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ステップ −Step−
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[10]

「何でそんなに元気なんだ……」
 ベンチに座り込んだ智也は、ぐったりとしながら呟く。乗り物にさんざん振り回され続け た体は、情けなくも、これ以上動くことを拒んでいた。
 そんな智也を、勇樹とさやかが見下ろしてくる。
「……兄貴、 本当に二十四かよ。体力なさすぎるぞ」
「十代の体力と比べるな」
 ここでスッと目の前に紙コップが突き出される。い つの間にか京一が買いに行ってくれたらしい。いまさら姿勢を直す気にもなれず、智也はよろよろと手を伸ばして受け取る。
「ありがとうございます」
 勇樹にも紙コップを手渡してから、京一はさやかに言った。
「お前は、俺とどこかに入ろう」
 京一の意図を察し、乗り物酔いであることも忘れて、すかさず智也も提案する。
「じゃあ、今から別行動にしましょう。 おれは今すぐ動くのは無理なんで」
 頷いた京一と、一時間後に同じ場所で待ち合わせすることにして、一旦二組に別れた。 髪を揺らしながらさやかが京一と歩いていく。人混みに紛れていく二人の後ろ姿を見送った智也は、傍らに立つ勇樹に視線を移し た。
「お前も、別行動でどこか行っていいぞ。……おれは本当に動きたくない……」
「そんなこと言ってる兄貴を放って いけるかよ。それに――、戻ってくるのを待っててやらないとな」
 勇樹が、さやかたちが歩いて行った方向へと顔を向ける。 智也はちらりと笑みを浮かべると、京一が買ってきてくれたコーヒーを一口飲んだ。
「お前も、言うようになったな。少しだ け男前になったような錯覚を覚える」
「俺は元々、男前だ」
「……初めて知った」
 さきほどの仕返しなのか、勇樹 に髪をぐしゃぐしゃに掻き乱されてしまった。
 乱暴に隣に腰を下ろした勇樹が足を組む。互いになんとなく黙り込み、目の 前を通りすぎていく子供連れの家族や、若いカップルの姿を漫然と眺める。これだけにぎやかな場所なのに緩やかに時間が過ぎて いるように感じられ、無意識に智也は表情を和ませていた。この辺りはさすが兄弟と言うべきか、横目でうかがうと、勇樹も同じ ような表情となっていた。
「――……おれは、お前がとんでもない問題を持ち込んできたと思って、むかついてたんだ」
 唐突に智也が切り出した話題に、勇樹はすんなりと応じる。
「今は思ってないのか」
「可愛いからな、彼女は。妹はい いものだと、つくづく思った」
「危ない発言だなー」
 茶化す勇樹の足を軽く踏みつけてから、智也はまじめな口調と表 情で言った。
「いろいろと教えられたよ。今回のことで」
「いろいろ?」
「人間関係全般。おれはいままで無頓着す ぎたのかもしれない。いや……、そうなって当然なぐらい、周囲の人間に恵まれすぎたんだろうな。一方で、お前と同い年の女の 子が、あれこれ悩んで苦しんでいる現実もある。それで、頭をガツンと殴られた気がした」
「なんだよ、いきなりそんなこと ……って、もしかして萩原、戻るのか?」
 どれだけ憎まれ口を叩こうが愛嬌に満ちている勇樹の顔が、不安に彩られる。そ んな弟の頭を、智也は手荒く叩いた。
「いつまでも、うちに置とくわけにはいかないだろ。世間体とかそういうことじゃなく て、彼女は彼女なりに、片づけなきゃいけない問題もあるんだ。……どんなことでも、ズルズル引きずり続けるのはよくない。仕 切り直すきっかけは必要だ」
 まるで自分に言い聞かせるように告げた智也は、立ち上がって紙コップをゴミ箱に捨てる。体 調もマシになったこともあり、少し歩く気になっていた。智也に倣うように勇樹も立ち上がる。
 若い女の子たち数人がクレ ープを食べているのを見た勇樹が、昼食をしっかり食べたにもかかわらず、食べたいと言い出したので、わざわざクレープ売り場 を探し、二人で仲良くクレープを食べ歩く。
 するとなぜか、食べたいと言い出した本人である勇樹が、微妙な表情を浮かべ た。
「……問題ありの姿だな。学校の奴らには見せられねーわ。遊園地まで来て、男二人でクレープ食べてるなんて」
「兄弟仲良くていいことだろ」
 まったく気持ちのこもっていない智也の言葉に、勇樹は露骨に顔をしかめる。
「兄貴、 本気で言ってねーだろ……」
「当たり前だ。誰がそんなこと思うか」
 ふいに勇樹が、言いにくそうに顔をしかめて頭を 掻いた。
「でもまあ……、他の兄弟に比べたら、話はするほうだよな」
「そうなのか?」
「兄弟いる奴に聞いたら、 あんまりお互いに詮索しないって言うぜ? なのに俺なんて、兄貴に大概のことは筒抜けだもんな。そのくせ、兄貴は俺に隠し事 はしてるし――」
 含みのある物言いに、智也はすぐに、勇樹が言おうとしていることを察する。このとき智也の心臓の鼓動 はわずかに速くなり、頬も熱くなってきたが、何事もないふりをした。
「――お前まだ、朝帰りのこと気にしてるのか……」
「そりゃもう、あんなすごい声で電話かけてこられて、そのうえ誰かがいるような気配を感じさせられたら、血気盛んな高校 生としては気になって……」
「アホ」
 たまらず先を行こうとした智也だが、すかさず腕を掴まれる。振り返ると、勇樹 がでかい図体に似合わない、犬ころのように目をキラキラと輝かせていた。好奇心が剥き出しになっている。こうなると、勇樹は しつこい。
 智也は大きくため息をつくと、仕方なく簡潔に説明してやった。もちろん、肝心な部分は省いて。
「お前が 考えてるようなことじゃない。萩原兄と、夜通し口喧嘩してたんだ。だから声が枯れた。ちょっと風邪も引いてたかもな」
  腹が立つことに、智也が説明してやったというのに勇樹は、露骨に失望したように肩を落とした。
「……兄貴がここまで色気 のある話に縁遠いと、弟としてはちょっと心配になってくるな」
 愛の鞭として、智也は勇樹の足元を蹴りつけてやり、ふざ けたように勇樹が飛び上がる。
 そんなことをしながら時間を過ごして待ち合わせ場所に戻ると、二人が座っていたベンチに はカップルが腰掛けていたので、少し離れたところに立って京一とさやかがやって来るのを待つ。
「――来たっ」
勇樹 が指さしたほうを見ると、さやかが小走りでやってくるところだった。さやかがいつもと変わらない笑顔を浮かべているのを見て、 智也は内心でほっとする。落ち込んだ顔をしていたらどうしようかと、心配していたのだ。
「話は終わった?」
 目の前 までやってきたさやかに、開口一番に問いかける。
「はい。わたしが思ってたこと全部、お兄ちゃんに言いました」
「そ れで、当のお兄さんは」
「来てますよ」
 さやかが振り返る。つられて智也も同じ方向を見ると、歩いてくる京一の姿が あった。さやかが何を話したのか見当がついているだけに、京一が難しい顔をしているかと想像していたが、実際は穏やかな表情 をしていた。見ていて胸が締め付けられるようないい表情で、思わず智也は小さく吐息を洩 らす。
 京一から目を離さないまま――離せないまま、智也はさやかに再び問いかけた。
「楽になった?」
 さやか はすべての思いを込めたように大きく頷いた。
「――次は何に乗るんだ」
 三人の元にやってきた京一からは、さやかと どんなことを話したのか、一切うかがい知れない。なんとなく、京一らしいと思ってしまう。
「ハードなのは嫌ですよ。次こ そ気絶するかもしれないんで」
「俺だって、君を背負って帰るのは嫌だ」
「……兄二人、何話してんだよ……」
 呆 れたように洩らした勇樹が、ある遊具を指さした。
「だったら、次はあれに乗ろうぜ」
 勇樹が指さした先にあるのは、 ゆっくりと回る大きな観覧車だった。


 上昇するゴンドラの揺れがようやくとまり、智也は詰めていた息をそっと吐く。智也の反応から、あることを見抜いたらしい。 ずばりと京一に言われた。
「――高いところがダメみたいだな」
 じろりと京一を睨んだ智也は、意地を張る気力もなく 素直に認める。
「こんなにゆっくりと動くのはダメなんですよ。地獄をじっくり味わってるみたいで」
「……怖いものが ないように見えるのに」
「あなたの目から、おれはどう見えてるんですか」
 ぼやくように洩らした智也は、正面から京 一を見つめる。狭い密室に二人きりだということで、ただでさえ意識しているのだ。めまいがしそうなほど智也の顔は火照ってい た。
 先を上がるゴンドラには、勇樹とさやかが乗っている。四人で一つのゴンドラに乗ることもできたのだが、どういうわ けだか二組に分けられて、こんなことになってしまった。
 いい歳をした男二人で観覧車に乗っている姿が、他人からはどう 見られるか、この際考えても仕方ないだろう。
 手持ち無沙汰が過ぎてたまらなく煙草が吸いたいが、ここでは無理だ。結局、 京一と会話を交わすしかない。
「ずいぶん、すっきりした顔してますね」
 智也が声をかけると、京一は自嘲気味の笑み を見せた。
「すっきりしたようなさやかの顔を見てるとな……。俺だけ渋い顔をするわけにはいかないだろう。ただ、さやか が決めたんなら、俺はもう何も言わない。俺が過保護にすることで、あいつが苦しい思いをするんなら、なおさらだ」
 本当 にさやかは、自分の気持ちをすべて京一にぶつけたらしい。そして京一は、さやかの気持ちを受け止めることにしたのだ。
「言われて初めて知った。どっちも遠慮して、労り合って、縛りつけ合ったんだってな。お前のためだと言いながら、俺はさやか の気持ちなんて無視してたんだ。……言葉を選んでさやかは言ってくれてたが、自分の不甲斐なさに情けなくなったな」
「言 葉に出さないと伝わらないことがあるということですね。こんな当たり前のこと、すぐに忘れてしまうんですよ。おれも、あなた も」
 視線を伏せていた京一がこちらを見たので、智也は小さく笑いかける。京一だけではないのだと、慰めたわけではない。 智也自身、本当にそう思っているのだ。
『言葉に出さないと伝わらない』
 こう言ったことで、次の話題は決まったよう なものかもしれない。ふいに京一の眼差しが鋭さを増し、真っ直ぐ見つめられた智也はうろたえ、救いを求めるように窓に顔を向 ける。
 地上から離れていくのを示すように、外から聞こえてくる歓声や音楽が、少しずつ小さくなっていく。おかげでゴン ドラ内の沈黙が際立ってくる。
 体で感じる浮遊感に我慢できず、智也は座席の背もたれに手をかける。なんだか口の中まで 渇いてきたようだ。そんな智也を見て、京一の眼差しがふっと和らいだ。
「難儀してるみたいだな」
「……楽しそうに言 わないでください」
「まだ頂上までいってもないんだから、しっかりしてくれよ」
「あまり自信がないです。だから、あ なたを当てにしてますからね」
 智也の減らず口に、声を洩らして笑っていた京一だが、すぐに真剣な顔となり、思いきった ように切り出してきた。
「――さやかがこちらに戻ったら、君とのつき合いも終わるんだろうか」
 反射的に座席に座り 直した智也は、頭の中が真っ白になるのを感じた。こうも単刀直入に言われるとは、思ってもみなかった。
「つき、 合い……。喧嘩相手が欲しいんですか」
「茶化さないでくれ。俺は真剣だ」
 それがわかるからこそ、動揺している。智 也は口中で小さく謝った。
「さっきさやかと話したときだが、俺のところに戻るか、親のところに戻るかという肝心なことに ついては答えてくれなかった。まだ迷ってるんだろうな。だから俺は言ったんだ。――これからは自分のことに目を向けるし、自 分が楽しいって思えることも、妹に遠慮せずやっていくと。俺がそうすることで、さやかも俺に遠慮しないんじゃないかと思って いる。……実際俺は、そのつもりだしな。誰にも遠慮せず、自分がやりたいことをする」
 つまり、と言ったところで京一は 言葉に詰まったのか、顔をしかめる。ここまでは必死に話してくれていたらしい。悪いと思いつつも、そんな京一がおかしくて、 智也は笑ってしまう。バカにしているのではない。ただ、必死に話してくれる京一の姿勢が嬉しかったのだ。
 さんざん言い にくそうに顔をしかめ、首を傾げ、咳払いまでしてから、京一がいきなり周囲を見回したかと思うと、片手を伸ばしてきた。
「えっ……」
 ガッと手を握られた智也は、あまりのことに声を洩らしたまま呆然とする。一体何が起こったのか、よく理解 できなかったのだ。
 力を込められて握られるせいで、手が痛いほどだが、それより智也が気を取られたのは、京一の手の温度 だった。乾いてごつごつとした感触の手は、ひたすら熱い。そんな手が、自分の手を握り締めている――。
 射抜かれそうな ほど鋭い眼差しを向けられ、ようやく我に返った智也は、ぎこちなく前後のゴンドラを確認する。こんなところを誰かに見られた らと思ったのだが、幸か不幸か、位置的にゴンドラの中の様子は見えないようだ。
 改めて京一を見てから、握られた手に視 線を落とす。
「……萩原さん……」
「俺はよく考えた」
 そう言った京一の手から、ドクドクという強い脈が伝わっ てくる。もしかすると智也のものなのかもしれないが、よくわからない。それでなくても智也は、この状況に意識が完全に舞い上 がっており、目の前の存在以外、何も認識できないでいる。
「好きになったかもしれないと言ったけど、違った」
 低い が力強い声で、京一が言い切った。
「――君が好きだ」
 この瞬間、智也は、頭の芯が溶けていくような、表現のしよう がない高揚感を味わう。このまま溶けてしまってもいいとすら思った。それほど京一の告白が心地よかったのだ。
 智也は笑 みをこぼし、気がついたときには自分の中で芽生えていた気持ちを正直に告げた。もう、迷う必要も、意地を張る必要もない。
「……おれも、あなたのことを……、好きみたいです」
 本当かと、真摯な眼差しが無言で尋ねてくる。促されるように 智也は深く頷いた。
「萩原さんに出会ってなかったらって考えると――、怖いんです。大事なものをなくしてしまうみたいで。 あなたの存在を知らない自分というものが、思いつかない。こんなことを考えること自体、あなたと知り合ったおかげですね」
 高ぶる感情のままに言葉を羅列していた智也だが、急に不安になって京一に尋ねる。
「あの……、おれの言いたいこと、 わかりますか? というより、伝わってますか?」
「わかるし、伝わっている。俺も、君と同じ気持ちだ。君が今言ったとお りなんだ」
「……最初に会ったときは、これ以上ないぐらい最悪の相性だと思ったんですけどね」
「俺もだ」
 二人 は顔を見合わせて笑う。だがそれもわずかな間で、京一に握られた手を引っ張られた。智也はわずかに前のめりになりながら、手 を京一の膝の上に置いた。このときにはもう京一は笑っていなかった。
「――……まだ、彼のことは……」
「辻のことで すか? 終わったことを、ずっと引きずっていくわけにはいかないでしょう。いい教訓でしたよ、辻とのことは。何も伝えないま ま片思いを終わらせて、それで後悔しかなかった。だからあなたには、ちゃんと伝えたいんです。そして始めたい……」
「俺 も、君と始めたい。いろんなことを。せっかく最悪の出会いを果たしたんだからな」
「あなたも物好きですよね。よりによっ て、おれなんかに」
 自虐的に呟くと、握られた手が持ち上げられる。何が起こるのかと思って見ている智也の前で、京一は 大胆な行動に出た。
「萩原さんっ……」
 反射的に智也はゴンドラの外に視線を向ける。誰かに見られているのではない かと咄嗟に心配したが、ゴンドラはちょうど観覧車の頂上へと差し掛かるところで、周囲の景色は開けていた。いつもなら体が竦 んでしまうところだが、今はそれどころではない。
 京一が、智也の手の甲に唇を押し当てているのだ。伝わってくる唇の熱 い感触に、あっという間に智也の全身までもが熱くなってくる。
「あっ、の――……」
 あまりに動揺してしまい、掠れ た声が出てしまう。京一が一度顔を上げ、強い眼差しを向けてきた。
「君だから、好きになった。そうじゃなかったら、俺は 一生、同性を恋愛対象として見ることはなかった。多分、君が彼を好きになったのも、そういうことじゃないのか? 性別じゃな い。存在そのものに惹かれたんだ」
 人を好きになるということは、決して苦しいだけの行為ではないのだと、今智也は痛感 した。こんなにも優しくて、誰かを愛したいという気持ちになれるものなのだ。何より、愛されるということが、たまらなく心地 いい。
 ふいに声を上げて泣きたくなったが、智也はぐっと堪える。代わりに、気を逸らすために軽口を叩いてみた。
「……これが観覧車の中じゃなきゃ、さすがのおれでもうっとりしそうですよ」
 指の一本一本に、京一の唇が這わされる。 愛しげに行為を続ける京一の顔を、智也は魅入られたように見つめていた。羞恥も戸惑いも、今だけは全て忘れられた。
 持 て余す体の熱を吐息にして吐き出すと、智也はおずおずともう片方の手を伸ばし、そっと京一の頬に触れた。
「あなた、見た 目によらず大胆ですね。いや、情熱的って言うんですか?」
「……やめてくれ。恥ずかしくて、ゴンドラから飛び出したくな る」
 本気で嫌そうに顔をしかめた京一がおかしくて、声を洩らして笑ってしまう。
 風で揺れる観覧車ははっきり言っ て嫌だったが、この心地よい時間だけはもう少し続くことを願っていた。ただ、二人の行動はあまりに大胆すぎて、ゴンドラが頂 上から降り始めると、他のゴンドラの乗客たちの視線を気にしないといけない。
 名残惜しさを共有するように、最後にきつ く指を絡め合ってから、手を離す。智也は濃厚な空気に当てられたように、声が出せなかった。たった一声発するだけで、この場 に漂う余韻が消えてしまいそうだ。
 ようやくゴンドラが地上に着き、先に降りていた勇樹とさやかと合流する。
 数歩 あるいたところで智也の足はふらつき、つい側の手すりに掴まろうとしたが、その前に京一に、さりげなく腕を取られて支えられ た。
「すみ、ませっ……」
 寸前までのゴンドラでの出来事を意識してしまい、不自然に声が上擦る。
「いや……。 大丈夫か?」
 一方の京一も、不自然なほどまじめな顔をして問いかけてくる。目が合うと、ぎこちなく二人は距離を取り、 それを見たさやかが不思議そうに首を傾げた。
 ときおり膝が笑い、その場に座り込みそうになりながらも、なんとか駐車場 の車まで辿り着いたとき、智也は何をするよりもぐったりしていた。とにかく、京一との間にあったことを悟られまいと必死だっ たのだ。
 後部座席に乗り込んですぐ、シートに深く体を預ける。まだ、観覧車での出来事に現実味が伴っていないが、ただ 手には、京一に触れられた――触れた感触がしっかりと残っていた。
 あれは夢などではなかったのだ。そう確認した途端に、 体の奥から震えが湧き起こる。
「どうかしたのか?」
 勇樹の問いかけが自分に向けられたものだと知り、智也は慌てて シートから体を起こす。すっかり一人きりのように寛いでいた。隣を見ると、勇樹が訝しげな顔をしている。いつの間にか車は走 り出していた。
「――……何が」
「とろんとして、どこ見てるかわかんねー目してたぜ」
 ハンドルを握る京一を見 ないよう、ありったけの自制心を総動員した智也は、自分でもよくわからない曖昧な返事をする。納得したのかしてないのか、勇 樹もそれ以上は言ってこなかった。
 出かけるときに比べて、はるかに多くなった車中の沈黙は、それぞれの中にある余韻を 味わっている証なのかもしれない。智也にとって大きな出来事があったが、それは京一やさやかにとっても同じで、勇樹は勇樹で、 沈黙の意味を思索しているのかもしれない。
 マンションの前に車が停められ、まず智也と勇樹が降りる。次いで、遠慮がち にさやかが助手席のドアを開けた。
「――忘れものはないのか」
 ためらいがちに降りるさやかの背を押すように京一が 言う。この男の優しさは、こういうところに出てくるのだと思い、つい智也の口元は綻んでいた。
「うん」
「なら、いい ……。ちゃんと休めよ」
 車を降りたさやかを、勇樹とともに先に行かせる。二人の後ろ姿を見送った智也が、運転席のほう に回り込んで腰を屈めると、すぐにウィンドーが下ろされた。
 やっと落ち着いて京一と話せる。
「今日はご苦労様でし た」
「お互いにな」
 淡く笑んだ次の瞬間には、智也は表情を改めた。
「……さっき、引き留めるかと思いましたよ」
「さやかのことか?」
「ええ」
「とことんまで、あいつに考えさせて答えを出させるのもいいかと思ってな。ここで 俺が、もういいから戻って来いと言ったら、中途半端だろ。せっかくあいつが、心の中で思ってることを話してくれたんだし……。 俺を頼ることに、別の意味を見つけてほしいんだ。重荷になりたくないとか、そういうことじゃないだろ。俺たちは家族なんだか ら」
 京一もさやかも、互いの重荷になるのは嫌なのだ。だからこそ相手を気遣い、その気遣いがさらに重荷なることに不安 を覚える。
 愛しすぎて、優しすぎるのだと、二人を見ているとそう思える。だからこそ、乗り越えなければならない葛藤に もなりうるのだ。
「愛情っていうのは、厄介ですね……」
「なければ困るが、あればあったでな――」
 愛情が簡単 に切り捨てられるものだとは思わない。肉親への愛情となればなおさらだ。それを理解したうえで、さやかは母親との問題にどう 結論を出すか、見守り続けたかった。他人である智也と勇樹にできることは、避難場所を用意しておくことだけだ。
「……難 しい顔してるぞ」
 つい考え込んでしまった智也に対して、柔らかな口調でそう言って京一が指先を突きつけてくる。
「なるようにしかならないんだ。俺たちがいくら考えたところで」
「なんだか、あなたらしくない意見ですね」
「少しは 肩の力を抜いて、物事を考えてみたくなってな」
 出会ったばかりの頃には見せてくれなかった、包み込むような眼差しが智 也を見上げてくる。そして手が差し出された。
 意図を察し、智也は面食らってから周囲を見回す。人の往来はあるが、誰も、 車の中と外で話し込む男二人のことなど気にかけていない。
 大胆だなと思いながらも、智也は下ろされたウィンドーに手を かける振りをして、差し出された京一の手に指先を触れさせる。すかさず指が握られた。
 見たままのごつごつとした大きな 手の感触に、すでに違和感を覚えなくなっている。
「それじゃあ」
 すぐに指を離した京一が早口に告げて車を出す。智 也は体に残る心地良さに、足元から崩れ込みそうになりながらも、なんとかその場を離れた。









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