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ステップ −Step−
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[7]

 水曜日は、特別な目覚め方をするでもなく始まった。
 まだ寝ている勇樹の体を跨いで部屋を出ると、すでに着替えを済ませたさやかがキッチンに立っている。
「……おはよう」
「おはようございます」
 寝ぼけた声での挨拶に、申し訳なくなるぐらいの爽やかな挨拶で返され、智也は髪を掻き上げながら洗面所に向かう。
 身支度を整えて新聞を読む頃になってやっと勇樹が起き出し、ようやく三人揃っての朝食となった。
「お前はもう少し、早めに目覚ましをセットしろ」
「そうは言うけど、朝の十分は貴重なんだぜ。だいたい兄貴が起こしてくれれば――」
「布団の中から、恨みがましそうな目で見上げてくるお前の顔が、おそろしく可愛くないから嫌だ。朝からあんなもの見たくない」
「……ひでーな。可愛い弟に対する言葉かよ、それ」
 いつもと変わらない気が抜けそうな会話を交わしていて、ふと思い出したように勇樹が言った。
「――いよいよ辻さん、出発だな」
 それを聞いた智也は、心の中の動揺が表に出ないよう努める。
 今日が特別な日だと、嫌でも認めざるをえない。
「そうだな」
「見送り行くんだろ?」
「ああ……」
 答えながら、前に座っているさやかと目が合った。何の感情の含みも見せない瞳に、いまさらながら感謝する。彼女が思わせぶりな言動を取らないからこそ、智也は冷静でいられるのだ。
「大丈夫かなあ。どうもあの人、普通以上に抜けてる気がするけど」
「気のせいじゃなくて、本当に抜けてるんだ。大丈夫だろ。それでも今まで無事に来たんだから」
「けっこう冷めてるな」
 言いながら、勇樹は意味深に笑っている。その笑いの意味が智也にはわからなかったし、深く意味を考えようともしなかった。
「別に。電話でいくらでも声は聞けるしな」
 突然押し寄せてくる喪失感と、安堵感。交互に体と心で受けとめながら、智也は少しずつ辻との精神的距離を取っていった。それがつまり、智也なりの踏み出すべき一歩なのだ。
 智也が厳かな気持ちになっているというのに、ここで勇樹が余計なことを言う。
「それでも、寂しいだろ? 兄貴、甲斐甲斐しく辻さんの世話焼いてたもんな」
「お前は朝からうるさい」
 明け透けすぎる勇樹との会話は、鋭いところを突かれそうで危険だ。智也は兄の権限を発動し、会話を一方的に打ち切った。
 勇樹は拗ねたように唇を尖らせ、ブツブツと何か言っていたが、智也がじろりと一瞥すると、大げさに首をすくめて朝食を掻き込む。
 食後のお茶を飲んでいると、あっ、と小さく声をもらしてさやかが立ち上がる。智也が壁の時計を見ると、そろそろ登校時間だ。
 テーブルの上を簡単に片付けたさやかは、慌てた様子で鞄を取ってきた。
 さすがに勇樹とさやかを同時に部屋から出すと、近所の目もある。そこで智也は、時間差で二人を部屋から出しているのだ。少なくとも、勇樹とさやかが一緒にいるところを見られなければ、言い訳はいくらでもできる。
「行ってきまあす」
 さやかが出かけるのを見送ってから智也は洗い物を始め、一方の勇樹は自分の部屋で着替える。
 すべてを話したらしいさやかと、すべてを聞いたらしい勇樹の間には、際立った変化は見られない。さやかは智也が羨むしなやかさで、勇樹はさやかが焦がれる強さで受けとめたらしい。
 けっこうなことだと、カップを洗いながら智也は思う。
「――俺は実は、兄貴がもっと落ち込むかと思ってた。辻さんがいなくなるってことで」
 突然かけられた言葉に振り返ると、勇樹が制服のブレザー姿で立っていた。
「そうなのか……?」
「さっきも言ったけど、半端じゃなく辻さんの世話焼いてたからな。……結果として良かったろ? 萩原が来て。忙しくて落ち込む暇がないし、いい痴話喧嘩の相手ができたみたいだし」
「……萩原兄のことを言ってるんなら、痴話喧嘩ってのはやめろ」
「でも、気は合いそうだ」
 言い返す言葉が見つからず、智也はカップを洗う。てのひらにはまだ、京一の手の感触が鮮やかに残り、思い出すたびにハッとさせられる。
「じゃあ俺、学校行くから。辻さんによろしく言っといてよ」
 さやか同様、慌ただしく勇樹が出て行き、一人になった智也も手早く片づけを済ませ、部屋を出ることにする。すでに部屋を引き払った辻はホテルに滞在しているので、そのホテルの前で落ち合ってから、空港に行くことにしているのだ。
 バタバタと部屋を行き来して仕事道具を抱えた智也は、玄関から一歩外に出た途端、首をすくめる。肌で感じる風の冷たさに、思わず呟いた。
「バカやろー、ここらで桜なんて、まだ咲くわけないだろ」
 一階まで下り、足元に向けていた視線を何げなく正面に戻す。次の瞬間、智也は息が止まりそうになった。
「――……萩原、さん……」
 さやかのほうではない。その兄である京一が、なぜか目の前に立っていたのだ。
 スーツの上から羽織ったコートが風に揺れる。様になる光景に目を奪われそうになるが、それ以上に智也が目を吸い寄せられたのは、自分に向けられる真っ直ぐな視線だった。
「何、してるんです……」
「君を待ってた」
「はあ?」
「だから、君を待ってたんだ。友人を見送りに行くんだろ」
 大股で歩み寄ってきた京一に腕を掴まれ、引きずられる。制止の声を上げることすら忘れてしまった。
 ようやく智也が声を発することができたのは、京一の車の助手席に押し込められたときだった。
「なっ……、なんであなたが、辻の出発の日と時間を知ってるんです」
「君の弟が、うちの留守電に入れてた。兄貴につき合ってくれと。俺も気になってたから、君に聞こうと思ってたんだ。ちょうどよかった」
「あいつは何考えて――」
勇樹の意味深な笑いが脳裏に浮かぶ。つまりは、こういうことだったのだ。
「よっぽど、おれとあなたで痴話喧嘩させたかったみたいだ」
「痴話喧嘩?」
「なんでもないです」
 車が走り出し、外を流れていく景色に視線を向けながらも、智也はすぐ隣にいる京一をひどく意識していた。助手席と運転席という距離が、ひどく近く感じられる。触れ合っているわけでもないのに、相手の体温まで伝わってきそうだ。
 自分の手を軽く握ってみて、指先が熱くなっていることに智也は気づく。
 すっかり京一のペースに巻き込まれ、自分一人が動揺させられているようで、なんだか悔しい。
「――萩原さん、あなた、うちの家庭にどんどん侵食してきてますね」
 思わず恨み言にも似たことを言ってしまった智也に対し、京一が微苦笑を浮かべた。
「人を、ばい菌か何かみたいな言い方するな」
「だって、そうじゃないですか。……いきなりうちに怒鳴り込んできたような人と、なんでおれが、辻の見送りに行かなきゃいけないんだか」
 京一はあっという間に微苦笑を消し、一瞬のためらいを見せたあと、ぼそりと言った。
「放っておけなかったんだ」
京一の言葉が重く心に響いた。それでいて、違和感なく溶け込んでしまう。辻に対して言い続けた言葉を、いざ自分が言われる立場になると、意地を張ったり反発することこともなく、むしろ安堵すらしてしまう。
 自分を見てくれている人がいるのだという安堵感だった。
 智也はちらりと笑い、ぎこちなく髪を掻き上げる。
「…… 大丈夫ですよ、おれは。辻のことはもう吹っ切れてますし、今日からは、きれいな女の子とつきあおうとも思ってますから。おれ、よく誘われるんですよ。だからすぐに――」
「すぐに疲れるんだから、無理はするな。聞いていて空々しいぞ。だいたい君は、そういういい加減なつき合いはできないだろう」
「本気でつき合おうと思ってるんです」
「無理だな。その気もないのに」
 断言され、言い返そうとする気力も奪われた。何もかも、京一には読まれていた。
「前向きなのもけっこうだが、過ぎたら、ただの自棄だ」
 京一の言葉の正しさを、智也は認める。立ち止まるのが嫌で、まるで無理に自分を駆り立てているようだと、自覚はあったのだ。
 あまりにあっさり京一に見抜かれてしまい、恥ずかしいという気持ちを通り越して、笑いが込み上げてくる。ただ智也は自棄にはなっていなかった。京一の的確な言葉に心を暴かれるのは、不快ではない。
 きっといままでの自分は、理屈や理性という殻で心を覆いすぎ、息苦しくあることさえ普通の状態になっていたのだ。その殻にヒビを入れ、少しずつ突き崩しているのは、他でもない、京一なのだろう。
 一人でクスクスと笑い続けている智也を気味悪がるでもなく、京一は黙って車を運転して、あるホテルの前まで行く。呆れたことに、勇樹から、辻が泊まっているホテルまで聞いたらしい。それとも、京一がしっかり聞き出したのか。
 すでにバッグを手に外で待っていた辻が車に駆け寄ってきて、目を丸くした。
「――智也、機嫌良さそうだね」
 開口一番の辻の言葉に、智也は再び声を洩らして笑う。
「まあな。お前の世話を焼かなくて済むと思うと、嬉しくてたまらないんだ」
「ひどいなあ」
 後部座席に乗り込んだ辻が、身を乗り出して京一と挨拶を交わす。どうして智也と一緒にいるのか、その点について尋ねないのが何とも辻らしい。
 さっそく京一が車を出し、空港へと向かう。
「桜、間に合わなかったね」
 道路に沿うようにして植えられた桜の木を眺めながら、ぽつりと辻が言った。確かに、花を咲かせそうな気配すらない。
「咲かなくて良かったよ。お前は桜を見上げて歩くから、危なっかしい」
「智也によく、襟首を掴まれて怒られたよね」
 もっとたくさんの思い出話をしようと思っていた。なのに交わした会話らしい会話といえば、この程度だった。別に京一に気をつかったわけではない。ただ、この先しばらく会うことのない辻との空気を、しっかり覚えておきたかった。
 この、ぼんやりとして見えながら、意外に中身はしっかりしており、でもどこか間が抜けて天真爛漫な男に恋していたのだと、自らに言い聞かせる。
 押し殺してしまった恋を、智也はもう惜しいとは思わなかった。思ってはいけないことだし、慎重すぎるがゆえにそうしてしまった自分を、早く捨てたかった。
 引きずるのではない。捨てるのだ。
 智也は自分の決意を確かめるように、ぐっと自分の手を握り締める。ここまで思いきれるようになったということは、打ち明けてよかったのかもしれないと、そっと京一の横顔をうかがっていた。
 車が空港の前で停まった。京一を見ると、降りろと示される。
「俺は駐車場で待ってるから、ギリギリまで一緒にいたらいい」
 京一の心づかいに感謝しながら、智也は首を横に振る。
「いいですよ。おれ、会社もありますから。辻、大丈夫だろ?」
「うん。ここまで来てもらえたんだから」
「飛行機の時間、間違えないでちゃんと乗れよ」
「最後まで言われるなあ」
 笑いながら辻はバッグを持って降りる。ウインドーを下ろすと、腰を屈めた辻が目の前で手を振った。
「じゃあ、智也。萩原さんも、ありがとうございました」
 京一は軽く頷く。にこりともしない京一の素っ気なさを補うように、智也は辻の肩をポンッと叩き、笑いかけた。
「おい、電話ぐらいしてこいよ」
「うん」
「気をつけろよ」
 返事をしながら辻が歩いていく。何度も智也たちのほうを振り返りながら。転ぶのではないかと、智也はついハラハラしてしまう。
 行き交う人たちの間に紛れ、辻の姿が見えなくなっていく。瞬きもせず、じっと後ろ姿を追い続けていた智也だったが、辻の後ろ姿が見えなくなってしまうと、ほっと息を吐いてシートにもたれかかる。このときにはもう、顔から笑みは消えていた。
「――行っていいか」
 タイミングを見計らっていたように京一に問われ、智也は頷く。
「ええ」
 車の微かな揺れに身を任せながら、ゆっくりと深呼吸する。不安になるほど、智也の心は軽くなっていた。もしかすると虚脱した状態なのかもしれないが、覚悟していたような悲痛さはなかった。
「……よかったのか?」
 ふいに京一に話しかけられ、唇をわずかに歪めた智也はちらりと視線を向ける。
「一緒にいても、おれにはもう、言うことなんてありませんよ。行って来いってことだけだ」
 黙って京一が煙草を出してきた。智也が一本取って唇に挟むと、京一自身も煙草を吸い始めた。煙を吐き出しながら、ため息を誤魔化す。
「おれはずっと、なんでも辻のせいにしてたんです」
 するりと言葉が口をついて出た。
「たとえば」
「他人に興味が持てないのも、だから恋愛ができないのも、苦しいのも……。そんな自分が嫌で、辻が大事なのに、どこかで憎かった」
 こうして言葉にしてみると、自分が狭量で嫌な人間だとつくづく思う。辻は何も悪くないのだ。独りよがりの想いを抱いたのも、苦しんだのも、すべて智也自身が選んだことだ。
「だからいつも疲れてたわけだな」
 そんなに疲れていただろうかと、京一の言いように智也はちらりと苦笑を洩らす。
「……あなたと同じですよ。疲れてないと、何かをしでかしそうだった」
 一瞬だけ、強烈な悲しみが胸を通りすぎ、余韻だけを残していく。智也はそれが、友人が遠くへ行った寂しさのせいだと分析して、納得した。
 急に京一がハンドルを切って進路を変更する。どこに行くのかと思ったが、すぐに、どこでもいいという気がしてきた。今の智也は、他人の中にいたくはないが、一人にはなりたくない。そんな複雑な心境で一緒にいられるのは、京一しかいなかった。
「昼には帰してくださいね。おれ、この間ので代休使ったんで」
 ささやかな意地を張って見せながら、智也は窓の外の景色を眺める。差し込んでくる陽射しが暖かく、それ以上に隣に人がいる気配が心地よくて、智也は無意識に唇に微笑を刻んでいた。
「嬉しそうだな」
 京一に言われて初めて、自分の口元が綻んでいることに気づいた智也は、慌てて表情を取り繕う。それでも、頬の辺りが熱くなるのはどうしようもなかった。
「あなたとドライブしてて、嬉しいわけないでしょ」
「でも、笑っていただろう」
 答えようがなくて智也が黙り込むと、京一も、それ以上追及してこようとはしなかった。男二人、車内で笑っていたかどうか確認し合ったところで、あまり建設的ではない気がする。京一も同じことを思ったのかもしれない。
 横のウインドーに顔を向けつつ、智也はまたちらりと笑みをこぼしていた。


 京一に連れて来られたのは、自然公園だった。駐車場に車を停めたが、京一が降りようとしないので、なんとなく智也も降りられない。
 平日のこの時間帯、子供の姿はまったく見えず、車も数台ほどしか停まっていない。広い公園なので、ちらほらと散歩している人影が見えるぐらいだ。車の中も静かだが、その周囲もまた、静かだった。
「――……気が利いてますね。こんないい場所に連れてきてくれるなんて」
「近場で静かな場所なんて、ここしか思いつかなかった」
 木々の枝が風で揺れる。シートから身を乗り出すようにして、智也はその木々を見つめる。桜の木であることは、すぐに分かった。
「もうすぐ、花見できますね。そのときは、四人で来ましょうか。おれと勇樹と、あなたとさやかさん」
「俺を嫌ってるくせに、誘ってくれるのか」
 京一もハンドルを抱えるようにしながら、同じく視線を上げる。
「嫌ってませんよ。相性が悪いだけです」
 同じことだと京一が苦笑して、思いがけず柔らかな京一の表情につられるように、智也も笑みをこぼす。
 ふっと空気が和みかけていたが、それもわずかな間だった。
 意識して桜の木をじっと見上げていた智也だが、次第に、無視できない居心地の悪さを覚え始めていた。
 京一の視線が自分に向けられていることに気づいてしまったからだ。
 今は京一との距離がひどく近い。物理的なものではなく、精神的な距離が。
 その距離に戸惑った智也は、自分でもよくわからないまま、こんなことを口にしていた。
「……何か言ってください。……今日はおれのこと、慰めてくれるんでしょう?」
「そのわりには、あんまり落ち込んでるようには見えないな」
「あなたと痴話喧嘩しなきゃいけないと思って、はりきってるからですよ」
「――本当に、挑発的だな」
 やや呆れた口調で京一が言う。初対面の頃なら、こんなところから口論が始まっていたかもしれないが、今は違う。智也は、京一の物言いに反発するどころか、心の襞をくすぐられたようにドキリとしていた。
 京一の声にも言葉にも、余裕がある。智也の意地も空元気も受け止めてしまう、包容力も
――。
 こんなことに気づいてしまう自分はどうかしていると、ふいに智也はうろたえてしまう。
 所在なく髪を掻き上げながら、懸命に言葉を紡ぐ。
「ああいうのは……、もう嫌です。情けなくて、惨めで、最低だ……」
「つまり俺は、最低の君を見られたわけだ」
 京一の声が深みを増す。そして智也は、京一の言葉に心が引き寄せられる。
 これ以上、この狭い空間で話しているとまずいことになると、智也の本能が訴える。とにかく早く車の外に出ようと思った。
「含みのある言い方ですね」
「これ以上、君への印象が悪くなることはないわけだ」
「……わりに合わないですね。おれはあなたの最低なとこ、見てないのに」
 言いながらドアノブに手をかけ、車外に出ようとした智也だが、この行動は成功しなかった。京一が突然、何かを吹っ切ったように智也に手を伸ばしてきて、あっという間に手を――指を掴まれた。
 京一の思いがけない行動に、数秒の間、智也は反応できなかった。頭が混乱して、何が起こったのか理解できなかったのだ。
「あ、の――……」
 声を発した瞬間、智也の体は一気に熱くなり、動揺する。指先まで熱くなり、上昇した体温は京一にも伝わっているはずだ。
 目を見開いて硬直した智也に対して、京一が低く洩らした。
「……俺は、最低だ……」
 もう一方の手が伸ばされて首の後ろにかかり、京一が助手席のほうに身を乗り出してきた。
 シートに押し付けられた智也だが、逃げようと思えば逃げ出せたし、手も振り払おうと思えば振り払えた。それでもそうしなかった理由は――よくわからない。怖いわけでもないのに、体が動かなかった。
「んっ……」
 京一の唇が智也の唇に押し当てられる。この状況でキスされたことへの驚きよりも、智也がまず感じたのは、やはり京一の唇は温かいということだった。
 そっと唇を吸われ、ゾクリとするものが背を駆け抜ける。きつく握られていた指を解放されたが、代わりに、京一の手は智也の肩にかかっていた。
 柔らかく下唇を啄ばまれ、深く唇が重なってくる。反応できない智也とは対照的に、京一はひたむきにキスを続ける。
 何度も唇を吸われていくうちに、智也の体の強張りがゆっくりと解け、意識が揺れる。心が京一に反応していた。いや、さきほどから反応していたのだが、もっと強い力で引き寄せられ、包み込まれていくようだ。
 車内に差し込んでくる陽射しのような優しいキスに、智也の胸はぐっと詰まる。京一のキスに心をこじ開けられ、気持ちが流れ込んでくるようだった。硬い殻で覆っていた分、智也の内はひどく脆く柔らかい。
 反発というより、初めて怖さのようなものを感じ、ようやく智也は抵抗らしい抵抗をした。とはいっても、京一の肩を軽く押した程度だ。それでも、呆気ないほど簡単に体が離される。
 間近で、審判を待つ罪人のような顔が、智也を見つめていた。
「……何の、つもりですか……」
 顔を背けた智也は掠れた声で問う。今になって動揺してしまい、声は微かに震えを帯びていた。
「ふざけ、すぎです」
「ふざけたわけじゃ――……」
「ふざけてないんなら、なんですっ? おれが、辻がいなくなって寂しいだろうから、こんなことでもすれば喜ぶと思ったんですかっ?」
 自分でも言い過ぎだと思ったときには、肩を掴まれて乱暴に京一のほうを向かされた。すでに表情は一変して、おそろしく険しい顔で智也を睨んでいる。
 あまりの迫力に一瞬怯みそうになった智也だが、ギリギリのところで負けん気を発揮し、京一を睨み返す。ついでに、きつい言葉を発していた。
「あなたが、こんな人だなんて思いませんでしたよ」
 しかし京一は動じる素振りすら見せず、それどころか、薄い笑みを向けてきた。
「どんな奴だと思ってたんだ?」
 智也は言い返そうとしたが、言葉が出なかった。
 京一が実はどんな男であるか、実は何も知らない。出会ったのはごく最近で、顔を合わせたのは数えるほど。しかも、そもそも顔を合わせる理由といえば――。
「君が知ってるのは、妹に過保護な兄貴ってことだけだろ。それも仕方ないな。俺たちが顔を合わせるのは、さやかのことを相談するためだったから。もしかして今日が初めてじゃないか。ごく個人的な理由で会ったのは」
 智也が思ったことを、京一が口にする。
 そのとおりだった。
「……おれが……、あなたのそんなところ以外を知る必要は、ないはずです」
 その瞬間、京一はかつてしたように、傷ついた目をした。見ている智也のほうが罪悪感を覚え、急いで自分の荷物を持って車を降りた。
「ここから、一人で行きますから」
 何も言わない京一を残し、智也は公園を出て行く。
 歩きながらふと思い出し、人目を気にしながら唇に手の甲を押し当てる。なぜ京一が突然、あんなことをしたのか、考えてみる。
 答えは出なかった――というより、答えを出したくなかった。何事にも慎重な智也は、自分でもわからない〈何か〉を、京一に期待したくなかった。もう、傷つきたくはないし、痛みを抱えたまま日々を生きるのは嫌だった。
 何もかも忘れてしまおうと自分に言い聞かせながらも、そんな気持ちを裏切るように、唇はずっと熱を持ち続けた。智也の中の、消えない〈何か〉を主張するように。









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