Sweet x Sweet

[15]

 裕貴はこれ以上なく怒っていた。拗ねているという可愛げのあるものではなく、いまだかつて啓太郎は、こんなに凶悪な目つきをした裕貴を見たことはない。目を吊り上げているというより、完全に据わっている。
 啓太郎は玄関で立ち尽くしながら、こいつは怒ると、熱くなるより冷たくなるタイプなのだと実感していた。『大晦日』である今日は、雪がちらつくほど寒いが、心なしか裕貴からも冷気が漂ってきている。
 壁にもたれかかりながら腕を組んだ裕貴が、何しに来たと言わんばかりに、啓太郎を頭の先から爪先までじろじろと見た。
「裕貴――」
「お久しぶり、羽岡さん。クリスマス・イブ以来だね」
 やはりそこに怒っているのか――。
 啓太郎は持っていたケーキの箱を裕貴に押し付けてから頭を下げる。
「悪かったっ。言い訳のしようもない。クリスマス・イブの日は、本当にちょっと顔を出して、戻ってくるつもりだったんだ。だけど、次々にトラブルが起こって、その処理に追われているうちに、年を越す前に試験用のサーバープログラムを動かすことになったんだが、どうしてだか、クライアントのプログラムからハードウェア情報が送られてこなくてな。その時点でもう、クリスマスが終わりを迎えていた。あとはもう、単体試験の繰り返しだ」
「なんかよくわからないけど、メールの返事もくれなかったよね。というか、携帯も繋がらなかった。会社に電話したかったけど、それは非常識だし、そもそも啓太郎の会社の名前すら知らない」
「……携帯を部屋に忘れて出てきた。帰って確認したら、電池切れだった……」
 裕貴からさらに冷ややかな視線を向けられ、心身ともに切り刻まれるような錯覚を覚える。慌てて啓太郎は弁明した。
「俺だって、お前のことが気になって仕方なかったんだぞっ。声だって聞きたいし、メールのやり取りだってしたくてたまらなかった。一か月の残業が軽く百時間超えるような過酷な労働に耐えられるようになったのも、お前とメールでバカみたいなやり取りをするようになってからなんだ。――本当は携帯を取りに戻りたかったけど、メシを食いに出る余裕すらなかった」
「だったら、電話してくるとか考えなかったわけ?」
「お前に、部屋の鍵を預けて、携帯を持ってきてもらうのか?」
 裕貴がぐっと唇を引き結ぶ。引きこもっている自分には難しいことだと思ったらしい。啓太郎も、いまさらそんなことを指摘したいわけではない。
「携帯がなくても、会社から電話できたはずだと思ってるんだろ。確かにそうだ。だけどな、部屋にこもりっきりで、他の人間も徹夜で作業を進めているような中で、お前と……電話で話すなんてできなかった」
「どうして」
 わかって聞いているのだろうかと思いながら、啓太郎はまじまじと裕貴の顔を見つめる。しかし裕貴の怒った表情は相変わらずで、本気で理由を聞きたがっている。
 本当のことを言いにくい――。啓太郎は乱暴に前髪に指を差し込み、逡巡する。すると裕貴が背を向けてダイニングに戻ろうとしたので、急いで靴を脱ぎ捨ててあとを追いかける。
「待てっ。言うから」
 やっと裕貴が振り返り、怖い目を向けてくる。啓太郎はため息をついてから念を押した。
「……いいか。聞いても笑うなよ」
「笑えるの?」
「俺としては、他人がこんなことを言ったら、笑うと思う」
 裕貴は少しだけ表情を和らげ、首を傾げる。話を続けろという意味のようだ。大晦日、ハードな仕事を終えて帰ってきたばかりだというのに、なぜ自分はこんなに追い詰められた状況にあるのかと、そんな自問が啓太郎の頭を過ぎる。
 ただ、もう素直に言うしかないようだった。
「――にやけると思ったからだ」
「へっ?」
「お前と話していて、ニヤニヤすると思ったんだ。緩みきった、だらしない顔だ。俺はこれでも会社じゃ、クールが売りなんだ」
「うそ」
「……お前が即答したのは、どの部分だ? 俺がにやけると言ったことに対してか、それとも俺がクールだということか」
 ふふふ、と声を洩らして笑うだけで、裕貴は答えなかった。とりあえず、機嫌は直してくれたようだ。おかげで啓太郎は大晦日を、大事な相手の側で過ごせる。
 アタッシェケースをテーブルの足元に置き、寛ぐためにコートとジャケットを脱ぐ。ネクタイを解いたところで、裕貴が思いがけないことを言った。
「啓太郎、この部屋にパジャマと部屋着を置けば」
 啓太郎が目を見開いて顔を上げると、裕貴はふいっと顔を反らす。
「まあ、隣なんだから、無理にとは言わないけど……」
「ついでに、予備の布団も置こう。俺が泊まれない。年が明けたら買いに行くか」
 このとき二人の間には、なんともいえない気恥ずかしさが漂った。考えてみれば、結ばれてから初めて、裕貴と顔を合わせたことになる。本当ならクリスマスにこそ、こんなふうに気恥ずかしいが、どこか甘い空気を堪能するはずだったのだ。
「――年越しソバ、作るよ。一応、二人分の準備をしてあるんだ」
 キッチンに立つ裕貴の後ろ姿を見つめる。ふと、啓太郎はあることに気づいた。
 兄の博人がこの部屋に来てから、少なくとも啓太郎の前で裕貴は、あの大きめのカーディガンを羽織らなくなった。今も、Tシャツの上からフリースを羽織っている。

 大盛りの天ぷらソバを味わい、満足しながらお茶を啜っていると、先に食べ終えた裕貴は手早くキッチンを片付け、いそいそと隣の部屋のテレビをつけた。
 にぎやかなバラエティー番組を簡単にチェックしてから、フローリングの床の上に座り込んだ裕貴が啓太郎に向かって手招きしてくる。何かと思いながら歩み寄ると、手を引かれて座らされた。
 テレビの画面が、ちょうど新年に向けてのカウントダウンを始める。
 去年の今頃は会社で仕事をしていたなと思うと、今のこの時間の充実ぶりに、啓太郎は心の中で感動すらしてしまう。
 そして年が明け、テレビからにぎやかな歓声が聞こえてくると同時に、裕貴が正座して啓太郎に向かい頭を下げた。
「明けましておめでとうございます。昨年はたくさんお世話をしました。とりあえず、今年こそよろしくお願いします」
「……こんなに恩着せがましい新年の挨拶を、俺はいままで聞いたことがないぞ」
「ほら、啓太郎も挨拶」
 急かされ、啓太郎も正座をすると、裕貴に向かって頭を下げる。なんともくすぐったいやり取りだ。
「明けましておめでとうございます。昨年はたくさんお世話になりました。今年もよろしくお願いします――じゃなく、世話を焼かせてやる」
「偉そう」
「どっちがだ」
 頭を上げた二人は顔を見合わせてから、次の瞬間には笑い合う。
「バカだよねー、おれたち」
「まったくだ。人には聞かせられん」
 足を崩した啓太郎は素早く腕を伸ばし、裕貴を捉える。肩を引き寄せると、裕貴のほうから体を寄せ、もたれかかってきた。やっと思う存分、裕貴を抱き締めることができる。
「……悪かったな。何日もかまってやれなくて」
 髪に唇を埋めながら啓太郎は囁き、裕貴が微かに首を横に振る。
「いいよ。年が明けたから、水に流してあげる。その代わり――」
「なんだよ」
「三が日ぐらい、きちんと仕事を休めるんだろね?」
「当たり前だ。なんのために、年末ギリギリまで働いたと思ってるんだ」
「どうだかなあ」
「大丈夫だ。呼び出しがあっても、三が日は仕事に行かない。……今の俺は、実家に帰っていることになってるしな。帰って来いと言われても、無理だ」
 毎度毎度、電話一本で簡単に仕事に引き戻されているのだから、正月気分に浸っているときぐらい、こういう小細工をしても許されるはずだ。そうでもしないと、いつ呼び出されるか気が気でなく、ゆっくりできない。
 とにかくやっと、安らげる時間を手に入れたのだ。
 視線を落とすと裕貴と目が合う。何? と言いたげに裕貴が首を傾げ、啓太郎は誘われるように唇を塞ごうとする。だが、あることを思い出して、唇が触れる寸前で動きを止めた。
「なあ、確認したいんだが……」
「なんでしょう」
「……キスしても、金を払わなくていいんだよな?」
 裕貴は目を丸くしたあと、気を悪くした様子もなく笑い声を洩らした。
「テーブルの上の貯金箱、中に入ってるお札は全部啓太郎に返してあげるよ。――最初からそのつもりだった。啓太郎との関係が疎遠になったときは返そうって。こんなに……ラブラブになるのは予想外だったな」
 予想外なのは、お前の表現だ。
 ラブラブという言葉に部屋中を走り回りたい気持ちになりながら、啓太郎は苦笑を洩らす。裕貴が愛しくあると同時に、こんなことを考えていたのかと多少のショックもあった。啓太郎など、裕貴と特別な関係を持っている間、それが終わることを考えもしなかった。
 裕貴は見た目よりずっと大人で、啓太郎よりずっと痛みを知っている。それはきっと、何かを失う痛みだ。
「ところで、お札は返すってことは、小銭はダメってことか?」
 裕貴は勢いよく首にしがみついてきながら頷いた。
「当たり前だろ。だって啓太郎、おれが作ったメシ食ってるじゃん。食費はきちんと入れてよね」
「まあ、嫌だという気はないんだけどな……。お前本当に、しっかりしてるよな」
「嫌いになった?」
 急に裕貴に顔を覗き込まれ、啓太郎は顔をしかめる。
「お前絶対、わかって聞いてるだろ」
「うん」
 悪びれたふうもなく頷かれ、それ以上は何も言えない。言えないついでに唇を塞いでしまおうとしたが、突然、電話が鳴った。
 いくら正月になったとはいえ、今は深夜だ。電話をかけてくるとなれば、よほど親しい人物に決まっている。
 裕貴は複雑そうな表情となってため息をつくと、啓太郎から体を離した。
「兄さんだ……」
 ダイニングへと移動した裕貴が電話に出る姿を見守る。
「――……もしもし」
 裕貴がこちらを見て、小さく頷く。やはり博人らしい。だいたい、裕貴の部屋に電話をかけてくる相手など、啓太郎は博人しか知らない。
「うん、明けましておめでとう」
 裕貴の横顔は、嬉しいのか照れているのか、同じぐらい戸惑っているのか、よくわからない。もしかすると、それらの感情すべてが当てはまっているのかもしれない。
「年越しソバなら食べたよ。でも、おせち料理は頼んでないし、作らないよ。だからといって、持ってこなくていいから」
 どこかぎこちない裕貴の言葉を聞いていた啓太郎だが、あまり聞き耳を立てるのもどうかと思い、視線をテレビへと向ける。全国の新年の様子が中継されており、改めて新年を迎えたのだと実感する。
 ここである場所がテレビに映り、思わず啓太郎は身を乗り出して見入ってしまう。
「……そうか。正月だもんな……」
「何が、正月だもんな、なの」
 ふいに間近で声がして、顔を上げる。いつの間に電話を切ったのか、傍らに裕貴が立っていた。
「お前、電話……」
「もう切ったよ。いまさら正月だからって話すこともないしね。成人したから、お年玉くれるわけでもないし」
「当たり前だ」
 裕貴が隣に座り込み、一緒にテレビを観る。
「――初詣か。最後に行ったのいつだったかなあ」
 ぽつりと洩らされた裕貴の言葉に、啓太郎の中である考えが浮かんだ。
「行くか?」
「えっ……」
「初詣。商店街を抜けてまっすぐ行ったところに、神社がある。こんなに大きいところじゃないがな」
「……啓太郎、おれが引きこもりだって忘れてるだろ」
 そう言って裕貴は恨みがましい視線をテレビに向ける。人でごった返し、前に進むのさえ苦労している様子がよく伝わってくる。普通の人間ですらげんなりしそうだが、これが引きこもりの裕貴だと、見ているだけでかなりのストレスだろう。
 わかってはいるのだが、啓太郎としては人並みのことを裕貴と経験してみたい。
 さっそく裕貴の説得に取り掛かっていた。
「安心しろ。テレビに映っているような大きな神社じゃないから。むしろ、こじんまりとして、普段はあまり人もこないようなところだ」
「でも、今は多いよね」
「……多少はいるだろうな」
「多少? ずいぶん控えめな表現だね」
「人がいる分、露天もたくさんあるぞ。なんでも買ってやる」
「啓太郎ってさ、おれの口に甘いものでも放り込んでおけばいいとか思ってない?」
 思っている、と正直に答えるわけにもいかず、啓太郎は曖昧に笑って返す。裕貴は冷めた視線で一瞥して、テレビに顔を向ける。
「情緒ないよなあ、啓太郎の誘い方。いくら優しくても、女に振られ続けてた理由がわかる気がする」
 あまりな言われ方だが、啓太郎は怒るのも忘れ、首を傾げて裕貴の言葉の意味を考えていた。これは、裕貴なりの謎かけだと直感したのだ。
 そして、咳払いを一つしてから、改まった口調で再度誘う。今度は、啓太郎なりの情緒を込めて。
「――お前と初詣を兼ねてデートをしたい」
 言った次の瞬間には、恥ずかしさのあまり顔から火が出そうになる。慌てて裕貴に背を向けて頭を抱えていた。
「あまり恥ずかしいことを言わせるなっ。心で思っていても、実際に口に出すにはためらわれることが、世の中にはいくらでもあるんだぞ」
「おれを何日も放っておいた罰だよ」
 けっこう根に持たれていると啓太郎が苦笑を洩らしかけたとき、背に心地よい重みを感じる。肩越しに振り返ると、いつの間にかすぐ背後にまで寄ってきた裕貴が抱きついていた。
「裕貴……」
「よくできました、と言っておいてあげるよ」
 照れ臭いのと同時に、やけに幸せな気持ちを味わいながら、啓太郎はわざと素っ気ない口調で告げた。
「ほら、早く出かける準備しろよ。俺も着替えてくるから」

 一度自分の部屋に戻った啓太郎は着替えを済ませて、再び裕貴の部屋へと行く。
 同じく着替えを済ませて玄関に姿を見せた裕貴の姿に、完全に啓太郎はやられてしまった。
「……それ、俺の……」
 口元に手をやりながら啓太郎がぼそりと洩らすと、ニットキャップを直しながら裕貴はニヤリと笑う。
「せっかく実用的なものをもらったんだから、使わないとね」
 裕貴は、啓太郎がプレゼントしたマフラーと手袋をしていた。啓太郎は手を伸ばすと、照れながらマフラーを意味なく直してやる。ダウンジャケットをしっかり着込んだ裕貴は、その下に厚手のセーターも着ており、防寒は大丈夫そうだ。
「また風邪を引かせたら大変だからな」
「今度風邪を引いたら、啓太郎につきっきりで看病してもらうよ」
「――そのときは俺の部屋に来い」
 さりげなさを装って言ってみると、裕貴は目を丸くして、次の瞬間には首をすくめるようにして笑った。啓太郎の腕に、靴を履いた裕貴がしがみついてくる。
「かっわいいなあ、啓太郎は」
「うるさいっ。大人の純情をからかうなっ」
 裕貴の口を塞いでなんとか玄関から連れ出す。深夜ということもあってマンション全体が静まり返っているが、住人たちの中には実家に帰ったりしていない人間もいるだろう。
 裕貴はまだ、くっくと声を洩らして笑いながらドアに鍵をかけていた。啓太郎は人さし指を唇の前に立てる。
 マンションの前に出ると、さすがに普段の同じ時間帯に比べて車と人の往来は多かった。
「みんな、どこ行ってるんだろうね。こんな時間に」
「初詣……とかじゃないか。あちこちで、年越しのイベントもやってるだろうし」
 そんなことを話しながら歩き出すと、今思い出したという感じで裕貴が尋ねてきた。
「ねえ、啓太郎は本当に実家に戻らなくていいわけ? 長男でしょ。やっぱり顔見せないとマズイんじゃない」
「……お前、意外に保守的なこと言うな」
 啓太郎は、今頃実家はどうしているかと想像したが、数秒後にはうんざりしてやめてしまう。
「俺の実家はな、毎年年末年始は親戚連中が集まってにぎやかなんだ。いや、にぎやかという可愛げのあるもんじゃないな。とにかくうるさい。女も男も酒は飲みまくるし、ガキどもは家中走り回って、ケンカするわ、泣き叫ぶわ。ハードな仕事のあとに実家になんて帰っていたら、確実に俺は過労死する。もう三年ぐらい帰ってないから、薄情な長男のことなんて忘れてるかもな」
「えー、でも楽しそう」
「実態を知らない奴は、簡単に言うけどな……」
 啓太郎は裕貴の白い横顔に視線を向ける。楽しそうに啓太郎の実家の話を聞いている裕貴を見て、こいつはいままで、どんな年末年始を過ごしていたのかと気になったのだ。
 裕貴や博人の話を聞く限りでは、啓太郎の実家のような騒々しさとは無縁そうだ。
「お前のところは、どんな正月だった?」
 問いかけたところで、前からカップルが破魔矢を手に歩いてくる。裕貴は顔を伏せ、カップルとすれ違うまで黙り込んでいた。
「――……おれのところは、啓太郎が想像したとおりだと思う。誰も来ない、静かな正月だったよ。父さんも帰ってこないから、いつも兄弟二人きりだった。食べきれないのに、兄さんがいつも、豪華なおせちを頼んでさ。兄さんが成人してからは、旅行に連れて行ってくれるようになったから、そんなに寂しい正月って感じはなかったかな」
「本当に、父親みたいだな」
 思わず洩らした啓太郎の言葉に、裕貴が不思議そうな表情をする。
「博人さんが言ってたんだ。お前の兄貴というより、父親みたいに見守ってきたって。お前の話を聞いてると、確かにそんな感じだ」
「ああ、そっか。兄さんと二人でメシ食ったんだよね」
 おかげで裕貴との関係が少しこじれそうになった――。啓太郎は胸の奥でこっそりと呟く。
 急に裕貴が周囲を見回し、人気がないことを確かめると、啓太郎の手を握ってきた。この行動に驚きながらも啓太郎は、すぐにくすぐったい感覚で体中を満たされる。
 裕貴はうつむき加減でこう洩らした。
「こんなふうに、他人と一緒に正月を迎えられるなんて思わなかったよ。おれは絶対、他人とは関われないと覚悟してたから……」
「大げさだな、お前」
 このとき啓太郎は、裕貴の言葉を深刻には受け止めなかった。そうする必要があるとは思えなかったからだ。
 裕貴は裕貴で、パッと顔を上げると、にんまりと笑いかけてきて腕を掴んでくる。
「啓太郎、腕組んで歩く?」
「バッ……。さすがにそれはマズイだろ」
「おれの体格なら、顔伏せてたら絶対、女の子に間違われるって。まあ、顔上げてても、おれぐらい可愛かったらそう簡単にはバレない――」
「お前、それでいいのか……」
「冗談だよ」
 裕貴が腕を放して先に行こうとしたので、咄嗟に手首を掴んで止めた啓太郎は、反対に引き寄せた。
「しっかりと俺の腕にしがみついて歩けよ。まさか男同士がこんなにくっついて歩かないだろうと、他人に思わせるぐらいにな。それと、人とすれ違うときは顔を伏せろ」
「やっぱりおれとくっついて歩きたかったんだろ、啓太郎」
「違うわっ。お前の希望を叶えてやろうっていう、俺の優しさだ」
「……そういうことにしといてあげる」
 反論したかったが、これ以上の言葉が出てこない時点で、啓太郎の負けだ。
 思わず拳を握り締めたが、腕を裕貴に取られて、しっかりしがみつかれると、照れ臭いという以上に、くすぐったくて幸せな気分になる。腕を組まれただけでこんな気分になるということは、やはり啓太郎は裕貴には勝てないということかもしれない。
 腕を組みながら、指を二本だけ握り締められる。少し歩きにくいと思いながら裕貴を見ると、楽しそうな顔をしていた。
『甘え上手』という言葉が、ふっと啓太郎の脳裏を掠める。
 今の生活では、裕貴の年齢ぐらいの青年と仕事で知り合う機会はあっても、それ以上のつき合いになることはなく、性格などをよく知ることはそうないのだが、それでも、裕貴は並外れて甘えたがりだと思う。
 それも疎ましさを感じる類のものではなく、相手を不快にしない程度の強引さを発揮したり、かと思えば、手を差し出したくなるような健気さを見せたりする。
 慣れていない啓太郎など、いいように振り回されっぱなしだ。
 しかし、誰に対しても同じように甘えるというわけではない。裕貴は今は引きこもっており、だから甘える相手は慎重に選んでいるはずだった。
 こんな素地が、いつ作られたのか――。
 考えるまでもない。裕貴をとことんまで甘やかし、甘え上手にしてしまったのは、博人しかいないのだ。弟を過保護に守っていた兄、だ。
 少し複雑な気分になり、掴まれている腕を無意識に動かそうとする。すかさず裕貴の手に力が込められ、物言いたげな目が見つめてきた。
 その目を向けられただけで、啓太郎の中で湧き起こりかけた博人に対する複雑な気持ちは消えてしまう。
「寒くないか?」
「寒いと言ったら、抱き締めて温めてくれるわけ?」
「素直に寒いと言え。途中コンビニがあるから、カイロでも買ってきてやる」
「……いいよ。啓太郎とくっついてるから平気」
 裕貴のこういう言葉に、呆気なく啓太郎の心は蕩けさせられる。
 結局、裕貴の甘え上手に手を貸しているのは、啓太郎自身だということだ。
 腕を組みながら、顔を伏せて通り過ぎる人たちからの視線を避けていた裕貴だが、商店街が近くなってくるに従い人の姿も増えてくると、さりげなく腕を解いて普通に歩き始める。
すっかり裕貴の重みに慣れてしまった啓太郎としては、なんとなく腕が寂しい。
 いつもならとっくにアーケードの照明が落とされ静まり返っているはずの商店街も、今日はまだ明るく、人の往来も多い。少し心配になって啓太郎は裕貴に尋ねた。
「お前、本当に大丈夫か? 連れ出しておいてなんだが、絶対人が多いぞ」
「途中で失神したら、きちんと連れて帰ってよ」
 裕貴が言うと冗談に聞こえない。難しい顔となった啓太郎に、裕貴は軽く肩をすくめてみせた。
「かえって人が多すぎるほうが、いいかも。紛れ込んでしまえるし」
「そういうもんか……。俺は引きこもったことがないから、感覚としてよくわからんが」
「自分たちのことに夢中で、誰も注目しないだろ。たとえ、男同士で手を握り合ってたって」
 ぎょっとした啓太郎に、可愛い顔をした悪魔は笑いかけてきた。
「――だって、迷子になって啓太郎とはぐれたら困るじゃん」
「お前は子供かっ」
「まあ、そんなふうなもんだと思ってよ」
 澄ました顔で言い切った裕貴に、啓太郎はもう何も言えない。諦めて、わがままな『王子』を守る騎士のように、ぴったりと裕貴の横に張り付く。
 想像はしていたが、年が明けたばかりの神社は、深夜だというのに人が多かった。境内には参拝する人の行列が参道にずっと連なり、歩くスピードはかなりゆっくりだ。啓太郎は、裕貴の腕を掴んでその行列に加わる。
 腕を掴んでいると、ダウンジャケットの上からとはいっても裕貴が緊張しているのがわかった。冗談めかしたことを言ってはいても、やはり人ごみの中に入って平気なはずがない。
それでも裕貴の状態は、少しはよくなっているのかもしれない、と啓太郎は希望を持つのだ。
 人に押されてよろめいた裕貴の肩を掴んで支えると、覚悟を決めた啓太郎は次に細い手首をしっかりと掴んだ。裕貴がちらりと見上げてくる。
「……転ぶなよ」
 啓太郎の言葉に、裕貴は笑い返してくる。
 自分たちの手元に誰か気がつくのではないかと冷や冷やしながらも、それでも掴んだ手首を離そうとは思わなかった。
 裕貴に対して過保護な博人の気持ちが、啓太郎にはわかる気がする。つき合えばつき合うほど、裕貴に何かしてやりたいという気持ちになるのだ。放っておけない、という感じだ。
 社殿が近くなってきて、やっと手を離す。
 賽銭を投じてなんとか参拝を済ませると、裕貴を庇いながら押し寄せてくる人の列からどうにか抜け出す。すると裕貴が足早に歩いて、御札所の横へと移動する。
 お守りや札を買おうとする人たちで混雑する御札所前だが、その横ともなると打って変わって閑散としている。
 壁に手をついて裕貴は大きく深呼吸を繰り返した。
「おい、大丈夫か」
 啓太郎は声をかけながら裕貴の背をさする。
「……さすがに、いきなりこんなところにきて平気なほど、甘くなかったみたい」
「気分悪いか?」
 裕貴の顔を覗き込むと、頬が紅潮している。青ざめているかと思っていただけに、意外だった。ただ、人の熱気に圧倒されたのだとしたら納得できる。
 心配する啓太郎を見て、裕貴は苦笑を浮かべた。
「人に酔っただけだよ。それに、たくさんの人に囲まれて緊張したから、体中の筋肉がガチガチに強張ってる」
「少し休むか。ここなら混雑してないし」
 そうは言っても目の前をどんどん人の列が通っていくのだが。ここで人気がない場所といえば神社を出るしかなく、そのためにはまた人ごみに突入しなくてはならない。今の裕貴には酷な話だろう。
「……少しだけ」
 素直に頷いた裕貴の肩をポンッと叩いてから、啓太郎は辺りを見回す。
「何か買ってきてやろうか?」
「甘いもの」
 噴き出したいのを堪え、その場を離れようとした啓太郎だが、大事なことを思い出して再び裕貴の顔を覗き込んだ。
「一人にして大丈夫か? すぐに戻ってくるが……」
 大丈夫と言いたげに、裕貴がひらひらと手を振る。
 もう一度辺りを見回した啓太郎は、ここを動くなと言い置いてから急いで駆け出した。
 人の波に呑まれながら、並んでいる露天を見て歩く。いざとなると、何を買っていけばいいのか困る。無難に、一度境内の外に出て、熱いコーヒーでも買ってきてやったほうがいいかもしれないと考え、参道を引き返して鳥居を目指す。
 そんな啓太郎の目に、あるものが飛び込んできた。同時に、甘く独特の香りに鼻腔をくすぐられた。何かと思えば甘酒だ。
 もう何年も甘酒など口にしていないことを思い出し、香りに誘われるように啓太郎は歩み寄る。どうやら近所の住民たちが無料で振る舞っているらしい。
 裕貴は飲めるだろうかと考えながら、とりあえず二人分の甘酒をもらうと、人にぶつからないよう気をつけて引き返す。
 人の間からようやく御札所の付近が見えたが、啓太郎はドキリとする。御札所の横にいるはずの裕貴の姿が見えなかったのだ。だが、混雑から抜け出したとき、やっとその理由がわかった。
 まるで子供のように、裕貴がその場に屈み込んでいたのだ。不安そうな表情をしていたが、戻ってきた啓太郎の姿を見るなり、パッと笑みを浮かべる。
 普段がどれだけ生意気で、年上の啓太郎をからかってこようが、こんな様子を見せられてしまうと、どうでもよくなる。もともと、裕貴にからかわれたところで、さほど気を悪くしているわけではなかったが――。
「そんなところにへたり込んでると、腰が冷えるぞ」
「オヤジくさー」
 そう言って立ち上がった裕貴の手が、ごく自然に啓太郎の腕を掴んでくる。そんな感触すら愛しく感じるのだから、自分は重症だ、と啓太郎にも自覚はあった。
「何買ってきたの?」
 独特の香りに誘われたように裕貴が紙コップの一つに鼻先を近づける。
「甘酒。懐かしいと思って、もらってきた。嫌いなら、コンビニにでも寄って何か買うか」
 啓太郎が話している間に、裕貴は紙コップの一つを自分で持ち、息を吹きかけ始めた。おそるおそるといった様子で紙コップに口をつける裕貴をさりげなく観察していたが、甘酒を一口飲んだ裕貴が表情を和らげるのを見て、つられて啓太郎も口元を綻ばせていた。
「美味いか?」
「うん」
 ニットキャップの上から裕貴の頭を撫でて、啓太郎も紙コップに口をつける。普段なら甘すぎると感じるであろう甘酒も、冷えた体にはその甘さが心地よく染み渡っていた。
 ふと、背に何かを感じる。視線を隣に向けると裕貴と目が合い、すぐにふいっと顔を背けられる。一方で裕貴は、啓太郎が着ているブルゾンの背をしっかり握り締めていた。他人の目からはわからないよう。
 こんなに幸せな気分で正月を迎えたことがあっただろうかと、啓太郎は甘酒を啜りながら考えていた。子供の頃は確かに正月は楽しいものだったが、大人になった今味わっているのは、そういう単純な感情ではない。
 くすぐったいような、胸が温かくなるような、たまらなく誰かを――裕貴を抱き締めたいような、いくつもの優しい感情が積み重なって感じる幸せだ。
「――啓太郎にくっついて外に出ると、意外に楽しいよね」
 ぽつりと裕貴が洩らした言葉に、啓太郎は目を丸くする。思わず裕貴を凝視すると、にんまり笑って付け加えられた。
「だからといって引きこもりやめようとは思わないんだけど。むしろ、引きこもりだからこそ味わえる楽しさ、ってやつ?」
「だったらこれからも、どんどん引きこもれ――なんて言えるかっ」
 失礼なことに、啓太郎の言葉に裕貴は、腹を抱えて爆笑する。
 啓太郎としては、一緒に笑っていいものなのかと悩まずにはいられなかった。









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