[19]
商談会の打ち合わせのためホテルへと出かけていた大橋は、ホテル内にあるレストランでついでに昼食を済ませて会社に戻って
きた。
「あー、東京に出張行きたくねー……」
社用車から降りた大橋は、豪華な食事でもたれ気味の胃を気にしつつ、
盛大にぼやく。複数のメーカーが参加する商談会だが、今日の打ち合わせで開催地は東京と決まったため、必然的に大橋が出向く
ことになる。
大阪と東京の行き来は慣れている大橋だが、今は本社に気がかりなことが多すぎる。最大の気がかりである藍
田とは、研修から戻ってきたその日のうちに電話で話したが、なんとも後味の悪い切り方となってしまい、それから水曜日となっ
た今もまだ話しができないでいる。メールをしても、返信なしだ。
敦子が部屋に来たということで、妙な誤解をさせてしま
ったかもしれないが、藍田本人に確かめるのは、ひどく自惚れているような気もするのだ。
だいたい、なんと言って切り出
せばいいのか――。
アタッシェケースと、メーカーからの手土産が入っている紙袋を持って、大股で歩きながら大橋は自問
する。仕事も大事だが、こちらも非常に大事な案件だ。
一歩進んだかと思えば、停滞するのか後退するのかわからない藍田
との関係に、大橋はらしくないほど細心の注意を払っている。ガサツな男なりに必死に。
社用車専用の駐車場に、ビルの合
間を渡る冷たい風が容赦なく吹きつけてくる。ブルリと身を震わせた大橋は、会社へと急ぐ。立地の関係で、社用車の半分は会社
から少し離れた場所にある駐車場で管理しているため、車を降りてすぐ社内に、というわけにはいかないのだ。
昼食から戻
ってきた社員たちが職場に戻ろうとしている時間帯で、大橋もその人の流れに乗って歩く。午後一番に会議が入っているのだが、
十分間に合いそうだ。
腕時計から顔を上げた大橋は、この瞬間、視界の隅に何かを捉えてスッと目を細める。道路を挟んだ
向かいの歩道も、昼食から戻ってきた風情の人間がゾロゾロと歩いているのだが、その中に、見知った人間を二人も見つけていた。
連れ立って歩いているようだが、どうにも意外な組み合わせだ。
「――なんで、あの二人が……」
大橋が視線を向ける
先では、堤と宮園が並んで歩いている。一見して、会社の先輩・後輩同士で昼食に出かけたようであるし、実際そうなのかもしれ
ないが、二人の顔ぶれがあまりに大橋の予想を超えていた。
宮園が、藍田と連れ立っていても、特に違和感は抱かなかった
だろう。プロジェクトのリーダーと、その顧問だ。しかし堤は、あくまでプロジェクトの一メンバーでしかない。それとも、大橋
の知らないところで、宮園が堤に目をかけていたというだけなのか。
自分を納得させるような理由をあれこれ考えながらも、
大橋の視線は二人から逸らせられない。会社に戻ろうとすると必然的に二人と同じ方向に歩くことになり、それがまるで尾行して
いるようでもあり、大橋としては多少不本意だ。
最近の自分は警戒心が強すぎて、猜疑心の塊になったのではないか――。
そう思いながらも、苦笑の一つも出てこない。なんといっても、相手が相手だ。切れ者の宮園と、藍田に特別な関心を抱か
せている堤という組み合わせは、大橋が考えうる中では、最悪の部類に入る。
途中、堤が宮園に一礼して、コンビニに入っ
ていく。一人となった宮園はそのまま会社に向かっているようだったが、すぐに人波に紛れて姿を見失ってしまった。大橋は、あ
えて探すようなまねはせず、会社へと急ぐ。往来で宮園と顔を合わせる事態は避けたかった。自分は何も見ていないと言い張るた
めに。
「あっ、補佐、お帰りなさい」
オフィスに戻ると、後藤が声をかけてくる。おう、と応じた大橋の意識は、この
時点ですでに向かいのオフィスへと移っていた。藍田の姿がないことを、デスクにつきながら素早く確認する。
別に、宮園
と堤が一緒にいたことぐらいを、わざわざ藍田に報告するまでもない。あまり神経質になっていると、自分が陰湿な密告者になっ
たような嫌な気分になる。
ただ、看過してしまうには、何かが引っかかる――。
ここで大橋は、自分が宮園にある依
頼をしていたことを思い出した。
じっくり五分待ってから、おもむろに受話器を取り上げる。電話をかけた先は、もちろん
管理室室長の執務室で、思ったとおり、宮園は戻っていた。これから少し寄らせてもらっていいかと尋ねて承諾を取ると、さっそ
く大橋は立ち上がる。
「あれっ、補佐、またお出かけですか」
「また、お出かけだ」
適当な返事をしてオフィスを
出た大橋は、まっすぐ宮園の執務室に向かう。出迎えてくれた宮園は、相変わらず穏やかな笑みを浮かべていた。大橋は軽く頭を
下げる。
「すみません、もしかして昼メシはまだとか――」
「いえ、済ませてきたところですから、ちょうどよかったで
すよ」
促されてソファに腰掛けた大橋はさっそく話に入ろうとしたが、先に宮園に言われた。
「福利厚生センターの鹿
島くんのことですね」
「何度も申し訳ないです」
「構いませんよ。慎重なことはいいことです。何事に対しても。それで
大橋さんの大胆さが失われるわけでもありませんしね」
そう言いながら宮園は、いまだに片付いているようには見えないデ
スクの上から、大判の封筒を取り上げた。
「ちょうどよかった。昨日の夕方に届いたもので、今日の午後にでも連絡してお渡
ししようかと思っていたんです」
封筒を受け取り、ちらりと視線を送ると、宮園が頷く。
「どうぞ、ご覧になってくだ
さい。個人情報のうえに、グループ内企業とはいえ他社の社員の資料なので、あくまで、この執務室内だけで存在しているものと
して考えてください」
「すみません。そんな大変なものを取り寄せてもらって」
「合同プロジェクトの顧問は肩書きだけ、
とは言われたくありませんしね」
「宮園さん相手に、そんな命知らずなことを言う社員がいるとも思えませんが」
大橋
はさっそく封筒から履歴書のコピーや、会社に入ってからの経歴が記されたレポート用紙を取り出す。
「そうでもありません
よ。わたしが顧問に就いてから、この執務室にもお客が増えました。普段は近づきたがらないのに、やはり合同プロジェクトの動
向が気になって仕方ないのでしょう」
「それは……、迷惑をおかけしています」
「いいえ。わたしは楽しませてもらって
ますよ」
本当にそう思っているのか、宮園の穏やかな笑みからうかがい知ることはできない。大橋も一応笑って返しはした
ものの、すぐに視線をレポート用紙へと落とす。ざっと見た感じでは、鹿島はあくまで〈普通〉の社員だ。それも当然で、表立っ
た問題を抱えた社員を、そもそも本社に派遣してきたりはしないだろう。
「――物足りない、という顔ですね」
ふいに
宮園に指摘され、大橋は顔を上げる。穏やかな笑みの中、唯一異質な印象を放つ冷徹な目が、じっとこちらを見つめていた。
この目は肝が冷えるなと思いながら、苦笑した大橋は曖昧に首を動かす。
「なかなか優秀な社員だというのはわかるんです
が、さすがに人となりまではわからないと思いまして」
「そんなに気にる社員ですか、鹿島くんは」
「それがわからない
から、はっきりさせたいんでよ。……別に、人畜無害というお墨付きがほしいわけじゃない。何かしら下心があるにしても、それ
をはっきりさせたいだけなんです。得体の知れない人間を、側に寄らせたくない」
「慎重ですね」
宮園の言葉に、大橋
はほざと自嘲気味な口調で応じた。
「臆病なだけですよ」
このとき宮園の顔からスッと笑みが消える。冷徹な目に見合
った、冷徹な表情は、おそらく宮園の本質を表している。だから大橋は、顧問に就任した宮園に対して、いつまでも親しみを覚え
られない。
「……大橋さんのおっしゃっていることは、正しいですよ」
「正しい、ですか?」
「得体の知れないもの
は不気味」
そこまではっきり言ってないですけど――と内心で訂正しつつも、口に出すことはしない。宮園の表現そのもの
の正しさは認める。
「管理室にいると、なんでも知りたくなるんです。わたしの場合、管理するということは、対象を知るこ
とから始まります。知ることによって、掌握は可能となる。自分の手に余るものかどうかの見極めも大事ですしね」
「宮園さ
んの手に余るものなんて、この会社内で存在するんですか?」
おだてているわけでも、へつらっているわけでもなく、大橋
は本当に疑問だったのだ。宮園はまた笑みを浮かべる。
「なんだか買い被られているようですね。もちんろん、ありますよ。
だからこそ、興味も湧く。……仕事抜きで、わたしは好奇心が強いんです。だからこそ、この仕事に向いているとも言えますが」
鹿島の経歴を頭に入れ終えた大橋は、用紙を封筒に仕舞う。過度な期待はしていなかったが、鹿島は優秀ではあるが、特別
な社員ではないのかもしれない。
用件はこれで終わったのだが、すぐに席を立つのも礼を欠く気がしていると、宮園のほう
から会話を続けてくれた。
「鹿島くんとわたしは接点がありませんし、個人的に興味はあまりないのですが、合同プロジェク
トのメンバーとは、なるべく関わりを持ちたいと思っているんですよ。若い社員が多いですからね。この管理室とはまったく違う
空気が新鮮なんです」
珍しく、宮園の声音に楽しげな響きが混じる。
「へえ……。そういうものですか」
「そうい
うものです。ですから、わたしの仕事と興味を両立させるために、メンバーとのを個別面談をしているところなんです」
口
調と、語られた内容が、一瞬大橋の頭の中で結びつかなかった。つい目を細めると、それが険しい表情に見えたのか、宮園は困っ
たように肩をすくめた。
「そう難しい顔をしないでください。リーダーであるあなた方に黙っていたのは申し訳なかったです
が、面談とはいっても、若いメンバーの特性を知りたいというものなんです」
「いや、まあ、先に申し出てもらったとしても、
俺たちは許可したと思いますけどね。宮園さんに、顧問という肩書きだけを押し付けて、何もするなと言う気はありませんから。
……それで、何か気になることは?」
「今のところ、何も。まだほんの数人としか話していませんからね」
その言葉を
素直に受け止めがたくて、大橋はじっと宮園を見据える。宮園は動じた様子もなく、どこかおもしろがるように大橋の目を見つめ
返してきた。
「面談とはいっても、堅苦しいものではありません。一緒に昼食をとりながら話す程度ですよ」
大橋は、
微かに声を洩らす。さきほど外で見かけた堤と宮園の状況が、今説明されたものと一致したからだ。つまり堤は、宮園と昼食をと
りながら、あれこれ話を聞かれていたのだ。
この宮園相手でも、堤はあの斜に構えたような態度を貫いたのだろうかと、ち
らりと想像してしまう。
「企業コンプアライアンスを徹底したいから、と言って誘うと、みんなガチガチに緊張してつき合っ
てくれます」
「……楽しんでますね……」
はい、と笑って宮園は頷いた。大橋は、さきほどの宮園と堤が一緒にいる姿
を見て、何かあるのではないかと警戒した自分が急に恥ずかしくなる。鹿島の登場で過敏になっていたのだが、その鹿島も、書類
を見る限りでは警戒に値しない。性格にアクがある程度なら問題社員とはいえないし、そもそも堤が同じタイプだ。
空回り
もいいところだと、ガシガシと頭を掻いた大橋は、照れ隠しに宮園にこう言っていた。
「いい機会なんで、若いのをビシビシ
指導してやってください。宮園さんのような管理室の方と接することも経験になりますから。特にうちのオフィス企画部の人間は、
基本的に俺が放任主義なので、少々変わっているというか……」
一応大橋も、自覚はあるのだ。ただ、仕事に差し障りがな
く、社会人としての常識を外れない限りは細かく注意もしない。藍田が眉をひそめながら、オフィス企画部はにぎやかすぎると言
うのも無理はなかった。
「個性的ですよね、大橋さんの部下は」
「まあ、褒められていると受け止めておきます」
「対照的に藍田さんのところは、部下の個性的な部分が突出しないようにしていますよね。個性を殺すというわけではなく、厳格
に数字を突き詰める集団にまとめ上げているというか」
ちょうど藍田のことを思い出しているときに、絶妙のタイミングで
藍田の話題を出されて、反射的に大橋は背筋を伸ばしていた。
「……とっつきにくそうに見えて、藍田は反感を抱かせずに部
下を従わせる術を心得てますよ。たった一年しか違わない俺が、偉そうに言えた立場じゃないですけど」
「そんなことありま
せんよ。他の社員から見れば、大橋さんも藍田さんも切れ者で、いい上司ですよ」
素直に礼を言った大橋に対して、宮園は
さらに続けた。
「ただ――」
「ただ?」
「さすがの藍田さんも、苦手というか、持て余している部下がいるのではな
いかと思います。あくまで、それらしい社員と話してみての、わたしの印象ですが」
口元では笑いながらも、宮園の冷徹な
目は大橋をまっすぐ見つめてくる。大橋が答えを口にするのを待っているようでもあり、なんとなく咄嗟に頭に浮かんだ人物の名
を口にしたくはなかった。
「そう、ですか……?」
「堤くんですよ。たまたま今日、彼を昼食に誘って外に出たんです。
なんとも個性的な社員だと思いました。頭の回転が速いし、わたし相手にも物怖じしない。だけど、有能な社員の一言で片付けら
れないクセのようなものがある。だからこそ、藍田さんは目をかけざるを得ないのではないかと――」
胸の奥から不快な感
情が込み上げてくる。堤が宮園に何を話したのか聞きたい反面、それと同時に宮園に弱みを握られてしまいそうな恐れもあった。
まるで今の宮園の話は、大橋を揺さぶろうとしているようにも感じられるのだ。
「大橋さんには、そういう部下はいないので
すか? 問題児だけど、放っておけないというタイプの」
「あー……、いや、部下は全員、放っておけませんよ。俺の大事な
部下であるわけですし」
「大橋さんらしくない模範的でおもしろみに欠ける回答ですね」
ここで大橋は、大仰に顔をし
かめて見せる。
「俺は宮園さんから、どう思われているんですか」
「聞きたいですか?」
宮園ににっこりと笑いか
けられ、本人には悪いが、背が薄ら寒くなるのを感じた大橋は、ぎこちなく笑って返しながら首を横に振る。
「……またの機
会に」
残念、というのが宮園の返事だった。
大橋は鼻が利くうえに、目敏い。もしかすると藍田が鈍いだけなのか、間が悪いだけなのかもしれないが、なんにしても、大橋
からもたらされる情報には、毎回驚かされる。
そして今回も例外ではなく――。
ついさきほど、終業時間を知らせる
音楽が流れる中、大橋から携帯電話に連絡が入った。オフィスを出て話したのだが、大橋からの報告は端的だった。
宮園は
合同プロジェクトのメンバーと個別面談を行っており、今日の昼休みは、堤と二人で話していた。そのことをどう判断するかは、
お前に任せる、と大橋は言った。口調は淡々としていたが、大橋はなんらかの不安か、もしくは危惧を覚えているのかもしれない。
藍田がそうだからだ。
自分の目の届かないところで、予測しえない動きをされると戸惑う。宮園の、管理室室長とい
う肩書きを考えれば、物事に厳正さを求めたうえでの行動だというなら、それでいいのだ。
穿った見方をしてしまいたくな
るのは、たまたま今日、宮園が一緒にいた相手がよりによって堤だったからだ。
ふとパソコンのキーボードを打つ手を止め
た藍田は、無意識のうちに鋭くなる眼差しを堤へと向けていた。
リーダー研修から戻ってきた三日前、藍田と堤の間では衝
撃的な出来事があったが、あれから今日まで、堤は表面上は一切変わった様子を見せない。相変わらず、少し斜に構えていながら、
誰よりも目端の利く部下のままだ。あのときの激しい行為も言葉も、実は藍田が見た夢だったのではないかと錯覚しそうになる。
だがそれは、単なる現実逃避でしかない。
堤が見せた凄みのある静かな表情を思い出すと、いまだに藍田は胸騒ぎを覚える。
宮園と相対して何を聞かれ、何を話したのだろうか。そう思いながら堤を見つめていると、視線を感じたように堤がこちら
を見た。藍田は動じることなくじっと見据えていたが、スッと視線を逸らすと、何事もなかったようにパソコンの電源を落として
立ち上がる。
オフィスを出て廊下を歩きながら、出先から戻ってきた社員や、帰宅する社員たちと挨拶を交わす。
藍
田が向かったのは、まだ終業時間を少し過ぎたばかりだというのに、すでに夕闇に支配されつつある中庭だった。この時間、残業
に取り掛かる前に一服している社員たちの姿も多い。
ただ、そろそろ風に当たるのもつらい季節だ。吹き付けてくる風の冷
たさに小さく肩を震わせてから、空いているベンチを見つけて腰掛ける。
しばらく待つ必要もなかった。
「――こんな
寒いところにいたら、風邪をひきますよ」
二、三分ほど経って、当然のように堤から声をかけられた。藍田が振り返ると、
缶コーヒーを手にした堤が立っており、こちらから声をかける前に隣に腰掛けた。
「俺のこと、呼びましたよね?」
い
つもと変わらない口調でそう言われ、藍田は頷く。すると堤は、芝居がかった仕種で片手を胸に当てた。
「よかった。藍田さ
んの目が、俺を呼んでいるように感じたんです。自惚れるなと言われたら、どうしようかと思いましたよ」
「お前なら、気づ
くと思ったんだ」
「気づきますよ。藍田さんの視線なら」
こんなことをさらりと言うところも、変わらない。三日前の
出来事は、堤の気の迷いであってくれたならと思いながら藍田が隣に視線を向けると、口調の軽さとは裏腹に、堤は静かな目で藍
田を見つめていた。社員たちがいる中で、明らかに上司を見る目ではない。
やはり堤の中で、なんらかの変化が起こったの
だ。
冷たくなった自分の指先を握り締めてから、藍田は上司としての口調で切り出した。
「――……宮園さんが、合同
プロジェクトのメンバーと面談していると聞いた。わたしは初耳で驚いたんだが、お前は知っているな?」
「知っているとい
うか、実は今日、昼飯を兼ねてその面談を受けたんですよ、俺。と、俺に切り出したということは、そのことは把握しているとい
うことですね」
「ああ……」
大橋から聞いたとまでは、さすがにこの場面でも口にできなかった。
「面談といって
も、昼飯を食べながら、本来の業務とプロジェクトの仕事の掛け持ちには問題ないかとか、そういう話をしていただけです。ほと
んど世間話のようなものでしたよ」
「そうなのか。わたしも、何を話したのかまでは、聞かされていないんだ。ただ、宮園さ
んが面談を行っているということしか……」
「藍田さんのことも聞かれましたよ」
一瞬、顔を強張らせた藍田は、足元
に落としていた視線をゆっくりと堤に向ける。堤は、そんな藍田の反応を楽しむかのように唇を綻ばせた。
「上司として、ど
う思っているか、と」
藍田の中に芽生えた危惧を、堤は正確に読み取っているだろう。だからこそ、こんなふうに試すよう
な物言いをしているのだ。実際、藍田が咄嗟に考えたのは、自分と大橋、それに自分と堤との、妖しく交錯した関係だった。
「……それで、なんと答えたんだ」
「もちろん、尊敬していますと答えました。事実ですから」
その言葉に対して、藍
田は反応しなかった。こうして堤と二人で話す状況を作ったのは、自分と堤との関係がおかしくなったのを確認するためではない。
「宮園さんは、プロジェクトの他のメンバーとも、面談を?」
「そうみたいです。気になる社員を呼んでいると話してま
した。管理室にいると、大きなプロジェクトとも、他の部署の社員との交流も無縁で、この機会にいろいろと知りたいそうですよ」
「そうか……」
プロジェクトのリーダーである藍田や大橋に何も相談せず、行動を起こした宮園に対して怒りも不愉快
さも感じてはいない。むしろ純粋に、なぜ、と思った。宮園ほどの人物が、何かしらの意図なくこんな迂闊なことをするとは信じ
られない。
「藍田さんのその様子だと、宮園さんからは本当に何も聞かされてなかったんですね」
「ああ。少し前に聞か
されて、本当に驚いた」
「宮園さんは、〈味方〉じゃないんですか?」
堤の思いがけない言葉に、今度は驚かされる。
目を丸くする藍田を見て、堤は苦笑しながら頭を掻いた。
「あっ、すみません。なんか表現がストレートすぎましたね。た
だ……、管理室の室長なんていうと、俺からしたらとてつもなく孤高の人というイメージがあるんで、そんな人を顧問に迎えたと
いうことは、プロジェクトを――藍田さんたちを守るという意思表示だと思っていたんです」
「……そうだな。宮園さんのお
かげで、わたしたちが知らないところで、何かしらの圧力は受けなくて済んでいるはずだ。あの人の肩書きは、それだけの威力が
ある。ただ――」
「強すぎる薬は毒にもなる、ですか?」
堤の表現に、今度は藍田が苦笑を洩らす。
「あの宮園さ
んをそんなふうに表現するのは、社内ではお前ぐらいだろうな」
「もう怖いものはないですから、俺」
冗談めかしては
いるが、堤の目は笑っていなかった。春には会社を辞めるということで、確かに堤に怖いものはないのかもしれない。だからこそ、
藍田にあんなことができたのだろうし、宮園に物怖じする必要もない。
怖いものがないということは、一方で、抑制が利か
ないともいえるのだ。それは、堤が他人から、恐れられる存在になる可能性を示唆している。
「近いうちに時間を作ってもら
って、宮園さんから話を聞いてみる。プロジェクトのメンバーに何か問題があるというわけじゃないなら、いいんだ」
「安心
しました?」
「そうだな……」
曖昧な返事をして藍田が立ち上がると、堤も倣う。ごく自然なこととして、二人は一緒
にオフィスに戻ろうとしていたが、途中、意外な人物に出くわした。
階段を使ってエレベーターホールへと出た藍田は、そ
こで鹿島に出くわした。
「君――」
驚いた藍田が声を洩らすと、辺りをきょろきょろと見回している様子だった鹿島が、
安堵したような笑みを浮かべた。
「藍田さんっ」
颯爽とした足取りで鹿島が歩み寄ってきたが、このとき藍田の目の前
に、壁が立ちはだかった。堤だ。向けられた背が警戒心を露骨に表しているのを見て、藍田は微苦笑を浮かべる。
「いいんだ、
堤」
堤はまだ、鹿島の存在を知らないらしい。見たこともない人物が新機能事業室が入っているフロアにいると思い、過剰
に反応したようだ。
振り返った堤が軽く眉をひそめているところに、ちょうど鹿島も側にやってきたので互いを紹介したが、
鹿島のほうは一見屈託ない笑顔で丁寧に頭を下げるのに対し、堤のほうは無表情で軽く会釈をしただけだった。上司である藍田だ
からこそわかるが、堤はあからさまに鹿島を胡散臭がっている。
数秒ほど三人の間に沈黙が流れ、堤と鹿島が同じタイミン
グで藍田を見た。我に返った藍田は、鹿島に水を向ける。
「このフロアに何か用があったのか?」
「ええ。藍田さんを捜
していたんです。席を外されているということで、ここで待っていれば会えるかと思いまして」
「わたしを……」
呟い
た藍田の脳裏に蘇ったのは、二日前、鹿島から提案されたことだった。無意識に指を口元に当て、うかがうように鹿島を見る。一
方の堤は物言いたげな表情で、そんな藍田を見ている。
「藍田さん、俺は先にオフィスに戻っていましょうか?」
「あっ、
いや……」
藍田に代わって、鹿島が答えた。
「お二人でいるところをお邪魔して申し訳ありません。こちらの用件はす
ぐに済みますから」
そう言って鹿島が、藍田に封筒を差し出してきた。
「これは?」
「福利厚生センターの所長か
ら言付かった書面です。合同プロジェクトのメンバーに、センターからの出向者がいるんですが、その社員から頻繁に問い合わせ
の連絡が入るそうなんです、センターに。上司たちは、送り出した社員が四苦八苦した挙げ句にミスを犯すんじゃないかと、気が
気じゃないようで――……。あー、つまり、その社員一人に任せておくのは心配だと言っているわけです」
奥歯にものが挟
まったような鹿島の物言いに、聞いている藍田のほうは苛立たされる。こちらが答えを口にするのを待っているようにも思えてく
るのだ。
つい、いくぶん厳しい口調で問いかけていた。
「――大橋さんは、なんと言っていた。この書面を見せたなら、
あの人の答えも変わっただろう」
鹿島は、藍田の口調の変化に気づいた様子もなく笑みを浮かべた。
「サポート要員と
してなら、合同プロジェクトに関わることを許可する、とのことです」
鹿島の〈何か〉が気になるから認めない、というわ
けにはいかない。大橋の判断はごく真っ当といえた。もちろんその判断に対して、藍田も異存はない。
「福利厚生センターに
関わる案件は、大橋さんのプロジェクトが担当だから、あの人がそう言ったのなら、そちらで決めたように進めてくれ。……何度
もわたしと大橋さんの間を行き来させて悪かったな」
「いえ。大事なプロジェクトで慎重になる事情もわかっているつもりで
すから、気になさらないでください」
丁寧に頭を下げて鹿島が行ってしまうと、藍田は手にした封筒を弄ぶ。そんな藍田の
隣に立った堤がぽつりと洩らした。
「……何者です、あれ」
藍田が視線を向けると、堤は慌てたように手を振る。
「あっ、さっき紹介はしてもらいましたけど、そういうことじゃなくて――」
「どうやら、合同プロジェクトが気になって仕
方ないらしい、彼は」
「何かありそうだと感じている口ぶりですね」
「いや、そういうわけでは……」
言おうとし
た言葉は口中で消える。堤が言う通りだったからだ。
ただ、鹿島の行動はあまりに露骨だという意識もある。藍田や大橋の
注意を引くための言動をあえて取っているという印象も受けるのだ。たった二日前、合同プロジェクトの件で藍田に相談してきた
と思ったら、今日はもう、福利厚生センターに根回ししたかのように都合のよい書面を用意してきた。
意欲的に合同プロジ
ェクトに関わろうとする理由は何か、と他人に思われても仕方ないはずだ。
裏がないのなら、単なる考えすぎで済むのかも
しれないが――。
「藍田さん?」
首を傾げた堤に呼ばれた藍田は、自分が考えに没頭していたことに気づく。思わず苦
い表情を向けていた。
「背負うものが多くなると、慎重になるというか、疑い深くなってしまうな」
「鹿島さんのことで
すか」
「さあな」
藍田が歩き始めると、堤もぴたりと隣を歩く。
「――ハンサムな人ですね。いかにも、モテそう
だ」
意外な堤の発言に、さすがの藍田も目を丸くする。そんな藍田を、堤が見つめてきた。
「どうかしましたか?」
「いや……、お前でもそう感じることがあるのかと思って。心配しなくても、お前のほうがハンサムだし、モテそうに見える」
「……心配って、そんなものしてませんよ。だいたい俺が自惚れているような言い方しないでください。藍田さんにそんなふうに
思われているんだとしたら、ショックです」
「慌てなくてもいいだろう。わたしは本当にそう思っているんだ」
だから、
困るのだ。外見に恵まれ、斜に構えた態度を取りながら、気遣いもできる堤は、本人にその気がなくても女性を惹きつけるはずだ。
実際社内でも、堤の気を引こうとしている女性社員がいると聞く。
堤の視線を感じた藍田は、こんなことを考えている場合
ではないのだと自分に言い聞かせる。
ピタリと足を止めると、藍田の一歩先を歩いたところで驚いたように堤も足を止めた。
「――堤」
藍田の呼びかけに、堤の表情が真剣なものになる。
「はい」
「お前のツテを使って、できる限り社
内での鹿島の動きを探ってくれ」
声を潜めての藍田の命令に、なぜ、とも問わずに黙って堤は頷いた。
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