Sweet x Sweet

[12]

 システムのカットオーバーを間近に控え、啓太郎の仕事はまさに、毎日が瀬戸際の状態だった。追加のオプションを組み込んでいるうちにどんどん納期が迫ってきて、十二月に入ってからは、現場で誰ともなく悲鳴を上げる忙しさだ。
 年末はギリギリまで作業を続け、年明けも、正月休みがどれだけ取れるかまったくわからず、あるいは一日もないかもしれない状態もありうる。
 そこまでしてサイトのオープンに間に合ったとしても、システムが客の注文を処理する傍らで、啓太郎たちがシステムのバグを処理していくという、笑うに笑えない事態になるかもしれない。
 最悪の事態を想像するたびに、キーボードを叩く啓太郎の首筋をヒヤリとした感触が撫でていく。
 もっとも、仕事が大変なのは今に始まったことではない。諦観とも達観ともいえる感情は、もう啓太郎の友人のようなものだ。
 そんな啓太郎が今何よりも気にかけているのは、手がけているプロジェクトの進行ではなく――。
 キーボードを叩く手を一度休め、眠気覚ましのブラックコーヒーをグビッと飲むと、必需品である目薬を点す。一時間後に多少の体力が残っていれば、いつものようにサウナに行こうと思いながら、啓太郎は携帯電話を取り出す。
 今この瞬間、ものすごく裕貴にメールを送って確認したかった。
 今日も、博人は部屋に来たのか、と。
 博人の裕貴に対する過保護ぶりを過小評価していたと思い知ったのは、昨日だった。啓太郎はコーヒー以外のものによる苦みを舌の上に感じながら、軽く眉をひそめる。
 昨日、五日ぶりに帰宅したときの出来事を思い出し、そして、今後のことについて予言めいた危惧を感じたのだ。
 休憩と言うには重々しい気持ちで仕事の手を休め、啓太郎は昨日の裕貴とのやり取りを思い返す。


 五日ぶりに姿を見せた啓太郎の顔を見るなり、裕貴は同情の表情を浮かべつつ、まるで犬猫でも可愛がるかのような手つきで、不精ひげの生えた頬を撫でてきた。
「――啓太郎ってさ、長生きしそうにないよね」
 開口一番の裕貴の言葉に、啓太郎は力なく笑う。
「お前、顔を合わせた早々、不吉なことを言うな」
「だってさー、なんかもう、死相が出てるって、きっと今の啓太郎みたいな感じなんだと思うよ」
「だったら、俺を生き返らせるために、美味いもの食わせてくれ。会社に泊まり込んでから、コンビニのおにぎりとサンドイッチしか食ってない」
 いいよ、と答えた裕貴がさっそくダイニングに向かおうとしたので、思わず啓太郎は腕を掴んで引き止める。不思議そうな顔をして振り返った裕貴は、一人で納得したように頷き、いきなり両腕を伸ばして抱きついてきた。
 驚いた啓太郎は、反射的に裕貴の体を受け止める。
「おい――」
「新婚コースがいい、って啓太郎の顔が言ってるから、抱きついてみた。わかる? 啓太郎が帰ってきて嬉しい、を表現してみました」
「……口で説明されると、ああそうか、と答えるしかないよな」
 つまり今のこの状況は、疲れて帰ってきた夫を迎える新妻、ということになるのだ。
 こういうバカバカしいやり取りも、やっと帰ってこられたのだと実感できる演出の一つではあるのかもしれない。
 しがみついてくる裕貴の感触を心地よく思いながら、啓太郎は口元に笑みを浮かべる。
 自分の部屋に戻らず、直接裕貴の部屋に寄ったので、啓太郎の手にはまだアタッシェケースがある。それを足元に置くと、ママゴトの延長上とはいえ、しっかりと抱きついてくる裕貴の抱擁に応えるため、啓太郎も抱き締め返す。
 二人しかいない部屋で、誰も知らないからこそできる、秘密の戯れだ。もっとも、戯れと言いながら、啓太郎は際限なくハマりつつある。
 腕の中の裕貴の感触を堪能しているだけで、体に蓄積された疲れがじわじわと溶け出していくようだ。
 数分ほど黙って抱き合っていると、ふいに裕貴がもぞりと身じろぎ見上げてきた。腕の力が強すぎただろうかと思い、抱擁を解こうとした啓太郎に裕貴が小さく笑いながら言った。
「――抱き合ってたら、キスしたくなってきた」
 囁くような言葉に、単純だと言われようが、啓太郎はあっさり翻弄される。
「これは、サービスだろうな?」
「いつもサービスしてやってるじゃん」
 そんな会話を交わしてから、二人はまずは軽く唇を触れ合わせ、くすぐったげに裕貴が首をすくめる。啓太郎は、そんな裕貴の顔をじっと見つめる。
 天真爛漫というには邪気がありすぎる気もするが裕貴だが、啓太郎の生活は、この引きこもり青年がいないと成り立たないところまできている。生活を侵略されていると言う気はなく、むしろ裕貴の生活を侵略しているのは啓太郎のほうだといえる。
 それでも裕貴は、無防備に啓太郎を部屋に迎え入れてくれるのだ。
 なくてはならない存在だ――。
 改めて裕貴の存在について考えた啓太郎は、もう一度裕貴を抱き締める。今度はきつく。それから再びもう一度キスしようとしたが、何かを思い出したように裕貴が体を離した。
「鍋の火を止めようと思ってたんだっ……」
 慌てて走っていこうとする裕貴の背に、苦笑交じりで啓太郎は声をかける。
「今夜はなんだ?」
 本当は聞くまでもなく、わかっている。外にまで独特のいい香りが漂っていたのだ。おかげで食欲を刺激されまくっている。
「チキンカレー――と、フルーツサラダ。今日のカレーは辛いから、覚悟しといてよ」
 楽しみだ、と口中で洩らしながら、足元に置いたアタッシェケースを持ち上げる。
 ダイニングに入った啓太郎はさっそくコートとジャケットを脱ぎ、ついでにネクタイも取ってしまう。ワイシャツのボタンを一つ外したところで、やっと解放感に浸れた。
 キッチンに立つ裕貴に一声かけてから、いつものようにビールを取ろうと冷蔵庫を開ける。すると、ケーキの箱が入っていた。なんとなく日付を確認すると、今日買ってきたもののようだ。そうなると当然、通販で取り寄せたものではない。それに、ケーキの箱の隣には、プリンまである。
 啓太郎は思わず、裕貴に視線を向けた。
「おい、冷蔵庫のケーキは――」
 鍋を覗き込んでいた裕貴がパッと顔を上げる。そして戸惑いを含んだ表情で啓太郎を見た。
その表情を目にして、なんとなくだが事情が理解できた気がする。
「……お前が買いに行った、ということはないよな」
 裕貴は頷いてから再び鍋を覗き込んだが、どことなく啓太郎に表情を見られまいとするかのような仕種だった。
「――……兄さんが買ってきたんだ」
 裕貴の言葉を聞いた瞬間、啓太郎の胸の奥にチクッと小さな棘が刺さる。感情のわずかな揺れを裕貴に悟られないよう、平静さを装って言った。
「訪ねてくるようになったんだな」
「啓太郎と一緒にいるところを見て、おれの状態が落ち着いたと思ったんだよ」
 でも、と裕貴が続ける。その口調には困惑が含まれていた。気になった啓太郎は、缶ビールを取り出してから促す。
「でも……、なんだ?」
 冷蔵庫の扉を閉めてから、裕貴の背後に立つ。隣に立つと、邪魔だからとキッチンから追い出されるのだ。
「啓太郎が会社に泊まり込んでいる間、毎日来てたんだ、兄さん。昼間や夕方に、おれの顔を見に来たって……」
「毎日、か」
 頷いたのかうな垂れたのか、裕貴の不揃いな髪が揺れる。
「来なくていいって言ってるのに、聞いてくれない。本当は……部屋に入れたくないんだ。
だけどおれの場合、ずっと部屋にいるのは知られてるから、居留守を使えない。ドアは開けなきゃいけないし、そうなったら、兄さんを部屋に入れないわけにはいかないだろ。あの人、ああ見えて押しが強いんだ」
 裕貴は博人をどう見えると思っているのか知らないが、啓太郎には十分、博人は押しが強そうに見える。正確には、理論で相手を黙らせ、結果として従わせてしまうタイプというか。
「……こんなことになるなら、三人で会ったとき、無視していればよかった」
 裕貴の声は本当に憂鬱そうだった。兄に対して強く出られない歯がゆさもあるのだろう。
「そういうわけにもいかないだろ。博人さんは、お前を心配して様子を見にきてたんだから。毎日来るのだって、お前にかまいたくて仕方ないんだろ。二年ぶりに顔を合わせてくれた弟だ。話を聞く限りじゃ、過保護は今に始まったことじゃないだろ」
「でも、もし啓太郎がうちにいるときに、兄さんが来たら?」
 ぐっと返事に詰まり、啓太郎はすぐには何も言えなかった。そんな啓太郎を肩越しにちらりと見てから、裕貴は食器棚から皿を取り出す。
「――あの人、勘がいいよ」
 裕貴がぽつりと呟き、ドキリとする。この動揺は、裕貴と後ろめたいことをしているという証拠かもしれない。
「お前が言うなら……当分、この部屋に寄るのをやめようか?」
 皿を取り上げてようとしていた裕貴が動きを止める。肩が強張ったようにも見えた。
「なんか卑怯だよ、その言い方。啓太郎はどう思っているのかわからない。面倒なことになりたくないから、おれの部屋に近づきたくないなら、そう言ってくれたほうが――」
「そうじゃないっ。ただ邪魔されたくないだけだ。誰か来るかもしれないと思いながら、お前と会うのは……落ち着かない。この部屋は、居心地がいいんだ。なのに、お前の兄さんとはいえ、その雰囲気が壊されるのは嫌だ。だけど、嫌な顔なんてできないだろ。もし博人さんと、ここで会ったときに。俺だってそれぐらいの分別はつく」
 皿を置き直した裕貴が体ごと向きを変え、啓太郎の正面に立ったかと思うと、いきなり肩に額を押し当ててきた。
「明日も兄さんが来たら、来ないでほしいって言う」
「おい、何もそこまで言わなくても――」
「本当は、二年前からわかってるんだ。……おれと兄さんは会わないほうがいいって。啓太郎が一緒にいたから、油断したのかもしれない」
 甘えてくるというより、庇護を求められているような頼りなさを裕貴から感じ、啓太郎は薄い肩に手をかける。
 漠然と感じたことを裕貴に問うてみた。
「……なあ、もしかして博人さんと、本当は仲が悪いのか? それとも、ここで会っているうちにケンカしたとか……」
「どうしてそんなこと聞くんだよ」
「お前の言動は、博人さんとの間にわだかまりがあると言っているようなものだ。まだ――」
 博人が結婚したことが許せないのか、と言いかけたが、言葉がきつすぎると感じ、やめておいた。
 子供をあやすように裕貴の背を軽く叩いてやる。
「お前の好きにすればいい。俺は、お前に面倒を見てもらっている身だからな。偉そうなことは言えない」
 やっと顔を上げた裕貴が小さく噴き出す。啓太郎は顔をしかめた。
「何かおかしいこと言ったか、俺?」
「真剣な顔して、面倒見てもらってる、なんて言うから、おかしくてさ」
「事実だろ」
 大きく息を吐き出して裕貴は体を離し、啓太郎に背を向けて再び皿を手にする。
「気が抜けたらお腹減った。啓太郎って、重い相談するには向かないよね」
「でも、言ってよかっただろ。まともな相談相手にはならなくても、誰かに話すだけで楽になることはあるし、気持ちも整理できることもある」
「――……うそだよ。相談できる相手が啓太郎でよかったよ」
「仕方なく言ってないか?」
「兄さんには、やっぱりもうここには来ないように言う。来てもドアを開けない。それで、おれは悩まなくて済む」
 むしょうに裕貴を抱き締めたかったが、そうできない決意のようなものを向けられた背から感じ、啓太郎はただじっと見守ることしかできなかった。


 裕貴の様子が気にはなるものの、仕事を抜けることができなかった啓太郎が、やっと会社を出たのは、裕貴から博人のことで相談を受けた二日後だった。
 五日続けて会社に泊まり込んだあとで、たった数時間を自分の部屋で過ごし、また会社に泊まり込むというのは、さすがにつらい。
 ただし、つらいというのは仕事のことではない。裕貴のことが気になって、精神的につらいのだ。あんな相談をされてしまうと、本当は毎日でも様子を見てやりたい。それができなくてストレスが溜まる。
 携帯電話で話せればいいのだが、こんなときに限って裕貴は電源を切っており、自宅の電話にも出ない。おそらく呼出し音を消しているのだ。一瞬苛立ちはしたのだが、博人からの連絡を絶つためなのかもしれないと思うと、そんな気持ちもあっという間になくなる。
 そこで啓太郎は、昼から休みを取り(そうはいっても、今日は日曜日なのだ)、夕方には会社に戻るつもりで一度帰宅することになる。
 いつも持ち歩いているアタッシェケースすら会社に置いたまま、啓太郎はまっすぐマンションに向かった。
 だが駐車場に車を停めたところで、思いがけない出会いがあった。
 車から降りた啓太郎を、向こうから歩いてきた博人が目を眇めるようにして見つめてくる。無意識に背筋を伸ばしていた啓太郎は、自分が緊張しているのだと知った。
「――仕事ですか」
 どう挨拶を交わそうかと身構えていた啓太郎に対し、博人が先に声をかけてくる。
「え、え……。SEは、土日も関係ない仕事なので」
「大変ですね」
 淡々とした口調で言われたせいで、謙遜の言葉すら出てこなかった。だいたい、博人と向き合ってする会話など、決まりきっているのだ。それ以外のことなど、『余計な話』といっていいかもしれない。
 静かに息を吸い込んでから、思い切って啓太郎は切り出す。
「裕貴に、会いに来られたんですよね」
「裕貴?」
 しまった、と心の中で呟く。博人の前では気をつけるつもりだったのだが、いつもの癖で裕貴を呼び捨てにしてしまったのだ。
 いまさら言い直すのもわざとらしいので、開き直ることにする。
「俺は仕事でいなかったので知らなかったんですが、裕貴から聞きました。あなたがお土産を持って来ていると。今日も――」
 言いながら視線を下に向けると、博人の手にはケーキ屋の箱らしきものが入った袋があった。裕貴のために買ってきて、受け取ってもらえなかった、というところらしい。
「……昨日も受け取ってもらえなかった。いや、ドアを開けてくれるどころか、インターホンに応じてもくれなかった」
 博人には悪いが、それを聞いて啓太郎は少し安心していた。裕貴は、二日前に言ったことを実行に移しているのだ。
「裕貴はまだ、わたしが結婚したことを許してくれないらしい」
 自嘲気味に洩らして博人が唇を歪めるようにして笑う。どう答えればいいか啓太郎が戸惑っていると、博人に言われた。
「聞いたのでしょう。裕貴が実家を出て引きこもるようになったきっかけを」
「はあ、まあ……、それらしいことは」
 この瞬間、博人が恐ろしく鋭い眼差しを向けてきた。睨みつけられたわけではなく、まるで啓太郎を探るような目だ。
「それ以外に、何か聞きましたか、裕貴から」
 博人の質問の意味がわからず、啓太郎は眉をひそめる。
「何かっていうのは、具体的に何を?」
 ふっと眼差しを和らげた博人は、いえ、と首を横に振った。気にはなるが、追及はできない。仕方なく啓太郎は頭を下げて行こうとしたが、すかさず博人に呼び止められた。
「――羽岡さん」
「はい?」
「これから一緒に、昼を食べに行きませんか。弟が世話になっているから、お礼がしたい」
「礼をしなきゃいけないのは、俺のほうです。裕貴には世話になりっぱなしで」
 博人はちらりと笑みを浮かべ、首を横に振る。
「礼というのは建前で、本当はわたしが、あなたと話したいんですよ。あの、人見知りが激しくて、難しい性格をした裕貴が、どうしてあなたには懐いたのか知りたい。いくら聞いても裕貴は、適当なことしか答えなくて」
 聞きながら啓太郎は、冷や汗をかきそうだった。まさか、あなたの弟に金を払って、『時給制の恋人』をしてもらっています、とは言えない。
「……でしたら、ご一緒します」
 満足げに頷いた博人に、自分が運転する車で出かけようと提案されて賛成する。啓太郎に任せると言われたところで、よく知らない博人をどんな店に連れていけばいいのかわからないのだ。
 自分の車へと向かう博人のあとをついて歩きながら、啓太郎はそっとマンションを見上げていた。裕貴は今頃、部屋で何をしているのかと考えたのだ。

 見れば見るほど、顔立ちに似たところのない兄弟だと思った。
 ランチのコースを食べながら、啓太郎はときおり視線を上げては、正面に座る博人の様子を観察する。早食いが半ば癖となっている啓太郎とは違い、博人は一定のペースで淡々と食べていき、端然とした様子は崩れない。
 つまりそれは、打ち解けにくい雰囲気を崩さないという言い方もできた。
 パンを千切って口に押し込みながら啓太郎は視線を周囲に向ける。啓太郎のマンションから車で十五分ほど走ったところにあるレストランだった。広々としたきれいな店内に並ぶテーブルはほぼ満席で、あちこちから楽しげな話し声が聞こえてくる。
 さすがに日曜日だけあって、スーツ姿で向き合っている男二人の姿は、軽く見回したぐらいでは見つけられない。
「――子供の頃はよく、裕貴を連れて外食ばかりしていたんですよ」
 突然、博人がこんなことを言った。目を丸くした啓太郎とは対照的に、博人は表情らしいものは浮かべていない。ただ、目元が少し優しくなったように感じたのは、啓太郎の気のせいかもしれないし、昔を思い出し、博人の気持ちが和らいでいるのかもしれない。
「何か美味しいものを作ってやりたくても、わたしはまったく料理ができなかったんです。それに学校に通って、家では他の家事をしていたら、料理にまで手が回らない。だから裕貴を連れて、外に食べに行くしかなかったんです。お手伝いの女性が一時期通ってはいたけど、裕貴は昔から人嫌いの気があって長続きしなかった。それでも裕貴の体のことが心配だったので、とにかく美味いものを食べさせて、体力をつけさせたくて必死でした」
「だから裕貴は、料理が上手いんですね。あなたの助けになりたくて」
 肯定するようにわずかに肩をすくめた博人は、ウェーターを呼んで二人の食器を片付け、コーヒーを運んできてもらうよう頼む。
「わたしは子供の頃は、弟や妹が欲しいと願ったことはなかったんです。むしろ、欲しくなかった。煩わしいと思っていたんです。だが現実は、八つ離れた弟ができた。――自分でも、こんなに変わるものかというぐらい、裕貴が可愛くて仕方なかった。裕貴は裕貴で、子供ながらに扱いの難しい子で大人を困らせていたけど、わたしにだけは甘えてきたんです」
 ノロケを聞かされているような居心地の悪さを感じ、啓太郎は相槌を打ちながら所在なくテーブルの上を眺める。その間にコーヒーが運ばれてきた。
 無口なイメージのあった博人だが、裕貴のことを話すときだけはそれが当てはまらない。落ち着いた口調の中、熱のようなものを感じる。成人した弟のことがいまだに可愛くてたまらないのだ。
 これだけの愛情をぶつけられたら、裕貴が戸惑うのも無理はないのかもしれない。博人を過保護と表現していたのも、決して大げさではないと実感できる。
「――……わたしはどちらかといえば、兄というより、父親として裕貴を見守ってきました。聞いているかもしれませんが、母親は裕貴が小さいうちに家を出ていったし、父親も、悪い人間ではないが、親としての責任感にはまったく欠けています。親戚つき合いもないので、裕貴を育てられるのはわたししかいなかったんです」
 だから、と言った博人の口調が、このとき初めて苦々しいものを帯びた。
「今の裕貴を見ていると、わたしは何を間違ったのかとつらくなるんです」
 言っていいものかと迷った啓太郎だが、裕貴の実の兄を前にして、まるで我が子のことを相談するような気持ちで口を開いていた。
「……裕貴を外に数回連れ出したことがあるんですが、昔からああなんですか?」
「『ああ』?」
 おもしろがるように問い返され、言葉が悪かっただろうかと内心冷や冷やしながら、啓太郎は言い直す。
「人との関わりを持ちたがらないところです。最初は人嫌いかと思ったけど、裕貴があるときこう言ったんです」
「なんと?」
「自分が外の世界と合わなくなったからだと……。世界のすべてから拒絶されたような気になるとも言ってました。妙に深い言葉です。あなたが結婚したから引きこもるようになったと言ってましたが、唯一の家族をなくしたように感じたからなんでしょうか? だから世界から拒絶された、なんて表現……」
「裕貴は、あなたにそう言ったんですね」
 啓太郎は頷き、急に今になって不安になった。表現の違いはあるだろうが、裕貴は博人にも同じようなことを言っているはずだとは思う。
 一方の啓太郎は、裕貴のことを知りたいがために、あえて自分の中にある数少ない裕貴の情報を博人に切り売りしているような気がする。
 啓太郎の言葉を聞き、博人は静かに笑みを浮かべた。
「――裕貴とわたしは、互いしかいない中で生きてきたようなものです。他人とのつき合い方が下手な裕貴にとっては、わたしの結婚は確かに、世界のすべてから拒絶されたと感じても仕方ないかもしれない。だけどわたしは結婚しても、裕貴との生活を変えるつもりはありませんでした。一緒に暮らすことに、妻の千沙子も賛成してくれていたんです」
 つまりそれだけ、裕貴にとって博人の存在は欠かせないもので、側にいてもらいたいものだったのだ。
 啓太郎の胸はひどく重苦しく、同時に痛かった。これはなんだろうかと思えば、博人と自分との間にある圧倒的な差を見せつけられ、打ちのめされたつらさだ。
 裕貴との間にある距離感だったり、傾けられる感情の量の違いだ。肉親と他人を比べるほうが間違っているのだが、無意識のうちに啓太郎は、博人に対して対抗心を持っていたのだ。
 コーヒーにミルクを注いで掻き混ぜながら、自分は裕貴の特別な存在になりたいのだろうかと、ぼんやりと啓太郎は考える。
 確かに今、啓太郎の生活にとって裕貴はなくてはならない存在だ。だが、物理的な理由だけでそう感じているわけではない。
「……あなたがそこまで思っているのに、そんなあなたを裕貴が避けている理由はどうしてなんです? 少なくとも、拒絶されたわけじゃない……」
 ここで博人は、やけに自信に満ちた表情となって答えた。
「拗ねているんですよ。裕貴は子供の頃から頑固だった。一度決めたら、わたしがどれだけ説得しようが聞き入れない。だけど――自分が寂しくなると様子が変わるんです。これまでの激しい言葉や頑なな態度など忘れたように甘えてくる。ああいうところを見せられると、わたしなんて怒りたくても怒れない。弟に甘すぎるとよく言われてましたよ」
「だったらこの二年間、裕貴の態度が変わるのを待っていたんですか?」
「そうです。どんなに拗ねようが、怒ろうが、裕貴は実家から遠くに離れることはできない。あの子は基本的に寂しがり屋だ。知り合いがまったくいない場所になんて行けないんです。だからわたしは実家近くに妻と住んで、ときどき裕貴の様子をうかがいながら待っていた」
 次第に啓太郎は、博人の言葉に耳を塞ぎたい衝動に駆られ始める。もしかすると、裕貴のことを語るときにだけ優しくなる博人の口調が原因かもしれない。
 博人の優しい口調は、なぜか啓太郎の心をささくれ立たせる。少し意地の悪い気持ちで、さらに問いかけていた。
「今はどうですか? 裕貴はもう、あなたの結婚に対してわだかまりがないと思いますか?」
「わだかまりがまったくなくなることはないでしょう。なぜか裕貴は、千沙子を苦手にしていますから。しかし今の状態は、裕貴が実家を出た二年前に比べると格段にいいはずです」
「……そう、でしょうか……」
「少なくとも今の裕貴は、自分の足で外を出歩けるようになったし、家族以外の人間を部屋に入れ、世話を焼いて親しくしている」
 これはもしかして皮肉で言われたのだろうかと思いながら、啓太郎は苦い笑みで返す。だがその笑みもすぐに強張ることになる。続けて博人はこう言ったのだ。
「――わたしは少しでも早く、裕貴をわたしの側に呼び戻したいんです。妻も含めて三人で暮らすのもいいし、実家で一人で暮らしてもいい。どちらにしても、いつでも側で様子を見てやれる」
 暗く深い穴に足元から落ちていくような感覚を味わい、啓太郎は咄嗟にテーブルの上に手を置く。
 お節介のつもりで裕貴を外に引っ張り出したことが、予想外の事態を起こしてしまったことに、強い焦りを感じていた。そして、当然のように裕貴を手元に置きたがる博人に対し、胸を突き破りそうな嫉妬も――。




 博人と会って話した後、啓太郎は車を取りにマンションに戻りはしたが、結局、自分の部屋どころか、裕貴の部屋にすら立ち寄らなかった。
 裕貴と顔を合わせづらかったためだが、その理由の一つとして、博人と話し込んでいたことを報告する気になれなかったというのがある。博人のことを切り出した途端、胸に抱えた嫉妬心を露わにしてしまいそうだった。
 博人と話していて啓太郎の中に芽生えた感情は、嫉妬だけではない。一つの疑念がどんどん大きくなっているのだ。
 その疑念とは、裕貴が抱えた寂しさを紛らわせるために、自分は利用されているのではないかということだ。
 ずっと、兄に庇護されてきた裕貴が、結婚によって義姉となった女にその兄を取られたと感じ、それから二年もの間、一人で引きこもって生活してきたのなら、人恋しさは当然あるだろう。
 そこに、お人よしで無害そう、兄と年齢が近い男が隣に住んでいたと知ったら――。
 そこまで考えて、啓太郎はキーボードを打つのをやめ、ぐしゃぐしゃと髪を掻き乱す。
「……いや、その考えはおかしいだろ……」
 急に妙な言動を取り始めた啓太郎に、近くのデスクで作業をしていた年上の男性社員が怪訝そうな眼差しを向けてきた。
「羽岡くん、お疲れ?」
「ここにこもっていると、疲れてない日なんて、ないと思いますけどね」
「昨日だって、せっかく家に帰ると言って出ていったのに、結局昼メシ食ってすぐに戻ってきたんだろ」
「まあ、いろいろあって……」
 昨夜は会社の床の上で、寝袋に包まりながら煩悶し続けた。こんなに嫉妬や疑念で苦しい思いをするぐらいなら、博人と話したあと、裕貴と会って抱き締めるぐらいすべきだったのではないか、と。
 そんなことをして何がどうなるとも思えないが、少なくとも、裕貴がどんな事情を抱えているにせよ、今こうして目の前にいる裕貴は、『時給制の恋人』を演じてくれている青年なのだと実感できたかもしれない。
 よくも悪くも、それが啓太郎と裕貴の関係の現実だ。
 それに、裕貴の体の感触は、もう啓太郎の腕に刻みつけられている。それも一つの現実だ。
 骨ばっていながらもしなやかで、壊しそうだと思いながらも、意外にしっかりしている体の感触。その感触の記憶が、啓太郎の胸の奥でくすぶっている衝動を煽る。
 寝袋ごと何度も床の上を転がったおかげで、一睡もできなかった。そのせいで頭の芯が膿んでいるように鈍い痛みを発している。
 給湯室の冷蔵庫に冷却シートが入っていたはずだと思い出し、取ってこようと立ち上がりかけたとき、いきなり呼ばれた。
「羽岡さんはどうすんの?」
 イスから腰を浮かせかけた格好のまま啓太郎が振り返ると、また別の男性社員が冷却シートを額に貼っているところだった。
「何が」
「クリスマス」
 意味がわからず啓太郎は眉をひそめる。しかし、デスクの上に置いた卓上カレンダーを見てようやく理解した。
「……日曜日がイブか……」
「冷めた反応してんなあ。その様子だと、彼女と約束してない?」
「俺のどこに、彼女がいる片鱗があるんだよ」
「またまた。いつも楽しそうに携帯チェックしてんじゃん」
 啓太郎の視線は、デスクの上に置いたままの携帯電話へと向く。一時間ほど前にメールが届いたのは気づいているが、わざと意識の外へと追いやっていた。
「楽しそうに見えたか?」
「見えたねー。俺のSEとしての生活には彩りがないと、いつも嘆いている人とは思えないほど、楽しそうだった」
「楽しそう、か……」
「で、可愛い彼女とのクリスマスの予定は? 無理すれば、数時間は抜けられるんじゃないの。それだけあれば、愛を確かめ合うには十分だろ」
 啓太郎は携帯電話を握り締めて立ち上がり、できるだけ素っ気ない口調で言った。
「――いらんお世話だ。そっちは、彼女に渡すプレゼントは準備したのか?」
「もちろん」
 満面の笑みで答えられ、聞かなければよかったと啓太郎は心底後悔する。
 少し席を外すと告げてシステム開発部を出ると、廊下の隅で携帯電話を開く。メールは思ったとおり裕貴からだった。
『昨日、会社から帰ってきてた?』という短い一文から、裕貴がわざわざメールしてきた意図はわからない。
 これまでのつき合いで、仕事から戻ってきても、あまりに疲れていたため裕貴の部屋に顔を出さなかったことはあるし、そのことで裕貴がメールをしてきたことはなかった。
 啓太郎の都合次第で裕貴と会うかどうかを決められるのが、『時給制の恋人』の利点なのだ。裕貴自身、その事情をよく理解しているはずだ。
 何かあったのかもしれないと考えた啓太郎の脳裏を、昨日話した博人の顔が過ぎる。
 また部屋に来たのだろうか――。
 メールで用件は済ませるつもりだったが、啓太郎は電話をかけていた。
「――もしもし、裕貴か?」









Copyright(C) 2007 Nagisa Kanoe All rights reserved.
無断転載・盗用・引用・配布を固くお断りします。



[11] << Sweet x Sweet >> [13]