[16]
明日には研修先から帰ってくる相手の声を、どうしてこうも聞きたがっているのかと、正直大橋は、自分の必死さが不思議で仕
方ない。
それでも、どうしても藍田の声が聞きたくてたまらなかった。この際、昼間のように冷たい声で、『バカ』と一言
いわれるだけでもかまわない。大事なのは、大橋のメールに対して、藍田がなんらかの反応を返してくれるかということだ。
仕事から戻った大橋は、部屋のソファにぐったりと腰掛け、片手にはメールを送信したばかりの携帯電話を握り締めて、ビール
を呷っていた。
会社ではバタバタと仕事に追われていたが、こうして家で一人になって落ち着いてみると、急速に気持ちが
鬱屈していく。正確には、部屋に帰るまで、あえて自覚しないようにしていたのだ。
日々の仕事が忙しいのはいまさらだが、
合同プロジェクトになったばかりの藍田・大橋のパートナーは、上司の代理で二泊三日の研修に行かされ、当の大橋は、鹿島とい
う存在が小さな棘のように気になりつつも、思うような情報が手に入らないため、どんな判断も下せない。
そんな状況で昨
日は堤に挑発され、休日出勤の今日は、藍田から鹿島の件でメールがあり、気になって電話をしてみれば一喝され、挙げ句、大橋
の中で要注意人物となっているその鹿島にコーヒーを奢られた。
整理してみれば、これだけのことだ。だから、藍田の声を
一言でも聞いてしまえば、こんな鬱屈など淡く溶けてしまうはずだ。
「――……いや、あいつはかけてこないな」
半ば
自分に言い聞かせるように呟くと、大橋は携帯電話をテーブルに置く。夕食はいつものとおり外で食べて帰ってきたが、なんだか
口寂しくて、ツマミを持ってこようと立ち上がろうとする。
次の瞬間、大橋は動きを止めた。置いたばかりの携帯電話が鳴
ったからだ。飛びつく勢いで携帯電話を取り上げ、表示された名を確認してから電話に出た。
「藍田っ?」
怒鳴るよう
に呼びかけた大橋は、声が大きすぎたことに気づき、咳払いをしてからもう一度呼びかけた。
「――藍田」
藍田が電話
の向こうで息を潜めている気配はする。なのに返事はない。大橋は乱暴に息を吐き出すと、ソファに座り直す。
「さすがにも
う、今日の研修は終わりだろ? 今はどこにいるんだ。部屋か? 二人部屋だよな。だったら、外からかけているのか……。ああ、
そこの大浴場には入ってみたか? 改修して豪華になったって聞いたから、どう変わったか気になってたんだ」
ここまで一
気に話してから、大橋は藍田の反応を待つ。藍田が黙り込んでいるのは、もしかして大橋をからかっているからだろうかと一瞬考
えたが、むしろ、藍田がそんな茶目っ気を発揮してくれるなら、歓迎すべきだろう。
藍田の声が聞きたくて、大橋はメール
で電話をかけてくるよう促した。そして藍田は、こうして電話をかけてくれた。理由は当然あるはずだ。
大橋はガシガシと
頭を掻いてから、率直に気持ちを告げた。
「……頼む、藍田、声を聞かせてくれ。……電話をかけてきたのに何も言ってくれ
ないのは、俺にとっては蛇の生殺しだぞ。俺は、お前の声が聞きたいんだよ」
『昼間……、昼間、話しただろう』
「バカ、
と怒鳴ってくれたな」
『根に持ってるのか。意外に狭量だな、大橋部長補佐』
「うっせーよ」
そう言ってから大橋
は口元に笑みを浮かべる。やっと藍田と、電話で会話らしいものが交わせた。
おかげで、寸前まであった鬱屈した気持ちが
あっという間に溶けてしまった。代わって大橋の胸を満たすのは、とにかく熱い気持ちだった。
初めてつき合った相手と、
深夜に親に隠れてこそこそと電話をしていたことを思い出し、照れ臭くなってくる。
『それで、何か用があったんじゃないの
か。あんなメールを送ってきて』
「メールなら、お前も送ってきただろ」
数秒ほど沈黙した藍田が、ああ、と声を洩ら
す。吐息のようなその響きに、大橋はドキリとしてしまう。藍田の息遣いを耳元で感じたような錯覚を覚えていた。
落ち着
きなくまたソファに座り直した大橋は、あぐらをかきながらビールを一口飲む。
「――藍田、お前今、どこにいるんだ?」
『ラウンジの隅だ。ここなら、落ち着いて話せると思った。実際、ほとんど電気も消えて、人も通らない』
「好都合だ」
呟いた大橋は、ここで口調をまじめなものに変え、そうする必要もないのだがいくぶん声を潜めた。
「お前なんで、鹿
島のことをメールしてきたんだ。そもそも、どこで鹿島のことを知った。俺はお前に言おう思っていて、うっかり忘れてたんだ」
『ということは、本当に本社に派遣されているんだな……』
藍田は、リーダー研修で知り合った東京支社の岡本という
人物の口から、鹿島のことを教えられたと言った。
『運営企画室の室長で、福利厚生センターとも仕事をすることがあるそう
だ。鹿島という社員の上司と飲み友達で、それで内部の情報にも多少通じていると言っていた』
思わぬところに情報は転が
っているものだと、大橋は素直に感嘆する。こちらは本社にいて、なんとか鹿島の情報を掴もうとしていたが、まったくと言って
いいほど当たりがなく、なんの事情も知らないまま研修に参加している藍田が、情報を得たのだ。
「研修先からわざわざ俺に
メールをしてくるぐらいだ。何か気になることがあったか?」
『……何かあるというほどじゃないんだ。ただ、その岡本さん
が気にしてたんだ。どうして彼が派遣されたのか、と。なんだか、アクが強くてエキセントリックな社員らしいが……』
「見
た目は、そうでもないぞ。女にモテそうな男だ。弁が立つというか、如才ないというか。人当たりもいい。ただ、なあ――……」
『どこかの誰かに似ている気がするな。あんたの印象を聞いていると』
どこの誰だと尋ねてみたが、藍田は答えてくれ
ない。
「もったいぶるなよ、気になるだろ」
『あんたはもっと自惚れているかと思ったが、意外だな。すぐに自分の名前
が出てこないなんて』
藍田の言葉を頭の中で反芻してから、やっと大橋は理解した。ついムキになって反論してしまう。
「おい、俺はいつも冗談で言ってるんだぞ。誰が、自分はイイ男なんて自惚れるか」
『いいじゃないか。女性社員からの
ウケも抜群だし、弁舌爽やかで仕事ができるのも事実だろう』
「お前は俺を、そんなふうに見てるのか――って、何を話して
るんだ。今は、鹿島のことを話してるんじゃないのか」
藍田が短く笑った気配がした。
『ひょっとして、照れているの
か?』
「……俺は、お前に負けず劣らずシャイなんだよ」
このとき藍田がどんな顔をしたのか見てみたかった気がする。
藍田からなんの反応もなかったからだ。こういうときの藍田は、必死に動揺を押し隠そうとしているのだ。
いかにもやっと、
といった様子で藍田が言った。
『こういうことを話したかったんじゃないんだ……。ただ、鹿島という社員の話を聞きたくて
……』
「聞きたいのは俺のほうだ。俺も一応、情報収集をしようとしているところだったんだ。お前は他に、何か聞いたか?」
『本社の総務が鹿島を指名してきたらしい、ということぐらいだ。どうやら本社と独自のパイプを持っているようだ。だから
誰かが、総務になんらかの助言をしたか何かで、鹿島を本社に寄越させた可能性もある。――まあ、どれもこれも推測だ』
藍田の話を聞いて、大橋は一声低く唸る。警戒しすぎて、単なる一般社員をとてつもない存在のように捉えているのかもしれない
という危惧はある。グループ内での社員の交流は頻繁で、ある日、見たこともない社員が研修と称して配属されることもあるぐら
いだ。
大橋もプロジェクトの件がなければ、ここまで気にも留めなかった。
『……大橋さん?』
「いや、聞いてる。
ただ、俺は何をここまで心配しているのか、わからなくなったんだ。単に初対面の印象が気になったというのが、そもそもの発端
で……。我ながら、考えすぎなんじゃないと思えきた」
『他人をここまで気にさせておいて、その発言か』
「えっ、あ
ー……」
悪い、と一言謝った大橋に対して、藍田がふっと息を吐き出した気配がする。また耳元に藍田の息遣いを感じ、大
橋はドキリとするどころか、ゾクリと甘い疼きを覚えた。
『わたしはけっこう、あんたの動物的勘は買っているんだが』
こう言ったときの藍田は、大橋がツンドラと呼んでいたときの男そのままだ。痺れるほど冷たくて、怜悧だ。仕事での完璧さを
求めるビジネスマンの声とも言える。
「それはつまり、鹿島に何かあるということか」
『わからない。ただ、わたしたち
は誰よりも慎重であるべきで、そうであることが許されるはずだ。――社員の一人を警戒したところで、誰かに責められるいわれ
はない』
回りくどいなと思うが、藍田らしいともいえる。大橋としては、自分の漠然とした疑心に賛同を得たようでいくぶ
ん心が軽くなる。むやみやたらと他人を疑うことに、罪悪感を覚えないはずがないのだ。
「なら、鹿島の情報は集め続けるか。
お前のほうも、岡本さんという人に頼んでおけよ」
『言われなくても』
鹿島の話題はひとまずここでケリがつく。数十
秒ほど、電話を通して沈黙が行き来した。電話の目的は果たせたようなものなので、ここで切ってもいいはずなのだが、もっと藍
田と繋がっていたかった。
「藍田、あの――」
大橋が無理にでも会話のきっかけを捻り出そうとしたとき、ふいに藍田
が言った。
『こっちは紅葉がきれいだ。ここに来るまで、今は、山がこんなふうに色づく季節なんだということを忘れていた。
オフィスにこもっていると、紅葉なんてテレビの天気予報で見るものだからな』
藍田から出た意外な話題に戸惑った大橋だ
が、すぐに唇に笑みを浮かべる。
「明日、携帯で写真撮って、こっちに送れよ。藍田副室長が感動した紅葉を、俺も観たい」
『……なぜ、わたしがそんなこと……』
「それとも、研修から戻ってきてから、俺と紅葉狩りに行くか? こっちの見ご
ろは今からだぞ」
『明日の朝、すぐに送ってやる』
「お前……、そんなに俺と出かけるのが嫌か」
そう言いながら
も、あまりに藍田らしい返答に、大橋は声を洩らして笑ってしまう。すると、呆れたように藍田が洩らした。
『大橋さん、酔
ってるんじゃないか。夜中だというのに、やけに機嫌がいいように感じる』
「機嫌は……、確かににいいかもな。お前がこう
して電話をくれたんだから」
『な、に、言って――……』
藍田が動揺した気配に、ますます大橋は気をよくする。どん
なに冷たく怜悧に見せていても、藍田から人間らしい温かみを感じるのは、実はこんなに簡単だ。
ビールを一口飲んでから、
大橋はソファに転がる。仕事を終えてビールでほろ酔いになりながら、耳元で藍田の声を聞いていると、とてつもない充足感を覚
える。このまま眠ってしまいそうなほど、心地よくもあった。
互いの息遣いを探るような沈黙のあと、静かに囁くように藍
田が問いかけてきた。
『……もしかして、寝ているのか?』
「起きてる。起きて、お前の声を聞いてる」
『酔っ払い。
今にも寝そうな気の抜けた声をしているぞ』
そう言う藍田の声は、とても柔らかい。こんな声を聞かされると、大橋は自分
の抱えた欲望を率直に言葉にせずにはいられない。つまり、調子に乗った。
「藍田」
『なんだ。もう用がないなら切
る――』
「研修から戻ってきたら、お前にキスしていいか」
『……あっ、バ、バカかっ、あんたはっ』
予想通りの
藍田の反応に、大橋は微笑ましさすら覚える。少し前までの藍田なら、問答無用で電話を叩き切っているはずだが、それすらでき
ないほど、動揺しているのだ。
自分の言葉がしっかり藍田の心に届いている証だと解釈するのは、あまりに前向きすぎるだ
ろうか思いながら、大橋はそっと笑みを浮かべる。
「バカでもなんでもいい。キスしたい」
『三十半ばの男が、言うよう
なことかっ。頭がおかしくなったんじゃないかっ……』
「本当は今すぐしたいぐらいだ」
『知るかっ』
ここから大
橋は笑みを消す。こうして藍田と話していて、どうしてもこの男を口説きたくて仕方なくなったのだ。触れられないのなら、せめ
て今、心の一欠片でも手に入れおきたかった。
「俺は、お前をどこか、氷でできた人間のように感じていた。冷たくて、どん
なに熱を与えても、絶対温かくなることのない人間だってな。だけど……そうじゃなかった。初めてお前にキスしたとき、それが
わかった」
『……あのときのわたしは、どうかしていた』
「どうかしていても、お前は応えてくれた。それこそ三十半ば
の、しかも男の俺を、お前は自分の中に入れてくれた」
『変な言い方を、するな……』
うろたえているのか羞恥してい
るのか、囁くような藍田の声は掠れていた。我ながら度しがたいと大橋は思うが、その声が耳に心地いい。
「一度目のキスの
言い訳なら聞き入れてやってもよかったが、二度目のキスは、どんな言い訳も聞く気はないからな」
『――……本当に、何様
だと言いたくなってくるな。わたしは夜中に、どうしてこんな腹の立つことを聞かされないといけないんだ』
「相手が俺だか
らだろ」
自惚れるなという一言が返ってきたが、相変わらず藍田の声は掠れており、そこに艶かしいような吐息も交じって
いた。
藍田をきつく抱き締めたら、こんな吐息を耳元で洩らしてくれるだろうかと想像して、大橋は狂おしいような欲望の
疼きを自覚した。上がりっぱなしの熱にのぼせて、眩暈がしそうだ。
「……また、お前とキスがしたい。もう一度、じゃない。
何度でも、お前とキスしたい。それに――」
大橋は口元に手をやる。自分が、血気盛んなガキのような発言に続いて、さら
にとんでもないことを言いそうになったからだ。
それ以上のこともしたい、と言いかけていた。藍田は、大橋が何か言いか
けてやめたことに気づいているのかいないのか、不自然に硬い口調で言った。
『人が来るみたいだ。もう、切っていいか?』
「あ、あ……っと、明日っ」
『明日?』
「よかったら、一緒にメシを食わないか。研修から戻ったその足で落ち合っ
て、今度は外でまともなものを食おうぜ。――……無理にとは言わない。疲れてるだろうしな。だからその気があるなら、いつで
もいいから電話をくれ」
少しの間を置いてから、藍田はため息交じりに答えた。
『考えておく。……約束はできないか
らな』
「さて今から、明日のおめかしの準備でも――」
『人の話を聞けっ』
やっと藍田らしい怒声を聞いて、大橋
は声を上げて笑ってしまう。電話の向こうで藍田は小言を洩らしていたが、あまりに大橋が笑い続けるため、とうとう心配そうに
こんな言葉をかけてきた。
『……一人なんだから、あまり飲みすぎるな。この間も言ったが、あんたは自分で思っているほど、
酒は強くないぞ』
「わかってる。酔ってはないんだ。ただ、ひどく気分がいいだけだ」
また気持ちが暴走する前に、大
橋は電話を切ることにする。
「おやすみ、藍田。暖かくして寝ろよ」
『――……あんたこそ、腹を冷やすなよ』
俺
はガキかと苦笑しかけた大橋は、電話を切る寸前に、確かに藍田がこう言ったのをを聞いた。
『おやすみ……』
畳んだ
携帯電話を握り締めながら、一人ニヤニヤと笑うのを大橋は抑えられなかった。
今夜は、いい夢が見られそうだった。
飛行機を降り、ゲートから手荷物受取所へと向かいながら、藍田はようやく解放感に浸っていた。まったく気の抜けない二泊三
日のリーダー研修を、なんとか無難に終えて帰ってきたのだ。疲労感はあるものの、足取りそのものは重くはない。
昼前ま
で最後の講座を受け、これでようやく研修は終了かといえばそうではなく、打ち上げと称して参加者たちとの昼食会があったのだ。
当初から研修のスケジュールはわかっていたため、夕方大阪に着くよう飛行機のチケットを予約しておいたのは正解だ。解
散となったあと、世話になった岡本と一緒に空港まで移動してから、ゆっくりとお茶を飲みながらあれこれと話すことができた。
今回のリーダー研修での最大の収穫は、岡本と知り合えたことだろう。そのおかげで、研修参加という仕事を押し付けてき
た高井に対しての怒りも、さほど感じなくなっていた。
いや、もう一つ理由はあるのだ。
藍田はジャケットのポケッ
トから携帯電話を取り出し、電源を入れる。誰からも留守電もメールもなかったことを、自分でも意外なほど残念に感じていた。
たかだか飛行機に一時間ほど乗っていただけだ。それに今日は日曜日で、部下から緊急の連絡があるわけもなく――。
自分
自身に言い訳しながらも、藍田は本当はわかっているのだ。自分が、無意識に誰からの連絡を待っていたのか。
本当は、連
絡をしなければならないのは藍田のほうだ。
大橋は、せっかく日曜日だというのに、携帯電話を傍らに置いて過ごしている
のだろうかと思い、その姿を想像して危うく笑いそうになる。
手荷物受取所で自分のバッグを取り上げた藍田は、到着口を
出ながら携帯電話の液晶を見つめる。大橋の言う通りになるのは癪だが、メールをしようかと考えていた。今日連絡しなければ、
明日何か言われるのは明白だ。
「……どんな顔して会えばいいんだ」
夜中に、電話を通して熱っぽく囁かれた言葉を思
い出し、藍田の体温はわずかに上がる。今日大橋と会えば、承諾と受け取られるのだろうかと考えると、臆してしまいそうにもな
る。
到着した乗客を待っている出迎えの人たちの合間を通り抜けようとしたとき、誰かが藍田の前に立ち塞がった。
「あっ、すみません……」
携帯電話に視線を落としたままだった藍田は反射的に顔を上げ、即座に反応できなかった。あま
りに意外な人物が目の前に立っていたからだ。
「堤――」
半ば呆然としながら呟くと、堤は返事代わりに笑った。笑い
ながら、藍田の手にある携帯電話を一度取り上げて畳み、すぐに戻してきた。
藍田は、堤と携帯電話を交互に見て、やっと
自分が今問うべきことをはっきりと認識する。
「……どうして、ここにいるんだ」
「もちろん、藍田さんを出迎えるため
ですよ」
「わたしが乗る便がわかっていたのか?」
意識しないまま鋭い視線を向けるが、気にした様子もなく堤は頷い
た。
今日の堤は、いつもと雰囲気が違って見えた。見慣れたスーツ姿ではなく、ジーンズにシャツという服装で、ラフにブ
ルゾンを羽織っているだけだ。ただそれでも、上等な外見は少しも損なわれることはない。むしろ、よく似合っていた。
会
社での斜に構えたような独特の雰囲気も、服装次第で野性味という魅力に変わるらしい。
あっという間に堤にバッグを取り
上げられ、人が多い到着口付近から離れる。
戸惑う藍田とは対照的に、堤はどこか楽しげだ。仕掛けた悪戯が成功して喜ぶ
子供のようでもあり、正直反応に困る。怒るにしても、何に対して怒っていいのかわからないのだ。
「一体どうして、出迎え
なんて……。それによく、帰りの飛行機の時間なんてわかったな」
「飛行機の予約を、うちの女の子に頼んでいたでしょ
う? あとで、何時の便に予約を入れたか彼女に聞いたんです。タネを明かすとつまらないですね。本当は藍田さんに、もっと驚
いてもらうつもりだったのに、それも上手くいかなかったし」
「……十分驚いた。驚きすぎたぐらいだ」
それで、と藍
田は堤と向き合う。ただ上司を驚かせるためだけに、堤がわざわざ空港まで足を運んだとは思えない。
「わたしに何か用か」
「用がないと、こうして会いに来たらいけませんか?」
「堤――」
こういうことはやめるよう注意しようとしたが、
その前に身を乗り出してきた堤に先に言われてしまった。
「送っていきますよ。車を回してくるんで、外に出て待っていても
らえますか」
返事も聞かずに堤が行こうとしたので、藍田は慌てて自分のバッグを奪い返す。
「けっこうだ。……タク
シーで帰る」
このとき堤がどんな顔をしたのか見るのが嫌で、足早にタクシー乗り場に向かうが、背後からついてくる足音
を聞き、すぐに歩調を緩めることになる。それでも藍田は、頑なに後ろを振り返るまいとしていたのだ。
今の藍田は、気持
ちは揺れていない。だから堤を必要としていない――と言い張るのは、薄情というより、強がりのようなものだ。堤と二人きりに
なり、会社の上司と部下という関係をほんのわずかでも踏み越えると、藍田はさまざまな言い訳を用意しなくてならなくなる。
大橋との関係の歯止めであったり、自分の気持ちを推し量るためであったり、自らの性向を試したいがためであったり。そ
うやって、堤を拒まず、利用してきた。
なら、大橋と二度目のキスを交わし、三度目のキスの求めすら受けた今の自分には、
どんな言い訳が必要なのか、藍田にはわからなかった。
タクシー待ちの列に一度は加わったが、どうしても気になり、結局、
数分後には列を抜け出す。振り返った藍田の視線の先には、堤が立っていた。どこか所在なげで、迷子になった子供のような風情
は、演技だとすれば大したものだと思う。
乱暴に息を吐き出した藍田は、大股で堤の元に歩み寄った。
「――……本当
に、わたしに用がないのか?」
「用はありません。ただ、研修から戻ってきたあなたに、誰よりも先に会いたかった」
頻繁に人が行き来しているというのに、堤はまったく気にかけていなかった。一方の藍田は表には出さないものの動揺する。咄嗟
に考えたのは、到着口を出て携帯電話を開いていた藍田がどこに連絡しようとしていたのか、堤は察しているのかもしれないとい
うことだった。
「でも――」
堤はちらりと苦笑をこぼして続ける。
「藍田さんを驚かせて、仕方ない奴だとでも言
ってもらえてから、せめて俺の車で送らせてもらえれば、もっと嬉しかったんですけどね」
「その言い方は……ずるくないか」
「俺の偽らざる本心です」
タクシー待ちの列から抜け出した時点で、藍田の負けだった。いや、空港に来ていた堤と言
葉を交わしたときにはもう――。
藍田は、握り締めたままだった携帯電話をジャケットのポケットに仕舞った。
「……夕
飯はまだだろう?」
「ええ」
「勝手なことをした罰だ。――わたしの夕飯につき合え」
こう告げた瞬間、藍田は自
分の心が上げた声を聞いた気がした。非難の声だ。
本当は、こうするべきではないとわかってはいるのだ。だが、わざわざ
日曜日に、藍田の顔を見るために空港まで来た堤を無碍にはできなかった。
ほっとしたように笑った堤に、再びバッグを取
り上げられる。
「ここで待っててください。車を回してきます」
「いい。わたしも一緒にいく。そのほうが手間がかから
ない」
一緒に駐車場に向かいながら、藍田は隣を歩く堤の気配をうかがう。
研修に出かける前、堤にてのひらにキス
されたときから、藍田は漠然と堤の気持ちの揺れを感じていた。生意気で、年齢に見合わない自信に溢れている堤の中で何が起き
ているのか、気にならないといえばウソになる。
自惚れるつもりはないが、自分に原因があるのだとしたら、藍田はやはり
放っておけないのだ。仮に原因が別にあるのだとしたら、堤に対する罪悪感めいた感情は少しは薄まるかもしれない。
自分
をしっかり保つため、半ば無意識にポケットの携帯電話を指先で探る。本当なら、もう連絡を取っているはずの大橋のことを考え
ていた。
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