立ち上がり、出ていこうとする。しかし、ドアノブに手をかけたところで、突然、振り返った。鷹津のこの一連の行動に見覚えがあった和彦は、露骨に顔をしかめる。
「また、お茶を飲ませろ、か?」
「いや……」
 鷹津が大股で歩み寄ってきたので、驚いた和彦は慌てて立ち上がる。すると、乱暴に腕を掴まれて引き寄せられた。何事かと目を見開く和彦に、鷹津がニッと笑いかけてくる。
「この間言っていた、お茶よりいいものを、今もらいたい」
 そう言って鷹津の顔が迫り、唇に熱い息がかかる。危機感よりも先に、嫌悪感が働いていた。鳥肌が立ち、体が硬直して動けない。息を詰めた和彦の顔を、一変して冷めた表情で見つめてから、鷹津は小さく舌打ちした。
「さすがに、よく調教されてるな。どんな男が相手でも、おとなしく咥え込めとでも言われているのか?」
 カッとした和彦がようやく抵抗しようとした瞬間、先に鷹津に突き飛ばされ、よろめいてデスクに手を突く。そんな和彦を、鷹津はせせら笑った。
「俺が本気で、お前みたいな奴に手を出すとでも思ったか。あいにく俺は、そっちの趣味はないし、何より、ヤクザと、そのヤクザと寝ているような奴には、汚くて触れたくもねーんだ」
 悪意に満ちた言葉を投げつけて、鷹津が部屋を出ていく。一人残された和彦は、嫌悪と屈辱、羞恥のため、小刻みに体を震わせていた。相手が鷹津だからこそ、より堪えた。
 大抵のことは言われ慣れているつもりだったが、まだ甘かったらしい。和彦は、心が発する痛みに、しばらくその場から動けなかった。




 無意識にため息をつくと、ハンドルを握った三田村がバックミラー越しにちらりとこちらを見る。それに気づいた和彦は、つい背筋を伸ばしてシートに座り直す。だが数分も経たないうちに、またシートに深くもたれかかり、ため息をついていた。
「――まだ、気にしているのか、先生」
 放っておけなくなったのか、三田村が話しかけてくる。何を、と問いかける必要はなかった。和彦は三田村に――賢吾にもだが、気になることがあればすべて報告すると決めたのだ。千尋も含めた三人がかりで体を貪られ、快感を与えられた出来事で、そうすべきだと体に叩き込まれたともいえる。
 そんなことがあってから初めて報告したのが、クリニックに鷹津がやってきたことと、投げつけられた言葉だった。
 三田村は、ごっそりと感情をどこかに置き忘れたかのような無表情を保っていたが、一方の賢吾は、ニヤニヤと笑っていた。和彦の反応をおもしろがっているのだろうかと、最初は訝しんだのだが、どうやらそうではなく、鷹津の行動に何かしら感じたようだ。意地の悪い男は、それがなんであるか、当然和彦に教えてはくれなかった。
 表面上の無表情さとは裏腹に、和彦が知るどの男よりも優しい三田村は、何かと気遣ってくれる。実際和彦は、鷹津のことを正直に話したところで、鬱屈した感情は少しも軽くなってはいない。
 蛇蝎の片割れである男に侮辱されたことが、ささやかに残っている和彦のプライドを踏みにじり、それが痛みを生む。いまさら取り繕うものもないのに、人並みの体面を保とうとする自分が、心のどこかで忌々しくもあるのだ。
「あんな男に言われたことを気にする自分に、腹が立つ……」
「見た目によらず、先生は気性が激しい」
 三田村の声が笑いを含んでいるように聞こえ、視線を再びバックミラーに向ける。思ったとおり、三田村の目元は和らいでいた。そんな表情を目にして、和彦の気持ちも少しだけ柔らかくなる。
「……そうだな。こんな生活に入る前なら、誰に何を言われても、大して気にかけてなかっただろうな」
「鷹津の件もあるし、組員の一人を先生の秘書ということにでもして、クリニックにも同行させようという話になっている。ビルの外でいくら人の出入りを見張らせていても、やはり危険だ」
「あの刑事相手だと、かえって危ない気もするけどな。どんな理由をつけて、長嶺組の人間を警察署に連れて行くかわからない」
「――先生も、長嶺組の人間だ」
 強い口調で三田村に言われ、和彦はハッとする。話しながら、すっかりその認識が抜け落ちていた。髪に指を差し込み、苦い口調で洩らす。
「そうだった……。ぼくにも遠慮しないと、あの男に言われたんだ……」
「先生は大事な身なんだから、黙って守られてくれればいい。そのほうが俺たちも安心できる。先生はもう、組にとってかけがえのない存在なんだ。それを自覚してほしい」
 三田村の迫力に圧されてから、和彦は頷く。これだけ真剣ということは、本気で和彦を心配してくれているのだ。
 ヤクザではない和彦の警戒心の薄さを思えば、仕方ないのかもしれない。それに、今こうして忠告されるのも、三田村なりの理由があるのだ。
 車はファストフード店の駐車場に入り、エンジンが切られる。三田村は車中から慎重に駐車場を見回してから、腕時計に視線を落とした。つられて和彦も、自分の腕時計を見る。約束の時間には、まだ少し間があった。
「先生、何か腹に入れておきたいなら、買いに行くが……」
 三田村が振り返り、そう声をかけてくる。和彦は首を横に振ると、身を乗り出して三田村の頬に触れた。三田村は表情を変えないまま和彦の手を掴み、てのひらに唇を押し当ててくる。
 その感触に微かな胸の疼きを覚えながらも、人目を気にした和彦は、三田村のあごの傷跡を指先で撫でてから手を引く。
「……心配でたまらない、って様子だな」
 和彦の言葉に、三田村は前に向き直って答えた。
「ああ、心配でたまらない」
 どんな顔をして言ったのか確認したい誘惑に駆られながら、和彦はシートにもたれかかる。
「中嶋くんは、大丈夫だ。彼は、秦を慕ってはいるが、秦自身のことはあまりよく知らないみたいだ」
「だが、いつ秦の悪だくみに引き込まれるかわからない。若いが、中嶋は切れ者だ。自分の利益となるなら、なんだってする。元の組にいた頃も、汚れ仕事を厭わなかったと聞いている」
 若くして組で出世するために、中嶋もさまざまなことに手を染めているだろう。普通の青年の顔をしていようが、ヤクザはヤクザだ。
「秦と繋がっていることで利益を生むなら、中嶋は先生さえ利用するだろう。実際、長嶺組や総和会に報告することなく、先生に秦を治療させた」
「あれは――」
 中嶋のきわめて個人的な感情ゆえの行動だと言いたかったが、うまく説明できる自信がなかった。仮に説明できたとしても、先生は甘い、の一言で済まされそうだ。
 三田村はただ、和彦を守ることを優先している。そこに、長嶺組とは関わりのない男たちの思惑など関係ないのだ。そして三田村の姿勢は、長嶺組の組員として正しい。
 和彦はこれから、総和会の仕事で患者を診なければならない。そのためここで待ち合わせをして、いつものように総和会が準備した車に乗り換えなければならない。もちろん運転手は、中嶋だ。
 和彦の身に何が起こっていたかすべて知った三田村としては、秦が何かを企み、中嶋もそれに乗っていると考えても仕方ないだろう。だが、中嶋が総和会の代紋を背負っている限り、和彦の身を預けないわけにはいかない。
 賢吾は、どういう意図かはわからないが、中嶋の今回の行動について総和会に一切の報告をしていない。
 総和会とは関わりなく、中嶋個人の行動なら、しばらく様子を見てみる――。それが、長嶺組組長が出した結論だ。和彦にとやかく言う権利はなかったし、中嶋の立場を悪くしたいとも思わないので、今はそれでいいのだろう。
「総和会の仕事のときは大丈夫だろう。治療が終われば、その場であんたに連絡するから、ぼくを連れ去ってどうこうなんてできないし、中嶋くんがそう手荒な手段に出るとも思わない。彼がぼくに望んでいたのは、秦を治療させることだけだ」
「だったら、その秦が、先生を連れてくるよう中嶋に頼んだら?」
「ぼくは正直に組長に報告して、指示を仰ぐだけだ。……独断で動かない。これは約束する」
 三田村の肩がわずかに下がる。どうやら、深く息を吐き出したらしい。危なっかしい和彦のために、三田村は気を張っているのだ。
「……大変だな、三田村」
 和彦の言葉に、こちらに横顔を向けた三田村がちらりと苦い笑みを浮かべた。
「他人事みたいに言わないでくれ、先生」
 そうでした、と和彦が口中で応じたすぐあとに、三田村は元の無表情にいくらかの厳しさを加えた顔となり、ある一点を見つめる。つられて同じ方向を見た和彦の目に、こちらに歩み寄ってくる中嶋の姿が入った。


 中嶋は本当に、秦から肝心なことを知らされていないのだろうかと、缶コーヒーを飲みながら和彦は考える。
 一応、患者の治療は終わったのだが、点滴後の容態を確認したいため、こうしてイスに腰掛けて待っていた。雑居ビルの殺風景な一室で、テレビや新聞といった気の利いたものもなく、手持ち無沙汰の和彦はさきほどから、同じ部屋にいる人間たちの様子を漫然と眺めていた。
 患者が所属している組の人間らしき男たちは、しきりに携帯電話で連絡を取り合っており、対照的に落ち着いているのは、総和会の人間だ。
 その中で、一際若く見える中嶋は一人、慌ただしく動いている。携帯電話を片手に部屋を行き来しながら誰かに指示を出し、部屋を訪れる人間たちと短く会話を交わしては、今度は誰かの指示を仰いでいる。合間に、和彦に声をかけてくることも忘れない。
 この様子だと、ここで中嶋と話し込むことは不可能だった。移動の車中でも、和彦は患者の容態について詳しい説明を受けたり、準備するものについて指示を与えていたので、中嶋とまともに交わせた言葉はほんの二、三言だ。
 点滴がそろそろ終わると教えられ、和彦は席を立つ。簡単な処置を終え、薬の処方を書いた紙を渡したところで、和彦の仕事はようやく終わりだ。
 即座に携帯電話で三田村に連絡を取り、これから部屋を出ることを告げる。その間に、中嶋が側に歩み寄ってきた。
「――ご苦労さまでした」
 部屋を出たところで中嶋にそう声をかけられる。和彦は、部屋では言えなかった感想を率直に洩らした。
「ヤクザは嫌いだ」
「……今頃、どうしたんですか?」
「〈落とし前〉という行為は、吐き気がする」
 ああ、と声を洩らした中嶋が笑みを見せる。同時に、和彦の肩に手をかけて、エレベーターホールへ移動するよう促す。
 和彦がさきほどまで行っていたのは、切断した指の治療だ。もちろん事故によるものではなく、組員が自分で指を切断して、その後の止血と治療のため和彦が呼ばれたというわけだ。
「あれは、きちんと病院に連れて行ったら、指は接合できたかもしれない。よほど上手く指を落したのか、骨も血管もきれいだった」
「くっつけたら、落とし前になりませんよ、先生」
「わかっている。医者として、言ってみただけだ」
 二人はエレベーターに乗り込む、中嶋がボタンを押す。
「最近は、落とし前のために指を落とさせる組は、前ほど多くないみたいですよ。指か金か、と選択させるんです。俺も、それをやられたんです」
 こちらに背を向けている中嶋の言葉に、エレベーターが一階に着くまでの間、和彦は首を傾げる。ここでやっと、中嶋の言おうとしていることを察した。
「もしかして、君が二十歳そこそこで借金を背負ったときに……」
「指を落としたところで、結局借金は背負わなきゃいけないんだ。だったら、それに落とし前の金を上乗せしたほうがいい。少なくとも、指はなくさなくて済む。――まあ、借金を返せなかったら、指一本落とされるぐらいじゃ済まなかったでしょうけどね」
 中嶋のそういう状況を救ったのが、秦なのだ。恩を感じる一方で、そんな相手を自分の利益のために利用するなど、果たして中嶋にできるのだろうか。
 その疑問に対する答えを、和彦は持たない。秦も得体が知れないが、ヤクザであるという一点において、中嶋も同じだ。
 車の後部座席に乗り込んだ和彦は、すぐにシートにぐったりと体を預ける。縫合手術だけなら普通はこんなに疲れないものだが、長嶺組の代紋を背負わされ、ヤクザに囲まれた状況でこなす手術は特別だ。体力よりも気力を消耗する。
 中嶋と会話らしい会話も交わさず、流れる景色を眺めていた和彦だが、すぐに、ある異変に気づいた。
「……来るときと、道が違う……」
 反射的に体を起こすと、バックミラー越しに中嶋と目が合う。悪びれた様子もなく中嶋は笑った。
「すみませんが、少しだけ寄り道させてください」
「だけど――」
「時間は取らせません。それに、先生を必ず、三田村さんの元に送り届けると約束しますから」
 考えさせてくれと言う時間もなかった。中嶋が運転する車は、スウッと車道脇に寄って停まったかと思うと、次の瞬間には後部座席のドアが開き、人が乗り込んでくる。
 和彦が相手の顔を確認したときには、すでに車は走り出していた。
 胸を庇うように手で押さえながら、秦が慎重にシートにもたれかかる。和彦は半ばあ然として、その様子を見つめる。ようやく状況を理解したとき、ハンドルを握る中嶋を睨みつけていた。
「こういうことか……」
 和彦が洩らした言葉に応じたのは、秦だ。
「中嶋を怒らないでやってください。先生に礼を言いたいからと、俺が頼んだんです」
 いろいろと言いたいことはあったが、中嶋の耳を気にすると、実際口にできる言葉は限られてしまう。
 気を落ち着けるために大きく息を吐き出した和彦は、ぶっきらぼうな口調で尋ねた。
「――……怪我の調子は?」
 秦の顔の痣はうっすらと残っている程度だが、右手にはしっかりと包帯が巻かれている。慎重な動きからして、息をするたびに折れた肋骨は痛んでいるだろう。それでも秦は、いつもの艶やかな笑みを浮かべた。
 和彦は心のどこかで、賢吾はすでに、秦への報復に出たのではないかと思っていたが、こうして見る限り、まだ大丈夫なようだ。
 大蛇の化身のような男が、〈自分のもの〉に手を出されて、みすみす見逃すような甘さを持っているとも思えない。やはり賢吾は、何か考えがあるらしい。
「なんとか、出歩ける程度には落ち着きました。体の痣が消えるまで、まだ当分かかりそうですけど。あまり中嶋に世話になるのも悪いので、今は自分の家に戻っています」
「動けるからといって油断しないで、早いうちに病院でレントゲンを撮ってもらったほうがいい」
 ここで、バックミラー越しに中嶋と目が合った。
「二人はずいぶん、親しくなったみたいですね。秦さんの治療をしている先生を見ているときから、なんとなく感じていたんですが……」
 ドキリとするような中嶋の指摘に、痛みを感じさせない笑みで秦が応じる。
「俺から、先生に頼んだんだ。もっと砕けたつき合いをしましょう、と。それに、先生みたいな立派な人に敬語を使われると、こっちが緊張する。どちらかというと、俺たちは先生に世話になる立場だしな」
「……それを言われると、先生に世話になったばかりの俺としては、何も言えませんね」
 二人の会話が芝居がかっているように感じるのは、単なる気のせいかもしれない。それとも中嶋は、何もかも知ったうえで、あえて水を向けてきたのだろうか。
 考えすぎて頭が痛くなりそうだった。無意識のうちに和彦は顔をしかめていたが、ふとした拍子に秦と目が合う。こちらの反応を待っているようなので、仕方なく和彦は口を開く。
「礼なら、もういい。中嶋くんの頼みだから引き受けただけだ。……〈あれ〉は、なかったことにしてくれ」
 言外に、自分と秦の間にあった行為の口止めをする。もう賢吾や三田村に知られていることとはいえ、他言されたくはない。和彦の胸の奥には、自分の軽率な行為としてしっかりと刻みつけられているのだ。
「もちろん。先生には先生の立場があることですから。ただ――」
「ただ?」
「一つお願いがあります」
「――嫌だ」
 和彦の即答に、運転しながら中嶋が噴き出す。一方の秦は柔らかな苦笑を見せた。
「わたしが経営するレストランで、開店一周年を記念して、来週パーティーを開きます。友人や世話になっている人たちを集めてのものなので、パーティーとはいっても、形式ばったものではありません」
 眉をひそめる和彦の前に、秦がスッと白い封筒を差し出してきた。表にはしっかり、和彦の名が書かれている。
「お世話になっている先生に、ぜひ来ていただきたいんです。お詫びも兼ねて」
 どういうつもりかと訝しむ和彦の手に、スマートに、しかしやや強引に封筒が押し付けられる。和彦は、秦と封筒を交互に見てから、中嶋の様子もうかがう。どうしても中嶋の手前、迷惑だ、という一言が言えない。なんといっても中嶋は、秦を慕っている。
「……今は、行けると返事はできない。仮に行けたとしても、長嶺組の人間がぼくの護衛として張り付いてくる。客商売だと、それは迷惑だろ」
「かまいませんよ。もともとわたしは、あちこちの組とつき合いがあるうえに、招待客の中にも、組と繋がりのある人もいます。どうぞ、お気になさらず」
 秦の話が終わると、車はコンビニの駐車場に入って停まる。すぐに秦は車を降りた。
 厄介な招待を受けはしたものの、中嶋の前で変なことを言われなかったことに、和彦は安堵する。だが、見た目とは裏腹に、秦は甘くなかった。
 なぜか、和彦が座っているほうに回り込んできた秦が、ウィンドーを軽くノックする。何事かと、つい和彦は無防備にウィンドーを下ろし、ドアのほうに体を寄せた。
「まだ何かあるのか……」
 前触れもなく秦が身を屈め、微笑む。次の瞬間、端麗とも言える秦の顔が眼前に迫ってきて、和彦は唇を塞がれた。予想外の大胆な行動に、ただ目を見開くことしかできなかった。
 柔らかく唇を吸われたところで、ようやく和彦はピクリと肩を震わせる。すぐに秦は姿勢を戻し、胸を押さえて小さく呻いた。それでも、甘い台詞は忘れない。
「――また、先生に生気を分けてもらいました」
 和彦は羞恥とも怒りともつかない反応から、体を熱くする。手の甲で唇を擦りながら、秦を睨みつけた。
「……なんのつもりだ」
「わたしは、先生との間にあった〈あれ〉を、なかったことにするつもりはありません」
「それがどういう意味か、わかっているのか?」
「少なくとも先生よりわかっていますよ。もしかすると、長嶺組長も」
 意味深な言葉を洩らして秦が車から離れ、軽く片手を上げる。それが合図のように車は走り出し、和彦は振り返って秦の姿を目で追う。だがすぐに、車中での自分以外の存在を思い出し、前に向き直る。
 中嶋は待ち合わせ場所に着くまで、総和会から派遣された運転手としての仕事を完璧に務めた。
 さきほどの秦の行動を見ていなかったかのように、一切表情も変えず、ひたすら沈黙を保ったのだ。









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