Sweet x Sweet [7月期間限定]   




 海か――。
 廊下に貼られた旅行会社のポスターの前で立ち止まり、黒井博人はあごに手を当てながら心の中で呟く。
 青い空と海。それが映える白い砂浜。強烈に惹きつけられる景色だが、そもそも飛行機にでも乗らない限り、こんな天国のよう な景色と出会えることはないだろう。ただ、一時間ほど車を走らせれば、この時期、人で溢れかえっている海水浴場に行くことは できる。
 とりあえず空は青いし、海の水もそれなりにきれいなはずだ。泳ぐぶんにはなんら支障はない。
 博人自身は、 別に海に思い入れはないのだが、夏の思い出の一つとして、海に出かけるという行為は必要だろう。特に、子供は。
「――黒 井さん、夏休みは海外旅行にでも行くの?」
 ふいに傍らから声をかけられ、博人は視線を動かす。いつの間にやってきたの か、隣に、同僚の山本可奈子が立っていた。しかも、そんなに近づく必要があるのかと思うぐらい、博人にぴったりと身を寄せて。
 漂ってくる甘い香水の匂いに内心で顔をしかめつつ、博人はさりげなく可奈子からわずかに距離を取る。
「いや……。 ただ、もう夏なんだと思ってたんだ」
 外を見れば、うんざりするほどの強い陽射しが降り注ぎ、見るからに暑そうだ。実際、 真夏日がもう何日も続いている。七月でこれなら、八月はどれほど暑くなるか――というのは、毎年思うことだ。
 特に今年 は、社会人一年目のうえ、職場がお堅い銀行ということもあり、きっちり着込んだスーツに難儀していた。
「いいよねー、海。 こうも暑いと、泳ぎに行きたくなっちゃう。プールでもいいかな。一応、新しい水着は買ったんだけどね」
 博人にとっては、 同期入社の女性社員が海に行きたかろうが、プールに行きたかろうが、どんな水着を買おうが、まったく興味はない。
「黒井 さんは、どこかに遊びに行く予定はないの?」
 博人がオフィスに戻ろうとすると、当然のように可奈子も隣を歩く。
  可奈子とは企画情報部情報統括課という所属部署が同じだが、チームが違う。彼女は助成チームの人間だ。情報統括課のサポート をする業務で、デスクも非常に近い位置にある。このチームは女性が大半を占め、本店ビル内では、腰掛け業務として陰口を叩か れていた。
 仕事よりも、将来の結婚相手を探すために必死だ、ということらしい。
 女性間の妬みや中傷は博人にはよ くわからないが、ただ、仕事に対してあまり熱意のないチームだということだけは実感している。彼女たちに仕事を頼むより、自 分で片付けたほうが早いと思うことが、研修を終えて一か月ほどしか経っていない博人にも何度かあった。
 熱意がないのは 仕事だけで、それ以外に関しては、実に活動的で積極的だ。たとえば今のように、博人が冷えた横顔を見せていても意に介さない ところなど。
「あっ、同期の子たちと、親睦も兼ねて遊びに行かないかっていう話になってるんだけど、黒井さんもどう?  研修も終わって、ようやくみんな落ち着いたところだし」
「……自分が遊びに行く時間があるなら、弟を遊びに連れて行って やりたいと思ってるんだ」
 博人がまじめな表情と口調で応じると、可奈子は奇妙な顔をした。博人が、冗談かウソでも言っ ているのではないかと真意を測っているらしい。かまわず博人は続ける。
「弟が昨日から夏休みなんだ。一人で遊ぶのが平気 な子だが、どこにも遊びに連れて行ってやらないと、さすがに可哀想だ。だから、海はどうだろうかと、さっきポスターの前で考 えていた」
「弟さんが夏休みって……、学生?」
「中学生」
 はあ、と声を洩らしたきり、可奈子は黙り込む。それ をいいことに、博人は足早に自分のデスクに戻り、ノートパソコンの電源を入れる。
 弟をどこに連れて行ってやろうかと考 える時間は惜しくないが、同僚の遊びの予定を聞かされるほど、博人は暇ではないのだ。




 六月で研修が終わってから、博人は忙しい。本格的に仕事を叩き込まれ、雑用から、大きな案件の手伝いまで、覚えることは多 い。
 研修期間中は『お客さん』のような扱いを受けていたが、今はそんな空気は一切ない。容赦なく小突かれ、怒鳴られ、 先輩社員たちに連れ回されている。大変だとは感じるが、嫌ではなかった。こういう空気を味わいたくて、企画情報部を志望した ぐらいだ。
 唯一不満らしい不満があるとすれば、終業時間後、新人を半ば強引に飲みに連れていくことだった。
 特殊 な情報を扱う部署のため、気軽に他の部署や、他社の人間と飲みに出かけると神経を使い、結局、同じ部署の似たような面々でス トレス発散をすることが多くなるのだそうだ。そこに新人が研修を終えたとなると、物珍しさもあって連れ歩く流れになるら しい。
 先に仕事を終えた先輩社員たち数人が、立って何事か話している。これから出かける店の相談でもしているのだろう。
 数日前は、なんとか断ることができたが、さすがに今日は難しい。傍若無人が服を着ていると大学時代は言われた博人だが、 社会人として、人並みの社交性も身につけたのだ。同じオフィス内で気まずくなるようなヘマはしない。
 しかし――。
 パソコンのキーボードを打つ手を休め、博人は傍らに置いた携帯電話を取り上げる。少し前に届いたばかりのメールに目を通し た。
『今日は帰り遅いの?』
 メールは、八つ年の離れた弟からのものだった。研修中は、毎日定時に帰宅できていたた め、滅多にメールをしてくることはなかったが、研修が終わってからは帰宅時間が不規則になり、こんなメールをよく送ってくる ようになった。
 夜、あの広い家に一人でいると、心細くなってくるのだろう。
 どんな顔をしてこんなメールを打った のだろうかと想像して、無意識のうちに博人の顔は綻ぶ。ふと視線に気づいて顔を上げると、同じ課の女性社員が物珍しげに博人 を見ていた。ソツのない言動を取るが、決して愛想はよくない博人が笑っているので、驚いたようだ。
 慌てて無表情を取り 繕い、素早く返信をする。
『あと一時間ぐらいで帰れる』
 携帯電話をジャケットのポケットに滑り込ませると、早々に 今日の仕事を切り上げ、パソコンの電源を落とす。
 壁にかかった時計を見上げると、裕貴が今気に入っているケーキ屋がま だ開いている時間だ。人気のあるケーキはとっくに売り切れているだろうが、売れ残っているものをあるだけ買って帰ればなんと かなるだろう。
 手早くデスクの上を片付けながら、そんなことを考えていた博人だが、背後から社員に声をかけられて手を 止めた。
「おー、黒井、仕事は終わったか」
「……ええ」
 振り返った博人が頷くと、先輩社員たちの中に、いつの 間にか可奈子を含めた助成チームの女性社員たちの姿もある。
「これからみんなでメシ食いに行くんだ。お前もつき合うだろ う?」
 博人が弟からのメールに一人にやついている間に、みんなで食事に行く話でまとまったようだ。
「あっ、いや、 俺は……」
 弟が待っているから、と答えようとしたが、すかさず先輩社員に言われた。
「行くよな? この間は、見逃 してやったんだから、今日はつき合えよ」
 ここまで言われて断れる新人は、おそらくいないだろう。もちろん、博人もその 一人だ。
 自分が出世したときは、絶対後輩に無理な誘いはしまいと心に誓いながら、博人はブリーフケースを手に立ち上が る。


 博人が自宅に戻ったとき、すでに時間は午後十一時近くになっていた。もちろん、土産のケーキを買うこともできず、手ぶらだ。
 控えめに声をかけて玄関に入った博人は、ブリーフケースを下駄箱の上に置いて靴を脱ぎ、次にジャケットを脱ぐ。ジャケ ットを鼻先に近づけて匂いを嗅ぐと、帰りのタクシーの中でずっと気になっていたが、思ったとおり、煙草の匂いに混じって、覚 えのある香水の甘い香りが微かに漂っている。
 みんなで飲み食いしている間、隣にずっと可奈子が居座っていたので、匂い が移ったのだ。
 博人は小さく舌打ちすると、ブリーフケースを手にまっすぐ洗面所に向かい、クリーニングに出すものを入 れておくカゴにジャケットを放り込む。その足で一階の自分の部屋に行き、さっさと着替えを済ませる。脱ぎ捨てたものももちろ ん、カゴに入れた。
 キッチンに行き、弟がきちんと夕食をとったか確認する。最近、すっかり自炊にハマっている弟のおか げで、食事の心配をしなくて済むようになったのはありがたい。今夜も何か作ったらしく、食器洗浄機に食器が入っていた。多分、 レンジと冷蔵庫の中には、博人の分もあるはずだ。
 ここまで一連の用事を済ませてから、やっと博人は呼びかけた。
「――裕貴」
 弟の裕貴を呼びながら、テレビの音がしているリビングを覗くと、本人はいた。ただし、短パンにタンクトッ プ姿でソファに横になっており、目を閉じている。
 博人の帰りを待ってゴロゴロしているうちに、眠ったようだ。
「ケ ーキを買ってこなかったと言って、拗ねられなくて済んだな……」
 博人は小さく洩らして、ソファの端に腰掛ける。条件反 射のように片手は、裕貴の頭に伸びていた。
 柔らかな髪を撫でながら、裕貴の寝顔を覗き込む。今年十五歳になるにしては、 まだまだ幼さを多大に残した顔だ。
 博人にとって裕貴は、愛しくて大事でたまらない宝物だった。弟のためならどんなわが ままでも聞いてやろうと思うのだが、それを家族の誰かに責められることはない。母親は、奔放すぎる父親にとっくに愛想がつき て離婚し、家を出ていってしまった。そして、一応この家の家長である父親はといえば、仕事の関係で滅多に家に帰ってこないし、 何より、博人と同じぐらい、裕貴を溺愛している。
 つまり黒井家のパワーバランスのトップに立っているのは、この小柄な 弟なのだ。
 いつからエアコンを入れたままなのか、ひんやりとした空気に首筋を撫でられた博人は、タンクトップから剥き 出しになっている裕貴の肩に触れる。冷たくなっていた。
「おい――」
 裕貴を揺り起こそうとしたが、寸前のところで 思いとどまる。博人は立ち上がり、裕貴の軽い体をひょいっと抱き上げた。
 肉付きが薄くて軽い体から、ほのかな体温が伝 わってくる。腕の中の存在が愛しくてたまらないと、心の底から実感させてくれる温かさだ。
「……いつもと違う匂いがする ……」
 熟睡しているとばかり思っていた裕貴が、ふいに寝ぼけたような声を上げる。博人は軽く目を見開いてから、裕貴の 顔を見下ろした。裕貴は、おそろしく匂いに敏感だ。特に、女の匂いに。大の母親嫌いなのだが、それが女嫌いへと進化したらし い。
「まだシャワーを浴びてないんだ。我慢しろ」
「会社帰りに、自分だけ美味しいもの食べたんだろう」
 そっち の匂いかと、内心ほっとしながら裕貴の部屋に入る。
「俺は、お前が作ったものを食いたかった」
「一応、レンジと冷蔵 庫の中に、残り物が入ってるよ」
 博人はそっと笑みを洩らすと、裕貴をベッドに横たえ、体にタオルケットをかけてやる。
 モソッと身じろいだ裕貴がタオルケットに頬をすり寄せ、その姿に目を細めてから博人が部屋を出ようとすると、背後から 声をかけられた。
「――……合コン、楽しかった?」
 一瞬、呼吸を止めてから博人が慌てて振り返ると、裕貴が笑いか けてきた。顔立ち全体が幼く見える中、ドキリとするほど挑発的な目がじっと見つめてくる。
 博人は肩を落として首を横に 振る。
「そんなんじゃない。先輩たちとメシを食ってきただけだ」
「兄さんも大変だよね。あまり人づき合いが上手いほ うじゃないのに、会社の人たちとのつき合いで、あちこち連れ回されて」
「……その言葉を聞くと、この世の中で俺の気苦労 を理解してくれるのは、俺の可愛い弟だけだって痛感するよ」
「でも兄さんは、その可愛い弟が、どれだけお土産のケーキを 楽しみにしていたかは、理解してなかったんだよね」
 完全に一本取られた。
 このときの博人はよほど情けない顔をし たのか、クスクスと笑いながら裕貴が言った。
「ウソだよ。この時間だったら、どっちにしろ食べられないんだし」
「お 前は、俺を動揺させるツボをよく心得てるよ」
 博人はエアコンのタイマーをセットしてから、今度こそ部屋を出る。
「おやすみ、裕貴」
「おやすみ、兄さん」
 一日を締めくくる挨拶を交わして、博人は静かにドアを閉めた。




 翌朝、裕貴は、土産のケーキを買い忘れた薄情な兄に対して、朝食としてパンケーキを焼いてくれた。
 パジャマ姿でダイ ニングに入った博人は寝乱れた髪を掻き上げながら、テーブルの上を調える裕貴の姿を目で追う。さきほどから食欲を刺激するい い匂いに、腹が鳴り続けていた。
 裕貴が不思議にそうに首を傾げてこちらを見る。
「どうかした?」
「弟の優しさ に感動していた」
「バカなこと言ってないで、早く座ってよ」
 本気で言ったのだが――。博人はちらりと笑みを浮かべ ると、イスに腰掛ける。
 パンケーキとはいっても、じゃがいもが入っており、チーズクリームも添えられて、なかなか凝っ ている。いつもは、博人が会社帰りにパンを買ってくるのだが、たまには、弟の手を煩わせた朝食というのもありがたい。
「早く目が覚めたから、作ってみたんだ」
 博人の正面のイスに腰掛けた裕貴が、目をキラキラさせて説明してくれる。さっ そく一口食べた博人は、片手を伸ばして裕貴の頭を撫でた。
「――美味い」
「ホント?」
「俺は、食い物の味に関し てはウソは言わないぞ。そうやって弟の料理の腕を鍛えて、楽させてもらう気満々だからな」
「そんなこと言って、会社の人 たちと美味しいもの食べに行っちゃうんだろ」
 苦笑を洩らした博人の脳裏に、昨日、本店ビルの廊下で見かけた旅行会社の ポスターが蘇る。
 そうだ。裕貴は今、夏休み中なのだ。一人でふらふらと外出するほど活発でもない裕貴は、せいぜいが図 書館か書店、スーパーに出かけるぐらいで、大半は家にこもって過ごしている。受験を控えて塾にも行っていないのは、家庭教師 を頼んでいるからだ。
 博人以上に人間関係を煩わしがる性格のため、さぞかし毎日退屈しているだろう。
 昨日、ポス ターを眺めながら、博人はそんなことを考えていたのだ。
 バナナ入りだというパンケーキを頬張る裕貴に、思わず問いかけ る。
「裕貴、今週の土曜、海に行くか?」
 裕貴の持つフォークの動きがピタリと止まる。大きな目を丸くして、首を傾 げた。
「海……?」
「海。お盆休みは、バタバタするからな。その前に俺とお前の二人で、どこかに行っておきたいと思 ったんだ」
 お盆の連休には、父親に会いに海外に行くことになっており、すでにチケットも手配済みだ。ただし行き先は、 雪が降ってもおかしくないほど寒いそうだ。
「……人が多いよ?」
「夏だからな」
「海で泳ぐの嫌い」
「別に、 泳がなくていいだろう。釣りでも、磯遊びでも、お前の好きなように」
「じゃあ、行く」
 夏の海に行くのに泳がないか らといって、うちの弟は変わり者だとは思わない。実のところ、博人も海で泳ぐつもりは最初からなかった。
 大事なのは、 裕貴と海に出かけるという事実だけだ。
 裕貴が嬉しそうに笑っているのを見られただけで、博人としては提案した甲斐があ ったというものだ。
「ぼく、お弁当作るね」
「別に買ってもいいし、なんなら俺が作っても――」
「変な形したおに ぎり?」
 無邪気な顔で尋ねられ、一瞬返事のしようがなかった博人は、肩を落として降参した。
「お前に任せる」
「素直でいいね、兄さん」
 そう言ってイスから腰を浮かせた裕貴に、まだ寝癖がついた頭を撫でられた。
 やはり、こ の家のパワーバランスのトップに立つのは、可愛い顔をした弟なのだと改めて実感した瞬間だった。




 すっかり裕貴を海に連れていくつもりだった博人だが、社会人の予定ほど思う通りにならないものはない。
 そう思い知ら されたのは、海に出かける前日のことだった。
「明日も出勤、ですか……」
 上司の言葉を反芻した博人は、ここ数日、 やたら機嫌のいい裕貴のことを思い出す。海に行くのを楽しみにしていながら、それを押し隠しているつもりなのだとわかってい るだけに、博人も張り切っていたのだ。
 だが、来月に控えた大事な報告会の内容を詰めるためだと言われれば、休日出勤を 断るわけにはいかない。
「わかりました」
 何事もない顔をして返事をした博人だが、頭の中では、明日はどうしようか ということだけが、ぐるぐると駆け巡っていた。裕貴の残念そうな顔が容易に想像でき、すぐに仕事を再開する気にならない。
 ここで博人はハッとして、ジャケットのポケットをまさぐる。次の瞬間には、何げないふりをして席を立っていた。
  オフィスを出ると、人目につかないようエレベーターホールまで移動し、携帯電話を取り出す。かけた先は、自宅だった。
  裕貴に、明日の海行きがダメになったことを早く告げておこうと思ったのだ。そうしないと、弁当の材料でも買いに行って無駄に なったら、さらに可哀想だ。
 裕貴は自宅におり、仕事中の博人からの電話に驚いていた。
『どうかしたの?』
「い や……、今、急に言われたことなんだが――」
『明日は仕事で、海に行くのダメになった?』
 博人は思わず口元に手を やる。
「……どうしてわかった」
『兄さんが、ものすごく申し訳なさそうな声出してたから、そうかなって』
 さす が弟だなと思ったが、感心している場合ではない。
「悪かったな……。楽しみにしていたようなのに、急に行けないことにな って。もしかして、もう弁当の材料は買ったのか?」
『少しだけ買ったおいたけど、大丈夫だよ』
「そうか。本当にすま なかった」
『そんなに謝らなくていいよ。夏休みは来月いっぱいあるんだし。それに、遊びに行く場所なんて、いくらでもあ るだろ?』
 確かにそうだが、裕貴の期待を裏切ったことが、博人には何よりも堪えるのだ。
 常に裕貴の期待には応え たいし、できれば期待以上のものを裕貴に与えてやりたい。それが、裕貴が生まれたときからの博人の信条だった。
『――悪 いと思ってるなら、今日は早く帰ってこられる?』
「上司にメシにつき合えと言われても、意地でも早く帰ってやる」
  電話の向こうで裕貴が声を上げて笑う。
『明日作るつもりだった弁当の材料で、夕飯作って待ってるよ』
「なんだ、やっ ぱりいろいろと買ってたんだな」
 返ってきたのは、ふふ、という笑い声だった。
 電話を切った博人が一息ついたとこ ろで、こちらに近づいてくる気配に気づく。顔を上げると、可奈子だった。
「黒井さんのああいう顔、初めて見た」
「あ あいう顔?」
 可奈子の香水の匂いに、意識しないまま顔をしかめそうになる。博人はさりげなく携帯電話をポケットに仕舞 うと、コーヒーを買うため可奈子から距離を取った。
「優しい顔。うーん、ちょっと嬉しそうでもあったかな」
「……自 分じゃわからないな」
「もしかして、恋人?」
 可奈子の口調が、露骨に探りを入れるものになる。博人は無視できない 苛立ちを覚えながら、自販機に小銭を入れる。
「弟だ。明日、遊びに連れて行く約束をしていたけど、出勤でダメになったか ら、早めに言っておこうと思ったんだ」
「この間も弟さんのこと言ってたけど、可愛がってるのね」
「ああ。けっこう年 齢も離れてるから、可愛くてたまらない。なんといっても、俺にまったく似てないからな」
 博人が冗談を言ったとでも思っ たのか、可奈子が声を洩らして笑った。博人は最初に買った砂糖とミルク入りのコーヒーを可奈子に手渡し、自分はブラックのコ ーヒーを買う。
「そんなに可愛いなら、一度会ってみたいなあ」
 オフィスに戻りながら、ふいにそんなことを可奈子が 言う。博人はピタリと足を止め、隣の可奈子を見た。その可奈子は、香水同様、甘さを含んだ眼差しを向けてくる。
 博人は、 裕貴の女嫌いについてとやかく言えない。表面を取り繕うのが上手いだけで、実は博人も、心の底では女が嫌いだった。いや、嫌 いという感情すら認識しないほど、興味がない。
「人見知りが激しいんだ。俺と父親以外の人間には絶対懐かない」
「大 丈夫よ。わたし、子供の扱いはけっこう上手いの」
「――その程度の女とつき合ってるのか、と言われたくない」
 冷や やかな口調で博人が告げると、数秒の間を置いて可奈子の顔色が変わる。顔まで強張らせながら可奈子がこちらを見たので、博人 はにこやかな表情で言葉を続けた。
「という、性質の悪い冗談を言いそうなほど、口が悪いんだ。俺の弟は。俺にとっては、 これ以上ないほど可愛いんだけど、他人にとってもそうだとは限らない」
 扱いが難しい子なんだ、と付け加えて、博人はさ っさと一人でオフィスに戻る。
 きっともう、可奈子のほうから積極的に話しかけてくることはないだろうと思うと、妙に清 々しい気持ちだった。
 もちろんこんなことでは、明日の裕貴との約束が反故になった残念な気持ちは晴れはしないのだが。


 あまりの暑さに耐え切れず、ケーキとともに、コンビニでアイスクリームもどっさり買い込んで博人は帰宅した。もちろん主に 食べるのは裕貴だが、博人の性分として、なんでも自分の手で買い与えたいのだ。
「――ただいま」
 靴を脱ぎながら声 をかけたが、ダイニングから返ってくる声はない。それもそのはずで、ダイニングに裕貴の姿はなかった。
 風呂にでも入っ ているのだろうかと思いながら、買ってきたものをひとまず冷蔵庫に入れた博人だが、ここでふと感じるものがあって、リビング へと行く。ここにも裕貴はいなかったが、姿は見えた。
 リビングから見える庭にいたのだ。
「また、妙なことをしてい るな……」
 そう洩らした博人だが、口元には笑みが浮かぶ。
 廊下に出て窓を開けると、その音で振り返った裕貴がパ ッと明るい笑顔を向けてくれた。
「あっ、おかえり」
「ただいま……って、何してるんだ、お前」
 裕貴は、キャン プで使う折りたたみ式のイスに腰掛けていたが、おかしいのはそこではない。足元に、膨らませた子供用のビニールプールがあり、 しっかり水が張ってある。裕貴はそこに両足を浸していた。
 短パンから伸びた白い足が小さく上下に動き、パシャパシャと 涼しげな水音を立てる。
「水遊び」
「……アイスだけじゃなく、水鉄砲も買ってきてやればよかったな。それとも、アヒ ルが浮かぶおもちゃがよかったか?」
 意地悪、と言いたげに裕貴に睨みつけられ、博人は思わず声を洩らして笑ってしまう。
「海に行こうって言われたあと、物置を漁ってたんだ。パラソルやボールを出しておこうと思って。そうしたら、このプール 見つけて。ぼくが子供の頃の写真に写ってたよね? 破れてなくてよかったよ」
「俺が抱えて、お前をこのプールに入れてた。 お前、水を怖がって、俺にしがみついて離れなかったんだぞ」
「よかったね。そのぼくが、こんなに大きく育って」
 小 悪魔らしい、生意気な発言だが、博人は大まじめで応じた。
「そうだな。お前の心臓が悪いと聞かされたときは、俺は弟を連 れて、海やプールで一緒に泳ぐこともできないのかと、ショックを受けたもんだ」
 裕貴は大きな目を見開いてから、今にも 泣きそうな顔をした。泣かせるつもりはなかっただけに、博人は慌てて窓から離れる。
「ちょっと待ってろ。アイス買ってき てやったから」
 一度ダイニングに引き返した博人は、少し考えてから、靴下を脱ぎアイスクリームとイスを持って庭に戻る。
 サンダルを履く博人を、裕貴は驚いたように見つめたあと、嬉しそうに笑った。
「アイスで機嫌直せってこと?」
「お前は昔から、甘いものを頬張ってたら、基本的にニコニコしてたからな」
 アイスクリームを裕貴に手渡すと、博人はそ の裕貴の隣にイスを置いて腰掛ける。スラックスの裾をたくし上げて裸足になると、裕貴のまねをしてビニールプールに足を浸し た。
 会社から自宅までの道のりで疲れた足に、少しぬるくなっているとはいえ、水の感触が心地いい。
「裕貴、海は来 月になったらすぐに――」
「プールでいいよ」
 博人は、まじまじと裕貴の横顔を見つめる。スプーンを舌先でペロリと 舐めた裕貴は、爪先で水を掻くようにしながら言った。
「海じゃなくていい。疲れるしさ。だから、近所のプール行こうよ」
「裕貴……」
「気をつかってるとかじゃないよ。ぼくは、兄さんと出かけられるんなら、どこだっていいんだ」
 大 きく息を吐き出した博人は、込み上げてくる気持ちをどうすればいいのかわからず、とりあえず裕貴の頭を撫で回す。くすぐった そうに肩をすくめた裕貴が声を上げて笑った。
「どうしたの、突然」
「……俺の弟は、どうしてこんなに素直で可愛いん だろうかと、感動してるんだ」
「他の人にそんなこと言わないでよ。うわっ、ブラコンっ、と思われて、兄さんがモテなくな るから」
「いいさ。最初からモテないんだし」
 博人はゆっくりと目を細め、指先で裕貴の耳に触れる。柔らかで繊細で、 簡単に壊してしまいそうで怖くもあるのに、反面、その感触が狂おしいほどに愛しい。
 そっと肩先を撫でると、裕貴がスプ ーンで掬ったアイスクリームを口元に持ってくる。博人はちらりと笑って素直に食べさせてもらった。
「お前は、俺の弟であ る限り、遠慮なんてするなよ。俺はお前を甘やかすことが、楽しくて仕方ないんだ」
「そんなこと言って、すぐに後悔しても 知らないよ。――お兄ちゃん」
 中学生になってから、一度もそう呼んでくれなかったのに、この状況で呼ぶのは反則だ。
 博人は緩みそうになる口元を懸命に引き結びながら、手荒く裕貴の頭を抱き寄せた。










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[6]  Sweet x Sweet  [8]