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ステップ −Step−
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[11]

 普段とは違う疲れ方をしたせいか、それとも気持ちが高ぶったままなのか、その夜の智也の眠りは浅かった。おかげで、ドアの 向こうから聞こえてくる電話の音にすぐに反応できた。
 一瞬、気のせいかとも思ったが、耳を澄ませると、確かに電話は鳴っ ている。同時に、同じ部屋で眠っている勇樹の寝息も。さすがの勇樹も、遊園地に出かけて疲れたらしい。
 そんなことを思 いながら体を起こした智也は、肌寒さに体を震わせてベッドから出る。イスにかけた上着を羽織ってから、勇樹を踏みつけないよ う気をつけながら静かにダイニングへと向かった。
「……もしもし……」
 電話に出た智也の声は、自分でもわかるほど 不機嫌だったが、仕方ない。電話のディスプレイの明かりだけが頼りの闇の中、薄ぼんやりと浮かび上がる時計は、午前二時を示 しているのだ。普通の神経をした人間なら、まず電話などかけてこない。しかも番号は非表示になっている。
 イタズラ電話 だろうかと考えていた智也の耳に、受話器を通して声が届いた。
『――智也』
 柔らかなこの声を聞き間違えるはずがな い。一気に目が覚めた智也は、突然のことに言葉が出ず、床の上に座り込みながらとりあえず落ち着こうとする。
 電話の相 手は、辻だ。考えてみれば、こうして電話がかかってきたのは、留学先に無事に着いたという連絡をもらって以来だ。辻も新しい 生活で忙しいだろうし、智也もまた、毎日が慌ただしかったため、それを不自然に感じてはいなかった。
 日々の生活に、辻 の不在がうまく馴染んでいるのだと智也は実感する。
 きっとあの人のおかげだな――。
 智也の脳裏に、ふっと京一の 顔が浮かぶ。この瞬間、智也の胸中を、嵐のよ うにさまざまな感情が駆け抜けていった。気持ちを鎮めるため、大きく呼吸を繰り返し、前髪を掻き上げる。
 黙ったままな のも変なので、努めていつも通りの口調で問いかけた。
「どうかしたのか?」
 すると、くすぐったく感じられる笑い声 に、智也の鼓膜は刺激された。
『何日も智也に連絡してなかったから、声が聞きたくなったんだ』
「……お前、時差の存 在を忘れてるだろ」
『あっ。そっち今、何時?」
「夜中の二時。おれじゃなきゃ、叩き切られても文句言えない時間だ」
 しきりに謝る辻の声を聞いていると、夜中に起こされたこともどうでもよくなる。それどころか口元に笑みさえ浮かべなが ら、智也は壁にもたれかかった。気が済むまで辻の電話につき合ってやろうという意気込みの表れだ。
 潜めた声で交わす会 話も、しっとりとした真夜中の空気も、何もかもが智也に優しい。そして辻という、今は遠くにいる存在も、やはり優しかった。
「今は、そっちで何してるんだ」
『うーん? まだ片づけだよ。大学に通うのはもう少し先だから、英語学校に行く手続 きをしたんだけど、僕のテンポでついていけるかどうか、ちょっと心配しているところ』
「自分がとろいって、一応わかって はいるんだな」
『ひどいなあ』
「いいじゃないか。のんびりしたお前といると、和めるぞ。長所だ、長所」
『本当?』
 ああ、と答えた智也に対して、子供のような無邪気な声で辻が言った。
『智也にはずっと面倒かけ通しだったから、そ んなふうに言ってもらえると嬉しいなあ。同い年なのに、智也はお兄ちゃんみたいだったから、僕もついマイペースで頼りきって たんだよね』
「……お兄ちゃん、か」
 苦々しい口調で呟きはしたものの、心は苦しくなかった。むしろ、今なら辻に対 して、自分の心の内や、考えていることを正直に話せそうだった。友人だから知られたくない、という葛藤は消えてしまった。今 あるのは、友人だから知ってもらいたいという純粋な衝動だけだ。
 智也の心の動きを読んだわけではないだろうが、辻が水 を向けてきた。
『そっちは何か変わったことない? ああ、あの女の子は……』
「すっかり家に家に溶け込んでる。けど、 もうすぐだろうな、戻るのは……。なんて言うか、ちゃんと、前に向かって進んでるんだ。迷いながらも、自分がどこに進むのか、 わかっているんだろうな」
『智也には、何もない?』
 心臓の鼓動が一度だけ大きくなった。智也はわずかに身じろいで から受話器を強く耳に押し当て、辻の声の細かな反応を聞き逃さないようにする。いよいよ、だった。
「……あった。大きな ことが」
『勇樹くん、何かあった?』
「なんでそこで勇樹なんだ」
 思わず智也は笑ってしまう。辻の目にはよほど、 智也が勇樹を常に気にかけているいい兄に映っていたのかもしれない。
『だって智也の〈大きなこと〉で思い浮かぶの、勇樹 くんのことぐらいだよ』
「彩りのない生活してたみたいな言い方するな。自分で自分が情けなくなってくる」
『冗談だよ』
 辻の軽やかな笑い声に促されるように、ごく自然に言葉が口をついて出た。
「――好きな人ができたんだ。その人も… …、おれのことを好きだと言ってくれる」
 すかさず辻が、吐息交じりに洩らした。
『初めてだね……』
「何が」
『智也が、僕にそういうことを打ち明けてくれたの。いつも僕の話を聞いてくれるだけで、智也から相談とかされたことない よ。もう、九年もつき合ってるのに。まあ、確かに僕に相談するのは頼りなかったかもしれないけど』
 そうじゃないと言い たかった智也だが、拗ねたような辻の口調がおかしくて、つい笑ってしまう。その拍子に、この場を支配している暗闇がとろりと 蠢いたような気がした。
 不安を掻き立てられ、のしかかってくるような闇のはずなのに、体にまといつくような空気は濃厚 で、包み込むような柔らかな感覚を与えてくれる。
 あの男みたいだと、輪郭の掴めない闇を見つめながら、智也は漠然と京 一をイメージする。身近にいて、存在を感じるだけでひどく安心するのだ。体温を感じて、息遣いすらも知ることができたら、 この安心感はもっと増すのかもしれない。
『その人、僕の知ってる人?』
 ぼんやりと京一のことを考えていた智也は、 辻の言葉で我に返る。目を開けたまま夢を見ていたような状態になっていた。
 そんな自分に恥じ入りながら、一呼吸分のた めらいのあと答えた。
「あっ、ああ……。お前も会ったことがある」
『気になるなあ。智也が好きになる人って。タイプ が全然わかんないから』
「前までは、おれが好きになるタイプは、放っておけない奴、だった。いかにも手がかかりそうって いうか」
『やっぱり智也、世話好きなんだね』
「……今気づいたのか……」
 辻の口調はどこまでも自然で、まさか 自分のことを指しているとは夢にも思ってないようだった。察してほしかったわけではない智也は、辻の反応に安堵こそすれ、自 虐的な気分になることはなかった。
『で、今好きな人はどんなタイプ?』
「優しい人なんだ。言葉とか、態度が優しいっ ていう意味じゃなくて――いや、それもあるんだけど……、この人になら、自分の本当の姿を知られても安心できるっていう感じ だ。懐が深いっていうのかな。包容力がある」
『僕もしかして、ノロケられてる?』
「バカっ……」
『でも、智也の 声、いつもと違うよ。すごく優しくて、幸せそう』
「寝起きだからだ」
 電話の向こうから意味深な笑い声が聞こえてき たので、無駄な言い訳はやめておく。すると沈黙が訪れた。
 辻は、智也の次の言葉を待っているのだ。
 智也は緊張し そうになり、ほっと息を吐いて、指に残る京一の手の感触を思い出す。力強くて優しい感触が、言葉を押し出してくれた。
「……お前、五人で鍋食ったの覚えてるか」
『いくら僕でも、そこまで物忘れひどくないよ。つい最近のことなんだから』
「だったら、萩原兄の顔は?」
『もちろん、よく覚えてるよ。ハンサムだったね、智也とは違った意味で。妹さんとよく 似てたと思うんだ。特に目元とか』
「――その人だよ」
 えっ、と辻が一声洩らす。自分の言葉の意味がよく伝わらなか ったのだろうかと思い、智也は完全に覚悟を決めて告げた。
「萩原兄なんだ、おれが……好きな人。そして、おれを好きだと 言ってくれた人」
 さすがの辻も驚いているのが、気配で伝わってくる。返ってくる言葉を待つのが怖くて、智也は受話器を 握り直し、早口で続けた。
「遠慮も容赦もなくぶつかり合って、これ以上、相性の悪い相手はないと思ったんだ。だけど、そ れが始まりだな。たかが半月で、いなきゃいけない存在になった。よく似てるんだ、おれたちは。苦労性というか、世話好きとい うか、一人で何もかも背負いたがるというか……。でも、だからこそ、おれに対して優しいんだ。少しぐらい乱暴に扱っても壊れ ないような男のおれでも、大事に扱ってくれる。すごく安心できるんだ、あの人の側だと。安心して――」
 好きになれる。
 さすがに最後の言葉は口中で呟くだけにしておいたが、それでも、智也にしては珍しく素直に心の内を晒したつもりだ。と にかく辻にわかってもらいたい一心だった。
 京一に対する真摯な想いを、親友である辻には。
 ひどく長く感じられた が、実際は数十秒ほどの沈黙のあと、ため息を洩らすように辻が言った。
『――……僕は今まで、智也の何を見てたんだろう』
 辻が言葉を発してくれたことに、智也は大げさなほどほっとした。心のどこかで、電話を切られることも覚悟していたのだ。
「どういう意味だ」
『智也のことをずっと、じっくり考えて動く人間だと思ってた』
「おれも自分のことをそう思っ ていた。だからきっと、自分が一番驚いてる」
『それでも、出会ってそんなに経ってない萩原さんのこと、好きになったんだ ね。えーと、一目惚れ?」
 あっという間に全身が熱くなり、慌てて智也は床の上に座り直す。急に居たたまれない気持ちに なっていた。
「やめてくれ……。恥ずかしくて、いますぐ電話を切って、布団を頭から被りたくなる」
『どうして。恥ず かしがらなくていいだろ。――智也らしい告白だったよ。まじめで優しくて、愛情に溢れてて」
 顔が熱くてたまらない。勘 弁してくれと言おうとしたが、その前に辻が、何よりも智也が欲しかった言葉をくれた。
『――萩原さん、幸せだね。智也み たいな人に想われて』
「どうだろう……」
 智也のその一言のあと、込み上げてくる気持ちがあり、声がうまく出せなく なる。その代わりのように、智也の気持ちは涙となって溢れ出していた。
『智也?』
「なんでも、ない……。ただ、似た ような気質の二人が顔を突き合わせていたら、何回ケンカすることになるのかなって考えて、笑えてきた」
『ケンカしながら、 相手の世話を焼きそうだよね』
 智也は笑いながら手の甲で涙を拭う。次々に涙が出てくる状態は、嫌ではなかった。心の中 に沈殿していたものがすべて流れ出ていき、それがひどく気持ちいい。
「……おれは、前に進めたのかな」
『僕にしてみ れば、智也はいつも前に進んでたよ。いつも置いてかれるばかりだ』
 先を行く辻の背ばかりを見ていたようなつもりだった が、こう言ってもらった瞬間、その呪縛から解放される。
 気づかれないように泣いているつもりだったが、辻はとっくに察 していたようだ。電話代を気にかけるふりをして電話を切ってくれた。
 智也は涙を拭ってから、静かに受話器を置いた。




 一気にカーテンを開き、差し込んできた陽射しのまばゆさに智也は目を細める。昨日に続いて、天気は良かった。
 少し腫 れぼったく感じる瞼を擦ってから、窓の外に見える景色を眺めながら思い返すのは、数時間前、辻と交わした会話だ。清々しいほ ど、後悔はなかった。それどころか、自分の勇気を評価したかった。
「――兄貴」
 突然、足元から声がして、視線を下 に向ける。そしてギョッとした。智也が起きたときはきちんと布団に寝ていたはずの勇樹が、なぜか床に転がったままこちらを見 上げていた。
「おまっ……、何、してるんだ」
 驚いた智也が尋ねると、勇樹が呆れたような顔をする。
「俺は、日 曜の朝から窓の外眺めて、笑ってる兄貴のほうが不思議だ。聞いていいか? ――兄貴こそ、何してるんだ」
「……おまえが 見た通りだ。外見て笑ってた」
 誤魔化しようがなくて正直に答えると、勇樹は呆れた表情どころか、何も聞かなかったよう な素振りで、転がって布団に戻っていく。何を言われるよりも、弟のこの反応のほうが堪える。
 智也はちらりと苦笑を浮か べると、寝乱れたままのベッドを整え始める。
「兄貴」
「なんだ」
「電話は嬉しいけどさ、辻さんにちゃんと教えた ほうがいいぜ。時差の存在」
 ぴたりと動きを止めた智也は、布団に包まった勇樹を見下ろす。
「……お前、夜中の電話 に気づいてたのか」
「電話が鳴ったのは気づかなかったけど、兄貴が俺を跨いでいった気配で目が覚めた。ドア開けたまま話 してたから、相手が辻さんだっていうのはわかったしな」
 勇樹は、夜中の出来事を単に話しているわけではない。暗に、智 也の話の内容を仄めかしていた。
 智也はなんでもない素振りで再び手を動かしながらも、心臓の鼓動が速くなる のを抑えられなかった。しかし動揺を悟られないよう、短く応じる。
「――そういうことだ」
「ふーん」
 このとき 勇樹がどんな表情をしたのか、振り返って確認はできなかった。怖さはあったが、勇樹がどんな感情をぶつけてこようが、受けと めるだけの覚悟はある。開き直りではない。京一に対する感情で、罪悪感や後ろめたさを覚えたくなかった。ここで臆してしまえ ば、辻のときと同じになってしまう。
 智也の静かな覚悟が届いたのか、勇樹は拍子抜けするような飄々とした口調で言った。
「冗談で言ってたのになあ」
「何がだ」
「痴話喧嘩ってこと。まさか本当に、萩原兄と兄貴が、痴話喧嘩できる仲に なるなんて、な」
 そういう場合ではないのだろうが、つい噴き出してしまう。たまらず振り返ると、勇樹は大の字になって 天井を見上げていた。
「……俺、いつだったか言ったろ。兄貴が恋愛にのめり込んだとこ見てみたいって」
 頷くと、勇 樹は愛嬌のある顔に苦々しい表情を浮かべた。
「実のところ、そんなもの見たくなかった。――俺の知ってる兄貴の恋愛って のは、痛々しくて見てられなかった。何で好きこのんで、辻さんみたいに鈍感で……同じ男なんか好きになるんだと思ったしな」
 智也が考えているよりずっと、弟は大人だったらしい。慎重で臆病な兄が、報われない片思いに苦しむ様を、揶揄するでも なく、慰めるでもなく、ただ見つめていたのだ。
 どんな言葉をかけられるより、智也にとっては勇樹の対応がありがたかっ た。
「なんでも知ってるな、お前……」
「気づかない辻さんのほうがどうかしてるんだ。まあでも、それがあの人らしい んだけどな」
 急に手持ち無沙汰になり、仕方なく智也はベッドに腰掛ける。
 朝からする会話としては重いのだが、さ すがに兄弟というべきか、どちらの口調も表情も淡々としている。かといって、勇樹のほうは軽蔑しているという感じもない。そ の理由は、次の言葉ではっきりした。
「俺は昔から、兄貴と兄弟っていうのがピンとこなかった。歳が少し離れてるせいかな。 だけど、兄貴が辻さんのこと好きなんだって気づいたときに、やっと理解できた気がしたんだ。うちの兄貴は、不器用でまじめで、 そんで、危なっかしいってな」
 天井を見上げ続けていた勇樹が、やっとこちらを見てちらりと笑う。
「言っておくけど、 嫌悪だとか軽蔑だとか、兄貴に対してそんなことを感じたことはなかったからな」
「……そう、なのか……?」
「俺は― ―、兄貴の想いに敬意を払ったんだ」
 智也はただ目を見開いて、勇樹を凝視する。一方の勇樹は、自分の言葉に照れたよう に飛び起き、勢いよく布団を畳み始めた。このとき、ぼやきに近い呟きが智也の耳に届く。
「まあ、相手が辻さんだったから って言うのもあるんだ。あの人、小動物系だろ。男っぽくないっていうか。だけどなあ……、よりによって萩原兄っていうのはな あ……。どう見ても、辻さんとは正反対のタイプだろ」
「そう、だな……」
「兄貴の守備範囲が広いのか、極端から極端 に走ったのか、弟としては、兄貴に発言を求めたい。何があったのか、って」
 気がつけば、心の中で存在感が増していた。 そんな感覚を言葉にするのは難しい。タイプか否かという単純なものではないのだ。
 だから智也は、冗談半分でこう口にし ていた。
「――おれは、面食いだったってことだな」
「それ、説得力ありすぎ」
 兄弟でニヤリと笑みを交わし合う と、いつまでも感傷に浸っているわけにもいかず、智也は軽く頭を振って立ち上がった。




 月曜日は朝から忙しい。営業部の人間と共に得意先を回り、戻ってきてからすぐ、新しく取りかかる仕事の打ち合わせを行なう。 それが終わると再び外に出て、取引先の会社が催している展示会場の手伝いに向かうのだ。
 午後四時を少し過ぎて、ようや く会社に戻った智也は、自分の席について何より先にまずは煙草を吸う。一気に脱力感が押し寄せてきた。
 そうしている間 にも、営業部の人間やコーディネーターたちも次々に外から戻ってくる。あっという間にオフィスはにぎやかになるが、どこか緩 やかな時間が流れ始めていた。
 智也は煙草を唇に挟んだまま、積み重ねられた書類やFAX用紙の一枚一枚を手に取って眺 める。すぐに済む仕事は手早く片づけ、なるべくなら残業はしたくなかった。さやかと一緒に、今日は手の込んだ夕飯でも作る予 定なのだ。
 煙草を揉み消したところで、ポケットの中の携帯電話が鳴る。仕事の呼び出しかと、無意識に顔をしかめながら 出た智也の耳元に、騒々しい物音が飛び込んできた。
『――兄貴っ?』
 勢い込むように勇樹に呼ばれ、智也は目を丸く する。
「勇樹か……。お前、どこにいるんだ」
 そう声をかけながらも、不穏なものを感じ取り、足早にオフィスを出て いた。
『学校。それより、これからすぐに兄貴も学校に来てくれよ』
「何かあったのか」
『萩原の親が、学校に来て るんだっ……』
 智也は一瞬息を止める。激しく動揺しそうになったがすぐに、これは予測できた事態だと自分に言い聞かせ、 冷静さを保つ。
「……それで?」
『授業中にあいつ、相談室に呼び出されたんだ。それで担任に聞いたら、親が来てるっ て。萩原、ずっと教室に戻ってこなくて、多分家出してることで、親や担任や生活指導の先生と話してるんだと思う』
 こん な事態は予測していたが、まさか今日だとは思いもしなかった。事前に京一が止めてくれると安心していたのかもしれない。仕事 をしており、実家にも顔を出していないはずの京一がすべての事態を把握するなど無理なのだ。それでも頼っていたのは、智也の 甘さだ。
 唇を噛む智也の反応など知るはずもなく、勇樹は焦ったようにさらに言葉を続ける。
『俺は呼び出されてない から、萩原の奴、家出して今はどこにいるのかは話してないんだ。俺のこと……、俺たちのこと、庇ってるんだよ。とにかく俺、 これから相談室に行ってみるから』
「バカか、お前はっ」
 自分が会社の廊下にいることも忘れ、思わず携帯電話に向か って怒鳴りつける。目の前を通る社員の眼差しが一斉に智也に向けられたが、この際全て無視する。
「お前一人で行ったら、 それこそ事情を知らない連中は、ロクでもないこと想像するだろ。彼女とお前への風当たりがきつくなるだけだ」
『俺と萩原 は――』
「確かに、おまえと彼女はそういう仲じゃない。だけどな、家出している女の子を自分の家に置いているのは事実だ。 何を言っても、きっと信じてもらえない」
 勇樹が黙り込み、背後から、ふざけ合っているらしい生徒たちの声が聞こえてく る。
 わずかな沈黙の間に、智也はこれから自分がするべきことを頭の中で整理していた。もちろん、勇樹とさやかのことを 放っておく気は毛頭ない。
「待ってろ。これからすぐに学校に行く。――萩原さんと一緒に」
『……すごいな、兄貴二人 が出てくるのか』
 ため息を吐くように、勇樹が言う。その声からは安堵じみたものが滲み出ており、勇樹のそんな反応に、 少しだけ智也もほっとする。
「心強いだろ」
『ああ』
 玄関で待っているよう言い置いて一度電話を切った智也は、す ぐに京一に連絡を取った。


 ハンドルを握る京一の横顔は険しかった。
 智也が電話で事情を話すと、京一はわざわざ智也の会社に立ち寄ってくれ、こ うして一緒に学校へ向かっている。もちろん二人とも、会社は早退した。
 勇樹の電話から、こうして二人が合流するまで、 三十分もかかっていない。智也は会社で待っていればよかったのだが、京一のほうはよほど急いで行動したのだろう。
 車中 の沈黙とピンと張り詰めた緊張感に、智也が息苦しさを覚え始めたとき、やっと京一が口を開いた。
「――学校に泣きついて きたってことは、少しはプライドを捨てたってことだな」
 皮肉っぽい京一の口調は静かだが、運転はかなり荒い。学校まで 押しかけるという、娘を心配する親として当然の行動は、京一にとっては怒りを呼ぶ行為でしかないのだ。そこまで、信頼関係が 崩れているということかもしれない。
「プライド、ですか?」
「あの人は、ひどく外聞を気にするんだ。家の中ではどれ だけひどいことをしようが、一歩外に出ると、いい息子といい娘の、いい母親を演じる。それをずっと続けていた人が、学校に行 って、娘が家出して戻ってこないと訴えるんだ。プライドはズタズタだ。そんな母親の元に、さやかが連れ戻されでもしたら……」
 京一が言おうとしていることが容易に想像でき、ゾクリと智也は身震いする。彼の言っていることは大げさだと、ウソだと 言う気はない。さやかのこれまでの真摯な訴えを聞いていれば、智也にとっての真実は決まっていた。
「……すごいことに、 なるでしょうね」
「そんなことはさせない。俺がさやかを守ってやる」
 京一の呟きに、智也はささやかな訂正を加えた。
「おれも仲間に加えてくださいね。微力ながら弟も。勇樹が連絡をくれなかったら、おれたちは動くこともできなかった。あ っ、それなら、おれが一番役に立ってないですね……」
 智也としては後半の言葉は、空気を和ませようとする冗談のつもり だったが、京一はそう受け止めなかったらしい。
 智也の言葉を聞き流したように黙っていたが、信号待ちで車が停まった途 端、京一が膝の上に置いた智也の手をきつく握り締めてきた。
「萩原さんっ?」
 驚いた智也が声を上げると、じっと前 を見据えたまま京一が言う。
「俺は、誰よりも君がいてくれてよかったと思っている。そうじゃなかったら、俺はこんなふう に落ち着いていられないし、それ以前に、家出したさやかに対して間違った手段を取っていた。何もかもめちゃくちゃにしていた かもしれない……。だから俺は、君に救われてばかりだ」
 そんな場合ではないのだが、京一の言葉に智也の胸は熱くなる。 どうしようもなく、京一を守ってあげたくなる。
 京一の手を握り返し、すぐに指を絡め合う。
「おれはとっくにあなた に救われて、支えられてますよ」
「でも俺のほうが、君にもっと支えられている。……これ以上君に、君の弟にも、迷惑をか けていいんだろうかと思うぐらい」
「それ――」
「学校に着いたら、君たち兄弟関係ない振りをしていてもいいんだ。俺 たちに巻き込まれただけだからな」
「……本気で言ってます?」
 智也がムキになって睨みつけると、そんな智也をちら りと見て、京一は唇を綻ばせた。
「冗談だ。ここまできたら、とことんまでつき合ってもらう」
 ほっとした智也は、京 一のほうに乗り出しかけていた体をシートに落ち着ける。
「余裕ですね。この状況で冗談が言えるなんて……」
「君に会って から、大抵のことには動じなくなった。そうでないと、それこそ君と痴話喧嘩になる」
 痴話喧嘩という言葉で、互いの気持 ちを知ってから初めて顔を合わせたことに気づく。そういう喧嘩ができる関係になったのだ。
 どぎまぎしながら顔を合わせ るのだろうかと想像していただけに、この状況はあまりに想像と違いすぎて、それがかえって自分たちらしいと思わなくはない。 ただ、京一とのことをあれこれ考えるのは後回しだ。
 勇樹とさやかが通う高校の近くまで来ると、下校する生徒たちの姿が あった。授業はとっくに終わっているはずなので、補習か部活終わりなのだろう。
 いよいよやってきたのだと、高まる緊張 を抑えるため智也は静かに深呼吸する。京一のほうはどうなのか横顔からはわからないが、ここに来るまでの間に、運転は落ち着 いていた。
 車を来客用の駐車場に入れて降りると、すぐに京一に声をかけられる。
「――行こう」
 智也は、京一 の目をまっすぐ見つめて頷いた。
 制服姿の生徒たちとすれ違いながら玄関に行くと、二人の姿が見えていたらしく、勇樹が 駆け寄ってきた。
 唇を引き結んでいる勇樹の顔を見て、智也は言葉をかけるよりも先に、軽く頬を叩いてやる。
「なん て顔してる。今にも泣き出しそうな顔してるぞ」
「……兄貴たちが遅いからだ」
「こんなときでも憎たらしい口だな」
 しっかりしろと、今度は肩を叩いて三人は一緒に歩き出す。
「さやかさん、まだ出てきてないのか?」
 智也の問 いかけに、勇樹はうな垂れるようにして頷いた。
「ああ。さっき、様子をうかがいに行ってみたけど……」
 隣を歩く京 一に視線を移す。
「大丈夫ですよね?」
 痛いほどの緊張感をまといながらも、柔らかな眼差しで京一が智也を見る。
「――大丈夫だ」
 智也はその言葉を信じた。より正確に言うなら、京一を信じた。
 勇樹に案内されて相談室の前 で立ち止まる。ドアは閉まっているが、中から洩れ出てくる人の話し声を聞き取ることは可能だ。
 一度だけ三人の間で視線 が交わされたが、言葉はないものの、あることを目で確認し合っていた。とにかく、さやかを守ると。









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