Sweet x Sweet

[17]

 自分が感じた『嫌な予感』が、頭から離れなかった。
 せっかくの正月休みだというのに何もする気が起きず、コタツに入って横になったまま啓太郎は天井を見上げていた。
 裕貴と別れたのは、ほんの数時間前だ。どこの温泉に出かけたのかは知らないが、もうすぐ日が暮れようとしているので、観光したにしても、そろそろ旅館かホテルに入る頃だろう。
 もしかして事故にでも遭ったのではないか――。
 普段、自分の直感など信じない啓太郎だが、裕貴が関わっているのかと思うと、最悪の事態ばかり想像してしまう。
 つけっぱなしにしてあるテレビから、にぎやかな声が流れてきた。気を紛らわせるつもりでつけているのだが、かえって気が散る。
 片手を伸ばしてテーブルの上に置いたリモコンを取ろうとしたとき、突然、携帯電話が鳴り始める。慌てて体を起こした啓太郎は、勢いよく携帯電話を取り上げた。表示を見ると、裕貴の携帯電話からだった。
「裕貴かっ?」
 必死の声で問いかけると、拍子抜けするような柔らかな笑い声が電話の向こうから聞こえてくる。
『何、啓太郎、必死な声出して。あっ、おれがいなくなって寂しかったんだろ』
 からかうような裕貴の言葉を聞き、一拍置いてから啓太郎は肩から力を抜いた。自分の心配が杞憂で済んだと確信できたのだ。
 ほっとした次の瞬間には、笑みが洩れる。いくぶん抑え気味の声で裕貴に問いかけた。
「宿泊先に着いたのか?」
『うん、とっくに。きれいな旅館だよ。父さんが知り合いに頼んで、無理やり取ってくれたところらしいけど。ご飯も美味しかった』
「……そりゃ、よかった」
 気楽そうな裕貴の言葉を聞くと、この数時間の自分の心配はなんだったのだろうかと思えてくる。
 俺の直感はあてにならないと、啓太郎は苦笑しながら髪に指を差し込む。
「それで、お前の親父さんや、博人さんは?」
『二人とも、大浴場に行った』
「で、お前は?」
『嫌だよ。知らない人たちと一緒に風呂に入るなんて』
 いかにも裕貴らしい意見で、妙に啓太郎は納得してしまう。引きこもりを旅行に連れ出したところで、過ごし方はあまり変わらないらしい。
 しかし、裕貴がみんなと風呂に入らない事情は、そう単純ではなかった。
『啓太郎、おれが引きこもりだから、大浴場に入れないと思っていかもしれないけど――それもあるけど』
「あるんじゃねーか」
『違うっ。啓太郎のせいだよ』
「俺?」
 八つ当たりかと思ったが、そうではなかった。照れたような声で裕貴がぼそぼそと話す。
『……こんなことになるなんて思わなかったから、気をつけてなかったんだけど……、体中についてるんだ』
 そこまで言われてわからないほど、啓太郎は鈍くない。あー、と声を洩らしてから、それ以上の言葉が出てこず、沈黙だけが二人の間を行き来する。
 昨日は、ここぞとばかりに裕貴と甘い時間を堪能し、ほとんど体を離すことはなかった。啓太郎は欲望と衝動のままに裕貴の体を貪っていたのだが、このとき、日焼けとは無縁の白い肌に、思うさま痕跡を残してしまった。
「そりゃ……、悪かったな」
 やっと出た啓太郎の言葉に、電話の向こうで裕貴の息遣いが笑う。耳をくすぐられたようで、啓太郎はゾクリとするような胸の疼きを感じた。
『いいよ。最初から、大浴場に行くつもりなんてなかったし。部屋風呂でも、温泉は温泉だしね』
 このまま電話を切るのが惜しくて、啓太郎は会話を続ける。
「久しぶりに家族で過ごしてどうだ? 楽しいか?」
 別に微笑ましくなるような答えを期待したわけではなかったが、裕貴の返答は素っ気なかった。
『楽しいわけないだろ』
「そう、なのか……」
『普段親らしいことなんてしないから、ここぞとばかりに父親ぶるんだよ、父さん。おれのこと犬猫みたいに撫で回して、ほとんど小さな子供扱い。それに輪をかけて、兄さんもおれに甘いから――想像できるだろ?」
 啓太郎はつい苦笑を洩らす。
「お前も大変だな」
『何かと監視の目が厳しいから、こうして啓太郎に電話かけるのも一苦労だよ』
「どうせ二泊三日なんだから、その間ぐらい、俺のことを忘れてもいいぞ」
『そんなこと言って、実はもう寂しくなってるんじゃない?』
 ドキリとした啓太郎は、咄嗟に言い返せなかった。一方の裕貴のほうも、啓太郎の反応に戸惑ったように、やや強引に話題を変えた。
『……お土産買ってきてあげるよ。何がいい?』
「いいから気にするな」
『そんなこと言っても、日ごろお世話になっているわけだし』
 啓太郎が短く噴き出すと、怒ったような口調で裕貴が言う。
『何がおかしいんだよ』
「いや……、日ごろ世話になってるのは俺のほうだと思ったら、おかしくて」
『まあ、そうなんだけど――』
 突然、不自然に裕貴が言葉を切ったので、啓太郎は眉をひそめる。
「裕貴?」
『ごめんっ。父さんと兄さんが戻ってきたみたいだから、切るねっ』
 ここで電話が一方的に切られ、啓太郎は少し呆然とする。ようやく携帯電話を畳むと、大きくため息をついてテーブルに額を押し付けた。
 裕貴に何事もなかったことにまず安堵して、旅行先で家族とそれなりに楽しんでいることに、わずかな嫉妬を覚える。そして一気に、寂しさが押し寄せてきた。
 仕事中であれば、この寂しさは耐えられるのだ。なのに、こうして自分が自由な時間を持て余しているのに裕貴と会えないというのは、非常に堪える。
「ハマってるなあ、俺……」
 抱き締めた裕貴の感触を思い返しながら、啓太郎は洩らす。
 初めて裕貴と接触したときは、まさか自分たちの関係がこうも濃密で甘いものになるとは、想像すらしていなかった。少し打ち解けたところで『時給制の恋人』などと奇妙な契約を交わし、ついには、裕貴のほんの二泊三日の外出さえつらく感じるほど、大事な存在になった。
 怒涛の展開だ――。
 ふいに頭に浮かんだ表現に、思わず啓太郎は笑ってしまう。ついでに、新年早々、煩悶している自分の姿もおかしかった。
 啓太郎は仰向けに寝転がると、とりあえず切実な問題をどうしようかと考える。
 三が日は裕貴の世話になる気満々だったため、実は啓太郎の家の冷蔵庫には食料がほとんど入っていないのだ。
「……ピンチだな、俺」
 そう呟いた啓太郎は、切迫感なく声を上げて笑い出していた。




「――ピンチだったな、俺……」
 マンションのエレベーターの中で、啓太郎はぐったりしながら洩らす。冗談ではなく、本当にピンチだった。
 裕貴が旅行先から戻ってくる前に、わずかな正月休みを終えて仕事に戻ったのだが、いきなりハードだった。
 単体試験のあとの結合試験に入ったのはいいが、あちこちで悲鳴が上がる惨状で、そこから修正を加え、クライアントプログラムの起動させたのだ。そこに至るまで、およそ三日間の時間を必要とした。
 もちろん啓太郎は、いまさら珍しいことでもないが、ずっと会社に泊まり込んでいた。おかげで、正月の浮かれ気分など、すでに啓太郎には残っていない。
 仕事の合間、裕貴が旅行から戻ってきたことは知っていた。裕貴から、戻ってきたとメールが来たのだ。できれば電話で声を聞きたかったが、仕事か、食うか、仮眠かという生活の中では、電話したところで満足な会話が成り立つとは思えず、結局、淡白なメールのやり取りだけだった。
 足を引きずるようにして通路を歩きながら、啓太郎はあることを思い出してふっと笑う。
 裕貴が家族旅行に出かけるとき、自分が覚えた嫌な予感がいかにあてにならないものだったのか、いまさらながら実感したのだ。
 裕貴は何事もなく無事に戻ってきたというのに――。
 さっそく裕貴の部屋のインターホンを押すと、少し間を置いてからドアが開けられた。このとき、ドアの向こうから現れた裕貴の姿を見て、一瞬啓太郎は、わずかな違和感を覚えた。
「おかえり」
 そう言って裕貴に玄関に迎え入れられ、ドアを閉めて鍵をかけた啓太郎は、何より先に裕貴の顔を覗き込む。
「何?」
 裕貴が笑って首を傾げる。いつもと変わらない笑顔だと思うが、なぜかそこに、啓太郎は少しのぎこちなさを感じる。それが、違和感の正体だ。
 もっとも、自分の直感があてにならないのは、啓太郎自身がよく知っている。
「旅行、楽しめたか?」
 啓太郎の問いかけに、裕貴は一度顔を伏せかけたが、すぐに意味ありげな流し目を寄越してきた。
「……なんだよ、その目は」
「啓太郎が貧しい食生活を送りながら寂しがっているかと思ったら、とても楽しむ気になんてなれなかったよ」
「あー、そうですか」
 裕貴に腕を引かれるまま部屋に上がると、さっそく啓太郎はアタッシェケースを置いてからコートを脱ぐ。すると裕貴の両てのひらが頬に押し当てられた。
「なんか、世間はまだ正月気分に浸ってるっていうのに、啓太郎はもうヘロヘロだよね」
「だったら俺を労わって、美味いものを食わせてくれ」
 いいよ、と言って裕貴が笑い、キッチンに向かおうとしたが、すかさず啓太郎は肩を掴んで引き戻すと、しっかりと抱き締めて顔を寄せる。啓太郎がまず何を求めているのか察したらしく、はにかんだような表情を浮かべてから、裕貴が軽く唇を重ねてきた。
 啓太郎はもっと深いキスを求めようとしたが、それより先に裕貴が肩に顔を埋めてきて、しっかりとしがみついてくる。
 基本的に裕貴は甘え上手だ。啓太郎の心をくすぐるような甘え方をしてきて、それが嫌味にならないギリギリのところで体を離すタイミングもよく知っている。なのに今の裕貴は、子供のように甘えてきているようだった。
 自分の欲求をぶつけてくる、そんな甘え方だ。だが啓太郎は、そんな甘えられ方が迷惑どころか、素直に嬉しい。
「どうした? 旅行の間に親父さんにたっぷり甘えて、里心が出たか?」
 からかうように啓太郎が言うと、顔を上げた裕貴が苦い表情となる。パッと体を離して、さっさとキッチンに向かった。
「啓太郎は、おれの父さんがどれだけぶっ飛んだ人間か知らないから、そういうこと言えるんだよ」
 冷蔵庫を開けながらの裕貴の言葉に、ネクタイを抜き取りながら啓太郎はテーブルにつく。裕貴には悪いが、著名なジャーナリストである裕貴の父親は、なかなかおもしろそうな人物らしい。
 気になったので、インターネットで裕貴の父親について調べたのだ。ただ、そこからわかったのは、あくまでジャーナリストとしての経歴だけだ。家庭人としての実像は、家族から聞くしかない。
「とにかく自分勝手。気まぐれにおれを猫可愛がりしていたと思ったら、次の瞬間にはあっという間に家を飛び出して、何か月も帰ってこないなんてザラだったんだ。その間、こちらから連絡取るのに苦労してたんだから」
「でも、お前を猫可愛がりはしてたんだな」
「……一緒にいるときは、本当に、おれにべったり。だったら、普段から可愛がれって言うんだ」
 博人という過保護な兄までいるのだから、旅行中の裕貴はさぞかし大変だっただろうと思いつつも、父親と兄に可愛がられる裕貴の姿を想像して、つい啓太郎はニヤニヤしてしまう。途端に、何かを感じたように裕貴が振り返ったので、慌てて表情を取り繕う。
「そうだ、啓太郎、一応、買ってきたよ」
「何をだ」
「お・み・や・げ」
 妙な節をつけて言った裕貴が、テーブルの上を指さす。確かにそこには、紙袋が置いてあった。
「もらっていいのか?」
「大したものじゃないけどね」
「いやいや、買ってきてくれたというお前の気持ちが嬉しい――」
「選んだの、兄さんだよ」
 紙袋を覗こうとした啓太郎は動きを止めるが、それを見て裕貴は満足げに笑う。
「ウソ」
「……お前なあ……」
 紙袋に入っていたのは、日本酒に温泉饅頭、それに何かの包みだ。包装紙が白いため、何が入っているのか見当もつかない。
「開けていいか?」
 こちらに背を向けたまま裕貴が頷いたので、さっそく啓太郎は包装紙を開ける。出てきたのは、小さな包みの詰め合わせだった。
「なあ、これ――」
「泊まった旅館がオリジナルで作った入浴剤だって。宿泊客にはサービスでくれるんだけど、土産として旅館の中のお店でも売ってたから、買ってきた。啓太郎に、せめて温泉気分だけでも味わわせてあげようかと思って」
「……涙が出そうな気づかいだな」
 裕貴がメシを作っている間、することがない啓太郎は、隣の部屋のテレビをつけて漫然と眺める。テレビの中の光景は、すでに新年の騒ぎを忘れたように平常に戻っている。改めて、正月休みは終わったのだと実感できた。
 少しの間ぼんやりしていた啓太郎だが、ふと、さきほどまで聞こえていたキッチンからの物音が途絶えたことに気づく。視線を向けると、こちらに背を向けている裕貴が、菜箸を手にしたまま立ち尽くしていた。
 何をしているのだろうかと思った啓太郎は立ち上がると、そっと裕貴の背後へと歩み寄る。料理中に珍しく、裕貴はぼんやりとしているようだった。
「裕貴?」
 呼びかけて肩に手を置くと、ビクッと体を震わせて裕貴が振り返る。このとき手から菜箸が落ち、慌てて裕貴は拾い上げた。菜箸を洗う裕貴を見つめながら、啓太郎はこう問いかけずにはいられなかった。
「お前、大丈夫か? 仕事で疲れてる俺より、ぼんやりしてるぞ」
「ちょっとね。旅行に連れて行かれてから、どうも調子が狂ってるって言うか……」
 材料を入れたボールを抱えながら裕貴は首を傾げる。啓太郎は黙って頭を撫でてやったが、やはり手にはまだ、不揃いに伸びていた頃の髪の感触が残っており、短くなった髪に寂しさを覚える。
 裕貴を美容室に連れて行ったという裕貴の父親には悪いが、早く伸びてくれないだろうかと願ってしまう。
「メシ作ってるときぐらい、しっかりしろよ。怪我するぞ」
「平気、平気」
 その言葉通り、裕貴はてきぱきと動いて、啓太郎のメシを作ってくれた。
 今日は、大きな皿からはみ出しそうなお好み焼きと、トマトとバジルのマリネという献立で、裕貴に言わせると『手抜き料理』だそうだ。
 大きな口を開けてお好み焼きにかぶりつく啓太郎の前で、テーブルの前に頬杖をついた裕貴は、深刻なため息をつく。
「いつもならさ、ピンッて献立が浮かぶんだけど、不調なんだよね。やっぱり、旅館で上げ膳、据え膳って生活したからかなあ」
 そんなことをぼやく裕貴が、啓太郎には可愛く見える。様子がおかしいと感じたが、どうやら裕貴本人が、旅先で生活のリズムを崩したせいのようだ。もっとも、啓太郎のメシの世話をしているうちに、嫌でも元に戻るだろう。
「手抜きだ、不調だと言っても、美味いぞ、このお好み焼き」
 事実、お好み焼きは美味いのだが、気をつかって啓太郎が言うと、裕貴は実に憎たらしい返答をした。
「啓太郎って、なんでも美味そうに食うから、楽でいいよ。食わせるほうとしては」
「……可愛くない」
 ぼそりと啓太郎が洩らすと、ふふ、と声を洩らして裕貴は笑う。
「冗談だよ。おれがいままでメシを作って食わせたのは、父さんと兄さんと、啓太郎だけだけど、啓太郎が一番美味そうに食ってくれる」
 そんなふうに言われると、急に食べにくくなる。が、嬉しそうに見つめてくる裕貴の眼差しに応えないわけにはいかない。
 啓太郎はガツガツとお好み焼きを掻き込み、マリネにも手を伸ばす。いつの間にか置かれていたお茶を飲み干し終えたところで、裕貴が土産の日本酒の瓶を取り上げた。
「飲む?」
「お前は日本酒飲めるのか」
「少しだけなら……」
「なら、先に風呂だ」
 もらった入浴剤の一つを取り上げて啓太郎が言うと、意味をわかりかねたように裕貴は首を傾げる。
「えっと……、おれの部屋の風呂に入るわけ?」
「俺の部屋の風呂でもいいぞ。どうせ広さは一緒だし、手間も一緒だ。俺の部屋に来るなら、お前、パジャマも持ってこいよ」
 ここでやっと、裕貴は驚いたように目を丸くした。
「もしかして、おれも一緒に入るわけっ?」
「俺に温泉気分を味わってほしいんだろ」
「一人でいいじゃん」
「温泉は、誰かと一緒に入ると楽しいもんだぞ」
 激しく拒絶するかと思った裕貴だが、理由にもなっていない啓太郎の言葉を聞くと、数回まばたきを繰り返してから、立ち上がって食器を片付け始める。
「裕貴?」
「おれが片付けている間に、啓太郎は風呂に湯を張って、自分の部屋から着替え持ってきなよ。あっ、おれ、お湯は温めね」
 はい、と反射的に返事をした啓太郎は、キッチンに立って洗い物を始めた裕貴の後ろ姿をちらりと見て、唇を綻ばせる。
 啓太郎はすぐに裕貴の部屋のバスルームに行くと、バスタブに湯を溜め始める。その間に自分の部屋に戻ると、スーツからスウェットの上下に着替え、また裕貴の部屋へと戻る。
 すでに洗い物を終えたらしい裕貴は、バスタブの縁に腕をかけ、湯を掻き混ぜているところだった。すでに入浴剤を入れたらしく、湯は白く濁っている。
「あー、さすがに温泉らしい匂いがするな」
 軽く鼻を鳴らしての啓太郎の言葉に、裕貴が勢いよく立ち上がる。
「よし入るよ」
 スリッパを脱ぎ捨てた裕貴に腕を取られ、啓太郎は脱衣所に引っ張り込まれた。
 恥じらいといったものは無縁の様子で、裕貴は着ていたフリースを脱ぎ捨て、ジーンズに手をかける。見ていた啓太郎のほうが動揺してしまい、思わず顔を反らしていた。
 最初の頃は、自分の体を見られるのを嫌がっていたのと同一人物とは思えない潔さで裸となった裕貴がバスルームに入り、肩越しにちらりと啓太郎に艶っぽい眼差しを向けてくる。
「いまさら、裸を見られて恥ずかしい仲でもないだろ」
「……恥ずかしい仲じゃないから、ためらうってこともあるんだ」
「変なの」
 まるで裕貴に煽られたような形になり、苦々しい顔をしながら啓太郎も着ていたものを脱ぎ捨てた。
 湯に浸かる前に、まずは慌ただしく互いの体を洗ってやる。このとき色っぽい気持ちになることはなく、むしろ、子供と水遊びでもしているような感覚だ。
 当然だ。髪と体を泡だらけにして、湯をかけられるのを目を閉じて待っている裕貴の顔を見ていると、不埒な気分より、微笑ましい気分になる。
 まずは自分の泡をシャワーで洗い流してから、啓太郎は丁寧に裕貴の髪に湯を当てていく。指で髪を濯いでやるたびに、くすぐったそうに裕貴は首をすくめ、口元を綻ばせた。
「啓太郎って、実は子持ちじゃない? 妙に洗い方が上手いよ」
「いるわけないだろ」
「だったら、彼女と一緒にお風呂入って、よく洗ってあげてたとか」
「こういう酔狂につき合ってくれる恋人はいなかった」
「ほんと?」
 パッと目を開いた裕貴の眼差しが強烈で、湯当たりしたわけでもないのに、啓太郎は軽いめまいを覚えていた。
 髪の泡を流し、体に残っている泡もてのひらを使って洗ってやる。素直にされるがままになっている裕貴を眺めながら、啓太郎は思わずこんな質問をしていた。
「――……お前は妙に、王子様っぷりが板についてるよな。洗われ慣れてるっていうか」
 裕貴は一瞬、無表情となったが、次の瞬間には屈託ない笑顔を見せた。
「おれ、心臓が悪かった頃は、兄さんと一緒に風呂に入ってたんだ。一人で平気だったんだけど、風呂で発作を起こしたらどうする、って言われたら逆らえなくてさ」
「お前の王子様っぷりを作ったのは、博人さんということか。まあ、なんとなく予測はついてたけどな」
「甘やかされても、こんなに素直ないい子に育つっていう、見本みたいだろ?」
 啓太郎がわざと返事をしないでいると、裕貴にシャワーヘッドを奪い取られ、顔に湯をかけられる。奪い返すと、わざとらしく声を上げた裕貴はバスタブに勢いよく逃げ込み、溜まった湯が一気に溢れ出した。
 シャワーの湯を止め、啓太郎もあとに続く。バスタブは、一人で入る分にはそれなりに余裕があるのだが、さすがに成人した男二人が入るには少々窮屈だ。こうなると、座り方を工夫するしかない。
 湯に浸かった啓太郎は、すかさず裕貴の体を片腕に捉えて引き寄せる。大きく湯が揺れ、またバスタブから溢れた。
「――温泉に行って、こんなふうに入ってる人なんていないよ」
 背後からしっかり裕貴を抱き締めると、腕の中で笑い声を洩らしながら裕貴が言う。それでも嫌がる素振りは見せず、素直に啓太郎の胸にもたれかかって体を預けてくれた。
 裕貴の濡れた髪を撫でてから、啓太郎は唇を押し当てる。
「結局お前、大浴場には入らなかったのか? 夜中とかだと、そう人も入ってないだろ」
「……夜中、一度だけ入ったよ」
「一人でか」
 裕貴が答えるまでに、微妙な間があった。
「当たり前だろ。父さんが、一緒に入りたがって、しつこかったんだから」
「父子の裸の団らんの機会を、俺が奪ったというわけか……」
 そういうこと、と軽い口調で言って、裕貴の手が膝にかかる。啓太郎はときおり裕貴の肩や首筋に湯をかけてやりながら、それなりに和やかな入浴を楽しむ。
「啓太郎は、誰かと温泉に行ったことある?」
 振り返った裕貴に問われ、頷く。
「親戚連中と一緒に行ったこともあるし、大学時代は友達とも貧乏旅行のついでに、温泉に入ってたな。あと、最近だと、社員旅行。これは、肩が凝った。上司も一緒だから」
「親戚つき合いがなくて、引きこもりのおれには、知らない世界だね」
 裕貴の言い方に、啓太郎は苦笑する。確かに、裕貴の言うとおりかもしれない。そう思った啓太郎は、半ば本気でこう言っていた。
「だったら、まとまった休みが取れたら、俺と入りに行くか?」
「……啓太郎の仕事で、まとまった休みなんて取れるとは思えないけどなあ……」
 そんなことを言いながらも、裕貴は目を輝かせて笑う。ふいに、片手が伸ばされてきたかと思うと、啓太郎は頭を引き寄せられ、唇に軽く噛みつかれた。それがキスだとわかったとき、今度は啓太郎が裕貴の頭を引き寄せ、熱心に唇を貪る。
「啓太郎、すごく興奮してる」
 笑いを含んだ声で裕貴に指摘される。なぜ裕貴にそれがわかるかと言うと、当然二人とも何も身につけていないため、裕貴の腰の辺りに、啓太郎の欲望は直に触れているのだ。
「興奮しすぎて、貧血起こすかもな」
「バカ」
 呆れたように言った裕貴かせ上半身を捩るようにして、首にしがみついてくる。そんな裕貴の背を撫でてやりながら、啓太郎は奇妙な感慨深さに浸っていた。
 知り合ったばかりの頃に比べて、本人の意思かどうかは別として、ずいぶん裕貴の活動範囲が広がったと思ったのだ。
 近所に散歩に連れ出すことさえ苦労していたのに、今では、家族で温泉旅行に半ば強引とはいえ、出かけるまでになったのだ。
 このまま裕貴が外の世界に順応したとき、自分たちはこんな関係を保てるのだろうかと考えた途端、啓太郎の胸はざわつく。
 もしかすると、博人とともに出かける裕貴を見送っていた感じた嫌な予感とは、このことを示唆していたのかもしれない。
「啓太郎? なんか顔が怖いよ」
 啓太郎の胸に上半身を預けてきながら、裕貴が見上げてくる。そんな裕貴の額に自分の額を押し当てながら、少し身構えて啓太郎は問いかけた。
「――外に出かけるの、少しは平気になったか?」
 裕貴は困ったような顔となってから、啓太郎の腰に腕を回し、肩に顔をすり寄せてきた。その行動はどことなく、庇護を求める子供のようにも感じられる。
「兄さんも父さんも、引きこもりの扱い方を知らないんだよ……。おれはどこかに連れて行ってもらうより、こんなふうにしているほうがほっとする」
 優越感に啓太郎の心はくすぐられる。同時に、やはり裕貴は少し元気がないとも感じていた。昨日今日、旅行から帰ってきたわけでもないのに――。
 自分の疲れも忘れて啓太郎は、裕貴の疲れを取り除いてやろうと、優しく首筋や肩を揉んでやる。そんな啓太郎の気持ちがわかったのか、首を竦めるようにして笑い声を洩らした裕貴が小さく呟いた。
「……やっぱり優しいなあ、啓太郎は」









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