[6]
目が覚めた智也は、見覚えのない部屋の景色に戸惑う。同時に、頭痛に襲われて呻き声を洩らしていた。
「ううー……」
声を発して、喉の痛みも認識した。とにかく体の状態が最悪なのは、目覚めてすぐに嫌でもわかった。
カーテンの隙
間から差し込む陽射しが、天井に光の帯を作っている。それをぼんやりと眺めながら、智也はこめかみを揉む。そうしながら自分
の状況を把握する。
最悪だ、と口中で呟き、また頭痛に呻かされる。とにかく、最悪だった。体調以上に、自分が置かれた
状況が。
前髪に指を差し込み、昨夜の自分の行動を一つ一つ思い返していくうちに、このまま消えてなくなってしまいたく
なる。片手で自分の体を探ってみたが、上下ともスウェットスーツを着せられている。智也には自分で着た記憶がないので、おそ
らく――。
頭痛がひどくなったような気がして、体を横向きにして布団に包まり直そうとした瞬間、なんの前触れもなくド
アが開き、人が入ってくる気配がした。驚いた智也は反射的に頭を上げ、思いきり京一と目が合う。
咄嗟に反応できず、そ
のまま固まっていた。それは京一も同じで、不自然な姿勢で動きを止めている。
昨夜、この男にキスしてしまったのだと、
映像とともに唇に感触が蘇る。それだけで眠気は吹き飛び、意識しないまま体が熱くなってきた。モソモソと身じろぎ、智也はや
っと体を起こす。京一も、ぎこちない動きベッドの傍らに立った。
「起きていたみたいだな。酔い潰れて熟睡していたか
ら、昼頃まで起きないのかと思った」
一瞬、会社に遅れるのではないかと思ったが、よく考えるまでもなく、今日は土曜日
だ。京一も、着替えてはいるもののラフな服装をしており、落ち着いている。
智也は乱れた髪を掻き上げる。動揺を表に出
さないよう、とにかく必死だった。
「……朝起きて、自分が裸だったらどうしようかと思いましたよ」
「ひどい声だな」
冗談のほうは無視されてしまう。智也は自分の喉にそっと手を当てた。
「風邪、ひいたみたいですね」
一度部屋
から出た京一が再び戻ってきたとき、手には水の入ったグラスと風邪薬があった。反発する理由も気力もなかったので、手渡され
た薬の包みを開ける。
京一がベッドの端に腰掛け、智也を見つめてくる。向けられる眼差しに気づいてはいたが、視線を向
けてはやらなかった。どんな顔をして見つめ返せばいいのかわからないのだ。
黙って薬を口に含み、差し出されたグラスの
水で流し込むと、すかさず手からグラスが取り上げられた。
沈黙を選んだのは智也だったが、沈黙に耐え切れなくなったの
も智也だった。
「――おれ……」
「うん?」
「酒癖悪いんです。酔っ払うと、誰彼かまわずキスするんです」
〈キス〉の一言に、顔から火が出そうだった。だいたい、こんなウソをつくこと事態、恥ずかしくてたまらない。
「昨夜のあ
れを見てると……、そうだろうな」
わかっていながら、智也に逃げ道を作ってくれるのは、さやかと同じだ。智也は所在な
く何度も髪を掻き上げ、なんとか会話を続けようとするが、何も浮かばない。京一の視線を感じるとなおさらだ。
智也が困
り果てていると察してくれたのか、京一がそっと背を撫でてきながら言った。
「かまわないから、もう少し寝てろ。疲れてる
どころじゃなくて、今にも死にそうな顔をしているぞ」
ありがたい申し出にぎこちなく頷いてから、智也は部屋を見回す。
「ここ、彼女の……?」
「他に泊まるような奴もいないからな。普段は物置きだ」
そのわりにはきれいに片付いて
おり、京一の気配りを感じる。大事な妹を休ませるための部屋を、あんなことをした智也に提供してくれたのだ。
申し訳な
さに顔を伏せかけようとしたとき、京一が立ち上がろうとする気配を感じ、つい智也はシャツの裾を掴んでしまう。京一が驚いた
顔で振り返ったが、智也が一番自分の行動に驚いていた。
「どうした」
智也は激しくうろたえ、すぐには言葉が出てこ
ない。すると、ベッドに座り直した京一に顔を覗き込まれた。
「おい? もしかして、気分が悪いんじゃ――」
「携帯っ
……、おれの携帯、持って来てもらえませんか。勇樹たち、いるはずですから、一応連絡、しておかないと……」
「ああ」
京一が立ち上がり、部屋にあるデスクに置いた携帯電話を持ってきてくれる。礼を言って受け取った智也は、さっそく家に
電話した。
「おれだ」
『兄貴? えらくまた、昨夜は無茶したって声してるな』
勇樹の声が笑いを含んでいる。根
本的な部分で、大きな誤解をしてくれているらしい。
「お前は……、何を言ってるんだ」
『俺の記憶じゃ、初めてのはず
だぜ。兄貴が外泊なんて。しかも連絡なし』
「心配もせずに、そんなこと考えてたのか、お前は……。ところで、彼女、いるか?」
『大丈夫。何もしてねーよ。兄貴たちにあんまり期待されると、その気も萎える』
いつもなら、バカの一言でも返して
やるところだが、自分を見下ろしてくる京一の視線が気になり、言えない。勇樹のほうも、智也の異変に気づいたようだった。
『――もしかして兄貴、今も誰かと一緒?』
「もう切るぞ」
即座にウソをつけるほど余裕がなかったため、対応
としては一番マズイ方法を取る。
電話を切った智也は、大きく息を吐き出して額に
手をやる。別に、京一と一緒だと言ったところで不自然ではないのだ。二人で飲んでいたのは本当だ。
だが、キスもしてし
まった。
気まずい思いで、窓際に立っている京一をちらりと見ると、何事もなかった顔で言われた。
「何か欲しいもの
があったら、いつでも呼ぶといい」
昨夜の智也の発言や行為をどう考えているのか、まったく読ませない京一に対して、智
也は苦々しく注文をつけた。
「……あまりおれに、甘え癖をつけさせないでください」
「仕方ないな。俺は根っからの世
話好きだし、俺からしてみれば、君も放っておけない」
そう言い置いて京一は部屋を出て行った。
一人になった智也
は、熱くなった頬を強く撫でてから、ゆっくりと深呼吸をしてみる。体調は最悪だが、呼吸は楽にできる。
変な表現だが、
京一に守られているこの空間は、居心地がよかった。それに、ずっと胸につかえていた感情の塊がなくなって、寂しさを覚えるぐ
らい清々しい。
行き場をなくしていた想いが、雨でどこかに流れていったのかもしれない。
再びベッドに横になりな
がら、なんの根拠もなく智也はそう思ってみた。
日曜日であるにもかかわらず制服を着たさやかは、普段の軽やかさや明るさを忘れたように、硬い表情と動きをしていた。
見ている智也のほうも、さやかを騙して無理させているようで、痛々しく感じる。それは京一も同じらしく、玄関に立ったまま、
唇を引き結んでさやかを見ていた。
金曜日の夜に兄同士が話し合ったことは、智也と京一の間に何があったにせよ、実行に
移すために土曜日のうちに準備が進められた。
智也の口からさやかに、京一の考えを伝えた。家族で一度話し合いの場を持
とうというもので、一方の京一は、その話し合いのために両親を説得し、なんとか今、京一の部屋で待ってもらっている。
これからさやかも向かうため、こうして京一が迎えに来たのだ。
靴箱からローファーを出してさやかが履き始めると、智也
と京一の視線はその行動に注がれる。勇樹は珍しく軽口も叩かず、自分の部屋から顔を出そうともしない。
靴を履いたさや
かが、ふわりとスカートを揺らして振り返った。真っ直ぐ智也を見上げる顔には、笑みが浮かんでいる。
「わたし――……、
帰ってきていいですよね」
さやかの背後に立つ京一を見ると、柔らかな苦笑を含んだ目で見つめ返された。その目を見つめ
返すことにわずかな照れを覚えながら、智也は頷く。
「君を貸しただけだからね。返してもらわないと」
「すぐに帰って
きますから」
そう言ってさやかは、京一が開けたドアからするりと出ていく。あとを継ぐように京一も智也に声をかけてき
た。
「……夕方には、連れてくる」
兄妹の姿がドアの向こうに消えてしまうと、ドアに鍵をかけた智也は軽くため息を
ついてから、ダイニングに戻る。いつの間に部屋から出てきたのか、勇樹が膝を抱えるようにしてイスに座っていた。
智也
は、勇樹の頭を手荒く撫でてやる。
「似合わないから、拗ねた顔するなよ」
「してねーよ」
「してる。安心しろ。夕
方には帰ってくるから」
「親に連れて行かれたら、そんなのわかんねーだろ」
キッと勇樹に睨みつけられたが、智也に
とっては、拗ねた弟がよく浮かべる見慣れた表情だ。
「あの頑丈そうな兄貴がいたら、大丈夫だ」
智也もイスに腰掛け
ると、頭の後ろで手を組む。
「……適当なこと言うなよ」
「適当じゃない。おれは確信している」
いい加減な気持
ちからではなく、京一にさやかを任せてみたかった。他人である智也たちに踏み込めない部分は結局、あの男に任せるしかないの
だ。そして智也は、頑固なだけではない京一の優しさと誠実さを信じていた。
「何かあったとしても、彼女が連れ戻されそう
になったら、抱えてでも連れてくる」
智也の言葉に、奇妙なものでも見る目をしていた勇樹だったが、ふいに身を乗り出し
て顔を近づけてきた。
「――どうかしたのか?」
突然尋ねられ、智也は意味がわからなかった。
「何が」
「あ
んなに相性が悪そうだった萩原兄を、やけに信用してるじゃないか」
勇樹の指摘に、ついイスに座り直してしまう。このと
き智也の脳裏を過ったのは、京一とキスしたときの光景だ。おかげで、冷静なふりをするのにそれなりの努力が必要だった。
「……あの状況で、掴み合いのケンカでもすれば良かったか?」
「そうは言ってねーけど……」
「大人は大人で、いろい
ろあるんだ」
曖昧な表現で誤魔化して、智也は煙草に手を伸ばす。だが、唇に煙草を挟んだところで、また智也の意識は同
じ光景へと引き戻される。今度は感触まで蘇っていた。
自分の嫌な感情の塊をただ押しつけただけの、二十四年間生きてき
た中で、最低最悪のキス――のはずなのに、胸の奥では微かな疼きが生まれる。それはきっと、自分がただ唇を押し付けただけで
はなく、京一も応えてくれたキスだったからだ。
意識しないよう努力はしているつもりだったが、無駄な努力だと思い知ら
される。京一と顔を合わせてあのときの光景が蘇るだけではない、こうして目の前にいないときでも、何かの拍子に蘇ってしまう
のだ。
京一のほうはどうだろうか、と考えたところで、急に居たたまれなさに襲われ、智也は勢いよく立ち上がる。
突然の智也の行動に、驚いたように勇樹が目を丸くした。
「どうかしたのか?」
「……掃除するぞ」
「げっ、何もこ
んなときにしなくても……」
「兄弟でずっと、辛気臭い顔をつき合わせているのも不毛だろ。さっさと掃除機を出して来い」
渋る勇樹を追い立てているうちに、さやかが来る以前の光景が戻ってきた。智也と勇樹は手分けして、部屋を片づけ始
める。
勇樹の文句を聞き流しながら掃除機をかけていると、電話が鳴った。智也は勇樹を呼んで掃除機を押し付け、電話に
出る。相手は辻だった。
『――同居生活、うまくいってる?』
前置きなしの、何とも辻らしい言葉に顔をしかめる。
「女の子と一緒に住んでると知って、そんなのんびりしたこと聞けるの、お前ぐらいだろうな」
『だって、一緒にいるの
が智也と勇樹くんだろ? 心配することなんて何もないよ』
「いや……、そう断言されると、かえって複雑というか……」
顔をしかめて髪を掻き上げる智也を、やや離れた場所で掃除機をかけている勇樹がニヤニヤと眺めている。さっさと掃除を
しろと、智也は軽く手を振った。
『それで、あの子は? 萩原さやかさん、だっけ』
「……少しの間、彼女の兄貴に貸し
た」
『貸した、って……?』
「いろいろ事情があってな。話し合いのために、両親と会うことになってるんだ」
詳
しいことを辻は聞こうとはしなかった。すぐに話題を変え、辻自身のことを話し始める。水曜日に出発することと、搭乗する飛行
機の時間のことだ。
本当に辻は行ってしまうのだと、いまさらながら智也は痛感する。京一やさやかとの出会いがあって日
常が慌ただしくなり、辻が遠くにいくという現実から少しだけ距離を置いていたのだが、こうして本人から聞かされると、やはり
胸が痛い。
そんな智也の気持ちを知ってか知らずか、笑いを含んだ声で辻が言った。
『智也に甘えていいかな』
「珍しいな。何だ」
『見送り、来てもらえないかな。やっぱり、しばらく会えなくなると寂しいから』
「そんなことか…
…。ああ、行ってやる」
心の中ではためらいながらも、智也ができる返事は決まっていた。自分から離れて行こうとする辻
に対して、何かを口走ってしまいそうで、怖くはあるのだが。
素直に喜ぶ辻の声を聞いてから、電話を切る。それを待って
いたように、掃除機を置いた勇樹が側にやってきた。
「電話、誰からだった?」
「辻。水曜の朝、出発するって」
「いよいよだな。当分、あの人に会えないのか……」
勇樹の表情がふと曇る。
「――……考えたことなかったけど、一
人も寂しいけど、二人の生活っていうのも、案外寂しいよな」
勇樹らしくない発言に危うく同意しそうになり、寸前のとこ
ろで智也は言葉を言い換えた。
「似合わないこと言ってないで、さっさと掃除しろ。おれは洗濯物を干してくる」
一見
忙しく動き回りながらも、その後、智也と勇樹の口からため息が途切れることはなかった。
外見は似ていない兄弟だが、案
外、寂しがり屋という意外な点ではそっくりなのかもしれない。
「帰って来ないな」
待ちくたびれたような声で勇樹が言う。自分の部屋でテレビゲームをしていたはずが、いつの間にか智
也の部屋に入り込んでいたようだ。パソコンの画面と向き合っていた智也が振り返ると、勇樹はベッドにもたれかかっていた。
いつもはにぎやかな奴が、黙って兄の背を見つめていたらしい。時間とともに不安が募ってきたのだろう。
外はまだ
日が落ちているわけではないが、時間としてはそろそろ夕方と言ってもいい頃だ。
話し合いはどうなっているだろうかと気
にかけながら、いつになく真剣な様子の弟に視線を戻した智也は、率直に聞いてみた。
「――お前、萩原さんのこと好きなの
か」
勇樹は真意の掴めない笑みをちらりと見せる。
「そうだって言ったら、危ないから萩原はここに置けないだろ」
「お前の心がけしだいだな」
「安心しろよ。萩原のことは、そんなふうに見てないから」
普段なら、照れもあって
冗談として交わされる会話も、今はきわめてまじめだ。兄弟揃って、こういうことを話したい心境なのかもしれない。
「嫌い
ってことはないだろ?」
「それは、な。だけど萩原は、好きか嫌いかってだけで計れない奴なんだよ。いないと寂しくて、い
たら安心する感じだ。友達だしな。兄貴だったら、辻さんみたいなもんだな。兄貴と辻さんが一緒にいると、なんか微笑ましいん
だよ」
他意はないのだろうが、勇樹の言葉に智也は驚かされた。他の人間からは、智也と辻の関係は、そんなふうに見えて
いたのだ。多分、喜んでいいのだろう。
「なるほどな……」
「あいつと一緒に生活してても、俺は楽だった。つまりはそ
う言うことだろ? いることに、特別な意識なんてしなくてよかったんだ」
「いないと寂しくて?」
「……そこまで俺に
言わせるなよ」
「さっき自分で言っただろ」
勇樹とさやかの関係が羨ましかった。智也と辻の関係も、こんなふうに
純粋な友情で結ばれて、辻は今もそうだと信じているはずだ。智也も、そうであろうと努力してきた。そうする価値があるほど、
辻との友情は心地よかったのだ。だから智也は、繋ぎ止めておくことに心を砕いている。
自分はもっと楽に、辻に寄り添っ
ていてもよかったのではないか、と思った瞬間、不思議な感覚が智也の中で広がっていく。
金曜日の雨が降る夜、京一とのやり取
りで溶けてしまった感情の塊だが、そのあとはぽっかりと穴が空いたような寂しさを抱えていた。今は、そこに優しく柔らかな感
情が埋め込まれていくようだった。
これはなんだろうかと、智也が戸惑っていると、インターホンが鳴らされた。
二人は顔を見合わせてから、すぐさま勇樹が部屋を飛び出していき、慌てて智也も後に続く。
開けたドアの向こうに制服
姿のさやかが立っており、ぎこちなく笑いかけてきた。
「――帰ってきちゃいました」
悲愴感たっぷりに帰ってくると覚
悟していたわけではないが、智也はやや拍子抜けしてしまう。一方の勇樹は、さやかに向かってこう言った。
「おう、おかえ
り」
「あー、緊張感のないその顔見ると、ほっとする」
「なんだよ、それ」
勇樹とさやかの会話に笑い出しそうに
なりながら、智也はさやかの側に京一の姿がないことに気づく。サンダルを履いて玄関の外を見ていると、さやかが教えてくれた。
「お兄ちゃん、そこまで来てたんですけど、やっぱり帰るって言って……」
それを聞いた智也は、勇樹にさやかを任せ、
京一のあとを追いかける。
エレベーターを使おうとして、階段からの人の足音に気づく。急いで階段のほうに向かうと、下
りていく男の姿があった。
「萩原さんっ」
智也が呼びかけると、京一が振り返って目を見開いた。足が止まったので、
急いで前に回り込む。
「何で、うちに顔を出さないんです」
智也の口調は、つい咎めるようなものになってしまう。心
外だといいたげに、京一の眉がそっとひそめられた。
「……さやかなら、ちゃんと連れて来ただろ」
「そういう問題じ
ゃなくてですね……」
「君には電話で話そうと思ったんだ。話し合いのことは。さやかも聞いてるとこじゃな。――悪かった。
挨拶ぐらいすべきだった」
素直に謝られ、智也は面食らい、そしてすぐに自分の行動を恥じた。
「いえ、おれこそ。…
…あんなことあったから、あなたに避けられてるのかと誤解して……」
京一は、雨に濡れながらのキスのことを思い出した
のか、困惑したように口元に手をやった。
「いや……、あれは、俺は気にしてない」
階段の一段下から見上げる智也に
合わせ、京一が階段を下りる。ようやく近い目線になったところで、今度は京一と目を合わせることを意識してしまい、なんとな
く足元に視線を落とす。
「――俺は少し、落ち込んでる」
ふいにそんなことを言われ、そっと京一の表情をうかがう。
京一は口元に手をやったまま、ため息交じりの言葉を続けた。
「余計なことをして、さやかを傷つけたんじゃないかってな」
「どうしてです」
「とりあえず家族で集まってはみたけど、親父はお袋の言う通りにしろと言うだけだし、お袋には、自
分がどれだけひどいことをしてるかっていう自覚がない。反対に、さやかを責めるだけだ。こんなに思って大事にしてやっている
のに、何が不満なのかってな」
さやかに代わって、京一がどれだけこれまでのことを訴えたか、容易に想像できた。今の京
一からは、疲労感が漂っているからだ。肉体的なものより、精神的にいろいろと負担を強いられたのだろう。
「さやかは、何
も言わなかった。泣きもしないし怒りもしない。多分あいつは……、今日のことで、諦めたんだと思う。自分から何かを伝えるこ
とは、無駄だということが」
どうしてそう思うのかという智也の疑問は、顔に出たらしい。力なく京一は笑った。
「俺が諦め
たからだ。あの二人のところにさやかを置いておくことを。――これは俺のエゴか?」
智也はためらった挙げ句、首を横に
振る。
「おれは、あなたと同じ立場からしか意見が言えないけど、愛情は、何をしても許される免罪符にはならないと思いま
す」
「……それは、俺にも痛い言葉だな」
「彼女の言葉を聞けばいいんじゃないですか? 少なくともあなたには、さや
かさんの話を聞いて、理解して、受け止める余裕はあると思います」
京一から、不思議なものでも見るような目を向けられ
る。居心地の悪さを感じた智也は、逃げるようにして部屋に戻ろうとしたが、京一に腕を掴まれて止められた。いつの間にか熱を
帯びた目が、智也を見つめていた。
「……萩原さん?」
「さやかを――」
「はい」
「もう少しの間、君のところ
に置いてやってくれるか? あいつの好きなようにさせてやりたい。俺も、親父やお袋と同じだ。あいつの言いたいことを理解し
てやろうとしてなかった」
この瞬間、智也の中では、京一に対する苦手意識は消えていた。それどころか心の底から、この
男の優しさを実感していた。
京一を安心させるため、自分の腕を掴んでいる手の上に、そっと自分の手を重ねる。
「違
いますよ、あなたは。だから彼女も、あなたにだけは自分の居場所を教えたんじゃないんですか。信頼されているんですよ、〈お
兄さん〉」
笑いかけると、腕にかかる京一の手が動き、今度は智也が手を握られる。小さく声を洩らしたものの智也は動け
ず、ただ京一を見つめる。その一方で、まるで何かに操られるように二人はてのひらを重ねていた。
どう反応すればいいか
わからず、ただ互いの顔を黙って見つめ合っていると、誰かが階段を上がってくる気配がする。
ハッと我に返った智也は手
を引く。
「……さやかさんのことは大丈夫ですからっ……」
どうにかそれだけを早口で告げると、別れの挨拶も交わさ
ないまま階段を駆け上がる。
もちろんこのとき、京一がどんな顔をしていたのか、振り返って確認する余裕など智也にはな
かった。
智也が風呂から上がり、髪を拭きながらダイニングに行くと、先に風呂を済ませた勇樹とさやかがテーブルについていた。
二人が智也を見て、同時に何か言いたげな顔をする。
「どうかしたのか?」
問いかけながら智也の頭に浮かんだのは、
京一との階段でのやり取りだ。聞かれて困る会話は交わさなかったが、見られて困るような行為は――。
京一と重ねたての
ひらの感触が蘇り、それでなくても風呂上りで熱くなっている頬がさらに熱くなる。
あのとき、自分たちの中にどんな心理
が働いたのか、いまだに智也はわからないのだ。ただなんとなく、京一の手の温かさを手放せなかった。
首にかけたタオル
で髪を拭きながら、さりげなく二人から表情を隠す。すると、チェック柄のパジャマを着たさやかが立ち上がる。辻への過去の思
いを知られているわけだが、今はさやかに対して身構えたりはしない。むしろ、さやかの兄のことで、さやかに対して妙な罪悪感
が芽生えつつある。
さやかは引き結ぶんでいた唇を開く。
「……ごめんなさい」
何を言われるのかと、一人で考
えを巡らせていた智也は、一瞬虚を突かれる。
「なんの、こと……?」
「わたし、気軽にただいまって言ったけど、本当
は迷惑をかけていることはわかってるんです」
さやかの言いたいことを理解して、智也は女の子らしい華奢な肩を軽く叩い
てやる。
「――君がここにいることぐらいで、おれも勇樹も迷惑なんて感じないよ。うん、まあ……最初は、こいつがとんで
もない問題を持ち込んできたと思ったんだけど、実際君とこうして生活して、けっこううまくやっていると自負してる。気にしてな
い、というのは違うかな。楽しいよ、君がいてくれて」
今にも泣き出しそうな顔をしてさやかは笑った。
今日、両親
からの言葉を聞きながら、どれだけさやかが泣きたいのも怒りたいのも我慢していたか、この表情で推し量ることができる。ずっ
と張り詰めていたのだ。
「……優しいです、みんな……」
震える声で呟いたさやかが勇樹の部屋に入っていった。ドア
が閉まったのを見届けてから勇樹を見ると、らしくない深刻な表情をしていた。
「俺は、あいつに聞いていいのか? いろい
ろな事情とか……」
「お前が好奇心から聞きたがっているんじゃないことは、彼女はよくわかってるよ」
勇樹は、さや
かの家出の事情を知りたがっていた。いままでの友人関係から、さらに一歩を踏み込もうとしているのだ。だから智也は、背を押
してやる。
「おれも、彼女の兄貴も、ただの保護者だ。だけどお前は違う。本当はそういう人間と、向き合ったほうがいいん
だ」
ちょっと待ってろと言って、智也はキッチンに立つ。さやかがここに来てすぐだった頃に飲ませたココアを二人分、作
ってやった。
「ほら、これ持って、行ってこい」
カップを両手に持った勇樹が、愛嬌のある笑みを浮かべる。
「優
しいな、ほんと」
「気色悪いこと言ってないで、さっさと行け」
「萩原には言わせてたろ」
「お前とあの子は別だ。
彼女に言われると、素直に嬉しい」
唇を尖らせた勇樹は、足で乱暴にドアをノックして、さやかにドアを開けてもらう。二
人が部屋に入ったのを見てから、智也はイスに座る。
今日も疲れたと思いながら、タオルで髪を乱雑に拭いていたが、ふと、
自分のてのひらを見つめる。ここに、京一のてのひらが重なってきたのだと思うと、胸がじわりと熱くなり、疼く。
京一と
触れ合うことに抵抗を覚えていない自分に、智也は大きく戸惑っていた。だが、決して嫌ではないのだ。
京一に触れられる
ことも、それを受け入れてしまう自分も――。
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