サプライズ

[9]

 昨夜食べた肉が、まだ胃に残っているようだった。
「なんに対しても、加減を知らないのか、あの男は……」
 小さく 毒づいた藍田は、胃の辺りをそっと撫でる。今朝は、コーヒーの香りを嗅ぐのも嫌だったぐらいで、やむなく朝食は抜きだ。
 もう食べられないと言っている側から、大橋は焼けた肉をどんどん藍田の器に放り込んできて、残すわけにもいかないため渋々 食べていたのだが、そこにまた、大橋が嬉しそうに肉を放り込んできて――というのを、昨夜は繰り返していた。
 ただ、胃 よりも重症なのは、胸のほうかもしれない。
 藍田はデスクに肘をつくと、さりげなく口元をてのひらで覆う。唇にまだ、昨 夜さんざん味わった大橋とのキスの感触が残っていた。
 会議室での最初のキスは、気の迷いだとか、高揚した気分のせいで 歯止めが利かなかったとか、なんとか言い訳ができたかもしれない。だが、二度目ともなると、もう言い訳はできない。
 何 かを予期しながらも、自らの意思で大橋の自宅に行き、逃げられたはずなのに、大橋の腕の中から逃げないまま、長いキスを交わ したのだ。
 一度目のキスより強く感じたのは、同性同士の肉体的接触は――というより、大橋とのキスには、快感が伴って いるということだ。多分、藍田には馴染んでいる。それは肉体的なものだけでなく、精神的にも。
 藍田の刺々しさも苛立ち も、焦りも不安も、大橋はスポンジのように吸い取ってくれ、代わって温かな感情を注いでくれる。それが、不安になるほど心地 いい。
 これらのことを認められるぐらいに、昨夜のキスと、大橋と過ごした時間は強烈だったのだ。
 だからまた、藍 田の気持ちは揺れる。ただ確実に言えることは、藍田は大橋から、今日踏ん張るだけの活力を与えられたということだ。
 今 日を乗り越えられれば、明日もきっと大丈夫だろう。そしてその状態が、また翌日も続けば――。
「……あれだけ肉を食べさ せられたら、嫌でも精力的になるか……」
 小さく洩らした藍田の口元は、知らず知らずのうちに綻ぶ。視線をちらりと向か いのオフィスにやると、慌ただしい男の姿はデスクにはない。
 ここで藍田は、やっと腕時計を見る。さきほどからやけにオ フィス内が静かだと思ったら、いつの間にか昼休みに入っていた。
 藍田はふっと息を吐き出すと、パソコンの電源を落とす。
 胃は重いままだが、朝から何も食べておらず、昼まで抜くわけにはいかない。こう考えるようになったのは、悔しいが、大 橋にしつこく言われ続けた成果だろう。
 悩むにしても、耐えるにしても、体力は必要だ。
 立ち上がった藍田は、残っ ている部下に昼食を食べに行くことを告げて、社員食堂へと向かう。
 サンドイッチセットと牛乳をトレーにのせて席を探し ていた藍田の目に、今まさに弁当を開けようとしている瀬口の姿が飛び込んでくる。瀬口のほうも藍田に気づき、クマのぬいぐる みを彷彿とさせる愛嬌のある笑顔とともに片手を上げた。
「相席していいか?」
 テーブルに歩み寄って尋ねると、瀬口 は大仰な動作で向かいのイスを手で示した。
「どうぞ、座ってください」
 言われるまま腰掛けた藍田は、紙ナプキンを 取り上げながら、瀬口の弁当から目が離せなかった。目にも鮮やかなのも頷けるほど、おかずが豊富で手が込んでいる。美味しそ うであると同時に、非常に可愛い弁当だ。作り手の愛情が、見ている側にも伝わってくる。
 部下のプライベートに立ち入ら ない主義の藍田は、誰が作ったのか、という質問はぐっと堪えたが、当の瀬口が居たたまれなくなったのか、照れたように笑いか けてきた。
「――俺は、そんなに張り切らなくていいって言ったんですけどね。誰かに見られて、恥ずかしい思いをしないよ うに、なんて言われると、男としてはもう口出しできませんよ」
「ということは、恋人が作ってくれたのか」
「つい一か 月前に、婚約者になったんですけどね」
 へえ、と声を洩らした藍田は、意識しないまま柔らかな表情となっていた。
「それは、おめでとう。もっとも、うちの本社移転や統廃合の件で、慌ただしいことになりそうだな。結婚式の準備がなかなか進 まないんじゃないか」
「副室長には、俺たちの結婚披露宴でスピーチをしていただこうと、今から計画しているんですよ」
 そんなことをにこにこと笑いながら言われると、冗談なのか本気なのか、判断するのは難しい。藍田は曖昧な返事をするし かなかった。
「こういうことを考えながら仕事をしていると、励みになりますよ。結婚式なんて、新婦のためだけのものかと 思っていたんですけど、まだなんにも決めてないのに、どんなドレスを着ようかとか、新婚旅行はどこにしようかとか、そういう ことを楽しそうに話している彼女を見ていると――」
「顔が緩みっぱなしになるか?」
 珍しく、藍田から揶揄するよう な言葉をかけると、瀬口は臆面もなく、嬉しそうな顔で頷いた。
 昨夜の大橋の焼肉に続いて、瀬口の惚気話で今度は胸焼け がしそうだ。ただ、部下とこんな形で個人的な会話を交わすことは滅多になかったのだが、気分は悪くない。むしろ、瀬口の幸せ をお裾分けしてもらったようで、こちらまで温かな気持ちになる。
 他愛ないことを話しつつ、量も少ないこともあって先に 食べ終えた藍田は、瀬口に一声かけて席を立つ。
 社員食堂を出たところで、ちょうど入れ違いにやってきた堤と出くわした。
 一瞬、どんな反応をすべきかと逡巡した藍田とは対照的に、堤のほうは何事もないように、いつもの調子で話しかけてくる。
「――残念、入れ違いになりましたね」
「打ち合わせが長引いたみたいだな」
「藍田さんを昼メシに誘おうかと思っ たんですが、オフィスに戻ったら、社食に行ったと教えられて、慌てて追ってきたんですけど」
「お前がいなくても、なかな か楽しいランチだったぞ」
 藍田はおもしろ味の欠片もない口調で言いながら、肩越しに社員食堂のホールを振り返る。視線 の先には、婚約者の手作り弁当を食べる瀬口の姿があった。
「……最近、瀬口さんと仲いいですね」
 堤の言葉には、わ ずかな棘を潜ませたような響きがあった。だが藍田は、あえて気づかないふりをする。堤にしても、藍田が反応するとは考えてい ないはずだ。こうなると、腹の探り合いの領域だ。
「長期構想を見込む仕事なら、お前以外の部下をあてにしないといけない からな。その点瀬口は、頼りになる。……別に、お前が頼りにならないと言っているわけじゃないぞ」
 藍田のフォローに、 堤は軽く肩をすくめる。
「わかってますよ。俺は、春には会社を辞めると言っている人間だ。どんな仕事も任せてくださいと は言えない」
 でも、と言葉が続けられ、堤が藍田の顔を覗き込む動作をした。
「部下とランチを一緒にしただけにして は、機嫌がよさそうですね。今日の藍田さんが食べたメニュー、美味かったんですか?」
 また探りを入れられたと思いなが ら、藍田は半分本音を誤魔化すため、残り半分では事実を語った。
「――瀬口の惚気話に当てられたんだ」
 堤が一瞬、 呆気に取られたような顔をする。
 掴み所のない部下にこんな顔をさせられたということで、藍田は非常に満足した。薄い笑 みを浮かべると、堤の肩を軽く叩いて立ち去った。




 福利厚生センターから派遣されてきたと言われても、大橋は最初、まったくピンとこなかった。万年筆を握ったまま、デスクの 前に立つ男を胡散臭く感じながら見上げる。
「……すまん。話が見えん」
「総務部からの報告と、うちの――福利厚生セ ンターのセンター長から、連絡が行っていると思うのですが」
 徹夜仕事の弊害で、大橋の思考は少々緩慢になっていた。そ こまで説明されてようやく、鹿島という男が、今自分の目の前に立つに至った状況を理解した。
「あー、そうか。そうだった な、うん、思い出した」
 イスに座り直した大橋は、間をもたせるように意味のない相槌を繰り返しながら、デスクの上の書 類ボックスを漁る。総務部から書類が回ってきたのだが、目を通そうとしたところで電話がかかり、そのまま急いで席を立ってし まった。そこからバタバタして、迂闊にも書類に目を通すのを忘れていた。
 その何日か前に、福利厚生センターのセンター 長から、電話もかかってきていた。総務部から回ってきた書類は、電話の内容に付随したものだった。
「こちらの予想以上に、 動きが早かったな……」
 大橋が独り言を洩らすと、自分にかけられた言葉だと思ったのか、鹿島が応じた。
「東和電器 の一大事ですから、普段はのんびりしているうちのセンター長も、がんばったようです。手回し、根回しともに」
 未処理の 書類を入れるボックスの底から、目的の書類を引っ張り出した大橋は、素早く目を通してから、再び鹿島を見上げた。
 年齢 は三十代前半で、よく日焼けした肌と茶色の髪、スーツの上からでもわかる鍛えられた体躯。顔立ちは、少々甘ったるい雰囲気を 漂わせたハンサムだ。これだけのものを維持するために努力しているのだろうなと、同性である大橋は、僻み抜きでそう思う。
 自分の外見に手間と金をかける人種を軽蔑したりはしないが、ただどうしても、妙に人工的なものを感じてしまい、それが 不自然なものとして大橋の目には映る。
 鹿島の場合、他人に簡単に好印象を与えそうだが、それが過ぎて、快活そうという より、軽薄そうという印象のほうがやや上回っていた。
 素直には認めがたいが、外見だけなら、向かいのオフィスで働いて いる堤のほうが遥かに『一級品』だ。
 大橋はにこやかな表情を浮かべつつ、素早く鹿島を値踏みする。
「ついこの間、 うちの社の社員たちの引っ越しの件で、そちらに協力を仰いだんだが、センター長からは、もう具体的な指示が?」
「どれだ けの社員が東京に戻ることになるか、まだ数の把握が難しいのですが、ある程度の物件を押さえるよう、すでに動き始めています。 最悪でも、社員をビジネスホテルに押し込めるような事態にはならないと思います」
「まあ、それは期待したいところだ」
「そのためにも、大橋部長補佐の指示をしっかり仰げと言われています」
「俺に肩書きはいい。肩書きを呼ばれる時間が 惜しいからな」
 緩慢だった思考になんとかエンジンがかかり、イスに座り直した大橋は淡々と応じる。
 思い出すのは、 先日の東京支社への出張したときのことだった。宿泊したホテルで藍田を抱き締めた――ことは今は忘れて、東京支社内にある福 利厚生センターで、そこのセンター長に依頼したのは、本社移転プロジェクトのメンバーだけでは手に負えない、大阪から東京へ と引っ越すことになる社員の住居に関してだ。
 今ある社宅だけでは間に合わないのは目に見えており、会社としては、借り 上げることになる物件をなるべく早いうちに仮押さえなりして確保しなければならない。距離的な問題もあり、社員個人に新しい 住居を見つけろと簡単にも言えないのだ。
 そこで、ある意味プロともいえる福利厚生センターの手を借りることにしたとい うわけだ。業務委託ということにしてしまえば、ある程度費用も浮くだろという考えもある。
「……しかし、新しい社員を派 遣してくるとは思っていなかった」
 大橋は感じたことを率直に告げる。
 東京支社内の福利厚生センターと、プロジェ クト内にすでにいる福利厚生センターからの出向者で連絡を取り合い、窓口となって、大橋に何かしらの報告や指示を仰ぐ形にな ると思っていたのだ。
 業務委託の形式について要望は告げていなかったので、こういう形が最適なのだと相手に言われれば、 大橋としては頷くしかない。とにかく今は、どの事案も大橋の手に余りすぎていて、細かいところにこだわっていられない。
「滅多にない仕事なので、現場に行って使われてこいと言われています。ですから、なんでも申し付けてください。今はわたし一 人ですが、そのうち手伝いの人員も増やせると思いますし」
 鹿島の言葉に、そうか、と口中で応じながら、大橋はイスの背 もたれに体を預ける。ソツのない笑顔を浮かべている鹿島の顔を、漫然と眺めていた。
 なんとなく、一癖ありそうな男だと 感じた。あっという間に手回しがあり、本社に派遣されてきた男だ。よほど仕事のできる切れ者で、使い勝手がいいのか――。
 滅多にない大掛かりな社内プロジェクトなので、社員に経験を積ませるには最適の場だと考えても無理はない。大橋として も、有能な人間の手ならいくらでも借りたいところだ。ただし、〈無害な人間〉の手を、という前提で。
 一応、本社移転プ ロジェクトのメンバーに、福利厚生センターからの出向者も加えてはいるが、重要な情報に関しては、大橋と藍田の間のみで共有 するか、大橋個人が管理している。そのため、欲しい情報に誰でも触れられるわけではない。妙な下心を持った人間が、知りたい 情報に安易に入手できる環境ではないのだ。
 初対面の相手を無条件に信用できるほど、大橋はお人好しではない。
「ま あ、今のところは、俺からこうしてくれという指示は特にないから、センターの仕事優先で動いてもらって問題ない。何か連絡が あるときは――」
「わたしのデスクは、総務部内の総務センターに置かせていただきました。ご用のときは、そちらに連絡を ください。すぐに駆けつけます」
「……本当に、準備がいいな」
 含むところのない素直な感想を洩らした大橋は、用件 はわかったと軽く片手を上げる。鹿島はスマートな動作で頭を下げ、デスクの前から退こうとしたが、ふと思い出したように動きを 止めた。
「――ああ、それと、『大橋さん』」
「なんだ」
「わたしは、藍田副室長にも挨拶をしておいたほうがいい でしょうか」
 ここでなぜ、藍田の名が出る。不意打ちを食らった大橋の脳裏に、つい二日前、自宅で藍田とキスした光景が 鮮やかに蘇り、思いきり動揺してしまう。
「あっ、ああ、藍田、か……」
 条件反射で向かいのオフィスに視線を向ける。 ブラインドは上がっているが、デスクに藍田の姿はない。
「……まあ、わざわざあいつのところに出向くことはないと思うが。 そもそも――」
 藍田のデスクからなんとか視線を引き離し、鹿島に戻す。意識しないまま、大橋は厳しい眼差しとなってい た。
「合同プロジェクトになったとはいえ、あいつは事業部の統廃合を扱っていて、君が手がける仕事とは、そう接点はない だろう」
「それもそうですね。でしたら、顔を合わせることがあれば、そのとき自己紹介させてもらいます」
「ああ……。 と、あいつに対しても、肩書きはいらないと思うぞ」
 鹿島は笑って頷き、その場を立ち去る。
 遠ざかる背を見つめな がら、大橋はゆっくりと目を細めていた。ここで、鹿島が本社に派遣されてきたもう一つの可能性を思いついたのだ。
 使い 勝手が悪いから、あえてこの時期、東京支社から引き離されたという可能性だ。つまり、今の東京支社にとって鹿島の存在が邪魔 で、厄介払いされたということもありうる。
 例えば――と考えようとした大橋だが、具体的な例が即座に思い浮かばない。 東京支社で鹿島が嫌われている、というのはわかりやすくはあるが、単純すぎる。嫌われ、避けられるなら、それ相応の理由があ るのだ。
「なんとなくムシが好かないという理由だけで、あれこれ深読みしすぎってことか」
 呟いた大橋は苦笑しつつ、 さきほど簡単に流し読みしただけの書類を再び手にしたが、結局、またデスクの上に置いていた。
 無意識に向かいのオフィ スにまた目をやる。鹿島が、藍田の話題を持ち出したのが気になった。
 考えすぎて、身動きが取れなくなるのは本意ではな い。ただ、藍田のことになると、話は別だ。藍田は神経質な性質である反面、人間関係に対しては無頓着すぎる。その分、大橋が 警戒して損するということはないはずだ。
 俺は藍田を甘やかしたいのだろうかと、苦笑交じりに思いながら、大橋は受話器 を取り上げる。こういうとき、東京支社にいる知人に鹿島のことを調べてくれるよう頼む前に、ひとまず報告をしておく人物がい た。
 最近、すっかり指が覚えた番号を押し、電話を回してもらう。運がいいことに、目的の相手は在室していた。
「突 然申し訳ありません。ちょっと相談したいことがありまして。――宮園さん」
 無意識のうちに声を潜め、大橋は用件を切り 出した。




 執務室から回ってきたリーダー研修の参加者名簿を見た藍田は、部下たちの目をはばかることなく、盛大なため息をついた。
 参加者の全員を知っているわけではないが、全国の支社を点々としてきた藍田は、かなりの数の参加者の、顔と名を一致さ せるだけではなく、大まかな経歴や人柄を把握している。
 研修に喜んで出かける人間は多くはないだろうが、名簿に一通り 目を通した藍田としては、今からでも遅くないので断りたい心境だった。
 それでなくても若くして副室長となった藍田は、 リーダー研修に参加すると、一方的な圧力をかけられる立場となる。今回はそのうえ、事業部統廃合という重大なプロジェクトを 任され、殺気立っている役職付きの人間は多い。そんな人間たちと、二泊三日もともに過ごさなくてはならないのだ。
 想像 するだけで憂鬱さが増し、藍田はもう一度ため息をつく。
 今からもう胃が痛くなりそうだと、忌々しいものを見たくないと ばかりに名簿を閉じようとしたとき、声をかけられた。
「副室長、データの確認をお願いしたいのですが、よろしいですか?」
「……ああ」
 差し出されたファイルを受け取り、さっそく目を通し始めた藍田のデスクの上を、女性社員が覗き込む仕 草をする。
「何を読まれていたんですか?」
 気軽な口調での問いかけにつられて、つい藍田は正直に答えていた。
「来週からのリーダー研修の参加者名簿だ」
「ああ、室長の代理で参加されることになったんですよね。……災難ですね、こ の忙しい時期に」
 肯定の返事の代わりに、苦い表情で返した藍田は、データの内容を確認しつつ、なんとなく女性社員と会 話を交わしていた。
「わたしとしても、できることなら今回は参加は見合わせたかったが、室長も参加できないそうだから、 そういうわけにもいかなくなった」
「面倒なことは副室長に押し付ければいいと思っているんですよ」
 率直に言われ、 藍田としては咄嗟に返す言葉がない。
「……そういう、ものだろうか……」
「副室長のほうが確実に、迅速に、的確に案 件を処理しますものね。部下としても、副室長の指示の下で動くほうが、安心できます」
「世辞だとしても、人前でそういう ことは言わないように。誰が聞いていて、不穏当な発言だとして判断するかもわからないからな」
 藍田が困っているとわか ったのか、わかりました、と返事をした次の瞬間には、女性社員はクスクスと笑い声を洩らしていた。
「わたしが今言ったの は本心からですけど、少し前までの副室長に対しては、例えお世辞だとしても、こんなことは言えませんでしたよ」
「そうだ な。わたしはいままで、部下から世辞など言われた記憶はない」
 ちらりと堤のデスクに視線を向けたのは、堤にはさんざん あれこれ言われてきたからだ。ただ、あの男の言葉は世辞とは種類の違うものだという認識はあった。当の堤は、今は席を外して いる。
「――今の副室長は、気安い雰囲気になったというのは言葉が悪いですけど、なんだか、話しかけやすくなりました。 前から、きちんと話を聞いてくれる上司ではあったんですけど、今なら、冗談も言えそうな……」
「なら、わたしが笑えるよ うな冗談を用意しておいてくれ」
 そう言って、藍田は自然な笑みを浮かべる。驚いたように女性社員は目を丸くしたあと、 急にはにかんだような表情を見せた。
「あのっ……、データの確認は、午前中いっぱいでお願いします」
 女性社員が慌 てた様子で自分のデスクに戻り、藍田は、女性社員のそんな姿と、自分が持っているデータを交互に見る。
 女性の扱いは、 何歳になっても難しいと、つくづく思わずにはいられない。それとも、藍田があまりに進歩しないだけかもしれない。
 なん にしても、他愛ない会話で気が紛れ、リーダー研修の参加者名簿を眺めて自ら胃痛を引き起こすような不毛なことはしなくて済ん だ。それでなくても今は、他に厄介な問題を抱えているのだ。あまり自分の中で抱え込んでしまうと、さすがの藍田もパンクして しまう。
 こんなふうに思えるようになったのは、藍田にとっては大きな変化だった。少し前までなら、自分の体も気持ちも 気遣うのは、二の次だった。
 大橋のガサツさが伝染したのだろうか――。
 データを手にしたまま向かいのオフィスを 見る。大橋はデスクにいなかったが、視線を意識せずに済むので、今はありがたい。
 どんなにきつい一瞥をくれても、少し 経つと、そんなことは忘れたようにこちらを向けられる視線は、最初は忌々しくあったのだが、今はどうなのだろうか。
 藍 田は、自分の中ですでに答えが出ている自問に、そっと柔らかな苦笑を浮かべた。










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