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ステップ −Step−
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[8]

「――……兄貴?」
 遠慮がちなノックと共に、勇樹がドアの向こうから声をかけてくる。
「入ってくるな」
 会社から戻ってずっと部屋に閉じ込もっている智也は、勇樹ともう何度も、同じやり取りをしていた。
 部屋にカギはつけていないので、入って来ようと思えばいくらでも入って来られる。これまで勇樹は遠慮していたらしいが、さすがに今度はそうもいかなかった。
 足蹴にしたのではないかと思うほど乱暴な音を立て、勇樹が部屋に入ってくる。
 ベッドの上に胡座をかいて座っていた智也は、自分でも分かるほど凶悪な目つきで弟を睨みつける。滅多にないほど、智也は機嫌が悪かった。正確には、苛立っていた。八つ当たりをしたくないから、こうして部屋に一人閉じこもっていたぐらいだ。
「誰が入っていいって言った」
「今のとこ、この部屋は兄貴だけのものじゃなくて、俺のものでもあるんだからな」
 ドアが閉められ、勇樹が近寄ってくる。そんな勇樹を睨みつけていた智也だが、すでに効果はないと悟ると、諦めて煙草に手を伸ばした。
 勇樹が当然の問いかけをしてくる。
「……何かあったのか」
「お前には関係ない」
「そういうわけにはいかないだろ。初めてだぜ。兄貴が飯も作らずに部屋に閉じ込もるってのは」
 的確な指摘を繰り出す勇樹にイライラとして、智也は前髪を掻き上げる。怒鳴りたいところを、なんとか堪えているのだ。
「……飯は?」
「萩原が作ってくれた。兄貴の分もあるから、腹減ったら食えよ」
 勇樹がベッドに腰掛け、智也の顔を覗き込んでくる。煙草を吸う振りをして顔を背けた。
「――もしかして、俺が余計なことしたから怒ってるのか?」
「余計なこと……」
「辻さんの見送りで、萩原兄に同行を頼んだこと」
 このときになって智也は、今日、京一と行動をともにしたのが、勇樹のお膳立てによるものだったことを思い出す。
 半ば条件反射で、勇樹の頭を殴りつけていた。
「いてーな」
 智也は横目で勇樹を見る。予想に反して、真剣な顔がそこにはあった。
「もしかして、萩原兄と喧嘩したのか?」
 問われた途端に智也の中で蘇ったのは、京一にキスされた光景と感触だった。不思議なことに、弟が側にいるだけでイライラしているというのに、苛立ちの原因でもある京一に対しては、怒りはまったく湧かない。
 智也はそんな自分の姿を自覚しているからこそ混乱し、一人になって考えたかったのだ。
 自分の中で、一体どんな異変が起こっているのかと。
「……そこでどうして、辻と喧嘩したと考えないんだ」
「兄貴はできないだろ、辻さんと喧嘩は。言いたいこと言ってるようで、いつも辻さんに気をつかってるからな。だとしたら、相手は萩原兄しかいない」
 いまさら空しい反論をする気にもならなかった。智也はため息を吐いて肯定する。
「おれは……女扱いされるほど、女々しく見えるか?」
「はっ?」
「いや、いい……」
 弟相手に何を言っているのかと、煙草を灰皿に置いた智也は口元をてのひらで覆う。
 数分ほど互いに黙り込んでいたが、ぽつりと勇樹が言った。
「兄貴は、力を抜くってことが下手なんだよ」
 眉をひそめつつも、智也は視線で続きを促す。
「弟の俺でも、ときどき思うぜ? 何でこんなに、やる気がないようなふりして必死に頑張るんだって。弟の世話なんて、適当に手を抜けばいいのに、飯はしっかり作るし、掃除も洗濯もしっかりやる。愛想良くしてるから、近所の評判も悪くないしな。そのうえ辻さんの世話まで焼いて、……今は、萩原までしっかり守ってる」
「別に守ってるつもりじゃ――」
「そう、それだ。兄貴は自分に対する評価が低すぎる。これだけやっても当たり前って思ってるんだ。俺なんかにすれば、尊敬もんなのにな。だから思うんだよ。もっと力抜いて、楽すればいいのにって」
 智也は苦々しく唇を歪める。
「おれは、これ以上ないぐらいいい加減に生きてきたつもりだけどな」
「違うな。これ以上ないぐらい、無理してるんだよ。俺が見た限りじゃ、萩原兄も兄貴と同じタイプだ。あっちはだいぶ年期が入ってそうだけど。つまり似た者同士だからぶつかるんじゃねーの?」
 思いがけず弟から正論めいたものを聞かされて、眉をひそめていたはずの智也は、いつの間にか目を丸くしていた。長年見ているはずの勇樹の顔を、間近から覗き込む。
「……お前、詐欺師になれるぞ」
「何それ」
「あることないこと、真実味たっぷりに言うってことだ」
「かなりの部分で当たってると思うけどな」
 兄としては、当たっていると素直に認めたくないときだってあるのだ。
 キスされた感触と、強く指を握られた感触が、また智也の体を熱くする。一人になりたかった理由のもう一つは、ここにあった。
 京一から与えられたキスの感触に浸ってしまう自分の顔を、誰にも見られたくなかったのだ。
 智也はうつむきながら煙草を揉み消す。
「―― 勇樹」
「あん?」
「お前今日、ダイニングで寝ろ」
「ちょっと待てっ。ついさっきのしんみりした話から、何でそうなるんだよ」
「お前が寝ないんなら、おれはベランダでも寝るぞ。今日は人がいる場所で寝たくない」
 わずかな沈黙の後、勇樹は盛大なため息を吐いた。
「まあ、いいけどさあ。……兄貴、たまには誰かに思ってること聞いてもらったほうがいいぜ。なんでもかんでも自分で解決するっていうのは、俺は不可能だと思う」
 押入から布団を出して、勇樹はそれを抱えて部屋を出て行った。
 閉まったドアを眺めてから、智也は力なく呟いてみた。
「……わかったようなこと言うな……」
 京一もきっと、勇樹と同じようなことを智也に言いたかったはずだ。言葉はなくとも、わかってもらいたい、理解してもらいたい、と願う瞬間は誰にでもある。
 智也は、辻に対する思いを必死に隠しながら、どこかで、察してもらいたいという気持ちを抱いていた。受けとめてもらいたかったのだ。もっとも、そんなことが夢であることは、考えるまでもなくわかっていた。
 知られたくない、察してほしい。ずっとそんな気持ちのせめぎ合いだった。苦しかった。でも苦しかったのは、自分が決断できなかったからだ。
「言わないと、伝わらないよな――……」
 言ってもらわなければ、知りようがない。
 今になって、まったく初歩的なことを智也は痛感する。
 京一が、何を考えているか知りたかった。まずは、言葉で。
 辻以外の人間に対して、存在を深く知りたいと思うなど、智也にとってこれが初めてのことだった。だからこそうろたえてしまうが、もう迷いはしなかった。




 翌朝、智也が部屋を出ると、まず最初に目に入ったのは、ダイニングの床に布団を敷いて眠っている勇樹の姿だった。そんな姿を見ると、多少悪いことをしたと思わなくもない。だがそんな気持ちも、キッチンに立つ人影を認めた瞬間に忘れてしまった。
 智也の気配に気づいたのか、さやかが振り返って笑いかけてきた。
「おはようございます」
 控えめに応じてから、智也は一度自分の部屋に戻って上着をパジャマの上から引っかける。
「勇樹が寝てるうちに、煙草買いに行くのつき合ってくれないかな」
 目を丸くしてから、さやかはあっさり頷いた。
「制服なんですけど、いいですか?」
「パジャマ姿の男と、制服姿の女子高生なんて、いかがわしくていいね」
 冗談めかした智也の言葉に、さやかは声を洩らして笑う。
 コートを羽織ったさやかとともに、財布を手にした智也は部屋を出る。さすがにまだ朝も早いということもあり、人の行き来はまばらだ。
 こんな時間から外に出ることは滅多にないが、覚悟していたほどの寒さはなく、確実に春がすぐそこまで訪れていると肌で知る。
「――わたしに何か話したいことがあるんですか?」
 マンションを出たところで、思いきったようにさやかが切り出してきた。何を言われるのかと身構えているようにも見えるさやかに、智也は優しく笑いかける。
「君のことじゃないんだ。君のお兄さんのことがあってね」
「お兄ちゃん?」
「そう、会って喧嘩ばかりしているけど、実は君のお兄さんのこと、何も知らないんだ。おれの話ばかり聞いてもらっていたのに、それで君のお兄さんを知ったつもりになっていた。昨日、そのことを指摘されて、ひどい別れ方をしてしまった。それで――」
 ここまで言って、智也は視線をさまよわせる。いざ、さやかを外に連れ出して話してはみたものの、実のところ、京一とどうすればいいのか、よくわかっていないのだ。ただ、とにかく自分で動かなければという気になっていた。
 君のお兄さんのことが知りたい、と切り出すのは、さすがにどうだろうかと、今になってためらってしまう。
 智也の困惑を知ってか知らずか、無邪気な目で見つめてきながらさやかが言った。
「――やっぱり、お兄ちゃんと昨日、喧嘩したんですか?」
「やっぱりって……、君も知ってたんだ」
「勇樹から、相談されたんです。智也さんのこと心配だからって」
「あいつ、どんなふうに言ってた」
 さやかがためらうように唇を閉じたので、智也は首を横に振る。
「言っても告げ口にはならないよ。おれもあいつには言わないから」
 ゆっくりした足取りで数歩あるいたところで、さやかは再び口を開いた。
「……一人になるって……。智也さん、無器用だから、一人になりたくないときにも、誰かに一緒にいて欲しいと言えないんだって、勇樹が……。わたしも言われたとき、すぐに意味はわかりました。ずっとずっと我慢してる人は、どこで我慢を止めたらいいのか、わからなくなってるんじゃないかと思ったんです」
 的確すぎる分析に、苦笑が洩れる。同時に、弟や他人である少女に心配されているのがくすぐったく感じられた。
「智也さんとお兄ちゃん、見た目は全然タイプが違うけど、いろんなところが似てるんです。優しいところや、だからこそ、自分よりも他の人を優先しちゃうところとか。お兄ちゃんは、わたしを一人にしておけない人だけど、それは、お兄ちゃんを一人にしていないとは言えませんよね? お兄ちゃんにはお兄ちゃんで、きっと一緒にいてほしい人がいるはずなんです」
 さやかの言う『お兄ちゃん』は、智也そのものだった。辻が離れて初めて、自分は誰かと一緒にいたくて、多分今、その一緒にいたい相手を見つけたところなのだ。
 京一がこちらに向かって一歩を踏み出し、手を差し出してくれたのなら、今度は智也が応える番なのだ。
 義務ではない。京一に応えたいと思っていて、こうして行動を起こしている。間違っているとかいないとか、それは行動のあとに考えればいい。
 自販機に小銭を入れながら、智也はできる限り淡々とした声で言った。
「――……君は、嫌じゃないかな?」
「何がです」
「おれは辻を……、男が好きだったんだよ。そんなおれが、君のお兄さんのことに興味を持つのは――」
「わたしの価値観は、単純なんです。大事か、そうじゃないか。わたしにとって、お兄ちゃんも智也さんも勇樹も大事なんです。だから……、楽になってもらいたい。少なくとも智也さんなら、お兄ちゃんと向き合ってくれると思うんです。一緒にいてほしいとか、そこまでわがままは言わないけど、でも、二人には笑ってほしい」
 来た道を引き返しながら、智也は自分の顔がどんどん熱くなっていくのを感じていた。勢いと、あまりにさやかが落ち着いて話を聞いてくれたせいで、率直に語りすぎたことを今になって照れていた。
 それを誤魔化すために、つい言い訳がましいことを口にしてしまう。
「……おれと君のお兄さんは、いい喧嘩仲間になれるかもな」
 喧嘩仲間どころか、キスまでしてしまったのだが、こんなことまでさやかに言う必要はない。
 過剰なまでに照れている智也の反応をどう思っているのか、さやかは明るく笑った。
「なればいいんです。お兄ちゃんも智也さんも、言いたいことを言い合えば」
 さやかの手が腕にかかり、目を丸くした智也だったが、ちらりと不安そうな顔をしたさやかを見て、優しく笑いかけて腕を差し出す。するりとさやかの腕が絡みついてきた。
 さやかに対して過保護な京一の気持ちが、わかった気がした。弟とはまた違い、妹という存在は、どうしようもなく可愛くて、守りたい気持ちにさせられるのだ。
「あの人のシスコンが移ったかもしれない……」
 小さく呟いた智也に向けて、さやかが軽く首を傾げる。なんでもない智也は首を横に振った。




 胸が痛いほど鼓動が乱れていた。なんとか鎮まらないかと、胸を強く叩いた次の瞬間には咳き込む。
 会社帰りの智也はエレベーターから降り、さらに落ち着きをなくした自分の姿を自覚していた。これから向かう先は、京一の部屋だ。
 昼間のうちに京一の携帯電話に連絡したので、いないということはない。インターホンを押せば、確実に京一が出るだろう。
 何を話すのか頭の中で整理してから、仕事で使うカタログが詰まったバッグとアジャスターケースを抱え直す。余計なことを考えて怖気づく前にインターホンを押した。
 誰何されることなくドアが開き、ワイシャツ姿の京一が姿を見せた。何も言わずドアを大きく開けられたので、招き入れられているのだと捉えて智也が玄関に入ると、すぐにドアが閉められる。ドアの大きなの音に、ビクリと体を竦ませてしまった。
「――用ってなんだ」
 冷ややかな声と共に、京一から威圧的な視線を向けられた。
 上がれと手で示され、気圧されながらも智也は靴を脱ぐ。先を行く、向けられた背を見つめながら、やっと智也は口を開いた。
「……言ってもらいたいんです。あなたが何を考えてるか。おれは、それが知りたい。だから来たんです」
「知ってどうする」
「それから考えますよ」
「殊勝かと思ったら、相変わらずだな……」
「こういう性格なんで」
 急に京一が振り返る。身構える間もなく腕を掴まれて引き寄せられ、勢いで、ドアが開いていた部屋にもつれるように入った。
 足元が乱れ、その拍子に智也が持っていた荷物が全て床に落ちる。凄まじい音に、険しかった京一の顔にようやく苦い笑みが浮かんだ。その顔を見て、智也は少しほっとした。どんなに冷淡な言動を取って見せても、京一の本質は変わらないのだ。
 優しくて、温かい人。そして、寡黙で情熱的。
「大荷物だな」
「まあ、仕事柄……。カタログって重いんですよ」
 智也は笑いかけようとしたが、失敗した。腕を掴んでいた京一の手が退けられたかと思うと、すかさず今度は、京一の力強い両腕が智也の背に回された。
 抱き締められているのだと理解したときにはもう、搦め捕られたように、まったく身動きが取れなくなっていた。
「――好きになったかもしれない、君を……」
 途方に暮れたような声が耳元にもたらされる。体を硬くしながら智也は、そんな京一の言葉を聞いていた。
 おとなしく京一に抱き締められてはいても、智也の全身の血は、京一の言葉で沸騰させられそうになり、心臓は、今にも破裂してしまいそうだった。
 唐突な告白は、それだけの衝撃をもたらしてきたのだ。
「他人の心配なんかしてていいのかって思うほど疲れてて、なのに挑発的で、かと思ったら妙に頼りなくて、必死で……。よくわからないな。とにかく、君を好きになったみたいだ。男の君を、あっという間に好きに――」
 瞬く間に智也の口中は渇いてしまい、言葉が喉に張り付きそうだ。それでも必死に応じていた。
「……ご、強引な、結論ですね……。他の理由が思いつかなかったんですか?」
「思いつかなかった」
 あっさり断言され、京一に強く抱き締められる。体に絡みついてくる強い腕の感触に、智也は素直に心地良さを感じていた。
 世の中に、こんなにも居心地のいい場所があったのかと思うほどだ。
「……これが、君に知ってもらいたかった俺の気持ちだ」
 言ってもらわなければ知ることができない。
 京一からの言葉を聞くことで、他人に好意を持ったことを、こんなにも真っ直ぐな言葉にできることを、智也は初めて知った。
 こんなにも素敵な言葉にできるのなら、過去の自分もそうすればよかったと思ったが、後悔はなかった。智也の中では、辻への想いは完全に終わったことであり、過去のことだ。
 今は、降り注がれる温かく誠実な言葉に、応えたい。
「おれたち、会ってから痴話喧嘩しかしてませんよ。それなのに……」
 言いながら智也は、京一の肩にそっと額を擦りつける。
「そうだな。不思議だ。俺も自分で思ってる。ただ、君と言い合うのは、悪いことじゃないと思う。心の中を洗っているような気持ちになるんだ」
 心の深い部分に、京一という存在がしみ込んでいく。自分がこの男を受け入れつつあるのだと思った。一方で、京一に自分を受け入れてほしいと智也は切望していた。一方通行ではない気持ちの交流をしたかった。
「おれは、前に進みたかったんです」
「ああ」
「それだけだったんです」
 智也はそう洩らしてから、京一の肩に怖々と手をかける。
「――……自分が疲れてるなんて、あなたに言われるまで気づきませんでしたよ」
「すまんな。世話好きのうえにお節介で」
 小さく声を洩らして笑ってから智也はわずかに顔を上げ、京一の耳元にそっと囁いた。
「あなたも、少し休んだほうがいい」
 そうしてみる、という答えが、今度は智也の耳元に注ぎ込まれる。
 優しい手つきで京一に髪を梳かれながら、ゆっくりと顔を上向かされた。何をされるのかわかっていた智也だが、拒まなかった。
 掠めるように唇にキスされ、たったそれだけで、甘美な痺れが全身を駆け抜けた。
 ここで京一が、京一は苦しげな顔をして言う。
「……ふざけているわけじゃないんだ」
「わかります。それぐらい。あなたは、ふざけてこんなことができる人じゃない」
「よかった……」
 心底安堵したように洩らした京一が、なんだか可愛かった。
 智也は微笑みながら、再び重なってきた京一の唇を受け止める。いきなり深く重なってきた唇に、さすがに驚いて本能的に体が逃げそうになり、落とした荷物をふみつけてしまう。バランスを崩しかけた体が、京一の胸に引き戻された。
 本当のキスだった。
 自制することをやめたように、京一が容赦なく感情をぶつけてくる。智也はその激しさに、自分の気持ちを重ねていた。応えたかったのだ。
 痛いほど強く唇を吸われ、貪られる。煽られるように智也も京一の唇を貪り返し、呼吸すら奪い合うように唇を擦りつける。当然のように互いの舌先に触れると、次の瞬間には絡め合い、やはりきつく吸い合っていた。
 京一に押されるようにして、智也の背が壁に当たる。すでに自分の足で立っているという感覚すら怪しくなっていた智也にはありがたく、威圧するように迫ってくる京一の背に両腕を回しながら、懸命に自分の体を支える。
「んっ、あっ……」
 口腔深くに侵入してきた京一の舌に、熱く濡れている粘膜を丹念にまさぐられ、刺激される。智也が吐息をこぼすと、誘われたように京一に舌を引き出され、軽く歯を立てられた。そのまままた舌を絡め合う。
 気持ちを言葉にするのも大事だが、言葉だけでは表現できない情熱は、すべてキスに託していた。だからキスは長く甘く、官能的だ。
 唇が重ねられたときと同じように、微かに濡れた音を立ててゆっくりと唇が離される。もちろん、二人の中で灯った情熱が消えてわけではない。
 その証拠に――。
 眼差しを絡め合いながら、二度、三度と軽く唇を触れ合わせる。それから京一の唇が頬を滑り、次に首筋に押し当てられた。智也は無意識のうちに、京一の頭を抱き締める。
 背に大きなてのひらが押し当てられる。スーツのジャケットを通して高い体温が伝わってきて、じんわりと背が温かくなってくる。
 このまま触れ合う時間が続けばどうなるか、智也は漠然と考える。まだ、与えられる感触に現実味が伴っていなかった。だからこそ、夢心地で浸っていられるともいえる。
 もっと欲しい、かもしれない。
 智也がそう思ったとき、前触れもなくインターホンが鳴った。我に返って目を見開き、言葉もなく京一と見つめ合う。京一にしても、突然のことにどういう反応すればよいのかわからないようだった。
 そんな二人にお構いなしに、苛立ちを表すように何度もインターホンが鳴らされ、ようやく反応できた。
「出ないと……」
 掠れた声で智也が言うと、ため息を吐いて京一が部屋から出て行く。ドアが閉められた次の瞬間には、よろめいて壁にもたれかかる。体が今になってガクガクと震えてきた。









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