サプライズ


[12]


 部下にまで、『強烈なほうの奥さん』として認識されている敦子の数少ない美点は、胸の大きさと美貌、食いっぷりのよさだろう。
 健啖家である大橋は、毎日こいつとメシを食いたいと思って敦子にプロポーズしたのだが、今となっては過去の話だ。
 大橋は無意識にため息をつくと、隣のテーブルへと視線を向ける。いかにも初々しいカップルが、にこやかに食事をしていた。
 俺たちにも何年か前、あんなときがあった――、と感慨に耽るほど、大橋は未練がましくはない。考えたのは、まったく別のことだった。
 カップルのテーブルに並べられた料理を眺めながら、あいつは夕飯を食ったのだろうか、と心配したのだ。
『あいつ』とは、もちろん、藍田のことだ。
 あいにく大橋には、他人の食事の心配をしてやるほどの甲斐甲斐しさはなく、唯一の例外として、藍田がいる。たとえ、藍田の部下に何を言われようが、気になるのだから仕方ない。
 敦子との待ち合わせのためオフィスを出るとき、ブラインドの隙間から確認したが、藍田の姿はまだ向かいのオフィスにあった。どうせ今夜もまた、遅くまで残業するのだろう。周囲からどんな圧力をかけられようが、自分の胃を悪くしながらも、怜悧な表情を変えもせずに、黙々と。
 漫然と藍田のことを考え続けていると、ふいに大橋の胸の奥で熱い塊が蠢き、息を止める。なぜか、心臓の鼓動まで速くなっていた。
 食事中に飲んだワインのせいかとも思ったが、今夜に限って、グラス一杯しか飲んでいない。酔うには程遠い量だ。
 不可解な自分の異変に戸惑い、苛立ちながら、大橋は短く息を吐き出す。落ち着かなくてテーブルに頬杖をついたが、それも具合が悪く、すぐに背筋を伸ばす。所在なく髪を掻き上げたりもしていた。
「――急に、何をイライラしてるのよ」
 マンゴーのシャーベットを掬いながら、敦子がきつい眼差しを向けてくる。ボリュームのあるステーキを平らげて、その前に前菜もしっかりとっておきながら、この細い体のどこに入るのかと不思議になってくる。
 シャーベットの前に、敦子はケーキも二個食べているのだ。
 三か月ほど前に会ったときは長かった髪は、今は肩につくかつかないかの長さになり、緩くウェーブがかっていた。髪形のせいか、眼差し同様きつめの顔立ちが際立っている。
 何も入れていないコーヒーを啜った大橋は、曖昧に首を動かした。
「俺は忙しいんだよ。メシを食う時間も惜しむほどな」
「へえ、誰か待たせてるから、遅れるのを心配してイライラしているんじゃないの? わたしはてっきり、三番目の奥さんをキープしてるのかと思ったんだけど」
「はっきり言うぞ。俺は二度の失敗を経験して、心に誓ったんだ。金輪際、婚姻届に判は押さないってな」
「意気地なし。二度の失敗ぐらい」
 原因の半分はお前にあるだろう、と言いたかったが、いまさら離婚のことでムキになっても仕方ない。
 敦子は満足そうに頷いた。
「少しは大人になったじゃない。昔ならここで、お互い言いたいことを言い合って、大ゲンカになるのに」
「……俺は今、管理職なんだ。忍耐の日々で鍛えられた」
 ふうん、と意味深に敦子は鼻を鳴らしてから、シャーベットを平らげた。
 コーヒーも飲み干すのを待ってから、ナプキンをテーブルに置いて大橋は立ち上がろうとする。
「――ねえ」
 敦子が上目遣いに見上げてきて、テーブルに突いた大橋の手に、自分の手をかけてきた。
「なんだ」
「本当に誰かいないの? 気になる人」
「元ダンナの恋愛が気になるか」
「龍平は寂しがり屋だから、愛しい誰かが側にいてくれないとダメなタイプなのよね」
 大橋は目を剥いて、敦子を見つめる。したたかに笑い返された。
「本当は、誰かいるんでしょう」
 心臓の鼓動は速くなる一方で、なぜか大橋は焦ってくる。この反応はまるで、敦子に図星を指されたといっているようなものだ。
「……いねーよ。ほら、食ったんなら出るぞ。俺はお前のせいで、今日は家に仕事を持ち帰らなきゃいけなくなったんだからな」
 つまらない、という敦子の言葉は無視した。自分が幸せだと、元ダンナの幸せも願える心境になるのか、単におもしろがっているだけなのか。敦子の場合、後者かもしれない。好奇心の強さという点で、大橋と敦子はよく似ているのだ。
 もっとも大橋は、いまさら敦子の恋人がどんな男なのか、聞こうとも思わない。
 これは好奇心云々ではなく、別れた男女の間に引く一線だと考えている。
「ほら、出るぞ」
 敦子を促して席を立つと、支払いを終え、ビル内にあるフランス料理店を出た。
 エレベーターに乗り込んだときは敦子と二人きりだったが、次に停まった階で、どっと客が乗り込んでくる。
 大橋と敦子はエレベーターの壁に押しやられ、敦子が大橋に身を寄せてきた。敦子愛用の、懐かしい香水の香りに鼻腔をくすぐられる。
「大丈夫か?」
「平気。……懐かしいからって、お尻に触らないでね」
「バッ、バカかっ、お前はっ」
 二人のやり取りが聞こえたらしく、すぐ側にいるOLらしい女の子たちがクスクスと笑い声を洩らす。
「――信じられん奴だ」
 ビルを出て大橋が苦々しく洩らす隣で、敦子は腹を抱えて爆笑している。
「相変わらず、おもしろいわ、龍平」
 笑い続けながら敦子がふらふらと歩いて行こうとする。大橋は声をかけた。
「おい、送っていこうか? といっても飲んだから、タクシーだけどな」
「んー、いい。一人で帰る。新しい『彼』のところに寄るから」
 ここで何かを思い出したように敦子が振り返る。
「恋人、大事にしなさいよ」
「だから、いないと言ってるだろっ」
「信じなーい」
 別れの挨拶も交わすことなく、大橋と敦子はそれぞれ違う方向に歩きだす。
 あの女は相変わらずだ、と口中でブツブツ言いながら歩いていた大橋だが、気がついたときには足を止め、レストランでの自分の異変を思い返していた。
 漠然とながら、異変の理由がわかったのだ。
「……あーっ、くそっ」
 藍田のことが頭から離れなかった。誰になんと言われようが、気になるものは仕方ないし、そもそも、誰かに言われるものではない。これは、大橋と藍田の問題だ。
 それに、何もかも自分一人で背負い込もうとする人間を放っておくのは、大橋の主義に反する。
 歩道のど真ん中で立ち尽くしたまま、自らの正当性を誰に対してか主張するように、大橋は頭の中でそう繰り返していた。
 自分でも、どうしてだかわからない。ただ、気になる人はいないのかと敦子に問われたときに、藍田の顔が脳裏に浮かんだのだ。だから、放っておけない。
「――気になる、の意味が違うっていうんだよな」
 自虐的に呟いた大橋は、もう一度、くそっ、と低く毒づいて足早に歩き出す。
 通りかかったタクシーを停めて乗り込むと、会社のビルに行くよう告げた。
 大橋はシートに体を預ける余裕もなく、イライラと指先で自分の膝を叩く。
 自分のお人よしぶりに、心底腹が立っていた。堤にあそこまで言われておきながら、それでも藍田を心配する義理はないのだ。
 そもそも藍田のバリアーになってやる義理も、本当はない。プロジェクトが違うのだからと、その一言でなくなるようなつき合いだ。
 大橋は両手で髪を掻き上げると、大きく息を吐き出す。開き直りとも言うが、この瞬間、覚悟は決まっていた。
 徹底的に藍田に関わってやると。
 タクシーが会社に着くと、大橋はちらりとビルを見上げてから、大急ぎで駆け込む。
 この時間、ビル全体が真っ暗になっているということはないが、それでも電気がついているオフィスはまばらだ。
 エレベーターの中で走り出したい衝動に駆られ、扉が開いた途端、本当に走り出す。何をこんなに焦っているのか、本当に大橋にはわからない。
 藍田に関わることで、『考える』という行為は放棄した。藍田という存在そのものもよくわからないのに、その藍田に翻弄されつつある自分の行為など、さらにわかるはずがなかった。
 必要なのは、大橋自身がどう行動したいかだけだ。誰の意見も必要ない。
 新機能事業室のオフィスが見えてくる。案の定、電気がついていた。
 大橋は荒い呼吸を繰り返しながら、オフィスに飛び込むと、広く静かな空間をどんどん歩いていく。
 オフィスの奥のある一角だけ、電気がついていた。その明かりの下にいるのは――。
「やっぱりいたな……」
 大きく息を吐き出して呼吸を整えた大橋は、近づきながらネクタイを緩める。
 大橋の気配に驚いたように藍田が白い顔を上げ、切れ長の目を見開いた。
「――……大橋さん……」
「よお」
 応じながら、オフィス内を見回す。歩きながら確認したが、すでにもう、藍田以外の人の姿はなかった。
「……あんた、こんな時間になんの用だ」
 眉をひそめての藍田の言葉があまりに予想通りで、大橋は笑いたくなった。
「まだメシ食ってないんだろう。――準備しろ。食いに行くぞ」
 何を言い出すんだ、といいたげな表情をしてから、藍田は呆れたように息をついた。
「帰ったんじゃないのか……」
「外でメシを食ってた」
「それなら、何しに戻ってきたんだ」
「お前をメシに誘いに」
 どうして、と藍田の唇が動いたが、声にはならない。ただ、薄く開かれた藍田の唇が、やけに色気があるなと、どうでもいいことに気づいてしまった。
 一人でうろたえた大橋の頬の辺りが熱くなる。
 妙な気分だった。今の自分の姿がまるで、気に入った女の気を引こうと躍起になる十代のガキのようだと思えてきたからだ。
 藍田は頑なに唇を引き結ぶと、何事もなかったようにファイルを開き、仕事を再開しようとする。
「冷たい反応だな、お前。資料倉庫で仲良く談笑した仲だろう」
「おかげでわたしは、埃だらけになったんだ」
「きちんと片付けようって気になったか?」
 ファイルから顔を上げた藍田に、ギロリと睨みつけられる。普通の神経をしていれば怯みそうな迫力だが、大橋が感じたのは別のものだった。
 こいつもけっこう、感情が表に出るようになったではないか、と。
 大橋がニヤニヤしながら見つめていると、気味悪そうに露骨に顔をしかめた藍田は、まるで犬猫でも追い払うように片手を振った。
「食事のことなら余計なお世話だ。……なんなんだ。あんたといい、うちの堤といい」
 藍田が洩らした言葉によって、胸に不快さが広がる。今の大橋にとって、一番聞きたくない名だった。
 大橋はくしゃくしゃと髪を掻き乱すと、藍田以外誰もいないとわかっていながら、オフィスを見回す。
「その、堤は? お前の忠実な犬だろう。側に仕えてないのか」
 大橋なりのどぎつい皮肉に、一瞬にして藍田の表情は冷える。こういうところは、少しも変わらない。別に大橋は、藍田を変えたいわけではないが。
「仕事が終わったから、帰らせた」
「その口ぶりだと、堤は残る気満々だったらしいな」
「……いろいろと、わたしの心配をしているらしい。体調のこともあるが、それ以外に」
 わずかに疲労の色を滲ませて、苦い口調で藍田が洩らす。その口調に、藍田らしくない感情が滲んでいるのを嗅ぎ取り、正直大橋はおもしろくなかった。
 だから、言う気のなかったことを口にしてしまった。
「――マーケティング本部長の高柳さん、か」
 すかさず藍田から鋭い視線を向けられた。
「誰に聞いた?」
「俺はお前より、広い情報網を持ってるんだよ」
 ふざけた口調で答えた大橋は、堤の爽やかな二枚目面を脳裏に思い描く。思った通り堤は、大橋と接触したことを藍田に報告していない。つまり大橋への忠告は、堤の独断だ。
 そんなにこの愛想のない上司が心配なのかと、猛烈な腹立たしさが大橋の中で込み上げてくる。同時に、身が焦げ付くような焦燥感も。
 そんな大橋の気持ちも知らず、藍田は何事か考え込む表情を見せ、ブラインドを下ろしていない窓のほうを向く。向かいのオフィス企画部は真っ暗で、いくらブラインドを上げておいても、誰の視線も気にしなくていいということだ。
 勝手にそう推測して、また大橋の中で腹立たしさが募る。そんなに俺に見られるのが嫌か、と考えてしまったのだ。
 なんだかわからないが、今の大橋は激しい感情の嵐の中に放り込まれていた。自分で自分の感情がコントロールできない。
 大橋がどれだけ危険な状態にあるか知らない藍田は、ブラインドを下ろしながら、ぽつぽつと言った。
「……別に、あんたのせいでわたしが迷惑を被っているという気はない。遅かれ早かれ降りかかる火の粉だ。それに、火の粉を振り払う努力をする気にもなった。だから仕事以外で、わたしのことを気にかけなくていい」
 こちらを見ないまま藍田が淡々と話し、大橋は視線をさまよわせてから、足を踏み出す。まるで他者を拒むように、藍田だけを照らす電気の明かりの下に、大橋も入った。
 側に立った大橋を、驚いたように藍田が見上げてくる。
「大橋さん……」
「悪いが、お前が何を言ってるのか、さっぱりわからん」
 藍田はムッとしたように唇を歪めた。
「――頭悪いのか、あんた」
「お前は頭で考えすぎる。利口なのはわかるがな」
「考えないと、上手く立ち回れない。わたしはあんたと違って、一人でやっていくしかないからな」
「だったら、俺とだけでも上手くやれ。あとは俺が上手く立ち回って、お前の分もカバーする」
 思わず出た言葉に、自覚のない本心が込められている気がして、大橋はうろたえる。藍田の頑迷さに、心が引きずられた。
 大橋は急に照れ臭くなり、乱暴に藍田の左手首を掴んで引っ張る。動揺を悟られたくがないための、咄嗟の行動だった。
「ほら、早くメシを食いにいくぞ。青白い顔しやがって。心配されたくなかったら、お前はとにかくメシ食え」
 ここで藍田が予想外の反応を見せた。大きく目を見開き、いままで見せたことのないような無防備な表情を見せたのだ。素の顔、というべきかもしれない。どれが藍田の本当の顔なのか知るはずもないのだが、大橋は本能で、そう感じ取った。
 何秒かの間、電気の明かりに照らされている部分の時間だけが止まった気がした。大橋も藍田も微動だにしなかったのだ。
 大橋はやっと、掴んだ手首の感触を意識する。
 藍田の手首を掴むのは、これで二度目だ。骨ばって、いかにも男だと思わせる感触だが、大橋に比べるとずいぶん頼りない手首だった。
 しっかり食わないからだ――。
 思ったことをそのまま声に出して呟くと、サッと藍田の顔に表情が戻る。怒り、というより羞恥に近いかもしれない。
 藍田が浮かべた表情の鮮やかさに、大橋はまばたきも忘れて見入ってしまう。手首を握る手に力を加えると、ようやく藍田は声を発した。
「放せっ」
 手を引こうとする藍田を、それ以上の力で引っ張り返す。反射的な行動だったが、ずいぶん威圧的だったかもしれない。
 藍田の目に激しい怒りが宿ったのは、この瞬間だった。
「放せといっているっ」
 藍田が右手を振り上げ、大橋は頬を鋭く打たれる。痛みに顔をしかめはしたが、再び振り上げられた藍田の右手首を掴んで、左手首と同じように押さえる。あっという間に藍田の両手を使えなくしてしまった。
 手を振り払おうとする藍田の抵抗を、手首を強く押さえることで封じ込めながら、大橋は藍田の顔を覗き込み、囁くように告げた。
「俺の言うことを聞け。お前はこれから、俺とメシを食いに行くんだ。俺が見ている前で、しっかり食うんだ」
「なんでっ……、なんでそこまで……」
「お前が心配だからだ」
「心配されるような義理はないっ」
 常に理性的でクールな男が、惜しみなく激しさを晒している。自分でも驚くほど強引に出ている大橋以上に、藍田もうろたえているのだ。
 それが藍田の抱え持つ脆さに思え、大橋の中にある熱い塊を刺激する。
 ふっと理性が揺らいだ一瞬だった。
「ごちゃごちゃうるせーっ」
 大橋が怒鳴ると、気圧されたように藍田が体を引こうとする。
 逃げられる、と咄嗟に思ったときには、乱暴に藍田の体を自分のほうに引き寄せ、両腕でしっかりと抱き締めていた。
「気になるんだから、仕方ねーだろっ。俺にもわからないことを聞くな。とにかく、お前が……放っておけないんだ。だからかまうのは仕方ないんだっ」
 ほぼ一息に言い放ち、大橋は荒く息を吐き出す。だがすぐに、この息苦しさがそのせいだけではないことを知る。
 胸が――心が締め付けられて、苦しく感じるのだ。
 頬に藍田の髪が触れる。見て想像していた通り、艶やかで柔らかな髪だった。
「……何、してるんだ、あんたは……」
 耳元で、呻くように藍田が言葉を洩らす。その声はいつもの冷然としたものではなく、微かに震えを帯びていた。その声を聞いて、大橋の背筋にゾクゾクするような興奮が駆け抜けた。
 今の俺はどうかしていると頭の片隅で思いながらも、大橋は衝動のままにさらに腕の力を強くして、藍田の体の感触をより一層感じる。
 痩せて骨ばった、それでいて華奢とは言い難いしっかりとした感触を持つ、男の体だ。だが、めまいがするほど抱き心地がよかった。
 大橋が好きな柔らかな胸の感触も、壊れ物のように頼りない体つきでもないというのに。
「――……聞くな。俺も、よくわからん。なんでお前に、こんなことしてるのか……」
 だが、藍田の体を縛める腕を解こうとは思わなかった。初めて味わう心地よさをもっと貪りたいと大橋の本能が訴え、本能に逆らうだけの理性を今は持ち合わせていないのだ。
 抱き締められている藍田はというと――ただ体を硬くしていた。
 大橋はますます何も考えられなくなり、深く息を吐き出すと、藍田の首筋に顔を寄せる。戸惑ったように藍田の手が腰の辺りにかかり、それだけで体中の血が沸騰しそうだ。
 腕の中の生き物は一体なんなのだと、自問する。
 同性で同僚で、まともな人つき合いが望めないほど怜悧な、ツンドラのような奴なのだ。だが今の大橋は、腕の中のそんな存在を離したくないと思っている。
 初めて味わう感触に大橋が酔いかけたとき、ピクリと藍田が身じろいだ。
「……女相手に発散できなかったから、わたしにこんなことをしているのか?」
 急に低い声で問われ、大橋は我に返る。藍田の言葉の意味がわからず、戸惑いながら慎重に腕の力を抜くと、胸を突き飛ばされて藍田が逃げた。
「藍田……」
 デスクの向こう側へと逃げた藍田に鋭く睨みつけられる。
「香水の甘い匂いが鼻につく。臭いから近づくな」
 大橋はすぐに、香水の香りが誰のものか見当がついた。敦子のものだ。エレベーターの中で体を寄せ合ったとき、移ったものだろう。
 藍田は、うかつに近づけないほど極寒の空気を身にまとい、全身で大橋を警戒していた。大橋が一歩踏み出せば、おそらく藍田は三歩は後退るだろう。
「さっきのことは、なかったことにする。……一人にさせてくれ」
「一人にできない」
「あんたと一緒にいたくないんだっ」
 大橋の胸に、藍田の声が突き刺さる。しかし、言葉を発した藍田のほうが痛みを感じたように口元に手をやり、震えを帯びた息を吐き出した。
 その姿があまりに頼りなく見え、藍田に逃げられると思いながらも大橋は足を踏み出していた。意外なこと藍田は、後退ったりはしなかった。
 自惚れかもしれないが、大橋がさらに強引な行動に出るのを待っていたような気がした。あくまで勝手な解釈だ。
 大橋は声をかけるより先に、そっと藍田に向けて片手を伸ばす。大橋を見つめてきながら、藍田は身じろぐどころか、まばたきすらしなかった。
 あと少しで藍田の肩に触れようとしたそのとき、オフィスに聞き覚えのある声が響いた。
「――藍田さん、メシ買ってきたんで、一緒に食いましょう」
 堤の声だった。
 何かの呪縛が解けたように、大橋と藍田は目を見開いたまま見つめ合う。
「藍田さん、いるんでしょう?」
 そう声をかけてきながら、堤がこちらに近づいてくる気配がする。途中にパーティションがいくつかあるため、オフィスの奥まで見通すことができず、大橋の存在にまだ気づいていないのだ。
 藍田の驚いた様子からして、堤は帰ったものだと思い込んでいたのだろう。
 今、大橋はこの場にいて、堤も戻ってきた。同じ時間、同じ場所に自分たちが集結したことは偶然だとわかっていながら、大橋は心底こう思わずにはいられなかった。
 自分と堤との間には、藍田を通して因縁があるのだと。
「……もう、帰ってくれ……」
 囁くような声で藍田に言われ、逆らえなかった。藍田も混乱しているだろうが、それは大橋も同じだ。
 藍田に対する自分の行動の意味を、よく考え、理解しなくてはならない。それに、堤が現れた場で下手なことは言えなかった。
 大橋は黙ってその場を離れ、歩き出す。パーティションの陰から出ると、向こうからやってくる堤とすかさず目が合った。
 当然だが、まさか大橋がいるとは思っていなかったのだろう。堤は歩みを止め、怒りとも悔しさとも取れる表情を、二枚目面に浮かべた。だが、上司がクールだと、部下にも少なからず影響を与えるのか、堤は大きく深呼吸をしてから、挑発的な笑みを口元に刻んだ。
 二人は言葉を交わさないまますれ違い、このとき大橋は鋭い視線を向けていたが、一方の堤も、敵意を含んだ視線を隠すことなく大橋に向けていた。
 互いに言いたいことがあったとしても、藍田の耳に届くところでは何も言えない。だからせめて、短く睨み合うだけだ。
 オフィスを出た大橋は、二人きりとなる藍田と堤を気にかけながらも、足早に立ち去るしかなかった。そうでなければ、二人が交わす会話が聞こえてきそうだったのだ。できるなら、藍田が堤にかける言葉は聞きたくない。
 その感情が嫉妬だと気づいたのは、エレベーターに乗り込んだ瞬間だった。
 大橋は唐突に、藍田がいるオフィスに引き返したくなったが、このときにはエレベータ
ーの扉は閉まり、静かに降下を始めていた。









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