[9]
「――誰か来てるの?」
ドアの開閉の音に続いて聞こえてきた声に、智也はビクリと体を竦める。張り詰めたものを感じさ
せる、神経質そうな女性の声だった。
「……ああ。だから今日は帰ってくれ」
智也がいる部屋のすぐ前で話しているら
しく、会話はよく聞こえる。さきほどまで切実で誠実そのものだった京一の口調が、刺々しいものに変化していた。
「そうい
うわけにもいかないのよ。……さやかが帰ってくるまで待つわよ」
一瞬、智也は息を詰める。ドアの向こうにいるのが、京
一とさやかの母親だとわかったからだ。
痛いほどの沈黙が何十秒か続いたあと、神経質な声が、嘲笑するように告げた。
「帰ってこないんでしょう、さやかは」
京一は答えなかった。勢いづいたように母親が続ける。
「今朝、マンショ
ンの前でずっと待ってたけど、さやかは出てこなかった――。けど、学校には来てたのよ。つまり最初から、さやかはここにはい
なかったということでしょう?」
「……あんたには関係ない。さやかは一度俺のところに来て、それから友達のところに泊ま
りに行っただけだ」
「母親に向かって、関係ないはないでしょうっ」
「また殴るのか?」
一片の感情もない、ある
意味、冷淡とも取れる京一の声から、両親との信頼関係が壊れてしまっているのを智也は感じた。
いまさら部屋を出るわけ
にもいかず、気配を殺して居心地の悪い会話を聞き続けるしかない。自分のことでもないのに、すでに智也は息苦しくなっていた。
「あんたたちが、母さんに殴られるようなことをするからよ」
「……別にもう、そのことはどうでもいいんだ。あんたが
そんな母親だってことはわかってることだ。この先も、さやかを殴り続けることも」
「母さんは、あんたたちを思ってやって
いたことなの。別に憎かったからじゃない」
「愛情から、って……、言いたいのか?」
「そうよ」
キリッと智也の
胸に痛みが走る。萩原家の内情を詳しく知っているわけではないし、それぞれに事情があるのかもしれない。それでも、込み上げ
る怒りによって胸が悪くなる。
一方、母親に断言された京一は、智也もよく覚えている言葉で応じた。
「――愛情は、
何をしても許される免罪符にはならないんだ。あんたの方法が間違ってるとか間違ってないとか、そういうことじゃない。確かな
のは、さやかも俺も、あんたの愛情で傷ついたということだ」
智也は胸を押さえたままうつむく。聞いているほうが、身を
切られるようにつらい。言われた母親はさらにつらいのかもしれないが、智也には母親の痛みを推測することなど、不可能に近か
った。
そもそも、子供に悲壮な覚悟を決めさせるほど殴る母親の気持ちなど、どうやって推測すればいいのかわからない。
「とにかく帰ってくれ。客が来てるんだ。それと、さやかのことなら心配いらない」
「そんな言葉、信用できるわけない
でしょう。さやかがどこにいるか言いなさい」
「それはできない」
「母さんとさやかを引き離すつもり?」
「……さ
やかが望むなら」
何かを鋭く打つ音がした。智也は息を呑み、ドアの向こうの気配をうかがう。
耳に痛いほどの沈黙
の後、低く抑えた声で京一が言った。
「――……帰ってくれ。なんなら俺が、あんたを引きずり出してもいい。そんなことを、
あんたの親としてのプライドが我慢できるんならな」
張り詰めた糸を断ち切るように、荒々しい足音がする。続いて、ドア
が閉まる音が。
少し待ってから、智也はためらいながらそっとドアを開き、すぐ傍らに立っていた京一と目が合った。
「あっ……」
智也は言葉をかけようとしたが、こういうとき、何を言えばいいかわからない。口ごもると、京一のほうから
話しかけられた。
「最低のやり取りだったろ?」
自嘲気味に唇を歪め、京一が智也に代わってドアを大きく開く。ぐい
っと体を引き寄せられたかと思うと、智也の肩に、京一が頭を預けてきた。この瞬間、智也の胸が疼いた。思う様、この男に安ら
ぎを与えたいと願ってしまう。
「……疲れてますね」
そっと髪を撫でてやると、応えるように京一の唇からため息が洩
れた。
「俺はいい。だけどさやかが……」
「あなたが、さやかさんの分まで戦わなくてもいいと思います」
驚いた
ように京一が頭を上げる。思わず出た言葉だったので、智也としても反応のしようがない。互いに真意を探り合うような視線を交
わした後、京一が体を離した。
「俺は、さやかだけはもう傷つけたくないんだ。だからこそ、俺が戦う。……俺しかいないん
だ」
「でも、さやかさんなりに、自分で戦う覚悟は持っているんじゃないですか?」
「俺はこれ以上、あいつを家庭のご
たごたに巻き込んで、つらい思いはさせたくない。――君は、俺とさやかのいままでの生活を知らないから、そんなに簡単に言え
るんだ」
「簡単になんて言ってませんよ」
「言っている」
この点だけは、互いに譲れないものを持っていた。智也
は他人として客観的に、京一は肉親として主観的に、さやかの痛みを理解している――つもりになっている。
睨み合うとい
うには、鋭さのない視線が絡む。二人の関係がどう変化してしまったのか、それは物語っていた。
智也は胸の苦しさを自覚
しながら言う。
「――……萩原さん、あなたはおれのことを好きになったと言いました」
「ああ」
「もう一度、よく
考えてみたほうがいいです。あなたもしかして、辻がいなくなったおれのことを見て、同情か何かと履き違っているのかもしれな
い。あなたを見てると、おれはそんな気がしてきます。……あなたは、優しすぎます」
「そんなつもりはっ……」
落ち
たままの荷物を拾い上げ、小さく笑いかける。
「おれも考えてみますよ。あなたのこと、そんなふうに好きかどうか。おれは、
辻を吹っ切ってから、本音でつき合えるあなたと知り合って、浮かれていたのかもしれない」
一歩踏み出したはずなのに、
また慎重になってしまう。でも智也は、もう立ち止まるつもりはなかった。慎重ではあっても、確実に前に進んでいるのだ。
軽く頭を下げて京一の横を通り抜けたが、呼び止められることはなかった。
外に出てから智也は、ドアにもたれかかって
目を閉じる。京一とさやかの母親がまだ外にいるのではないかと心配だったが、早々に帰ってしまったらしい。周囲に人の気配は
なかった。
唇にはまだ、京一と交わした激しいキスの感触が残っている。京一の唇と舌の動きをたどるだけで体が熱くなっ
てきて、込み上げてくる感情がある。それは決して不快なものではなく、むしろ――。
パッと目を開いた智也は、足早にそ
の場を立ち去った。早く静かな場所で一人になって、まずは京一のことを考えたくて。
とんでもないことを言ったと思う。
テーブルの上に広げた新聞は格好だけで、さきほどから智也は一行も読み進んでいな
い。目が文字の上を無意味に滑っていくだけだ。何度も我に返って新聞を読もうとするのだが、すぐに意識は別のものへと向かっ
てしまう。
勇樹は風呂に入り、さやかは部屋で勉強しているようなので、今のところダイニングには智也一人しかいない。
いくらでも物思いに耽ることができた。
智也は口元を押えながら、京一に対して言った言葉を頭の中で反芻する。
あ
れでは、自分も京一に好意を持っていると告白したも同然だ。いや――あの男が嫌いではないのだ。強烈な反発や苛立ちを覚える
一方で、どうしようもなく引き寄せられてしまう。放っておけないという感情は確かにあるが、それよりも、気持ちをぶつけ合う
のが、心地いい。
辻に対してかつて抱いていた感情とあまりに違い、だからこそ智也は、自分の気持ちをどう呼べばいいの
か悩んでしまう。
京一のことを考えた途端、胸が熱くなってくる。自分がおかしくなっているのは、智也自身、十分すぎる
ほどわかっているのだ。考えなければならないことはいくらでもあるのに、何一つ思考がまとまらない現状が、それを証明してい
る。
「――ちょっと前まで新聞睨みつけてたくせに、今度はやけに悩ましげな目をして新聞見てるな」
脳天気な声が頭
上から降ってきた。智也は顔を上げ、真上から自分を見下ろしてきている勇樹を、仰ぐようにして見る。
すっかりさやかと
の同居生活に慣れてしまったらしく、風呂上がりの勇樹の格好は、スウェットパンツに上半身は裸で、首からタオルを引っかける
というものだ。女の子がいるのだからと注意するのも、いい加減面倒になっていた。
「……バカは風邪ひかんというのは本当
だな。何でそんな格好して平気なんだ」
「兄貴が年寄りくさすぎるんだよ」
意味ありげに笑った勇樹が体を折り曲げ、
智也の耳元に顔を寄せてくる。
「何か、色っぽいことでもあったのかよ?」
勇樹の鋭さに内心で動揺しつつ、それを押
し隠しながら智也は素っ気無く答える。
「あるわけないだろ」
「そうかなあ。結局、この間の朝帰りについても何も言っ
てくれなかったし……」
「お前に言う必要はないだろ」
「そうやって言いたがらないから、余計怪しい」
横目で勇
樹を睨みつけると、じゃれつくように智也の首に腕が回される。
「見てみたいよなあ。兄貴が恋愛にのめり込んだところ」
楽しげにそんなことを言いながら懐いてくる勇樹の顔を押し退けようとするが、ますます強くしがみつかれる。別に兄への
愛情表現というわけではなく、嫌がる智也の反応がおもしろいだけなのだ。
「うっとうしい。退け」
「本当のことを言っ
たら退く」
「お前なあ……」
きりのないやり取りは、勇樹の部屋のドアが開く音で打ち切られた。兄弟揃ってそちらを
見ると、パジャマの上から智也のカーディガンを羽織ったさやかも、目を丸くしてこちらを見ていた。
「――……うわっ」
芝居がかったような声を上げて、さやかがにんまりと笑う。その笑みの意味を、いち早く理解したらしい勇樹が悪乗りした。
「刺激的だろ? 兄弟の絡みなんて」
「すっごいエッチ」
なんて会話を交わしているのかと、勇樹の腕を振り解い
てから、智也は怒った口調で告げる。
「さっさと寝ろ」
すると、調子に乗った勇樹が余計な茶々を入れた。
「出た。
都合が悪くなったときの兄貴の横暴」
似たような笑みを浮かべる勇樹とさやかの顔を見比べてから、自分の分が悪くなった
のを認めた智也は、着替えを持ってバスルームに向かった。つまり、逃げた。
勇樹が眠ったのを確認してから、そっと部屋を出る。さやかがいる勇樹の部屋を見ると、ドアの隙間からわずかに明かりが洩れ
ていた。
物音を立てないよう、キッチンで二人分のココアを入れた智也は、勇樹の部屋の前まで行き、ドアの向こうに小さ
く声をかけた。
すぐにドアが開けられ、驚いた様子も見せずさやかが笑いかけてきた。
「なんとなく、甘い匂いがして
たんで」
「いい鼻してるね」
言いながらカップを渡すと、なんのためらいも見せず、さやかは部屋に入れてくれた。か
つては男臭かった勇樹の部屋も、今はふわりと柔らかな香りしかしない。おかげで、いかにも男っぽい部屋とのギャップがすごか
った。
ベッドに二人して腰掛けると、まずはカップにそっと口をつける。
「……智也さんて、大事な話をするときの飲
み物は、ココアなんですね」
「うちの親が、おれを怒った後は必ずココアを入れてくれてたんだよ。で、いくら泣こうが喚こ
うがほったらかし。疲れて飲むココアがやたら甘くておいしくてね。気持ちが楽になるんだ」
自分の子供の頃を思い出し、
無意識のうちに智也は表情を綻ばせていた。
「勇樹にも?」
「勇樹に入れてやるのはおれの役目。何と言っても、お兄ち
ゃん、だしね」
「ああ、だからわたしにも」
「そう。だけど、今日は君には、おれの話を聞いてもらいたいんだ」
「責任重大だなあ」
二人は顔を見合わせ、声を洩らして笑う。
屈託のないさやかの笑い声を聞きながら、こんな少女
なら、どんなことをしても守りたいという義務感を持っても仕方ないと、智也は思った。だが、さやかかはそんなことを望んでは
いない。
もし、さやかが一方的に守られることを望んでいれば、結果として自分と京一の出会いも変わっていただろう。そ
れどころか、出会っていたのかどうかすら怪しい。
今から話すことは、京一とさやかが、そして智也自身がそれぞれの一歩
を踏み出すために、なんらかのきっかけとなるのかもしれない。少なくとも智也は、そうあってほしいと願う。
「――君のお
兄さんに、告白されたよ」
ゆっくりと深呼吸をしての告白に、さらりとさやかが応じる。
「愛の告白?」
その言葉に、羞恥よりもくすぐったさを感じてしまい、思わず智也は首を竦めてしまう。
「……おれのこと、好きになったか
もしれないって……」
普通なら嫌悪感でも露にしそうなものだが、さやかの瞳は静かなままだ。それどころか、唇に大人び
た微笑を浮かべた。
「わたし、智也さんのこと利用したのかもしれない」
「利用?」
思いがけない発言に、智也は
首を傾げる。
「――……お兄ちゃんの存在が重かったんです。だから半分でいいから、誰かに任せたかったのかも……。相手
が智也さんでほっとしてます。わたし多分、相手が女の人なら、お兄ちゃんに別れてって言ったかもしれない。わたしより、その
女の人が大事なのって。……変だし、自分勝手でしょ? 自分でも、嫌だなあ、って思うんです」
自嘲気味に洩らすさやか
があまりにつらそうで、すかさず智也はこう言った。
「変じゃないよ」
そう、変ではない。智也は女の心理など理解で
きないが、目の前の少女の心理なら推測することはできる。
兄であり、男である京一に対しての微妙な気持ちに、境界線を
引くことなどできないのだ。さやかにとって京一は、とにかく特別な存在で、そこには〈異性〉に対するさまざまな気持ちも込め
られているはずだ。
どこか子供っぽくもある独占欲を、素直に可愛いと思う。
実の妹に対するように、柔らかな声で
智也は言った。
「でもそのうち――君にも好きな人ができるといいね。迷いなく、好きだと思える人が」
しかし、さや
かから返ってきた答えは予想外のものだった。
「いますよ、好きな人」
「へっ……」
あまりにあっさりと言われ、
間の抜けた声を出した智也は目を丸くする。それから数秒の間を置いて、ひどくうろたえていた。いや、ショックだったのかもし
れない。
京一のことを言えない。智也もまた、さやかが変な男に騙されているのではないかと、すかさず想像していた。
対照的にさやかかは、落ち着き払っていた。
「――男の人なのに、柔らかくて優しくて、まじめなのにいい加減なふり
をして、……きれいな人。何があっても前を向いてる姿勢が、すごくきれい。見てて涙が出そうなぐらい」
完全な片思いで
すけど、と呟いて、さやかはココアを飲む。意外な告白に言葉をなくした智也は、少女の横顔を半ば呆然と見つめる。そんな智也
の視線に気づいたのか、さやかは茶目っ気たっぷりな上目遣いをした。
「わたし、後悔はしてないです。この人を好きになら
なきゃ良かった、なんて後悔したら、自分のことを否定するのと同じです。だから信じてるんです。わたしは、この人が好きだと
いう気持ちを」
少しの間を置いてから、噛み締めるようにゆっくりと、さやかは言葉を続けた。
「お兄ちゃんと、向き
合ってください。好きになってほしいとは言いません。ただ、見ていてほしいんです。誰かと向き合おうとしてるお兄ちゃんのこ
と」
気持ちを素直に言葉にする術では、この子には敵わないなと思いながら、智也は首を縦に動かす。
「おれもそろそ
ろ、立ち止まってばかりいるのは嫌になってるからね、……進むことにしたんだ。君のお兄さんが、いいきっかけをくれた。もち
ろん、君も」
今、智也の胸にある感情は、明確な形を持っている。かつては直視するのを避けたかった感情だが、今は違う。
ためらい迷いながらも、それでも拒んだりはしない。感情の核にあるのが、京一という存在だからだ。
「……進む先が正しい
のか、間違っていないのか、よくわからないけどね……」
「でも、進まないといけないんですよね。――みんな」
そう
言ったさやかの白い横顔が、わずかに翳りを帯びる。今がいいきっかけだと思い、智也はできるだけ自然な声で問いかけた。
「だったら君も、進んでみる?」
さやかが曖昧な表情で視線を泳がせたのを見て、いきなり核心を突きすぎただろうかと身
構えてしまう。どうしても智也は、さやかが傷つきやすいガラス細工のように思えて仕方ないのだ。
少し慌てながらさやか
の顔を覗き込む。
「悪かった、突然こんなこと言ってっ……」
「いえ、そろそろ言われる頃だと思ってたんで――。わた
しは、もう母を見たいとも、触れたいとも思いません。わたしは何も知りたくない。あの人がわたしを大事にしてくれていても、
本当は優しい人だとしても、そんなものはもう、必要じゃないんです。それに、わたしが引きずられてる限り、お兄ちゃんは、わ
たしと母に引きずられます。だからわたしが、はっきりさせないと」
「そう思っているなら、お兄さんにそのことを言わない
と。おれが言うのもなんだけど、言わないと伝わらないことはいくらでもあるよ」
「智也さんだから言えること、ですね……」
智也はつい、苦い笑みを浮かべる。そして、さやかにだから言える本音を洩らしていた。
「おれは辻に、伝えたいこと
がたくさんあった。結局何も伝えられなかったけど……」
ココアを啜ってから、ほっと息を吐く。まさか自分に、辻のこと
を語りながら心穏やかになれる瞬間がくるとは想像すらしていなかった。多分相手がさやかだからだ。年齢差があるうえに、性別
も違うのだが、波長が合っているのだろう。
二人は少しの間黙り込み、ココアを飲みながらぼんやりと壁を眺めていた。た
だ、そうしていたのは智也だけで、さやかのほうはいろいろと考えていたらしい。その証拠に、何かを吹っ切ったようにふいに明
るい声を発した。
「――うん。今なら、お兄ちゃんに本音をぶつけても大丈夫かな」
「やっと覚悟が決まった?」
「だってお兄ちゃん、自分のための場所を作り始めたでしょ? わたしが爆弾発言をしてショックを受けても、その場所には、お
兄ちゃんを慰めてくれる人がいると確信しているんです」
そんな言葉とともに、さやかの細い指先がこちらに向けられた。
智也は苦笑しながら、その指先を退ける。
「それとこれとは別」
「そうですか?」
まっすぐな眼差しを向けられ、
こちらの分が悪くなったのを感じた智也は、そろそろ徹底することにする。空になったさやかのカップを取り上げて立ち上がった。
「どうするか、分かるね?」
「土曜日に話します。ちゃんと、お兄ちゃんと向き合って……」
「うん」
「だから
智也さんも――」
「わかってる」
何をはっきりさせるべきか、わかっている。智也は心の中で呟くと、おやすみ、と言
い置いて部屋を出た。
不快でない程度に、鼓動が乱れていた。自分が出すべき答えがわからなくて、不安になっているから
ではない。気分が高揚しているからだ。
今すぐにでも京一に会いたかった。そして、告白の返事をしたかった。もう、自分
を取り繕わないと決めてしまった途端に現金なものだと、我ながら笑ってしまいたいぐらいだ。
すぐには部屋に戻る気にな
れず、智也はダイニングで、一人静かに煙草を吸い始めた。
指を折って数えてみて、後部座席に座った智也は脱力する。
おそろしいことに、京一と最悪の出会いを果たしてから、ま
だ半月ほどしか経っていなかった。なぜいままで、こんな重要な――少なくとも智也にとっては――ことに気づかなかったのかと
思う。
「どうかしたのか? 兄貴」
動揺する智也に、隣に座った勇樹が脳天気な声をかけてくる。ついでに、助手席に
乗っているさやかも、何事かといった様子で振り返った。
「……別にどうもしない」
「気分が悪いなら言ってくださいね。
今日はわがまま言って、遊園地に引っ張り出したんですから」
大丈夫だと、智也は軽く手を振る。そのときバックミラー越
しに、車を運転する京一と目が合った。気まずさと照れから、反射的に視線を逸らしていた。
京一に本音をぶつけると言っ
たさやかの言葉から、話し合いは兄と妹の二人きりで、ごく静かに行なわれると考えていた智也だが、予想は見事に外れた。今の
状況がそれを物語っている。
花見をするにはまだ早い。なら遊園地に、とさやかが京一に切り出したらしい。わがままとも
言えない妹のわがままを、京一が拒むはずもなかった。
それはともかく、智也と勇樹も一緒に、と言ったのはどちらなのか
――。
遊園地に行こうと最初に聞かされたときは困惑したが、智也から京一に、話をするため電話をかける手間が省けたの
は、ある意味、ありがたいと言えるかもしれない。
勇樹とさやかの会話をBGMに、車は遊園地に到着する。
遊園地
の駐車場は、開園して間もない時間だというのにスペースの大半が埋まり、ぞくぞくと人が中へと流れ込んでいく。土曜というこ
ともあり、家族連れはもちろん、中高生たちの姿も多い。
「けっこう、妙な組み合わせだろうな。俺たちは」
フリーパ
ス券の一枚を手渡してくれながら、京一が苦笑交じりで言う。つられて智也も同じ表情を返していた。
「彼女が、男三人引き
連れてるのも同然ですからね」
視線を向けた先には、楽しそうに勇樹と話しているさやかがいる。見た目は、普段通りだ。
「――まあ、しっかり楽しみますか。せっかく来たんですから」
「そうだな」
兄二人、勇樹とさやかの元に歩み寄
ると、最初に何に乗るかはすでに決まっているらしく、待ちかねていたように先を歩き出す。智也はコートのポケットに手を突っ
込んでついて行き、その智也の後ろを京一が歩く。
智也が振り返ると、真っ直ぐな眼差しが向けられていた。一瞬ドキリと
した智也だが、なんでもない振りをする。
「並んで歩かないと、迷子になりますよ」
「誰がなるか」
「なったら、お
れたちが放送で呼んであげますよ。迷子のお兄さん、妹さんたちが待っています、って」
「君も一緒に、恥ずかしい思いをす
ることになるぞ」
「……それもそうですね」
歩調をやや速めた京一が隣に並ぶ。言葉を続けようとするが、その前に勇
樹たちに呼ばれた。
「兄貴たち、さっさと来いよ。置いてくぞ」
咄嗟に智也は言い返す。
「おい、誰が金出したと
思ってるんだ」
「威張るなよ。俺たちが誘わなきゃ、こんなとこ来ることねーだろ。一人じゃ寂しいもんな」
迷わず智
也は勇樹の側に行き、今朝、丹念にセットしていた髪を思い切りぐしゃぐしゃにしてやる。勇樹が大げさな悲鳴を上げた。
「いらんことを言うからだ」
さやかが声を洩らして笑い、追いついた京一も表情を綻ばせる。
「今日は、楽しんだもの
勝ちだな」
「乗り気ですね、萩原さん……」
京一とそんな会話を交わしながら、勇樹に促されるまま向かった先にあっ
たものを見て、智也は回れ右をしたくなった。ジェットコースターが凄まじい音を立てながら頭上を滑走していったのだ。
笑いながら絶叫するという、とうてい理解できない光景だ。ジェットコースターは苦手ではないが、自ら進んで乗ろうという気も
しない。
「――三人で楽しんで来い」
智也がぼそりと洩らした言葉は、あっさりと無視された。両手首を勇樹とさやか
に掴まれ、引きずられるようにして行列に加わる。さんざん抵抗したが、無情にも順番が回ってきた。
勇樹とさやかが並ん
で座ったので、智也はうかがうように京一を見てから一緒の座席につく。
「大丈夫なのか?」
隣から小さく声をかけら
れる。心配そうな眼差しに対して、智也はぎこちない笑顔で応えた。
「少なくとも、気絶したりはしませんよ。そういう萩原
さんのほうこそ、大丈夫なんですか」
「……多分」
「心強い言葉ですね……」
会話を交わせたのは、ここまでだ。
ジェットコースターがゆっくりと動き始め、緊張感を楽しむような声が前後から上がる。その中に紛れるように、京一がこちらに
顔を寄せて囁いた。
「今日は、つき合ってもらって済まない」
智也は軽く目を見開いて、京一を見つめる。何か声をか
けようとしたが、この瞬間、突然ジェットコースターがスピードを上げ、出かかっていた言葉は喉に張り付く。
智也は、悲
鳴すら上げることができなかった。
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