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ステップ −Step−
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[5]

 さやかに辻への感情を知られたことで、智也の精神状態はわずかに不安定になっていた。
 過去の話で、今はやましいとこ ろはないのだと主張したいところだが、そんな勇気は智也にはない。やましくないと言いながら、後ろめた さを覚えているのだ。矛盾もいいところだ。
 一生、自分一人で抱えるつもりだった秘密を他人に知られたのは、さやかが吹 聴する人間ではないとわかっていながら、不安だった。
 さやかに対してぎこちなくなる態度を叱咤して、朝はなんとかやり すごした。しかし問題は、夕方戻ってからだ。
 仕事中、そのことが気になり続けていた智也は、終業時間が近づくにつれ、 ひどく憂鬱になっていた。できることなら、家に帰りたくないとすら思ってしまう。
 カタログを閉じ、頬杖をついて深刻 なため息をこぼす。こんな日に限って、定時で帰れそうなのだ。
 どこかで時間を潰そうかと考えていると、ジャケットのポ ケットの中で携帯電話が鳴る。取り出して相手を確認した智也は、微妙な表情を浮かべていた。電話帳に登録したばかりの京一の 携帯電話だったからだ。
 そういえば、京一とはケンカ別れして以来だと思いながら、無視するわけにもいかず、席を 外して廊下で電話に出る。
「……この間の再戦ですか」
 開口一番の智也の言葉に、電話の向こうからムッとした気配が 伝わってくる。もちろん、智也の錯覚かもしれない。
『君はやる気満々でも、俺はつき合う気はない』
「人を、好戦的な 人間みたいに言わないでくださいよ。普段は口数が少なくて、温厚なんですよ、おれは」
『――その冗談に対して、どういう 返しを俺に期待しているんだ』
 このまま電話を切ってやろうかと、本気で智也は考えてしまうが、タイミングがいいのか悪 いのか、終業時間を告げる音楽が流れる。
『いまさら聞くのもなんだが、今、電話で話しても大丈夫か?』
「かまいませんよ。 今日は仕事も忙しくないので、定時で帰ろうかと思っていたところですし」
 それはよかった、と思いがけない言葉が返って くる。
「えっ……?」
『実は一人で持て余していることがあって、君に相談したい』
 眉をひそめた智也は、無意識 に唇に指を押し当てていた。京一がわざわざ電話をくれ、なおかつこんなことを言うということは、よほどのことだろう。そして それは、ほぼ間違いなく、さやかの件だろう。
 面倒なことは嫌だが、さやかを預かった時点であらゆるトラブルは覚悟しな ければならないし、そのトラブルを解決するために最大限の努力をしなければならない。
 たとえ、智也がどんな精神状態で あろうが。
「おれは大丈夫ですよ。どこかで待ち合わせを――」
『今日は有休を取って、自分の部屋にいるんだ。……俺 があんまり有休を取らないから、いい加減にしろと上司に言われてやむなく。そこに厄介事が持ち込まれたんだから、ちょうどよ かったというべきなのかもしれない』
 長々として几帳面な京一の説明を聞きながら、智也は髪を掻き上げる。これはつまり、 家に寄っていけ、ということだろう。
 智也としては、こんなことで目くじらを立てる気はない。人目や耳を気にせず込み入 った話をするなら、やはり京一の部屋が最適なのだ。
「住所、メールしてもらえますか? おれ、適当に何か買ってから、こ れから行きます」
 智也がアドレスを告げたあと、京一が安堵の吐息を洩らす。そんなはずもないのだが、耳元に息がかかっ たような錯覚を覚え、反射的に智也は首をすくめてしまう。
 自分の反応に、一人密かに恥じ入っていた。
『……ビール ならあるんだが……』
「なら、腹に溜まりそうなものを持っていきますよ」
 慌てて電話を切った智也は、壁にもたれか かりながら携帯電話を見つめる。思わず、耳にかかる髪を掻き上げていた。
 さきほどの感覚はなんだったのだろうかと、戸 惑う。すると突然、また携帯電話が鳴り、危うく手から落としそうになった。京一からメールが届いたのだ。
 メールの内容 を確認してから、数瞬迷ってから、結局京一のメールアドレスも登録しておく。念のため、だ。
 ついでに、勇樹の携帯電話 にメールを送っておく。『帰りが遅くなるかもしれない』という簡潔なものだ。
 さっそく智也は自分のデスクに戻って帰り 支度を整えると、一声かけて会社をあとにした。
 手早い一連の作業に、決して京一とやり合うためにはりきっているわけで はないと、心の中で言い訳しながら。


 インターホンを押すと、誰何されることなくドアが開き、つい先日、喧嘩別れした男が顔を出す。
 智也と京一は、反応の しようがなくてただ相手の顔を見つめ合ってしまった。
「――どうも」
 なんとなく面と向かって話しかけにくくて、智 也は微妙に視線を逸らしつつ口を開く。もちろん、皮肉を言う余裕もなかった。低く応じた京一も、余計なことを言うことなくドア を大きく開け、中に招き入れてくれた。
 一人暮らしであるはずの京一の部屋は、やはりさやかのことを思ってか、兄弟二人 暮らしの智也のところと同じ、2LDKだった。ただ、雑多な空間である智也たちの部屋とは違い、こちらは整然と片付いている。
 いかにも几帳面そうだしなと思いながら、智也は横目でちらりと京一を見た。
 ラフなトレーナー姿に着替えている京 一は、智也の視線に気づいた様子もなく、ダイニングのイスを示した。
「座ってくれ。……ビールで、いいよな?」
「一 応、チューハイなんかも買ってきたんですけどね。あー、それと、これを皿に盛ってください」
 智也は手に持っていた袋の 一つを京一に突き出す。中には、途中立ち寄ったスーパーで買ってきた惣菜などが入っていた。
「……いくらか言ってくれた ら、俺が払う――」
「いいですから。おれが勝手に買ってきたんで」
 釈然としていない顔ながら、こんなことで言い合 っても仕方ないと思ったらしい。京一は黙ってキッチンに行く。
 すでに肩が凝りそうだと思いながら、智也はジャケットを 脱いでイスの背もたれにかけると、やっと腰を落ち着ける。
 京一が準備をする間、智也は辺りを見回す。さやかがときどき 泊まりに来ているという話だったが、見た感じでは、それを匂わせるものは何もない。それとも、あえて隠しているのだろうか。
 食器が派手な音を立て、反射的に智也は首をすくめる。さきほどから、なんだかバタバタとした気配がキッチンから伝わっ てくるのだ。
「……おれがやりましょうか?」
 キッチンから顔を出した京一が、顔をしかめて首を横に振る。少しだけ 焦っているように見えるが、気のせいかもしれない。
 まさか世の中に、惣菜を食器に盛って温めることすら難儀する男がい るとも思えない――。
「熱っ」
 レンジの電子音に続いて京一の声が聞こえ、仕方なく智也は立ち上がる。このとき、ネクタ イを解いてスラックスのポケットに入れ、ワイシャツの袖を捲り上げた。
 結局、智也が大半の準備を整えてテーブルの上を 調えると、正面のイスに腰掛けた京一は、決まり悪そうな表情で頭を下げた。
「すまない……。さやかにも、少しはしっかり しろと言われてるんだが、俺は仕事以外のことは要領が悪い……」
「隙のある男はモテますよ。おれはその点、隙がなさすぎ て――」
 顔を上げた京一に、生まじめな顔で言われた。
「それは、冗談のつもりか?」
「……さっさと食べますよ」
 グラスにビールを注いでもらいながら、智也はしっかりと見た。京一の口元が微かに笑んでいたことを。指摘しなかったの は、腹が立つよりも、恥ずかしかったからだ。
 ぎこちなくも兄同士、夕食らしきものをとりながらビールを飲み、ぽつりぽ つりと会話を交わす。決して会話が弾んでいるわけではないが、沈黙することだけはなかった。お互い、沈黙に陥ったときのフォ ローが大変だとわかっているため、ある意味、会話を繋げるために必死だ。
 こういうところで、苦労性という気質は出るの かもしれない。
 それなりに空腹が満たされ、新しいグラスに注いだチューハイを少しずつ飲んでいると、空いた食器を傍ら にやった京一が深刻そうな顔でため息をついた。智也は、京一のグラスにもチューハイを注いでやる。あとでワインも開けるそう なので、帰る頃には胃の中がすごいことになっているだろう。
 そもそも智也は、そんなにアルコールが強くないのだ。
 さすがに少し頭がぼんやりしてきたかもしれないと、テーブルに肘をついて頭を支えていると、ふいに京一が切り出した。
「――お袋が、気づいたみたいだ」
 一拍置いてから、智也は軽く目を見開いて姿勢を戻す。酔いかけた頭でも、京 一が何を言おうとしているのか理解できた。
「うちにいることを……?」
「いや……。さやかが俺のところにいるのは、 家出したからだと思ってるみたいだ。とにかく、いつもとは様子が違うと感じているらしい。一応、母親の勘、というやつだな」
「つまり、あなたのところにいるとは思ってるんですね」
「……ああ」
 二人は同じタイミングでグラスに口をつけ てから、ため息をついていた。言葉にはしないが、これからどうするか、という意味で二人のため息は共通しているだろう。
 会ったことのない京一とさやかの母親のイメージが、すでに智也の中では固まりつつあった。
「誤魔化し続けるの、大変で しょう」
「まあ、適当なことを言って、なんとかしている。ただ、向こうも露骨に怪しみ始めたから、ここに来るのも時間の 問題だろうな」
 話しながら煙草を取り出した京一が、苦々しい表情で唇に挟む。京一より先にライターを取り上げて火をつ けてやってから、智也も煙草を咥えた。
「――……それで、おれに相談したいことっていうのは……」
 京一が軽く煙を 吐き出した。
「今回のことを機会に、さやかをおれのところに住ませようと思う。なるべく早く。だから、一応今、さやかを 預かってくれている君に、話を通しておこうと」
 兄が妹を思う気持ちと、妹が兄を思う気持ちは、一途であればあるほど、 大事なところですれ違うらしい。いや、さやかのほうが、京一を深く理解しているからこそのすれ違いなのかもしれない。
 とにかくはっきりしているのは、さやかは、今以上に京一に迷惑をかけることは望んでいないということだ。
 ただ、京一 の気持ちも、智也にはわかるのだ。長い間、さやかを守るという義務と愛情を持ち続けた結果、京一は自分のことよりもまず、さ やかのことを優先してしまう。それは、気持ちがどうこうではなく、性質の問題だ。
 自分はどちらの味方につこうかと、智 也は頭の片隅で一瞬だけ考える。すでに結果の見えていることだった。
 智也はもったいぶるように煙草の煙をゆっくりと吐 き出す。
「言っておきますけど、彼女はまだ、おれのところで家出続行中ですよ。新しくパジャマを買って、気合いも十分で すから」
「さやかには、俺から言う。だから一度、家族四人で――」
 智也は意地悪く笑って見せた。
「そのときは、 彼女を何時間か貸してあげます。話し合いが終わったら、返してくださいね」
 クールそうな見かけによらず激しやすい性格 だというのは、これまでの会話で把握していた。案の定、智也の物言いに刺激されたように、京一が強く睨みつけてくる。
  そんな京一を見つめ返しながら、その強い感情は別の人間のために使うべきなのだと、やけに冷静に智也は思っていた。向けられ る本人が望んでいない感情を、いくらぶつけたところで、それは自分自身の心を磨耗するだけなのだ。
 自己満足の代償とし て、それは見合っているのだろうか――。
 京一のことを考えていたはずが、いつの間にか智也自身のことへと入れ替わって いた。気持ちを向ける対象は違っても、智也と京一は似ているのかもしれない。
 智也は煙草を灰皿の縁に置いたまま、ぼん やりとする。つい、これまでの自分を振り返り、辻に対する空回りぶりに虚脱感に襲われていた。
「君は――、会う度に疲れ てるな」
 唐突に京一に言われ、智也は苦笑を浮かべる。京一のことを観察しているのは智也だけではない。京一もまた、智 也を観察しているのだと気づかされた。
 智也のことを的確に観察しているという点では、さすが兄妹だけあって、京一もさ やかも同じだ。
「……いろいろですね、考えると、疲れるんですよ。報われるのか報われないのか、そういうことを考えてい る時点で、ダメですね」
「ああ、俺も同じだ。……でも、疲れてないと、やってられないときもある。自分を抑えきれなくな りそうで。疲れることで、結果を出しているつもりになっているのかもな」
「そうですね。本当に、そうだ……」
 京一 の言葉が、砂が水を吸い込むように、すんなりと心に入り込む。
 この会話が、二人の心を和らげるきっかけになったようだ った。京一がぽつりぽつりと言う。
「さやかに対して、ときどき罪悪感を感じるときがあるんだ。俺は社会っていう外に出て 自由にしてるのに、あいつは縛られたままだって」
 智也は話を聞きながら、煙草とグラスを交互に口に持っていく。京一の 落ち着いた声と口調が心地よく、このままテーブルに突っ伏して眠りたいぐらいだ。
「逃げ出したっていう意識があるんだ。 あいつを置いて。だから、いろいろ考える。あいつにとって、俺はどうするのが一番良いか」
「……彼女は彼女で、どうすれ ばあなたが楽になれるか、考えてるのかもしれませんよ」
 さやかの気持ちを代弁する立場にはないが、優しい兄に対して、 智也は少しだけサービスする。
「そうだろうか」
「さあ。うちは脳天気な弟しかいませんから、よくわかりませんけど」
 京一はちらりと笑みをこぼし、チューハイをグラスに注ぎ足してきた。
「俺はもしかして、慰められてるのか?」
「幸せな耳してますね」
「君は疲れてるくせに、挑発的だ」
「人を病人みたいに、疲れてる疲れてるって……」
 初 めて二人は、穏やかな笑みを交わし合う。
 智也はグラスを掲げて見せた。
「――兄同士、今日は徹底的に飲みますか?  それとも、妹が心配だから追い返しますか?」
 立ち上がった京一が食器棚からウィスキーの瓶を取り出し、キッチンに移 動したかと思うと、氷の準備をする音が聞こえてくる。意図を察して智也も立ち上がり、声をかけた。
「手伝いますよ」


 酔いを覚ますためベランダに出た智也は、飲みすぎたと呻きながら手すりにもたれかかっていたが、ストンと足から力が抜け、 その場に屈み込んでいた。
 いつの間に雨が降りだしたのか、ときおり冷たいものが手や頬にぶつかる。だが今は、濡れる感 触さえ心地良かった。とにかく顔が火照って熱い。
「風邪ひくぞ」
 後ろから声をかけられ、頭から上着をかぶせられた。 足音から察するに、京一も酔っているようだ。それはそうだろう。他愛ないことをだらだらと話しながら、夜遅くまで二人でひた すら飲み続けていたのだ。
 沈黙を恐れて話し続けていたら、気がつくとそれなりに会話が弾んでいたということだ。おかげ で智也は、自分の限界も忘れて深酒してしまった。
 手すりに掴まりながら、一度は立ち上がろうとしたが、やはり足に力が 入らず、コンクリートの上にぺたりと座り込んでしまう。その拍子に、頭からかけられた上着が落ちそうになったが、すかさず今 度は、肩にかけられた。肩に回された京一の手の感触に、無意識に智也は体を強張らせる。自分でも、この反応の意味はわからな かった。
 ふいに沈黙を意識する。飲んでいる間は、勢いもあってどんな話題でも振ることができたが、なぜか今のこの状況 では、どんな話題も思い浮かばない。
 一人うろたえた智也は上着を手繰り寄せようとしたが、京一に肩を引き寄せられ、半 ば強引に上着で体を包み込まれた。
「脱ぐな、酔っ払い」
 京一には低い声で窘められるが、それが智也には新鮮だった。 いつも、勇樹を窘める立場なので、仕方ないかもしれない。
 兄という立場は同じだが、京一の側にいると、智也自身が京一 に頼りたくなる。自分のそんな感情を素直に認めた智也は、静かな夜更けの空気を破らないよう、小さく笑い声を洩らしていた。
「多少濡れたくらいじゃ、風邪なんてひきませんよ」
「……舌が回ってないぞ」
 大丈夫です、と声に出さずに応じ ながら、街灯の光を反射している濡れた路面を見下ろす。すでに行き交う車の数も少なくなっていた。
「タクシー、呼んでも らえますか……。まだなんとか、家に帰りつくまで、目を開けていられそうなので――」
 智也はふらりと立ち上がろうとし たが、肩にかかった京一の手に力がわずかに加わり、それだけで智也は動けなくなる。
「それで帰るつもりか。座っていても、 体が揺れてるぞ」
「おれが帰らないと、あなたの妹とおれの弟、二人きりですよ」
 うっ、と京一が言葉に詰まり、わか りやすすぎる反応に智也はまた声を洩らして笑ってしまう。このとき目の前の景色が大きく揺れ、気持ち悪くなって京一の肩に頭 をのせる。
「……気持ち悪……」
「おい、しっかりしろ。吐きたいのか?」
 そう問いかけてきながら、京一が遠慮 がちに智也の体を揺さぶる。智也はますます京一にもたれかかりながら頷いた。
「大丈夫です」
「嘘を言うな。――君の 弟については信用してるから、酔いを覚まして帰れ」
 智也はゆっくりと顔を上げ、間近にある京一の顔を見つめる。肩にか かったままの京一の手が、ほんのわずかに動いた。
 こんなことに気がつくほど感覚は鋭敏なのに、思考だけはひどく緩慢だ。
「どういう心境の変化です。妹の身の安全第一のあなたが……」
「今は君のほうが、危ないんだ。そんな状態で外に出し たら、道路の真ん中ぐらい歩きそうだ」
「信用ないですねえ。こっちは大丈夫だって言ってるのに」
「……しらふでそう いうことは言ってくれ」
「しらふじゃない人に言われても困ります」
 京一が顔をしかめたが、自覚はあるのか反論はさ れなかった。
 酔って気分が悪いというのに、なぜかはしゃぎたい心境だった。智也の足首を掴んで捉えている様々な感情か ら――本当は、辻に対する複雑な感情から、今だけは解放されているような感じだ。
 久しぶりの深酒のおかげかもしれない が、最悪の相性だと思っていた京一を目の前にして、自分がこういう状態になれるとは、智也は想像すらしていなかった。
  京一が怒らないのを良いことに、ますます体を預けてもたれかかる。それでも京一は受け止めてくれた。
「――……萩原さん、 本当に面倒見が良いですね」
 受け止められているという実感に、胸が詰まる。この瞬間、秘密を封じた智也の心の扉が、わ ずかに開いていた。
「お互い様だろ」
「違いますよ……。おれが自分から世話を焼いてやろうと思うのは、辻だけです… …」
「辻? ああ、あのおっとりした」
「そう、おっとりした。……最初に会ったときから、放っておけなかった」
 どうしてこんなことを言い出したのか、自分でもわからないまま智也は言葉を続ける。さやかに知られたことには怯えていたく せに、その兄である京一には自ら告げていた。
「……辻はね、特別なんですよ」
 秘密を告げるために囁く。雨音が強く なり、聞こえたかどうか心配だったが、京一は微妙に顔を強張らせるという反応を示した。
「あいつとは高校の頃からのつき 合いで、その頃からあんなふうで、放っておけなかった。おれはすぐにわかりましたよ。辻のことが――好きなんだって」
「酔って、からかってるのか……」
 そう言いながらも京一は、しなだれかかる智也を突き飛ばすどころか、脇腹の辺りに控 えめに手をかけて支えてくれる。
 智也は自虐的な笑い声を洩らしていた。雨の降りが突然強くなり、二人の体を濡らしてい く。それでも二人はその場を動こうとはしない。
「……からかってなんか、いませんよ。酔ってはいますけど。……辻が好き で、だけどどうしようもなかった。バレるのが、本当に怖かった。今はもう、辻への恋愛感情は感じないけど、だけど、あいつが アメリカに行くと言ったとき、悲しいのに、どこかでホッとした」
 言葉にして、智也は自分の気持ちを知る。辻が目の前か らいなくなれば、いつまでも未練がましく引きずった感情から、やっと解放されるかもしれないと心の底で思ったのだ。
「辻 に会う度、自分の気持ちがバレるんじゃないかと怯えなくて済みますからね」
「――本当に、恋愛感情だったのか?」
  智也は伏せかけていた顔を上げる。京一は、自分がつらい告白をしているような顔をして、じっと智也を見つめていた。
「俺 はよくわからないけど、もしかして、感情を履き違えてたんじゃないか」
「あなたこそ、おれのこと慰めてるんですか」
「そういうつもりじゃ……」
「感情を履き違えていたとしたら、おれは救われるんでしょうか? 楽になれるんでしょうか?」
  自分につき合って濡れている男の生まじめさが、ひどく腹立たしかった。表向きはどうあれ心の中では、同性に好意を持っ ていたという智也を嫌悪しているのかもしれないのに。
 そんな気持ちから、抑えた口調で八つ当たりのような問いかけをし てしまう。しかし京一は、気を悪くしたり、困惑する素振りも見せなかった。それどころか、雨に濡れていく智也の髪を掻き上げ てきた。
「……救われて、楽になりたいのか?」
 気遣うような声で京一に問い返され、胸を抉られる思いがした。猛烈 に京一に反発したいのに、その反面、京一にすがりつきたくもあるのだ。
 京一の包容力は、今の智也には毒のように甘い。
 智也は、まるで悪魔に耳元に囁かれたかのようにあることを思いつき、自制心も働かないまま行動に起こしていた。
  京一の頭に手をかけ、引き寄せる。ただでさえ近かった京一との顔の距離がさらに近くなった。
「――……感情だけの問題じ ゃない。おれはね、辻にこんなことをしたかったんですよ」
 アルコール臭い息を吐き出して、智也は京一の唇に自分の唇を 無造作に押し当てる。どちらも、燃えるように熱い唇だった。
 京一は智也を押し退けようとはしなかった。咄嗟に動けない ほど、驚いているのかもしれない。投げ遣りにそんなことを考えながら、智也はそっと唇を離す。だが京一は、少なくとも見た目 は落ち着いて見えた。ただ、食い入るように智也を見つめてくる。
 京一の目に、軽蔑や怒りの色がわずかでもあれば、智也 はバカなことをしたと言って、笑って冗談で済ませることができたのだ。なのに京一は――。
 また智也の髪を掻き上げ、雨 で濡れた頬を、やはり雨で濡れている指で拭ってきた。
 京一の不器用な優しさに促されるように、智也はもう一度唇を押し 当て、擦りつける。二人はわずかに顔を動かし、しっとりと唇同士が重なった。
 初めて同性と唇を触れ合わせたが、違和感 はなかった。唇を通して感じる温かさも息遣いも、むしろ心地いいほどだ。
 もし時間を遡り、相手が辻であったなら、と夢 想してみたが、何も浮かばなかった。今、智也が唇を重ねている相手は京一で、つい何日か前まで、見知らぬ他人だった。しかも、 相性が最悪に近い――はずだった。
 肩から上着が落ちそうになったが、唇を離した京一にかけ直され、そのまま肩を引き寄 せられる形となり、また唇が重なる。示し合わせたように二人は視線を伏せながら、互いの唇を吸い合っていた。
 求めて応 じられる感覚に、智也の背に痺れるような疼きが駆け抜ける。思わず京一の腕に手をかけると、肩にかかった京一の手に力が込め られた。
 何かを確かめるように口づけを続けていると、頬に大粒の雨が当たる。それで智也は我に返り、ゆっくりと唇を離 した。
 京一の顔を見るのが怖くて、視線を伏せたままこう言っていた。
「……嫌だなあ、本当に、酔ったみたいだ……」
「そうだな。――お互い」
 京一の返答に、智也は唇に淡い苦笑を浮かべたが、すぐに消す。
 疲れた、と呟きなが ら京一の肩に顔を埋めると、優しく髪を撫でられた。どこまでも智也を受け止めようとする優しさと誠実さに、ふいに、声を上げ て泣きたくなった。








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