Sweet x Sweet [Extra 06]   




 ひどい天気だと、ハンドルを握った博人は何度目かの舌打ちをする。いつもならこの時間、車が渋滞するのだが、さすがに今日 は行き交う車の数も多くなく、非常に流れがスムーズだ。
もっとも、それをありがたがる気持ちにはなれない。
 対向 車が跳ね上げた水飛沫が派手にフロントガラスにぶつかる。さらに車のスピードを落としながら、博人は目を凝らす。
 台風 が予想を上回る速度で接近していると博人が夕方の天気予報で知ったとき、勤務先である銀行のビルの外はすでに真っ暗で、どし ゃ降りの雨と強風に襲われている最中だった。台風のことは朝から念頭にあったが、暴風域に入るのは夜中だとばかり思っていた。
 急いで仕事を片付け、ビルを飛び出しはしたものの、帰宅までの道のりはなかなか厳しい。叩きつけるような雨のせいで、 数メートル先の景色もよく見えない状況だ。そのうえ、さきほどから、車体を震わせるように雷鳴が轟いていた。
 通りの街 灯がちらつき、立ち並ぶ建物の明かりも、さきほど、数秒ほどだが一斉に消えてしまったりもしていた。
 家に一人でいる裕 貴が心配で急ぎたいところだが、下手をすると、博人自身も危ない。大雨のおかげというべきか、逸る気持ちのままアクセルを踏 み込まないで済んでいる。
 自宅がある住宅街にようやく入ったところで、一際強く青白い光が空を駆け抜け、わずかな間を 置いて、耳をつんざくような大きな雷鳴が轟いた。そして、何かの魔法にでもかけられたように、辺りが一斉に闇に包まれた。
 さすがに博人は急いで車を路肩に停め、慎重に辺りの様子をうかがう。どうやら近くに雷が落ちて、この一帯は本格的に停 電したらしい。
 やれやれ、と内心でため息をついた博人は、再びゆっくりと車を出す。ますます裕貴のことが心配だった。 ゲームをしている最中の裕貴の集中力は感心するほどで、雷の音すら耳に入らないだろうが、停電になってしまうと、一人でおろ おろしているかもしれない。
 子供の頃の裕貴のことを思い出し、最悪の天気の中で運転しているにもかかわらず、博人はつ い口元を緩める。
 雷の気配を感じると、すぐに今にも泣きそうな顔をして、お気に入りのタオルケットをズルズルと引きず りながら、博人の元にやってくるのだ。博人がいないときは、なぜか父親の書斎の大きな書棚の陰に、タオルケットを頭から被っ て隠れていた。その姿を初めて見たときは、弟を一人にしていた申し訳なさとともに、たとえようもなく微笑ましい気持ちになっ たものだ。
 さすがに成長すると、父親の書斎に隠れに行くことはなくなったが、雷が鳴ると耳を押さえて小さくなるところ は変わらない。今はどうだろう。
 中学三年生となった裕貴は、子供のままである反面、急速に大人になって いるともいえる。
 すぐに停電は復旧するかと思われたが、 それは甘い考えだったらしく、見慣れた住宅街が暗闇に包まれているせいで見知らぬ場所に迷い込んだような錯覚を覚えながら、 博人はヘッドライトの明かりを頼りになんとか無事に自宅に帰りつく。
 当然だが、いつもなら電気が煌々とついている自宅 も、今は真っ暗だ。ガレージに車を入れると、激しい雨風に晒されながら、急いで自宅に駆け込む。
「裕貴、大丈夫かっ」
 強風に吹き飛ばされそうになりながら、なんとかドアを閉めた博人は、何より先に裕貴を呼ぶ。しっかり鍵をかけると、非 常用に下駄箱の中に仕舞ってある懐中電灯を取り出す。
「裕貴、どこにいるんだ」
 まず、裕貴がよく寛いでいるリビン グを覗いたが、そこには出しっぱなしのゲーム機があるだけで、裕貴本人の姿はない。ただ、飲みかけの麦茶が入ったグラスが置 いてあるので、ここでゲームでもしている最中に、停電になったようだ。
 続いて博人は、当然のように裕貴の部屋を覗いた が、そこにもいない。アタッシェケースを置くついでに、念のため自分の部屋も見たが、裕貴の姿はなかった。
 まさか、と 思いつつ、スーツのジャケットとネクタイをダイニングのイスに置きながら、博人は二階を見上げる。
 こんな状況で裕貴が 風呂に入るはずもなく、博人は懐中電灯を手に二階に上がる。
 二階は、父親のテリトリーだ。入るなとは言われていないが、 大きくなった息子たちにとってはあまり用があるものは置いていない。大半が、父親が仕事で使ったり、興味のおもむくままに集 めた資料やガラクタだ。子供の頃の裕貴にとっては、ちょっとしたおもちゃ箱みたいに感じられただろうが。
「裕貴、いるの か」
 呼びかけると同時に、大きな雷が鳴り響く。雷鳴に重なるように、微かな悲鳴を確かに聞き取り、思わず博人は苦笑を 洩らした。この家に、雷に驚いて悲鳴を上げるような〈可愛い〉存在は、一人しかいない。
「――裕貴、入るぞ」
 父親 の書斎をノックしてから、ドアを開ける。真っ暗の部屋の中を簡単に照らしてから、小さかった裕貴がよく身を潜めていた、大き な書棚の陰に懐中電灯の光を向けると、思った通り、タオルケットに包まった裕貴がいた。
「帰ってくるの遅いよ、兄さん」
 開口一番の裕貴の言葉は、それだった。しかも、拗ねた表情のおまけつきだ。中学三年生の男の子がするには少々子供っぽ い表情だが、裕貴がこんな顔をして甘えてくるのは博人に対してだけだ。
「……それは、悪かった……。で、お前は何をして るんだ」
「ゲームしてたら、停電しちゃってさ」
「停電したのは知っている。今、真っ只中だしな。それでどうして、お 前がこんなところにいる」
「幼少時の記憶を辿ってみようかと――……」
「意味がわからん」
 わからなくていいん だよ、とムキになって裕貴が言い、タオルケットを抱えて立ち上がる。目の前を通り過ぎようとした裕貴の頭に、博人はポンッと 軽く手を置いた。
「何?」
「いや、大きくなったと思ってな。昔、お前がここに隠れているときは、タオルケットを頭か ら被って、目にいっぱい涙を溜めてブルブル震えてた。それで俺が行くと、足にしがみついて離れなかった。それが今は――」
「変わってないだろ、あの頃と。今でも、お兄ちゃん大好きな、〈可愛い〉弟のままだ」
「……自分で言うな。ありがた みのない」
 声を洩らして笑った裕貴の片腕が、博人の腰に回される。博人は、そんな裕貴の華奢な肩を抱き寄せた。
「――……本当は、ここの部屋でなくてもよかったんだよ」
 書斎を出ようとしたところでぽつりと裕貴が洩らす。足元を照 らしていた懐中電灯の光を裕貴の顔に向けると、眩しそうに目を細めながら裕貴が笑いかけてきた。
「でも、隠れていると、 絶対兄さんが探しにきて、見つけてくれるだろ? おれを見つけたときの、兄さんのほっとした顔を見るのが好きなんだ」
「ということは、お前、涙目になりながらも、ワクワクしながら俺が探しにくるのを待ってたというわけか」
「えー、やっぱ り雷は怖かったよ」
「今は?」
 小悪魔っぽく目を輝かせながら、悪びれることなく裕貴はけろりとして言った。
「ブルブル震えるほど怖い」
「……俺の弟は、いつからこんなに大うそつきになったんだ」
「本当だって」
 笑いな がら裕貴が腕に頭を押し付けてくる。
「兄さんが、こんな天気の中、おれを心配して急いで帰ってきてくれるなら、いつま でだって、怖がるよ」
 裕貴は、愛されることに対して無邪気で無防備で貪欲だと思うのは、こういう瞬間だった。もって生 まれた素地というものもあるだろうが、裕貴の性格形成に多大な影響を与えたのは、間違いなく博人自身だ。
 そして裕貴は、 今のところ博人の希望通りの成長を遂げていた。
 裕貴は、博人しか望まない――。
 博人はそっと目を細めて裕貴の後 ろ髪をさらりと撫でる。きょとんとした顔で見上げてきた裕貴が、次の瞬間には屈託ない笑みを向けてきたが、すぐにその顔は強 張ることになる。
 何度目かの雷が鳴り響き、青白い閃光が廊下を一瞬だけ明るく照らす。すかさず裕貴が博人のワイシャツ を強く握り締め、体を寄せてきた。裕貴の反応に、博人は小さく噴き出す。
「本当に怖いんだな」
「びっくりしただけだ よっ」
「遠慮なく怖がってくれていいぞ。俺がついているからな」
 博人は笑いながら裕貴の肩をさらに抱き寄せた。










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