サプライズ

[3]

 レストルームの洗面台の縁に手をかけた藍田は、鏡に映る困惑気味の自分の顔を見て、思わず深いため息を洩らしていた。
「……こんな顔をするぐらいなら、最初から誘ったりしなければよかったんだ」
 鏡に向けて放った言葉は、当然のように藍 田自身に返ってくる。
 気持ちの揺れに流されるように堤を食事に誘ったのだが、逢坂に一度連れていかれたことがあるレス トランへと移動する車の中で、藍田は強い罪悪感に心を責め苛まれていた。
 わかってはいることだが、また堤を利用するの だ。堤も納得しているというのは、言い訳にはならないだろう。
 堤の存在は、大橋に深入りしないための歯止めだと、いつ だったか堤本人に言ったことがあるが、すでにその前提は崩壊している。藍田はどうしようもないほど大橋に深入りし、とうとう、 プロジェクトを合同にするという公の形になってしまった。
 その裏で藍田は、大橋と――。
 堤と交わしている密約を 思い出し、スーツの下で小さく体を震わせる。意識すれば、堤と向き合って食事するどころではないと考え、あえて頭からそのこ とは追い払う。
 とにかく今の目的は、〈部下〉と食事をするだけだ。それ以外の目的など、本来はありはしないのだ。
 レストランに入ると、テーブルについて一分もしないうちに、半ば逃げるようにレストルームに駆け込んだ藍田だが、いつまで もこのままではいられない。
 鏡の中の自分に強い眼差しを向けてから、手を洗ってレストルームを出る。
 ホールに戻 り、自分たちのテーブルのほうを見ると、堤は一人、手持ち無沙汰な様子で外の夜景を眺めていた。
 その姿すら様になって いるのだが、本来なら、早めに仕事を終えたあと、美人の恋人でも連れてデートを楽しんでいるのが似合いそうな男なのだ。今日 に限っては、連れ回しているのは藍田のほうなので、多少の責任を感じる。
 楽しそうに食事をしている人たちのテーブルを 横目に見ながら、席に戻る。途端に堤は、パッと表情を輝かせた。普段は斜にかまえたような雰囲気があるだけに、この変わりようには面食らう。演 技なのか本気なのか、藍田には読み取れないのだ。
「……料理を注文してくれたか?」
「同じものでよかったんですよね」
「ああ。わたしに遠慮しなくていいから、飲みたいなら、アルコールも頼んでいいぞ」
「遠慮なく、ワインを頼みました」
 イスに腰掛けた藍田は、真顔で頷いた。
「お前の、そういうところは気をつかわなくて楽だ」
 テーブルナプキン に手を伸ばそうとした藍田は、自分の携帯電話の存在に気づく。レストルームに立つ前、着信音をオフに設定し、そのままテーブ ルの上に置いていったのだ。思わず手を伸ばし、念のため着信がなかったことを確認する。
「――無用心ですよ。携帯電話を 置いたままにして」
 堤の言葉に、藍田は携帯電話を畳んでジャケットのポケットに入れる。
「他人の携帯電話を覗き見 する趣味があるのか?」
「どうでしょう」
「見られたところで、他人の好奇心を満たせるようなものは入ってない」
「それは……、わかりませんよ」
 どういう意味かと尋ねようとしたとき、堤が頼んだというワインが運ばれてきて、会話は 途絶える。続いて料理も二人の前に並び、ひとまず食事の時間となった。
「普段、貧しい食生活を送っていると、こういう店 に入っただけでちょっと緊張しますね。せっかくだから、遠慮なく高そうなコースを頼んだんですが」
 移動の車の中で堤に は、誘ったのは自分だから奢ると告げておいたのだ。藍田はテーブルナプキンを広げながら、わずかに口元に笑みを浮かべた。
「気にするな。その分、しっかり働いてもらうから」
「しっかり働いたご褒美に、藍田さんと二人でメシが食えるなら、 馬車馬のようにこき使われますよ」
「……食べる前から、オリーブオイルで口が滑らかみたいだな」
「BGMとでも思っ てください」
 自分で言うなと応じてから、藍田はフォークを手にする。
 ホットサラダの卵を少しずつ崩しながら口に 運んでいると、アスパラガスにフォークを刺したまま、堤が目を細めて藍田を見つめていた。
「なんだ」
「本当に、涼し くなってから食欲が戻りましたよね。夏場は、貧血を起こしてふらついていたのに」
「いつものことなのに、お前たちが騒ぎ すぎるんだ。……今年は、ストレスのせいもあって、少しだけハードだったがな」
「お前たち……。そういえば、俺以外にも お節介な人がいましたね」
 堤が誰のことを言っているのか、明白だ。フォークの先を一瞬止めてから、何事もなかったよう に藍田は食事を続ける。
 堤は、大橋のことをほのめかすことで、藍田の反応を見ているのだ。他人に試されるのは嫌いだが、 大橋のことを持ち出すなと言うのも、違う気がする。
 藍田と堤の関係にとって、大橋は切り離せない存在なのだ。大橋がい なければ、藍田と堤の関係は極めて単純な、上司と部下でしかなく、こうして食事をすることもなかったはずだ。
 会話の自 然な流れで、堤が切り出した。
「プロジェクト、合同にしたんですよね」
 プロジェクトのメンバーには簡単に状況は説 明したが、どうして合同という形になったのかという過程については、まだ知らせていない。知る必要はないと、一言 で済ませることもできるが、おそらく大橋は、自分のプロジェクトのメンバーにそんな対応はしないはずだ。必然的に、藍田も大 橋に倣うことになるだろう。
「経緯については、明日のミーティングでみんなに説明する。多分、合同プロジェクトの初顔合 わせの場で、ということになるだろうな」
「そのプロジェクトで、藍田さんと大橋さん、どちらの立場が上になるんですか?」
 アスパラガスを齧った藍田は、ゆっくりと視線を堤に向ける。
「そんなことが気になるのか?」
「俺のボスは、藍 田さんだけです。事業室でも、プロジェクトでも」
 堤のこの言い方は、なんだか好きだった。藍田は表情を綻ばせ、子供を 諭すように言う。
「安心しろ。プロジェクトは合同になっても、お前のボスはわたしだ。プロジェクトは合同になったが、あ くまでリーダーは二人のままで、情報を共有はしても、メンバーを共有はしない」
 そんなやり取りを交わしているうちにホ ットサラダを食べ終え、次にスープが運ばれてくる。藍田が好きそうだから選んだというスープは、野菜のたっぷり入ったクリー ムスープだ。
 逢坂と訪れたとき、そのクリームスープが気に入った藍田としては、堤の観察眼は侮れないと、改めて思い知 らされていた。


 ワインのせいもあるのか、レストランを出てからの堤は機嫌がよかった。もともと、必要に応じていくらでも愛想よくできる男 だが、少しはしゃいでいるように感じるのだ。
 実年齢以上に大人びていて、皮肉げな物言いもする男でも、こういうふうになる ことがあるのだと、藍田はエレベーターホールに向かいながら、隣を歩く堤を興味深く観察する。
「今度は、俺が知っている 店に、藍田さんを案内しますよ。そのときはタクシーで移動しましょう」
 表情同様、機嫌よさそうな声で堤が言う。
「どうしてタクシーなんだ」
「藍田さんの車で移動すると、藍田さんが飲めない。一緒に飲みたいんです」
「……上司と 飲んでも、楽しくないだろう」
「藍田春記という人と飲みたいんですよ」
 艶を含んだ眼差しを向けられ、藍田の胸の奥 がざわつく。この先に起こるかもしれないことを予期させ、それでも堤を食事に誘った自分に恥じ入っていた。
「――……タ クシー代は出すから、お前はここからタクシーに乗って帰れ。わたしはちょっと立ち寄るところがあるんだ」
「つき合います よ」
「いや――」
 この瞬間、藍田は言葉に詰まる。さりげなく堤に手を握られたからだ。
 二人の前を、腕を組ん だカップルが歩いている。藍田は反射的に背後を振り返ったが、幸か不幸か、人の姿はない。
「堤っ……」
「あのとき、大 橋さんのことを聞かされてオフィスを飛び出していったときから、藍田さんの気持ちは揺れたままだ。つまり、大橋さんと〈何か〉 があったということです。あなたの気持ちが揺れるときは、大橋さんが必ず絡んでいる」
 悔しいことに、とぽつりと付け加 えてから、堤の手が放される。
「あなたから、俺に何かを打ち明けてくることはないでしょう。だったら俺は、誰よりも敏感 に、あなたの気持ちの揺れを見抜くしかない。そうすることで、俺は特権を得られるんですから」
 ちょうどエレベーターが 到着しており、前を歩いていたカップルが乗り込んで、藍田たちを待ってくれている。礼を言って乗り込んだ藍田の頬は、ワイン を飲んだわけでもないのに熱くなっていた。このカップルに、堤に手を握られた場面を見られていたら、と考えてしまったのだ。
 当の堤は、涼しい顔で階数表示を見上げている。
 エレベーターを降りると、藍田のわずかなためらいを許さないよう に、迷いのない足取りで堤は先に立って歩き出す。向かう先はタクシー乗り場ではなく、駐車場だ。
「……お前は、わたしを 誤解している」
 足を止めた藍田は、年下とは思えない自信に満ちた堤の背を眺めながら、自嘲気味に洩らす。
「わたし は、お前が思っているより、ずっとズルイ人間なんだ」
 藍田がついてきてないと気づいた堤が振り返り、慌てて引き返して くる。その様子は、自信に満ちた後ろ姿とは対照的で、なんとなく微笑ましい。
「藍田さん、どうかしましたか?」
 じ っと堤の顔を見つめてから、藍田は口元に笑みを浮かべた。
「堤、お前は可愛いな」
 藍田としても、どうしてこんなこ とを言ったのかわからないが、言われた堤のほうはもっと面食らったらしく、目を見開いたあと、照れたように視線をさまよわせ た。この後、少し怒ったような表情を浮かべたのは、藍田には意外だった。
「褒め言葉じゃないですよ、それ」
「わたし も、褒めたつもりはない。ただ、思ったままを言っただけだ」
「だったら、衝動的に頭を撫でたり、抱き締めたりしたくなり ません?」
 澄ました顔での堤の言葉に、本気なのか冗談なのか、藍田には判断がつかなかった。
「……そう、され たいのか?」
「ワンとでも、ニャーとでも、お好みの鳴き声を上げますよ」
 際どいことを話しているなと思い、藍田は 軽く息を吐き出してから、堤のジャケットの裾を掴んで、引っ張りながら歩く。堤は苦笑しながら洩らした。
「駄々っ子扱い ですね、俺」
「こんな図体の大きな駄々っ子がいるか」
「少なくとも、上司と部下の関係は超えていますよ。今の俺と藍 田さんは」
 藍田は、ジャケットを掴んでいた手をパッと離すと、一人足早に歩く。堤は小走りで追いついてきた。
 堤 という存在は一体なんなのだろうかと、今になって考えていた。
 少し前までは、生意気ながらも有能な部下だという認識が 持てていた。今もその認識は変わっていないが、上司と部下という一線を保ちつつ、明らかに関係は変わっている。
 歯止め に身代わりに鏡――。大橋との関わりに自制を保つため、藍田はそれらの役割を堤に与え、堤も甘受してきた。
 上司と部下 であるという以外で、藍田と堤との関係には、大橋の存在が欠かせない。
 そのはずだった。
 ビルの向かいにある立体 駐車場に向かうため、横断歩道を渡ろうとしたが、タイミング悪く青信号が点滅を始める。急ぐ気のない藍田は歩調を緩めようと したが、背に堤の手がかかり、ぐいっと押される。
「走りましょう」
 堤の手に押されるまま、藍田は走って横断歩道を 渡っていた。背後で車が走り出す音を聞きながら、背にかかったままの堤の手の感触を感じる。力強い手だと思った。
 立体 駐車場から車を出したとき、待っている堤を置いて帰ろうかと、一瞬ひどいことを考えた藍田だが、結局、実行はできなかった。
 助手席に堤を乗せ、沈黙したまま走らせる。車に乗る前までの饒舌さを忘れたように堤は口を閉じたままなので、藍田もど う話しかければいいのかわからないのだ。
 むしろ、会話のないまま堤のマンションに着けばいいのにとすら思っていた。堤 の口から、大橋との間にあったことを問われるのは避けたかった。
 問われれば、それは行為によって答えなくてはならない。 藍田自身、自分の身に起こった出来事の意味を知りたい欲求に駆られたままなのだ。大橋本人に確かめられないことも、堤となら ――。
 こんなふうに考えている自分が、藍田は嫌だった。反面、理性と感情の折り合いがつけられない自分が、新鮮でもあ る。
 大橋と堤によって引き出された、いままで知らなかった藍田の一部だ。
「この先の道を、右に曲がってください」
 なんの前触れもなく堤に言われ、ハッとする。前を見据えたまま藍田は応じた。
「だけど、お前のマンションは……」
「そこの道を通れば、マンションの裏手に出るんです。ただ、途中で寄ってもらいたいところがありますけど」
 どこに 寄るのか聞きたかったが、堤の言った道がすぐそこに見えてきて、藍田はとりあえず運転に集中する。
 車を走らせていくう ちに、堤がどうしてこの道に入るよう指示したのかわかった気がした。車窓の向こうに、フェンスに囲まれたサッカー場や、テニ スコートが見えてくるが、すでに使用時間は過ぎているらしく、どこも照明は落とされている。舗装された散歩道もあるが、歩い ている人の姿はなかった。
「運動公園?」
「体を動かしたいときは便利ですよ、ここ」
 堤に言われるまま、運動公 園の駐車場近くに車を停める。夜間のため、駐車場には侵入できなくなっているのだ。
 藍田は自分から車のエンジンを切る。 緊迫した沈黙に耐え切れず、シートベルトを外して車を降りようとしたが、すかさず肩に堤の腕が回されて乱暴に引き寄せられた。
「あっ……」
 眼前に堤の顔があるが、駐車場が暗いため、表情がわかりにくい。ただ、強い眼差しを向けられているこ とだけはわかった。
 何も言わず堤の顔がさらに近づいてきて、唇に息遣いが触れる。この瞬間、藍田の背筋にはゾクゾクす るような強烈な疼きが駆け抜けた。
 大橋の唇が初めて重なってきた瞬間、感じた疼きと同じものだ。
 ゆっくりと堤の 唇が重なってくると、もう藍田は動けなかった。何かを確かめるように堤に慎重に上唇と下唇を吸われてから、どちらともなく熱 い吐息をこぼす。
「抵抗しないということは、大橋さんとキスしたんですね」
 軽く唇を触れ合わせてきながら堤に囁か れ、藍田は掠れた声で答えた。
「……ああ」
「たまらなく藍田さんの唇に触れたかったけど、心の半分では、何するんだ って、怒鳴って抵抗してもらいたかったです。その抵抗を封じながら、キスしたかった。……きっと俺は、優越感に満たされまし たよ。大橋さんより先に、あなたの大事な部分に触れられた、と思って」
「堤――」
 堤の言葉に怖さを覚え、離すよう 言おうとしたが、その前に再び唇が重なってくる。今度は深く。
「んっ」
 咄嗟に堤の肩に片手をかけたが、押し退ける には至らなかった。ふいに、会議室で大橋が言った言葉が脳裏を過ったのだ。
 他人の意思に流されるというより、実はその 奔流を作っているのは藍田自身だと、そんなことを大橋は言った。
 今なら大橋の言葉の意味が、身をもって実感できる。こ うしていながら堤を拒絶できないのが、何よりの証だ。わかっていながら藍田は、自ら状況をどんどん複雑にしている。
 堤 と二人きりになれば、大橋と交わした行為を求められるのがわかっていながら。
 だから自分はズルイのだ――。いや、ひど い人間なのかもしれない。
 肩に回されていた堤の手が背に移動し、さらに引き寄せられる。
「……どんなふうに、大橋 さんのキスに応えたんですか」
 囁かれながら唇を啄ばまれ、藍田は目を閉じる。大橋に対してもそうしていたように。
 自分はひどい人間だと、はっきりと藍田は自覚する。気持ちの揺れを堤に見抜いてほしいという以上に、本当は試したかったの だ。
 大橋とキスしたとき、藍田はあまりに自然に行為を受け入れ、馴染んでしまった。それは相手が大橋だからなのか、そ れとも自分が、同性との行為に抵抗を覚えない種類の人間なのか、藍田にはよくわからない。
 だからこそ、大橋以外の男と 同じ行為に及ぶ必要があったのだ。もし大橋が特別だというなら、藍田は、あの男に逆らえない。
「お前、男のわたしにこん なことをして、抵抗がないのか?」
 目を閉じたまま藍田が問いかけると、笑った堤の息遣いが唇にかかった。
「俺が藍 田さんに聞きたいですね。……大橋さんとキスして、抵抗がなかったですか?」
 体がわずかに震えるのは抑えられなかった。 その反応から何かを読み取ったらしく、堤はそれ以上の追及はせず、唇を重ねてくる。
 激しくて強引だった大橋とは違い、 堤は慎重に丹念に藍田を味わっているようだった。
 何度も唇を吸われ、舌先でなぞられ、再び唇を吸われているうちに、藍 田の唇が燃えるように熱くなっていく。堤の熱に感化されたのだと思った。
 大橋とは明らかに違う堤の求め方は、不思議な ことに、堤という個人より、男だということを強く意識させられる。
 同性に求められているという現実が、いまさらながら 藍田の胸の奥深くから興奮を引きずり出していた。
 甘い危惧を覚えた藍田は、堤のキスが穏やかなのをいいことに、なんと か顔を背ける。
「堤、もう――……」
「まだ、大橋さんのキスにはどんなふうに応えたのか、教えてもらっていませんよ」
 甘いのか残酷なのかわからない言葉を囁きながら堤の唇が追いすがってくる。唇の端にキスされながら、藍田は小さく訴え た。
「……あと、十秒だけだ」
「ダメです。あと三十秒……、いや、一分です――」
 唇を塞がれた次の瞬間には、 堤の舌が口腔に侵入してくる。このとき、本気で堤の肩を押し返そうとしたが、それ以上の力で抱き締められると藍田は何もでき ない。
 口腔を熱い舌でまさぐられているうちに、体から力が抜けていく。気がついたときには、肩を押し退けようとしてい た手を下ろしていた。
 舌先が触れ合ったのをきっかけに、ためらいながらも藍田は堤に応じる。
 緩やかに絡 めた舌を、柔らかく互いに吸い合っているうちに、とっくに一分は過ぎているはずだが、時間の区切りはあまり意味がなくなって いた。藍田の中で、時間の感覚が麻痺していたからだ。
「……やっと、目を開けてくれましたね」
 藍田がゆっくりと目 を開くと、唇を啄ばみながら堤に言われる。藍田 はもう、目を閉じることはできなかった。
「もう、一分は過ぎたぞ……」
「離したくないです」
「困る」
「大橋 さんにもそう言いましたか?」
 唇の端にキスされ、思わず藍田はわずかに顔を動かす。まるで自分から求めたような形にな ったが、堤の唇がしっかり重なってきて、少しの間、言葉もなく夢中で互いの唇を吸い合っていた。
「――……あの人は強引 で、勝手だ。だけどそれが、大橋龍平なんだ」
 ようやく唇が離されると、藍田は軽く息を喘がせながら答える。
「よく わからない男だ。飄々として優しいかと思えば、わたしに対しては、傲慢な言動を取ることもある。それが嫌味にならないのは、 あの男の魅力だな。能天気そうに笑っていると、女性が放っておかないのもわかる気がする。だからこそ、そんな男がなんでわた しにかまうのか、正直よくわからない」
 自分は何を言っているのかと思ったが、藍田の口は止まらないし、堤もまた、相槌 すら打たずに聞き入っている。
 漠然とだがこの瞬間、自分たちは部下と上司を超えて、堤と――堤だけとの特別な関係を築 いているのだと実感する。大橋のことを話しながら、この関係には大橋は存在しない。あくまで、藍田と堤との関係だ。
「ただ、 あのときは、大橋さんとああするのは、自然な流れだと思った。自分でもおかしいと思うぐらい、抵抗がなかった」
 何かに 誘われたように堤が顔を間近に寄せて、話す合間に唇を啄ばみ合う。その行為に促されるように、言う気がなかったことまで、藍 田は言葉にする。
「少し前まであの人は、わたしと何かあるたびに、わからないから聞くなと言っていた。自分でもわからな いからと。だけど、先週の会議のあとは違った。聞きたいか、と言ったんだ。自分がどうしてこんなことをするのか、聞きたいか、と」
 ここで堤に強く唇を吸い上げられ、藍田は喉の奥から微かに声を洩らす。
 この瞬間、唇を通して、堤の気持ちの揺れを感 じた気がした。
「――さっき藍田さんが言ったことですけど、俺はとっくに気づいていましたよ。大橋さんの本質は、エゴ イストだってこと」
「ならきっと、お前はわたしより、人を見る目があるんだな」
 藍田が苦い笑みを洩らすと同時に、 こちらに向かってくる車のライトを視界の隅に捉える。それを機に、ようやく堤がゆっくりと体を離したが、藍 田の片手だけはしっかり握ったままだった。
「この手を離したら、藍田さんはいつもの藍田さんに戻るんですよね」
 そ う洩らした堤の声は、いつにない翳りのようなものを帯びていた。藍田はそれに気づかなかったふりをして、堤の手から、自分の 手を抜き取った。
「もう、戻っている……」
 藍田は手の甲で自分の唇を拭うと、堤の顔に手を伸ばし、指先で強く唇を 擦ってやる。最初はされるがままになっていた堤だが、薄い笑みを浮かべて藍田の手首を掴むと、手のひらに唇を押し当ててきた。
「最近、藍田さんの本当の怖さは、こういうところじゃないかと思うんです」
「こういうところ?」
「……自覚がな いなら、言いません。多分、大橋さんも俺と同じことを感じていると思いますよ。なんなら、大橋さんに聞いてみますか?」
 それが皮肉だとわかり、藍田は鋭い視線を向ける。堤は何事もなかったようにパッと手首を解放して、足元に置いてあったアタ ッシェケースを取り上げた。
「俺はここから、歩いて帰ります。少し、酔いを覚ましたいですし」
「そうか……」
「今日はありがとうございました」
 複雑な気持ちで堤の礼の言葉を聞いた藍田は、何も言えなかった。
 歩いていく堤 の後ろ姿をサイドミラーで見つめながら、キスの余韻でまだ熱をもったままの自分の唇を指先で撫でる。
 先週、大橋の唇が 重ねられた部分に、今日は堤の唇が重ねられたという事実に、まだ現実味が伴っていなかった。だからこそ、頭のある部分ではひ どく冷静だった。
 大橋と堤と同じ行為に耽りながら、決定的に違うものがあったことに気づくぐらいに。
 藍田は最後 まで、堤の背に両腕を回さなかった。そこにどんな意味があるのかは自分でもわからないが、この違いに意味を見出そうとする 藍田を、堤は〈怖さ〉と表現したのかもしれない。
 自分は得体の知れないものに変わろうとしているのだろうかと考えた藍 田は、そっと身を震わせる。いつの間にか、サイドミラーから堤の姿は消えていた。










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