Sweet x Sweet

[13]

 応じた裕貴の声は、不安さを滲ませているかと思ったが、こちらが拍子抜けするほど、普通だった。いや、いつもより明るいぐらいだ。芝居がかっていると感じるほど。
『メールでよかったのに。仕事大丈夫?』
「ああ……。それより、お前のメールだ。何かあったのか」
 珍しく裕貴が言いよどんだ気配が伝わってきた。
『――……昨日、帰ってきたんだよね?』
「正確には、帰ったとは言わないかもしれない。マンションの駐車場に入ったが、部屋には上がらなかった。いろいろあって、時間がなくなったんだ」
 ここまで話して、薄々とながら啓太郎も事態を把握した。途端に、一度は遠のきかけた嫌な感情が戻ってくる。
「もしかして、博人さんから何か聞いたのか?」
『電話がかかってきた。行ってもどうせ部屋に上げてくれないだろうからって。……昨日、マンションの前で啓太郎と会って、一緒に食事しながら話したと言ってた』
 啓太郎はそっとため息を洩らしていた。
「俺のこと、何か言ってたか?」
『いい人だな、って……。お前のことを心配してくれている、と。あと――』
 歯切れの悪い裕貴に、少し苛立つ。もっともそれは、八つ当たりの感情だ。啓太郎が本当に苛立ちを覚えているのは、何もかも裕貴に話してしまったらしい、博人に対してだ。
「俺の悪口でも言ってたか?」
 啓太郎はそう言って意地悪く笑ったが、次の瞬間には猛烈な自己嫌悪に陥る。その状態に、裕貴の言葉が拍車をかけた。
『……もう一人、兄さんができたみたいだなって言われた』
 少し間を置いてから、啓太郎の頭にカッと血が上る。正体のよくわからない怒りだった。そんなことを裕貴に言った博人に対してなのか、博人に言われたことをそのまま自分に告げた裕貴に対してなのか、誰に向かっての怒りなのかすら、よくわからない。
 ただ、耐え難い言葉であることは確かだ。
「兄さん、か。お前もそう思っているか?」
 啓太郎が怒っていると口調から感じたらしく、電話の向こうで必死な声で裕貴が言う。
『兄さんみたいだとかそうじゃないとか、関係ないよっ。あの人の言葉なんて、啓太郎が気にする必要ない』
「でも、誰よりもお前を知っている人だ」
『それは、そうだけど……。兄さんと啓太郎は違うよ』
 困惑したような裕貴の声に息苦しくなり、啓太郎は無意識のうちにネクタイの結び目に指をかけていた。会社でなければ緩めているところだ。
「……それでお前、なんでメールしてきたんだ。俺が博人さんと会ってメシを食ったのは、聞いてわかったんだろ。いまさら俺に――」
『兄さん、啓太郎に変なこと言わなかった?』
「変なことって?」
 裕貴はまた口ごもり、今にも電話を切りたそうな気配を漂わせたが、すかさず啓太郎は重ねて尋ねた。
「変なことってなんだ」
『――……兄さん、おれのことになると、人が変わるんだ。昔、おれが学校でいじめられたとき、学校だけじゃなく、いじめた子の家にまで押しかけて、いじめた本人とその子の親にまで土下座させたことがある。その反対もあって、兄弟だけで生活しているのを心配して、おれに親身になってくれた近所の人を、どうしてだか遠ざけたこともある。他にいろいろあったけど、おれの知らないところでもっとあると思う」
「つまり博人さんが俺に、お前と関わるなと言ったんじゃないかと心配してるのか」
『啓太郎に嫌な想いをさせたんじゃないかって、心配で……』
 嫌な想い――は、現在進行形でしている。裕貴の口から博人のことが出るたびに、啓太郎の苛立ちは沸点へと確実に近づいていく。これはもう八つ当たりではなく、明らかに裕貴へと向けた感情だ。
 俺に対して、自分の兄のことを言うなと怒鳴ってやりたかった。俺はお前の兄代わりではないのだとも。できないのは、大人としての最低限の節度があるからだ。
「博人さんが俺に、お前が心配しているとおりのことを言ってたとしたら、どうなんだ?」
『どうって……』
「大事なお兄さんの言うとおりにするのか?」
 啓太郎の知っている裕貴なら、意地悪な問いかけに気丈に言い返してくるはずだった。だがこのときの裕貴は違う。
 ひどくうろたえたように小さく声を洩らし、黙り込んだのだ。思いがけない反応に啓太郎の罪悪感を覚え、心の中で自分を叱責しながら前髪に指を差し込む。
「……裕貴、無理しなくていいんだぞ」
 こう言った啓太郎自身、心の入っていない言葉だと思った。それに、今の裕貴との関係を絶ったとして、無理を感じるのはおそらく啓太郎のほうだ。生活の中で、裕貴が占める幅は驚くほど増している。啓太郎の生活はもう、裕貴がいないと成り立たないのだ。
 もしかすると啓太郎より内面はずっと成熟しているかもしれない裕貴は、作ったように明るい声を発した。
『無理なんてしてないよ。だいたい啓太郎とのことだって、兄さんには関係ないんだから、とやかく言われる覚えもないし。啓太郎が兄さんに何も言われてないなら、それでいいんだ。それだけが気がかりだったから』
「そうか……。なら、その点は心配しなくていい」
『うん』
 ここで不自然な沈黙が訪れる。啓太郎はこの感覚に覚えがあった。過去につき合っていた恋人との仲が気まずくなり、別れを意識し始めたときの電話が、ちょうどこんな感じだったのだ。
『――また、部屋に来てくれるよね?』
 遠慮がちに裕貴に問われ、啓太郎の胸は締め付けられる。普段は生意気で、一方で、年上の啓太郎を翻弄するような媚態を見せるくせに、このときの裕貴の声は、不器用に甘えてくる子供のようだった。
 だからこそ、胸を掻き毟りたくなるような愛しさが突き上げてくる。同時に博人の顔も脳裏を過ぎり、さんざん感情を乱された啓太郎は、最低なことに返事もせずに電話を切っていた。
「何、やってるんだ……」
 自己嫌悪の塊に胸全体を塞がれながら、呻くように呟いて壁に頭をぶつける。
 裕貴に悪いことをしたと思いながらも、もう一度電話をかけることはおろか、メールすらできなかった。
 嫉妬深く猜疑心の強い男としては、裕貴に今は大人の対応などできなかったのだ。




 息を呑んでモニターに見入っていた面々の口から、低い感嘆の声が洩れる。それは啓太郎も同じで、緊張のためさきほどから痛んでいた胃が、やっと苦しみから解放してくれた。
「……問題なし、でいいよな?」
 誰ともなく尋ねると、数人の男たちが揃って素直に頷く。啓太郎は深々と息を吐き出した。
「検索プログラムのテストは、これで終了、と」
 言い終わると同時に、拍手と雄叫びが上がる。年内いっぱいはかかるだろうと、絶望的観測がされていた検索プログラムのテストが、なんとクリスマス・イブの夕方に終わったのだ。しかも、無事に。
 もちろん、すべての仕事がこれで終わったわけではない。カットオーバーまで、まだやるべき仕事はあるのだ。
 だが間が悪いことにというべきか、よかったというべきか、よりによってクリスマス・イブの日に、プロジェクトの一つの山場を問題なく越えてしまった。
 普通の人間なら――今日という日を楽しみたいと切望していた人間なら、この瞬間に仕事に対するモチベーションが下がっても誰も責めないはずだ。少なくとも啓太郎は、帰る人間を暖かい眼差しで見送ってやりたい。
 ぐったりとして自分のデスクについた啓太郎は、ズキズキと痛むこめかみを揉む。次の作業に取りかからないと、と思うものの、さすがに一息つきたい。
 先にメシを食いに行こうかと考えていたところで、ふいに頭上から声をかけられる。
「あれっ、羽岡さんは帰らないの?」
「俺には、クリスマス・イブを楽しむ相手もいないからな。それに、暇な奴同士、飲みに行けるほど元気も持て余してない。おとなしく仕事をしていたほうが建設的だ。街の空気に中てられなくて済む」
「そうは言っても、心当たりぐらいあるんじゃない? 今のこの時間ならまだ、プレゼントを十分調達できるだろうし」
 啓太郎は顔を上げて、ニヤニヤと笑っている男性社員を見上げる。
「はあ?」
「何事も、サプライズが大事ってこと。いつも残業ばかりの彼氏が、突然プレゼントを手に現れたら、彼女は大喜び」
 だから、そんなものはいない――、と口中で呟いた啓太郎だが、およそ一週間前、裕貴と交わした電話のやり取りが急に思い出される。あれ以来、裕貴からは電話どころかメールもこない。
 きっと、自分の態度に怒ったか、傷ついたのだ。そう考えるたびに啓太郎の胸はキリキリと痛む。
 裕貴が何か言ってくるまで放っておこうと考えていたのだが、薄々危惧していたとおり、啓太郎のほうが我慢できなくなった。
 急いで必要なデータを保存すると、パソコンの電源を落とす。あっという間に帰り支度を整え、会社を飛び出していた。
 すぐにマンションに帰ろうとした啓太郎だが、次の瞬間には思い直して、まずはデパートに向かう。
 さすがにクリスマス・イブというだけあって、普段以上に混雑し、何より、楽しげなカップルが目につく。幸せな空気に中てられそうなうえに、目のやり場に困る。いつもの啓太郎なら、こんな日に、こんな場所に近づくなど、絶対しない。しかし――。
 案内板の前で拳を握り締め、どのフロアに行くか決めると、大きく息を吸い込んで啓太郎は足を踏み出した。



 デパートで買った裕貴へのクリスマスプレゼントは、ある意味、ありふれたものだと言ってもいい。気が利いていないのは、よく自覚している。これではまるで、学生同士のプレゼントのやり取りではないか――いや、今の学生のほうが、もっとシャレたものを選ぶかもしれない。
 啓太郎はブランドものにはまったく頓着しないし、興味もない。フロアをうろついていて、人の流れに乗るようにして入ったのが、有名なブランドのショップだったのだ。
 楽しげなカップルたちに挟まれ肩身の狭い思いをして、場違いだと思ってショップを出ようとしたのだが、あるものに目が留まった。
 裕貴の部屋の前で何度目かの深呼吸をして、啓太郎は抱えた包みに視線を落とす。
 プレゼントは二つあった。一つは、柔らかな感触が気持ちいいウールの手袋だ。ピンクと茶色という色の組み合わせが裕貴の雰囲気に似合いそうで、一目で気に入った。そしてもう一つが、同じブランドの白いマフラーだった。これも裕貴に似合いそうな色だ。
 この先裕貴が必要とするかどうかはわからないが、啓太郎はできる限り、裕貴を外に連れ出したいと考えている。このプレゼントは、ある種、その意思表明だともいえる。
 もう片方の手に持っているのは、ケーキの箱だ。フルーツがたっぷり入った、二段重ねのショートケーキで、明らかに二人で食べるにしては大きすぎるが、小さいよりはいいというのが啓太郎の考え方だ。
 もっとも、このケーキを一緒に食べることを裕貴が許してくれるのか。そもそも、プレゼントを受け取ったくれるのか。そう考えるたびに、インターホンを押そうとする啓太郎の指は動きを止めてしまう。
『――また、部屋に来てくれるよね?』
 裕貴にそう問われながら、返事もせずに電話を切ってしまったことが、啓太郎の心に大きなしこりとなっていた。我ながら最低の対応だったと思う。
 そのことを謝罪するために、クリスマスプレゼントという小道具が必要だったというのも、男らしくない。
 考えるだけでは裕貴に謝ったことにはならないと、やっと覚悟を決めて啓太郎はインターホンを押した。
 しかし、応答はなかった。眉をひそめながら数回押したが、結果は同じだ。啓太郎は体の奥からせり上がってくるような不安を感じつつ、通路に面したダイニング側の窓の前へと移動してみる。カーテンが引かれているので中の様子は見えないが、それでも室内から洩れ出る明かりを確認することはできる。
 急の啓太郎の心臓は不規則な鼓動を打ち始めていた。背には冷たい感触が駆け抜ける。
 啓太郎が来たとわかっていながら、裕貴が応じないのだと思ったからだ。その途端、体中の力が一気に抜け、その場に座り込みたくなった。だが、大人の男の矜持として、そんなみっともないことはできないと、寸前のところで耐える。
 代わりに、鉄製の冷たいドアに額を押し当て、呻くように呟いた。
「俺に、面と向かって謝るチャンスをくれ、裕貴……」

 SEになってから、仕事で追われることが日常となっていた啓太郎には、クリスマスという行事を特別だと感じたことはない。せいぜいが、そのときどきにつき合っていた恋人が楽しみにしていた行事だった、という程度の認識だ。しかし今年は違う。
 テーブルの上に置いたケーキの箱とプレゼントの包みをじっと見つめながら、啓太郎はテレビもつけずに耳を澄ましていた。少しでも、隣の部屋の気配を感じ取るためだ。だが、壁一枚を隔てて、裕貴の気配や物音が伝わってくることはない。
 裕貴はいつでも、息を潜めるように静かに生活している。
 いい加減、外にメシを食いに行こうかと考えていると、突然、携帯電話の呼出し音が鳴る。
思わず辺りを見回してから、ハンガーにかけたスーツのポケットに入れたままなのを思い出し、慌てて隣の部屋に駆け込む。
 裕貴の携帯電話からかかっていると確認して、勢い込んで電話に出る。
「もしもしっ」
『……あっ、啓太郎……』
「お前――」
『ベランダに出たら、啓太郎の部屋の電気がついてるの見えたから、もしかして帰ってるのかなって。忙しそうだし、クリスマスとか関係ないのかと思ってたんだ』
 裕貴の言葉を聞いて、啓太郎の頭は少し混乱する。まるで、いままで啓太郎が部屋に帰っていることを知らなかった口ぶりなのだ。しかし実際は、啓太郎は一時間ほど前に裕貴の部屋のインターホンを押したし、呼びかけた。
『まだ何も食べてないなら、おいでよ。いろいろあるんだ。オードブルも何種類かあるし、ローストチキンもある。ワインだってあるよ。……ケーキだけは、おれが作るつもりだったけど、結局そういうわけにもいかなくて』
 どこか啓太郎の反応をうかがうような、遠慮がちな裕貴の誘いに、啓太郎は数秒ほど置いてから応じた。
「ケーキなら、心配するな。俺が買ってきている。でかいんだ。さすがにお前一人じゃ食い切れない」
『だったら、啓太郎も食べるの手伝ってよ』
 その言葉に安堵して、すぐに行くと告げて電話を切る。次の瞬間には啓太郎は、急いでケーキの箱とプレゼントの包みを手にして部屋を飛び出していた。
 インターホンを鳴らすまでもなく、裕貴の部屋の前まで行くと、慌ただしい気配を感じたように中からドアが開けられる。
 いつものように裕貴が迎えてくれたのだが、啓太郎はその裕貴の姿を見た途端、咄嗟に声が出なかった。啓太郎が知っている裕貴ではなかったのだ。大げさな表現だが、このときの啓太郎は本当にそう感じた。
「――……お前、その頭……」
 不揃いに伸びた髪が、裕貴のトレードマークのようなところがあった。だが今、目の前に立っている裕貴の髪はきれいにカットされ、長い前髪で隠れがちだった両目もしっかり見ることができた。
 落ち着かない様子で髪を撫でた裕貴が、顔を伏せる。
「寒いから、早く入ってよ」
「あ、あ……」
 戸惑いながらもドアを閉めた啓太郎は、裕貴のあとをついていく。ダイニングのテーブルの上には、持ち帰り用の容器に入ったままのオードブル各種とローストチキン、それにワイン瓶が置いてあった。イスの背もたれには、ダッフルコートがかけてある。
 裕貴のコットンパンツにセーターという服装を見て、やっと啓太郎は事態を把握した。
「お前、出かけていたのか」
 一瞬困った顔をして頷いた裕貴が説明してくれる。
「今日いきなり、父さんがここにやってきたんだ。家族でメシを食うって。だけどその前に、おれの髪をどうにかするのが先だって言い出して……、美容室に放り込まれたんだ。父さんが見張っているから逃げ出すわけにもいかなくて、こんな頭に」
 啓太郎はケーキの箱とプレゼントの包みをテーブルに置くと、裕貴に歩み寄る。そして、見違えるほどさっぱりしてしまった髪に触れる。柔らかくて艶やかな感触は変わらないが、なんだか長さが足りなくて寂しい。
「……切ったのか。あのうっとうしい髪に、慣れてきたところだったのに」
「ひどいなあ」
 そう言って裕貴はちらりと笑うが、どこかぎこちない。啓太郎の腕を取ってイスに座るよう促すと、ダッフルコートを片付けてからキッチンに向かった。
「ちょっと待ってね。準備するから」
 食器を手に戻ってきた裕貴が、オードブルのいくつかの料理を皿に取り分けてレンジで温め始め、その傍らでスープも鍋に入れて火にかける。キッチンでよく動くほっそりとした後ろ姿を眺めながら、沈黙で間がもたなくなった啓太郎は再び口を開く。
「メシ、みんなで食ったのか?」
「みんなと言っても、おれと父さんと……兄さんの三人だよ」
 まっさきに啓太郎が疑問に思ったのは、博人は千沙子を伴ってこなかったのかということだった。ただ、裕貴が千沙子を嫌っていることを思い出し、遠慮してもらったのだと勝手に解釈した。イブは肉親と過ごして、クリスマス当日を夫婦で過ごすのだと考えれば、不思議ではない。
「そういえば、親父さんが帰ってくるって、博人さんがこの間言ってたな」
「あの人はいつも突然なんだ。事前に連絡してくるなんて、珍しいんだよ。そして息子二人を振り回して、当たり前みたいに父親として振る舞うんだ。こっちはいい迷惑だよ。この髪だって……」
 最後はぼやきに近い言葉を洩らして、裕貴が軽く頭を振る。啓太郎はぶっきらぼうに言った。
「それはそれで、似合ってるぞ。落ち着かないなら、また伸ばせばいいだろ」
 振り返った裕貴が目を丸くして見つめてくるので、居心地が悪くなった啓太郎は意味なくイスに座り直し、目を逸らす。すると遠慮がちに裕貴が呼びかけてきた。
「……啓太郎」
「なんだ」
「もしかして、おれがいないときに部屋に来た?」
「ああ……」
「おれが出ないから、気になった?」
 俺の分は悪くなるばかりだと思いながら、啓太郎は正直に答えた。
「――当たり前だ。今度から……外に出るときは電気ぐらい消していけ。何事かと思うだろ」
「父さんが急かすから、消す暇がなかったんだよ」
 わざと不機嫌な表情を作った啓太郎とは対照的に、裕貴ははにかんだように笑いかけてくる。
 目に滲むようなその笑顔を見て、ここまで胸を塞いでいた重い感情の塊がスウッと溶けていくのが啓太郎にはわかった。
「もしかして啓太郎、おれがわざと無視しているとか思った?」
 裕貴らしい憎まれ口さえ、耳に優しい。
 自分にとって裕貴は、なくてはならない大事で愛しい存在なのだと、真正面から受け止めることができた。それは、メシを食わせてくれるから生活に必要、という意味ではない。啓太郎の心にとって必要だということだ。
 啓太郎は大人の男らしくない負け惜しみを口にした。
「……思うかよ、そんなこと」
「どうだか。おれの部屋のインターホンを鳴らす啓太郎の顔を見たかったなー」
「好きに言え。けどまあ、お前がいないとつまらないのは、確かだな」
 言いながら顔が熱くなってくる。それでも啓太郎は懸命に言葉を続けた。
「悪かったな。この間、お前との電話を一方的に切って」
「気にしてないよ。啓太郎にも大人の事情があることはわかってるから」
 そんな立派なものはない。むしろ、子供じみた葛藤というべきなのだ。
 料理を温めた裕貴が皿をテーブルに並べ、ついでにワインも開けて二つのグラスに注ぐ。グラスを受け取った啓太郎は、代わりに包みを押し出した。
「やる。プレゼントだ。珍しいんだぞ。俺が、せがまれる前に自発的にクリスマスプレゼントを買うなんて」
「おれも、いつくれるのか待ってたんだ」
 生意気なことを言いながらも、包みを受け取った裕貴は嬉しそうに口元を綻ばせている。開けていい? という問いかけに頷くと、さっそく裕貴が包みのリボンを解く。
 自分が買ったプレゼントを目の前で開けられるのは、かなり気恥ずかしい。できるならベランダにでも逃げ出したい心境だ。
 包みを開けた裕貴は、啓太郎が何を買ったのか知ると、小さく噴き出した。
「もしかしてこれ、これからもおれを外に連れ出すって意味?」
「おっ、俺の気持ちが伝わったか」
「そのまんまじゃん。お出かけセット」
 生意気なことを言いながらも、裕貴はマフラーを首に巻き、手袋もしてみせてくれた。思ったとおり、色合いが裕貴の雰囲気によく合っている。
「……一応、お礼言っておくよ。ありがとう」
「可愛くねー」
 啓太郎がぽつりと洩らすと、裕貴はニヤリと笑った。
「ウソだよ。すごく嬉しい。おれの周りにいる人間の中じゃ、啓太郎が一番趣味がいいと思う」
 その口ぶりに、あることに思い至った。
「親父さんや博人さんから、プレゼントはもらったか?」
「兄さんからは時計。それこそ、引きこもりにはいらないものだと思うんだけどね」
 兄心だと思うと、啓太郎は笑う気にはなれない。裕貴は話しながら、手袋をした手をしきりに動かし、ついでに感触を確かめるように自分の頬を撫でてみたりして、その仕種がなんとも小動物めいており、見ていた啓太郎は内心でドキリとしてしまう。口が裂けても本人には言えないが――可愛かったのだ。
 微妙に視線を逸らし、グラスに注がれたワインを口に含む。博人と父親、どちらが持たせたのかわからないが、口当たりが軽くて飲みやすい、美味しいワインだ。
「親父さんは?」
「あの人に、そんなもの期待するだけ無駄だよ。クリスマスプレゼントは、父親の元気な姿を見られたことだろ? ってヌケヌケと言うような男なんだから」
「……おもしろいな、お前の親父さん」
「今度紹介しようか? 仕事でまだ日本にいるみたいだし。もっとも、仕事が忙しいらしくて、捉まる確率は低いと思うけど」
 裕貴の父親と会ってどう挨拶すればいいのか考えると、啓太郎は素直に頷けなかった。そんな啓太郎の反応に、裕貴は意味ありげな視線を寄越してくる。
「兄さんと違って、父さんは鈍感だから何も心配しなくていいよ」
「心配、か……。そんな顔してたか、俺?」
「ううん。腹減ったって顔してる。早く食べなよ。あっ、フランスパン出してあげる」
 手袋を外しはしたものの、マフラーは巻いたままキッチンに向かう裕貴を、啓太郎は優しい気持ちで見つめた。

 ホテルのレストランではあまり食べられなかったという裕貴は、ときおり啓太郎の前に置いた皿から、オードブルを指で摘まみ上げては口に運ぶ。意識しまいと思いつつも啓太郎の視線は、汚れた指先を舐める裕貴の口元へと吸い寄せられた。
 豪華なオードブルやローストチキンといった料理の数々は、裕貴の小食を気にした博人が、レストランに頼んで作ってもらったものを持たせたらしい。
「……お前、そんなに細いくせに、別に小食じゃないよな?」
 啓太郎にはローストチキンを勧めておきながら、裕貴は和牛フィレ肉のパイ包み焼きが気に入ったのか、全部食べてしまった。スープも飲んでみたいというので、スプーンに掬ったコンソメスープを口元に運んでやる。美味しかったらしく、裕貴は満足そうに目を細めた。
「緊張したんだよ。久しぶりに家族が揃ったから。三人でメシ食ったのなんて、五年以上ぶりだよ。兄さんの結婚式ですら、ビデオメッセージで済ませて出席しなかったんだから。……まあ、出席しなかったのはおれもなんだけど。とにかく、一家団欒なんて縁遠い家族なんだ、おれたち」
「だから緊張したのか」
「まあね。メシは基本的に一人で食べるか、一緒にいて楽しい相手と食べるべきだよね」
 裕貴にちらりと上目遣いで見つめられ、眼差しと言葉に啓太郎の気持ちはくすぐられる。長い前髪に隠れがちだった裕貴の両目を、今は覆うものはない。おかげで、わずかな眼差しの動きにすら、啓太郎はさきほどから翻弄されている。
「……俺とメシ食って、楽しいか?」
 たった一つの答えしか求めていない卑怯な問いかけに、裕貴はさらりと問い返してきた。
「啓太郎は楽しくない?」
「お前が楽しいなら……楽しいかもな」
「ずるいなあ。そういう答え方」
 楽しげに言った裕貴が目を輝かせ、ケーキの箱を引き寄せる。箱を開け、啓太郎が買ったケーキの大きさに盛大に爆笑しながら、キッチンからナイフと皿を持ってくる。さっそく切り分け、啓太郎の前にも皿からはみ出しそうなケーキの塊が置かれた。
 ビールでは顔色を変えない裕貴だが、今は頬が真っ赤になっている。ジュースのように飲んでいたワインで酔ってきたらしい。
 上機嫌といった様子でケーキを食べる裕貴を、啓太郎も上機嫌で眺める。
 料理も美味かったし、直感で選んだケーキの味も申し分なかった。目の前では、啓太郎がプレゼントしたマフラーをまだ首に巻いたままの裕貴が、和らいだ表情でワインを舐めるようにゆっくりと飲んでおり、啓太郎と目が合うと、笑いかけてくる。
 文句のつけようがない、完璧なクリスマス・イブだった。
 珍しく夕方には会社から戻ってこられたし、選んだプレゼントは裕貴に似合っているし、どうやら喜んでくれたようだ。ホテルのレストランの料理も、自分が買ってきたケーキも美味かった。ワインによる軽い酔いすら心地いい。
 子供の頃を除いて、この日をこんなに楽しんだのは初めてだ。その理由の大部分は、きっと――。
 啓太郎はグラスを置くと、裕貴の首を指さす。
「お前、いい加減マフラー外せよ。見ていると、なんか気恥ずかしくなってくる」
 テーブルに頬杖をついていた裕貴がマフラーに手をかけた。
「どうして?」
「……慣れないことをしたと、自分でも思ってるんだ。ねだられたわけでもないのに、自分からデパートに行って、カップルに囲まれながら真剣に、お前へのプレゼントを選んだなんて」
「おれって啓太郎に想われてるなあ、って、感動するね」
 からかうな、と口だけは怒ってみせた啓太郎は、立ち上がると、逃げるように隣の部屋に行く。さきほどから熱くなる一方の体温を少しでも冷ますため、ベランダに出ようとしたが、背後から裕貴に呼び止められた。
「――啓太郎」
 この瞬間、何かを予感したように体の中に電流が駆け抜けて、痺れた。おかげで啓太郎は一歩も前に進めなくなり、仕方なく振り返る。表面上『だけ』は、落ち着いた態度を取り繕いながら。
「なん、だ……」
 マフラーの端を手で弄びながら裕貴が側に歩み寄ってくる。本当に酔っているのか、足元が少し覚束ない。
 肩に額が押し当てられ、ごく自然な流れで啓太郎は裕貴の頭を片手で抱き寄せる。
「ものすごく言いにくいんだけど」
 そんな裕貴の切り出し方に、思わず啓太郎はドキリとする。何か不吉なことを言われるのではないかと身構えたのだ。だが、顔を上げた裕貴の悪戯っぽい笑みを見ると、どうやら違うらしい。
「……お前にも言いにくいことなんて、あったのか」
「あるよ。こんないいプレゼントをもらったあとだからさ」
 軽く受け流すことができなかった。心底照れた啓太郎は、顔を背けてしまう。そんな啓太郎の反応の意味を、聡い裕貴はわかっているはずなのに、からかいはしなかった。
「言いにくいことってなんだ。もったいぶらずに早く言え」
「啓太郎に、クリスマスプレゼントを用意してないんだよ、おれ」
 そんなことかと、拍子抜けした。
 啓太郎は片手でガシガシと頭を掻きながら、短く息を吐き出す。
「俺はいい……。別にお前から何かもらおうと思って、買ってきたわけじゃないしな」
「なら、欲しいものはないわけ?」
 裕貴から挑発的な眼差しを向けられ、咄嗟に何も言えなかった。
 啓太郎は心の中で、裕貴はやはり不揃いに伸びた髪のほうがいいと痛感する。そうでないと、いつもこの際どい眼差しを向けられ、うろたえなければならないのだ。
 頭に血が上りすぎて、何も考えられない。おかげで本能のみが剥き出しになっていく。裕貴の前で取り繕っていた年上としての体面など、とっくにどこかに消えていた。
「――……欲しいものがあると言ったら、くれるのか?」
「努力はするよ」
 啓太郎はムッと唇をへの字に曲げる。すると裕貴がおもしろがるように頬をつついてきた。
「お前、俺が何を言うかわかったうえで、そんなこと言ってるだろ」
「何、ヤバイことでも言う気なわけ?」
 からかわれて怒りたいのに、そうできない。
 ――惚れた弱みだ。
 負け惜しみではないが、苦々しく啓太郎は呟いた。
「……どっちがずるいんだ」
「さあね」
 そう言いながら裕貴が体を寄せて、啓太郎の背に両腕を回してくる。トレーナーを通してじんわりと伝わってくる体温が、狂おしい想いに火をつけてしまった。ここが啓太郎の限界だ。
 のろのろと裕貴の肩に手をかけると、低い声で告げた。
「――俺は今日から、メシ代以外にお前に金は払わないからな」









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