Sweet x Sweet

[10]

  それから三日間は、裕貴の周囲におかしなことはなく、ベランダで眺める限りでも不審な人物を見かけることもなかったらしい。
『らしい』と付くのは、あくまで啓太郎が、裕貴から電話で聞いただけだからだ。
 つまりこの三日間、啓太郎はやはり会社に泊まり込んで仕事をしていた。プロジェクトさえ済めば、当分はこの地獄から逃れられるというのが、数少ない支えだ。
 とにかく、何事もないのならそれでいい。マンション前で見かけた人物も、たまたま別の誰かの部屋を見上げていただけなのだろう。
 裕貴が誰のことを気にかけていたのかは、いまだに心に引っかかってはいるのだが。
 ダウンジャケットを着込んだ啓太郎は鏡を覗き込み、自分のしかめっ面をなんとか元に戻すと、手袋をポケットに押し込む。これで出かける準備は完璧だった。
 玄関を出た啓太郎が向かった先は、当然、裕貴の部屋だ。
 インターホンを押すと、感心なことに、啓太郎と同じく、出かける準備を整えた裕貴がドアを開ける。ただし、表情は啓太郎の訪れを喜んでいるというより、明らかに呆れている。
「――……啓太郎って、体力バカ?」
 部屋に上がった啓太郎に対しての、裕貴の開口一番の言葉はこれだった。
「相手がお前じゃなかったら、泣かすぞ。三日ぶりに仕事から生還して、なおかつお前を散歩に連れて行ってやろうとしている俺に対して、いきなり『バカ』はねーだろ」
「いーや、バカだね。啓太郎は体力バカ」
 バカを連発しながら裕貴はダイニングの隣の部屋へと行き、見覚えのないダッフルコートを取り上げた。
 外に出ないくせに、意外に裕貴は服を持っている。
 思わず啓太郎は関係ないことを考えしまう。今着ているセーターだって、いかにも値段が高そうで、触り心地がよさそうだ。一方の啓太郎は、仕事の忙しさを理由に、服はあまり買わない。せいぜい、ワイシャツやTシャツの種類を揃えるぐらいだ。
「だいたい、仕事から帰ってきたの、今朝早くだったよね? 今、昼前だけど、寝たの?」
「俺は、二、三時間寝たら体力が回復できるんだ」
 さすがに今朝早くに帰ってきたときはフラフラだったため、裕貴の部屋に寄ることはできなかったのだが、ベッドに潜り込んだとき、力を振り絞って裕貴に携帯メールを送っておいたのだ。『昼メシの前に、一緒に散歩に行くから準備しておけ』と。
 まだ何か準備があるのか、裕貴は部屋を行き来する。何かと思っていると、クロゼットからニットキャップを取り出した。これも、初めて見る色合いだ。
「で、また明日から会社に泊まり込み?」
 こちらに背を向けてニットキャップを被りながら裕貴が問う。見えないとわかっていながら啓太郎は、反射的に首を横に振っていた。
「いや、今日の夕方から泊まり込み」
 マジ? と言って裕貴が振り返ったが、その顔を見て啓太郎は一瞬固まる。
「……お前、その顔……」
 裕貴はニットキャップを被っただけでなく、マスクまでしていたのだ。顔の半分以上がマスクで隠れ、しかも長い前髪のせいで両目もほとんど隠れている。どこから見ても、裕貴自身が立派な不審者だ。
「マスク、要るのか?」
 啓太郎の問いかけに、裕貴は頷く。
「咳がまだ少し出るからね。それに……誰に会うかわからない」
 こう言われると、啓太郎としてもマスクを奪い取るわけにはいかない。裕貴が本当に心配しているのは、後者のほうだろう。まだ、警戒しているのだ。
 そんな裕貴を三日間、仕事のためとはいえ放っておいた啓太郎は心が痛む。
「散歩、やめてもいいんだぞ?」
 啓太郎の言葉に、裕貴はマスクを下ろしてニヤリと笑った。
「おれの体力作りだろ? いいよ、啓太郎と一緒なんだから。ただし、人が少ないところを通ってよね」
 マスクをかけ直した裕貴に腕を取られて玄関に向かう。
 エレベーターに乗り込むまでは平気そうな様子だった裕貴だが、さすがにマンションを出るときは慎重に辺りをうかがい、なかなか歩き出そうとはしなかった。その姿はまるで、臆病で神経質な猫そのものだ。
 小走りで啓太郎の元に駆け寄ってきた裕貴が、ポフッと軽くぶつかってくる。目が合うと、裕貴が笑いかけてきた。――多分。
 このとき啓太郎は、仕事の疲れは取れていないものの、裕貴を散歩に連れ出してよかったと思った。散歩の折り返し地点にはしっかり美味しいパン屋を設定してあるので、パンを買って帰るつもりだ。
 たかが散歩に土産を買って帰るとは、自分はずいぶん裕貴に甘いと思いながらも、啓太郎はこの予定にかなり満足していた。

 散歩は非常に順調で――この表現も、よく考えればおかしいが――、裕貴をパン屋に引っ張り込んで好きなパンを選ばせることにも成功した。
 普段なら嫌がっただろうが、他人からどう見られても気にしない裕貴は、マスクをして顔を隠しているという安心感があったのだろう。もっともこの時期、マスクをしている人間はそう珍しくはない。
 これだけ華やかな存在感を持っていながら、どうして自分を隠すように振る舞いたがるのか啓太郎には裕貴の考えはわからないが、こうして過ごす時間を楽しんでいるのなら、それで満足だった。
 裕貴のことをもっと知っていくのに、焦る必要はないだろう。
 勢いよくパン屋の袋を振り回して歩いている裕貴の後ろ姿に笑みをこぼし、早足で近づいてニットキャップの上から軽く頭を叩く。
「お前、あんまり振り回すとパンの形が変わるぞ」
「味が変わんないなら、別にいいよ」
「……いや、よくないだろ。俺だって食うんだから」
「あっ、ついでにコンビニで肉まん買ってきてよ」
 裕貴がコンビニを指さして声を上げ、啓太郎は口中で空しく呟く。
 人の話を聞け、と。
 結局、裕貴を外で待たせて、啓太郎だけがコンビニに入って肉まんを買ってくる。袋を押しつけると、嬉しそうに裕貴は袋を抱えた。
 こうして、何事もなく散歩は終わろうとしたが、マンションの前まで来たところで啓太郎はすぐに気づいた。
「あれは――」
 咄嗟に裕貴の腕を掴んで足を止めさせる。
「何?」
 尋ねてきた裕貴にある方向を示し、啓太郎は意識しないまま険しい表情となる。
 見覚えのある光景だった。マンションの前に立ち、部屋を見上げるスーツ姿の男――。
 見覚えがあるどころではない。啓太郎が数日前に見かけた男と同一人物だった。
「おい、裕貴、こっちに……」
 来い、と言う前に、裕貴が腕を掴んできた。この瞬間啓太郎は、裕貴が男を知っているのだと察した。
 二人の気配に気づいたのか、マンションをじっと見上げていた男も前触れもなくこちらを見る。男の視線はまっすぐ裕貴を捉えていた。
 冷たく見えるほど整った顔に表情らしい表情も浮かべないまま、男が足を踏み出し、近づいてくる。感じるものがあった啓太郎はすかさず裕貴を自分の背後に隠していた。本能的に、裕貴と男を会わせてはいけないと思ったのだ。
 何も言わないまま男が目の前に立ったとき、啓太郎の背後に隠れていた裕貴が弾かれたように走り出そうとしたが、啓太郎が反応するより先に、男が素早く動いて裕貴の腕を掴んだ。
「――逃げるな、裕貴っ」
 男は、さほど大きくはないが腹に響くような低く鋭い声を発した。すると、まるで雷にうたれたように体を大きく震わせ、裕貴が動きを止める。そして怯えたように男を見た。男は無造作に、裕貴の顔からマスクを奪い取った。
 啓太郎はすぐに男の手を裕貴から引き剥がそうとする。
「おい、何してるんだっ」
 しかし男の力は強く、啓太郎が無理強いをすると裕貴の腕のほうがどうにかなってしまいそうな危惧を覚える。
「手を放せ。警察を呼ぶぞ」
 思わず出た言葉に敏感に反応したのは男ではなく、裕貴のほうだった。目を見開いて唇を震わせると、顔色を変えて首を横に振ったのだ。
「違うんだ、啓太郎っ……。この人は――」
 そこで裕貴は言葉を切り、その一言を告げるのがひどく苦痛だという顔をする。
「……おれの、兄さんなんだ……」
 予想もしなかった事実を告げられ、啓太郎の頭は軽く混乱していた。多少なりとも面影が似ていればすぐに納得できたのかもしれないが、あまりにこの兄弟は――裕貴と男は似ていない。
 いや、似ていない兄弟など、この世にはいくらでもいる。それよりも、裕貴と男の間に流れる空気が異常なのだ。他人行儀でよそよそしい。
 裕貴はまだ逃げたそうな素振りを見せているが、兄という男から向けられる鋭い視線に射すくめられているのか、動きも表情もぎこちない。
 そのぎこちない動きで、自分の腕を掴んでいる男の手を押し退けようとする。
「兄さん、腕痛い……」
 普段の生意気で皮肉っぽい、だけど憎めない口調は影をひそめ、消え入りそうな声で裕貴が訴える。男はゆっくりと手を放しはしたものの、逃がすつもりはないと言いたげに、じっと裕貴を見つめている。
 啓太郎は、そんな兄弟を交互に見ているしかなかった。

 妙なことになったと、そっとため息を洩らした啓太郎は、ダウンジャケットの袖をくいっと引っ張られて我に返る。隣を見ると、緊張のためかいつも以上に青白い顔色となった裕貴が、申し訳なさそうな上目遣いで見つめてきていた。
 こいつでもこんな殊勝な顔をするのだと、啓太郎は笑みを向ける。
 場所がエレベータの中で、しかも裕貴の兄――黒井博人と名乗った男が目の前に立っていなければ、裕貴の肩を抱き寄せるところだ。
 三人がこれから向かうのは裕貴の部屋だった。
 本来なら、裕貴と博人の二人きりで話すのが当然なのだろう。博人もそのつもりのようだった。だが裕貴が、どうしても啓太郎が一緒でなければ部屋には入れないとマンションの前で言い張り、結局博人が折れる形となったのだ。
 もう一度隣に視線を向けると、裕貴は博人の広い背を警戒心剥き出しの顔で見つめていた。
裕貴のこんな様子を見てしまうと、やはり啓太郎としては、兄弟だけで話したほうがいいとは言い出せなかった。
 会話もないまま裕貴の部屋に移動したが、ダイニングで啓太郎はドキリとする。テーブルの上には、誰にも言えない裕貴との関係を何よりも表した貯金箱が置いたままなのだ。やたらお札の多い貯金箱、だ。
 博人も貯金箱に気づいたのか、じっと見つめている。
 あまり表情を変えない男だった。無表情が顔に張り付いているようで、裕貴への接し方といい、初対面の印象同様、冷たい男だと思う。
 啓太郎と博人はダイニングに立ち尽くしたままだが、裕貴は隣の部屋に行ってダッフルコートを脱ぎ、ニットキャップを取ると、いつも使っているイスを抱え上げようとする。ダイニングのテーブルにはイスは二脚しかないため、デスクのイスも使おうとしているのだ。
 裕貴に力がないことを知っている啓太郎は手伝おうと動きかけたが、それより先に、スッと博人が裕貴に近づき、イスを持ち上げた。
「テーブルに持っていけばいいのか?」
 博人が話しかけると、一拍置いてから裕貴は頷く。このときの仕種がなんだか幼く見え、やっと啓太郎の中で、裕貴と博人が兄弟なのだと実感のようなものが生まれ始める。
 ふと博人がベッドに視線を向け、わずかに目を細めた。初めて見せた柔らかな表情だ。
「――お前、まだ使っているんだな」
 裕貴が慌てて取り上げたのは、いつも羽織っている大きめのカーディガンだった。
「たまたまだよ。……引っ越したときに紛れ込んだから、新しく買うのも面倒だし、使っているだけだ」
「お前が高校生のときに、俺に貸してくれと言って、そのまま返してくれなかったんだ。そのカーディガンを」
 兄弟の会話を聞いて、啓太郎の気持ちは一気に重くなった。交わされる会話に入れないことに寂しさを覚えたというのもあるが、何より効いたのは、裕貴にとってカーディガンがどんなものなのかわかったからだ。
 裕貴の博人に対する態度はともかく、カーディガンを羽織っている裕貴の姿を見てきた啓太郎としては、これだけは認めざるをえなかった。
 裕貴は決して、博人を嫌っているわけではないと。そのことが、啓太郎の気持ちを重くするのだ。
 カーディガンをベッドに投げ置いた裕貴は、二人に座って待っているよう告げて、逃げるようにキッチンに行き、コーヒーの準備をする。
 最後の足掻きのように博人から距離を取ろうとしているように見えるが、啓太郎の勘繰りすぎかもしれない。
 立っていても間が持たないので、ダウンジャケットを脱いだ啓太郎がイスに腰掛けると、博人もコートを脱いで正面に腰掛ける。この位置は、非常に気まずかった。まともに正面から博人の顔を見ることになるのだ。
「失礼ですが――」
 前触れもなく博人が口を開く。啓太郎は反射的に姿勢を正していた。
「はい」
「お名前をうかがってもよろしいですか」
 パッと裕貴が振り返り、博人を睨みつける。マンションの前で短く会話を交わしたときも、啓太郎に対して物言いたげな様子だった博人を、裕貴はこんなふうに睨みつけて牽制していたのだ。
 あえて隠すほどのことでもないので啓太郎は頷く。ちなみに博人からはさきほどマンションの下で、名刺を受け取っている。じっくり眺めるまねはしなかったが、大手の銀行名と役職が記されていた。
「羽岡、啓太郎です……」
 あとは何を言えばいいのかと戸惑う。視線をさまよわせると、啓太郎のその行動をどう受け取ったのか、博人が表情を変えないまま言った。
「似ていない兄弟だと思っているでしょう?」
「あっ、いえ……」
「裕貴とは、八つ違いの兄弟です。裕貴はあのとおり子供っぽく見えて、わたしは老成して見えるので、実際以上に年齢差があって、さらに似ていないと思われるようです」
 八つ違いということは、博人は三十一才ということになる。それにしては落ち着いており、迫力もある。啓太郎は二十八才だが、あと三年で自分が、博人ほどの落ち着きや渋さを兼ね備えられるとは到底思えなかった。
「すみません、俺は今、名刺を持ってなくて。なんなら、部屋は隣なので取ってきますけど」
 啓太郎がこう答えると、一瞬博人の眼差しが鋭くなった気がした。
「隣、なんですか?」
「……ええ」
「だったら、大変でしょう」
「えっ」
 博人は唇だけの笑みを浮かべたが、酷薄そうな印象はあまり変わらない。その博人が裕貴に視線を向けた。
「裕貴は昔から、親しくなった相手にはとことん甘えるんですよ。そういうのに慣れてない人は、まず戸惑う」
 あれは甘えていることになるんだろうかと、啓太郎はこれまでの裕貴とのやり取りを思い返していたが、いつの間にか振り返った裕貴に睨みつけられ、慌てて意識を切り替える。
「兄さん、この人に余計なこと言うなよ。それでなくても、単純でからかいやすい人なんだから」
「失礼だろう。世話になっている人にそんなことを言うな」
「世話、ねえ……」
 意味ありげに裕貴に見つめられ、ドキリとした啓太郎はまるで弁明するかのように早口に告げていた。
「いやっ、世話になっているのは俺のほうです。よくメシを食わせてもらっていますから。時間が不規則な仕事をしていて、それが裕貴――くんの生活時間帯と合うので、つい甘えてしまうんです」
「お仕事は何を?」
 なんでもない質問なのだが、博人に言われると、まるで尋問されているように感じる。それは、裕貴の兄だからということで感じる罪悪感ゆえなのか、博人自身の怜悧で冷ややかな雰囲気によるものなのか。
 おそらく、両方の理由だろう。啓太郎は心の中でそう結論を出す。
 引きこもり青年とすぐに親しくなれた啓太郎だが、実は博人のようなタイプは、こちらの考えを見透かされそうで苦手なのだ。
 ここで陶器を乱暴に置いた音がする。コーヒーカップを準備する裕貴が立てたのだ。背を向けているのに、どんどん裕貴が不機嫌になっていくのがこちらにも伝わってくる。
 裕貴は裕貴で、博人が啓太郎に質問をするのが嫌なのた゜。
「……SEです。システム・エンジニア」
「ああ。確かに時間が不規則な仕事ですね」
 ふいに沈黙が訪れ、お湯の沸く音だけが静かに響く。
 所在なくテーブルの上を凝視し続けていた啓太郎は、思い切って視線を上げる。なんとか会話のきっかけをと意気込んでいたのだが、拍子抜けした。博人は、怖いほど真剣な目で裕貴の後ろ姿を見つめていたのだ。とても声をかけられる雰囲気ではない。
 そのまま二人とも沈黙していると、やっと裕貴が三人分のコーヒーを入れてテーブルについた。
「――……なんで急に、ここに来たんだよ。二年も、ほったらかしだったくせに」
 カップを覗き込んだまま裕貴が口火を切り、博人は口元に淡い苦笑を浮かべる。すると、自然に目元も優しくなった。
「ほったらかしてないだろう。わたしはずっと、お前を気にかけていた。そのわたしを遠ざけていたのは、お前のほうだ」
「……何日か前に、マンションの前で啓太郎が会った怪しい男って、やっぱり兄さんのことなんだろ」
 博人がちらりとこちらを見たので、反射的に啓太郎は背筋を伸ばす。寸前まで裕貴を優しい目で見ていたというのに、啓太郎を見る目は元の冷ややかな眼差しへと戻っていたのだ。
「ああ。確かに羽岡さんとはマンションの前で会った。それ以前に、彼とは多分、千沙子も会っているはずだ。千沙子から聞いた印象が、羽岡さんと一致する」
「あの人によく言っておいてよ。ここには絶対来るなって。あの人鈍感だから、おれがどれだけ嫌っているか、まだわかってないみたいだし」
「裕貴」
 刺々しい裕貴の言葉を、博人は一言、名を呼ぶだけで止めてしまう。裕貴は長い前髪の間から博人を睨みつけてからカップに口をつけた。
 他人には入っていけない会話を交わす二人を眺めながら啓太郎は、裕貴がひどく苛立っていると思った。怒っているというわけでもなく、かまってほしいから、わざと機嫌が悪いふりをしているふうでもない。とにかく苛立ち、落ち着かない。
 なんとなく裕貴に手を伸ばして頭でも撫でてやりたくなったが、裕貴の実の兄である博人の前でそんな大胆なことをするわけにもいかない。
 そのとき啓太郎の目の前で、思いがけないことが起こった。
 博人が片手を伸ばし、裕貴の長い前髪を指先でスッと掬い上げたのだ。驚いたように裕貴が目を見開き、数秒ほど体を硬直させたあと、鋭く博人の手を払いのけた。
「触るなっ」
 一瞬にして裕貴の頬が赤くなる。それほど激しく感情が高ぶったのだ。一方の博人は慌てた様子もなく、あっさり手を引いた。
 痛いほどの沈黙に、気まずさを覚えた啓太郎はどちらともなく尋ねた。
「……あの、千沙子さん、というのは?」
 裕貴がプイッと顔を背けたので、博人が答えてくれる。
「わたしの妻です」
 微かに裕貴の体が震えたように見えたが、啓太郎の気のせいかもしれない。
「だったら奥さんも、裕貴くんを心配して、様子を見に?」
「ええ。裕貴は千沙子を苦手にしているので、ここには来ないよう言ってあったんですが、外を歩く裕貴とあなたの姿を見て、状態がよくなったと思ったらしいです」
「状態というのは、引きこもっていること――……」
 すかさずテーブルの下で裕貴に脛を蹴り上げられ、啓太郎は小さく呻き声を洩らす。軽く眉をひそめて博人は言葉を続けた。
「裕貴は引きこもり始めてこの二年、家族の誰とも会おうとはしなかったんです。だからわたしたちは、離れたところから気づかれないよう見守るのがせいぜいでした。そうはいっても、この子は部屋にこもったままなので、様子を知ることすらできなかったんですが」
「だから兄さんは、おれが生きてるかどうか確かめるために、『あれ』を始めたんだ」
 皮肉っぽく唇を歪めた裕貴が指で示したのは、隣の部屋にあるパソコンだった。
「おれがネトゲしてるの知ってるだろ? だいたいログインする時間は決まってるから、兄さんも自分のキャラを作って、どきどきログインしてくるんだ。現実では会えないからって、ゲームの世界でおれに会おうってわけ。この人、ゲームになんてさっぱり興味ないくせに。
だからいつ会っても、キャラのレベルなんて上がってないんだよ」
 啓太郎はあ然としながら、裕貴と博人を交互に見る。
 覚えがあった。裕貴と特別な関係を結んだばかりの頃、裕貴がネットゲームをしていて、突然ログアウトしたことがある。あのとき確か、青年の姿をしたキャラが裕貴のキャラに話しかけていた。
 話しかけてきたキャラの中の人間を知っている素振りだと思ったが、あのキャラを操作していたのが、博人だったのだ。
「……でも、MMORPGって、サーバーがいくつも分かれてるんだろ。そこにたくさんの人間がログインしてるんだから、一人の人間を探すのは難しいんじゃ――」
「一緒に暮らしている頃から、裕貴があのゲームをしていたのはもちろん、サーバーもキャラ名も知っていましたから、あとはログインして検索すればいいだけなんです」
 ネットゲームなど触ったことがないといった感じの博人の口から、こういうことを説明されると妙な感じがする。興味はなくても、弟と接触するために必死なのだ。
 いい兄さんじゃないかと思う啓太郎だが、裕貴は不機嫌そうな表情を変えない。それに警戒したように博人を見ているのだ。
「結局、おれが外に出ていたっていうだけで、感動して様子を見にきたわけ?」
 側で聞いている啓太郎のほうがハラハラするような裕貴の物言いに対しても、博人は表情を変えない。
「風邪を引いたそうだな」
「……誰に聞いたんだよ」
「あの病院で、わたしの友人が医者として働いている。マスクをしたお前を見かけたと言って連絡をくれたんだ。それで心配してマンション前まで来たときに、羽岡さんに会った」
 裕貴はますます不機嫌そうな顔をすると、袋の中から肉まんを出してかぶりつくが、博人は言葉を続けた。
「病気したときは、連絡してこいと言ってあっただろう。そういうときに意地を張るものじゃない」
「自分で病院も行けたんだから、必要ないよ」
「でも、羽岡さんにも面倒をかけたんじゃないのか?」
 何か言いたげに裕貴はパッと顔を上げたが、啓太郎の顔を見て唇を引き結ぶ。裕貴なりに、啓太郎に面倒をかけたと感じたらしい。代わって啓太郎が、裕貴を庇うため口を開く。
「俺は面倒なんてかけられてません。気がついたら、裕貴は――裕貴くんは一人で病院に行って、おとなしく寝ていましたし。俺がしたことなんて、差し入れ程度に飲み物を買ってきてやったぐらいです」
 啓太郎の発言をどう取ったのか、博人は軽く息を吐き出してから、優しい声で裕貴に話しかけた。
「――心臓は診てもらったか?」
 拗ねた子供のように裕貴はわずかに顔を背ける。
「友人だっていう医者に聞けばいいだろ……」
「お前が目の前にいるのにか」
 博人の言い方を聞いていると、さすがに裕貴の扱いを心得ていた。
「……心臓はピンピンしてる。わかってるだろ。おれの心臓がもうとっくに普通の人と同じだってこと」
「わかっているけど、やっぱり心配だ。何かあった拍子に、お前の心臓がびっくりして、お前を苦しくさせるんじゃないかってな」
 裕貴に語りかける博人を見ていると、冷ややかな印象はずいぶん変わる。弟に対する態度というよりまるで、子供を甘やかす優しい父親のようだ。
 啓太郎は心の中で、ああそうか、と洩らす。裕貴を海に連れて行ったときに話してくれた内容を思い出していた。
 心臓が弱いため遠足や林間学校といった学校行事に参加できない裕貴を、あとでタクシーで同じ場所に連れて行ってくれたという『うちの人間』は、ほぼ間違いなく博人だろう。
 あの話を聞いて啓太郎が感じたのは、裕貴を大事に大事にしているという深い愛情だ。
 そこまで大事にしてくれる兄から、裕貴はなぜさきほど、マンション前で逃げようとしたのか――。
 この場では完全に部外者である啓太郎は、質問を挟むこともできず、目の前で交わされる兄弟のやり取りを見ているしかない。
 裕貴は手にしていた肉まんを置くと、首を傾げて博人を見た。
「おれの心配してたんなら、マンションの前で啓太郎と会ったとき、どうして上がってこなかったんだよ」
「わたしが訪ねて行ったら、お前はドアを開けてくれたか?」
「……開けなかった」
「だからだ。今日も上がらないで帰るつもりだったが、お前と会ったからな。いいきっかけだと思ったんだ。それに、お前には言いたいことは山ほどあるが、特に言いたいことがある」
「何?」
「――そろそろうちに帰ってこい。わたしたちの実家だ。誰かが住んでいないと荒れてしまう。あそこの家なら、わたしが今住んでいるマンションからも近いから、毎日様子を見てやれる」
 じっと会話を聞いていた啓太郎だが、この瞬間、心臓を鷲掴みにされたような衝撃を受け、思わず息を止める。
 裕貴がいなくなるかもしれないということが、自分でも意外なほどショックだったのだ。全身の血の気が引きそうだった。
 すかさず裕貴に視線を移すと、気持ちが揺れているのではないかと心配する間もなく、きっぱり裕貴は言い切った。
「嫌だ。おれは、戻らない」
 博人は無表情に裕貴を見つめ、裕貴も睨みつけるように見つめ返したあと、ふいっと顔を背け、また肉まんを手にして、半ば自棄のように口に押し込み始める。
「もう二年だぞ。いつまでこんな生活を続けるんだ」
 怒った様子もなく博人は言うが、裕貴は露骨に聞こえていないふりをした。すると博人がちらりと啓太郎を見る。何事かと啓太郎は眉をひそめたが、すぐに博人の視線は裕貴へと戻った。
「あまり……他人がいるところで込み入った話をするつもりはないから、今日はわたしは口うるさく言うつもりはない。こうしてお前が部屋に上げてくれたんだしな」
 他人、という単語に疎外感を覚え、無意識に啓太郎は顔をしかめそうになる。そんな自分の姿に気づき、慌てて冷めかけたコーヒーに口をつけた。
 疎外感どころか、ムッとすらしてしまったが、博人の言うとおりだ。この場において啓太郎は、他人以外の何者でもない。
「……心配しなくても、今日も十分口うるさいよ」
 ぼそぼそと裕貴が応じると、博人は微かに苦笑を洩らした。
「だったらついでだ。もう一つ言わせてくれ」
「説教なら聞かない」
「今月――クリスマス前後ぐらいだな、父さんが戻ってくるぞ」
 これには裕貴は驚いたらしく、目を丸くする。
「生きてたんだ」
 性質の悪い冗談だが、博人は低く声を洩らして笑った。兄弟の間では、このぐらいの冗談は当たり前のようだ。
「久しぶりに日本に戻ってくるんだから、そのときぐらいお前が家にいてやれ。ここにいるのも、あの家にいるのも変わらないだろう?」
 諭すような博人の口調に対し、なぜか頬を紅潮させた裕貴は、視線を伏せがちにしながら、低い声でぼそぼそと言った。
「……あの家は、嫌だ……」
 なぜ、とは博人は聞かなかった。聞かなくても薄々察しているようだ。この瞬間にまた、啓太郎は疎外感を味わう。
 裕貴が博人と一緒にいる場面を見ていると、胸がムカついてくる。できることならこの場から立ち去りたいが、反面、この兄弟が何を話すのか知りたいのだ。
 博人が口を動かしかけたとき、突然、聞き覚えのない携帯電話の着信音が響き渡る。即座に反応した博人はジャケットのポケットから携帯電話を取り出し、着信を確認すると、あっさりと電源を切ってしまった。行動のためらいのなさに、啓太郎は驚く。
 裕貴は冷ややかな目で博人を見ていた。
「電話、千沙子さんだろ。出なくていいの?」
「用件はわかっている。今日はこれから、千沙子の両親と一緒に食事だ。普段わたしが忙しいからと言って相手にしないせいで、休みの日は大変だ」
「ふうん。いい夫をしてるんだ」
 含みのある言い方をして裕貴がテーブルに肘をつく。裕貴のその態度を見て、啓太郎はあることを思い出していた。裕貴の部屋の前で会った、博人の妻だという千沙子のことだ。
 そんな相手を裕貴は容赦なく『ストーカー』呼ばわりしたのだ。それが例えだったとしても、辛辣であることに変わりはない。博人との会話でも感じるのは、裕貴の、千沙子という博人の妻に対する敵意や嫌悪といったものだ。
「『あれ』も、お前のいい義姉になろうと必死なんだ。その気持ちはわかってやれ」
「あの人は兄さんの奥さんであって、おれとはなんの関係もない人だ。そっちはそっちで仲良くやってるんなら、いいだろ」
「……もう二年だ。お前も気持ちが落ち着いたんじゃないのか?」
 また、『二年』だ。裕貴と関わっていると、よくこの言葉を聞く。二年前に何かがあって、おそらくそれが、裕貴が引きこもる原因となったのだ。
「落ち着いたからって、どうなるんだよ」
 吐き出すように言った裕貴が唇を歪める。今は何を言っても頑なにさせるだけだと察したのか、博人はわずかに目を細めて、気遣うように裕貴を見つめた。
「今日はもう帰るが、また来るからな。今度も、部屋に入れてくるな?」
 裕貴は頷かなかったが、それはつまり、拒絶ではないということだ。
 立ち上がった博人がコートを羽織って帰ろうとしたが、何かを思い出したように裕貴の傍らに立ち、何事かといった様子で裕貴が博人を見上げる。
 二人の様子を見ていた啓太郎は、次の瞬間、目を丸くしていた。
 何も言わず博人が、裕貴の不揃いな髪を掻き上げる。このとき冷ややかな表情が印象的だった博人は、非常に優しい眼差しを弟である裕貴に注ぎ、次いで宝物にでも触れるような手つきで頬を撫でた。
 その手の動きに、見ている啓太郎のほうが胸の奥がざわつき、妖しいものを刺激される。見てはいけないものを見てしまったような、そんな後ろめたさすら覚えていた。
 動揺する啓太郎とは対照的に、当人たちは普通の口調で会話を交わす。
「相変わらず痩せて、顔色は青白いが、きちんと食べているか?」
「心配しなくても、自炊はしてるよ。顔色が青白いのは、単に日光を浴びないからだ」
「そうか。お前は昔から几帳面だからな」
「誰に似たんだかね」
 博人は微かに笑って、相変わらず裕貴の頬を撫でながら、髪を掻き上げたせいで露わになった白い耳を指先でなぞった。その指先の動きが愛撫のように見え、艶かしい。
 この兄弟は決して、仲が悪いわけではないのだと啓太郎は肌で実感していた。裕貴はずっと避けていたようだが、そうしていたのが不思議なぐらい、一緒にいる空気に違和感がない。
仲が悪いどころか、むしろ普通の兄弟よりもずっと仲がいい――いや、親密と言っていいかもしれない。
 今になって啓太郎は、この場に残った自分の判断を後悔していた。
 疎外感どころか、心の奥底からドロリとした重苦しい感情が湧き上がってくるのを感じていたのだ。
 その感情を、多分、嫉妬と呼ぶ。









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