Sweet x Sweet

[18]

 クライアントプログラムを起動させたはいいが、実はまだやるべきテストは残っていた。
「正しく動いてくださいね、と」
 口中で呪文のように唱えながら、啓太郎はポンッとキーボードを叩く。目まぐるしく動くモニターを呆けたように眺めていたが、凄まじい勢いで眠気に引き込まれそうになる。そのまま瞼が落ちそうになったが、寸前のところで携帯電話が鳴った。
 特別な相手のみ登録した着信音に、意識しないまま啓太郎の口元は綻ぶ。あっという間に眠気はどこかに行き、デスクの上の携帯電話を取り上げた。
 相手は確認するまでもない。啓太郎が特別な着信音を設定してあるのは、裕貴だけだ。
『今日は帰ってこられそう?』
 いつもと変わらない内容のメールだが、仕事でずっと根を詰めている啓太郎にとっては何よりも安らぐ一瞬だ。
 大丈夫、と返信すると、すぐにまたメールが来る。
『なんか食いたいものある?』
『お前に任せる。無理して手の込んだものじゃなくていいぞ』
『いつもそんなこと言わないくせに』
 裕貴のメールに、ドキリとする。裕貴が旅行から戻ってきてすでに一週間経っているのだが、いまだに啓太郎は、裕貴の体調を気にかけてしまう。
 別に、裕貴が体調が悪いと訴えたわけではないのだ。ただ、旅行先で不特定の人間と接したことで、裕貴が精神的なバランスを崩したのではないかと、過剰な心配をしてしまう。
 一方の裕貴は、すでにいつもと変わったところは何もない。啓太郎に甘えてくるかと思えば、次の瞬間には憎たらしいことをいい、それでいて憎みきれない笑顔を向けてくる。つまり啓太郎は、相変わらず裕貴に振り回されているのだ。むしろ、自ら望んで。
『じゃあ、思いきり手が込んだもの食わせろ』
 自分の心配をうかがわせないよう、そうメールしたところ、返事はいかにも裕貴らしいものだった。
『いいけど、いつもより高めの料金をいただきます』
 社員たちが何事かとこちらを見る中、顔を伏せた啓太郎は肩を震わせて笑ってしまう。
 裕貴は心配ない、と啓太郎はこのとき確信した。




 出勤前、啓太郎はいつものように裕貴の部屋に立ち寄る。しっかりパジャマを着込み、その上からカーディガンを羽織った裕貴は、寝乱れた髪を掻き上げながら出迎えてくれた。
 ちなみに裕貴が羽織っているカーディガンは、正月休み中にホットカーペットを買い出たとき、啓太郎が選んで買ったものだ。やはり裕貴は、大きめのカーディガンを羽織っている姿がよく似合う。ただしデザインも色も、あくまで啓太郎の趣味だ。
「寝てたか?」
 靴を脱ぎながらの啓太郎の言葉に、裕貴はやけに爽やかな笑顔を見せる。
「啓太郎のおかげで、すっかり朝、目が覚めるようになったよ」
「おー、人間は本来、朝起きて、夜寝る生き物だぞ。健康的な生活が送れるようになって、よかったじゃねーか」
「……おかげで夜、遅くまでゲームできないんだよね。いままでは明け方までやってたのに」
 恨みがましい声で言われて啓太郎は苦笑を洩らす。自宅から会社に向かえるときは、必ずといっていいほど裕貴に朝メシを食わせてもらっているので、つき合う裕貴の生活が変わるのも当然かもしれない。
 ダイニングに入るとすでにテーブルの上には、大皿に盛られたサンドイッチが用意されていた。しかもコーヒーのいい香りが漂っている。
「準備がいいな」
 目を丸くする啓太郎に対して、裕貴は唇を歪めるという自嘲気味な表情を向けてきた。この表情の意味は、啓太郎にはよくわからない。
「なんとなく、朝早くに目が覚めたんだ。それで気を紛らわせるために作って、また仮眠でも取ろうかと思ってたんだけど――」
 そこに啓太郎がやってきたというわけだ。
 テーブルについた啓太郎の前にコーヒーの入ったカップを置き、裕貴があくびをする。思わずこう言っていた。
「俺のことはもういいから、ベッドに入れよ」
「ダメだよ。ベッドに入ったら、夕方まで寝そう。今日は、ちょっと値動きが激しそうな株がいくつかあるんだ」
 裕貴が単なるゲーム好きの引きこもりではなく、生活費全般を稼ぎ出すネットトレーダーでもあることを、いまさらながら思い出す。普段、啓太郎がいる前では、裕貴はゲームをする以外では、パソコンの前に座る姿をほとんど見せたことがないのだ。
「食べたら、声かけてよ」
 そう言って裕貴はテレビをつけたまま、ホットカーペットがある部屋へと行ってしまう。
 あまり時間がないこともあり、急いでサンドイッチを食べられるだけ腹に収めた啓太郎は、コーヒーを飲み干すと、相変わらずテーブルの上に置かれている貯金箱にメシ代を入れる。
裕貴は本当にお札は返してくれ、今貯金箱に入っているのはメシ代である小銭だけだ。
 この貯金箱がいっぱいになるのは、どれだけ裕貴に世話になってからだろうかと、頭の片隅でちらりと思ってから立ち上がる。
「おい、裕貴――」
 部屋を覗くと、裕貴はクッションを枕に、ホットカーペットの上に転がっていた。両手を腹の上で組み、じっと天井を見上げている。眠そうにしているのかと思っていたが、裕貴の表情は冴え冴えとしていた。
 裕貴のその様子を見た啓太郎は、自分の確信が実はまったく外れていたことを痛感した。
 旅行から戻ってきた裕貴の様子が少しおかしかったのは、決して疲れていたせいではない。
おそらく、もっと別の、深刻な何かがあったのだ。
 そして裕貴は、その『何か』をまだ払拭できていない。
 啓太郎の視線に気づいたのか、やっと裕貴がこちらを見て笑いかけてくる。
「食べた?」
「……ああ」
 裕貴が体を起こす気配がないので、啓太郎が傍らに座り込み、顔を覗き込む。
「裕貴、何かあったのか? 様子がおかしいぞ」
 啓太郎の深刻な声での問いかけに、裕貴はちらりと苦い表情となる。
「眠いせいかな。でもおれ、寝起きはいいんだよ」
「そういうことじゃない。本当は、旅行から帰ってきたお前を見たときから、なんか妙な感じはしてたんだ。ただそのときは、旅行疲れかと思ってたんだ。だけど今のお前を見ていたら、そうじゃないみたいだな」
 裕貴はじっと天井を見上げたままなので、啓太郎はそっと髪を撫でてやる。すると裕貴が手を握ってきた。
「もしかして旅行に行ったとき、お前と俺の関係を知られたのか?」
「だとしたら、どうする?」
 まるで試すような眼差しを向けられ、即座に言葉が出てこなかった。すぐに裕貴は緩く首を横に振る。
「心配しなくていいよ。大丈夫だから」
「何がどう大丈夫なんだ。お前が責められているんなら、俺がきちんと説明する」
 裕貴は目を丸くすると、真剣な顔をしている啓太郎をじっと見上げてきた。さまざまな感情が入り混じったような裕貴の目を覗き込みながら、啓太郎は頬を撫でてやる。
「……俺の前で無理するな。俺はお前に頼りっぱなしなんだから、いざというときぐらい、お前が俺を頼ってくれてもいいだろ」
「啓太郎……」
 裕貴の両腕が伸ばされ、首にしがみつかれる。啓太郎は頭を抱き寄せた。
「何があった。言ってみろ?」
「なんでもない。ただ、これからちょっと、忙しくなるかもしれないと思ったら、憂鬱で」
 体を起こした裕貴は、ホットカーペットの上にぺたりと座り直す。本当に憂鬱そうにため息をつき、くしゃくしゃと髪を掻き乱した。
「何かあるのか?」
 啓太郎の言葉にうな垂れるように頷いた裕貴に、いきなり腕を取られる。腕時計を見てから、裕貴が顔を上げた。
「啓太郎、そろそろ出ないと遅刻するよ」
「あ、ああ……」
 離れがたいという気持ちが表情に出たらしい。裕貴がイタズラっぽく笑いかけてきた。
「そんな顔しないでよ。それに、何かあるときは遠慮なく啓太郎を頼るから。――すぐに、わかるよ。おれ、啓太郎を巻き込むって決めてるんだ」
「……何?」
「はい、会社に行って、行って。おれに貢ぐために、啓太郎にはいっぱい稼いできてもらわないといけないんだから」
 半ば強引に部屋から追い出され、ダイニングへと戻った啓太郎はコートを着込む。
「おい、お前のさっきの言葉はどういう意味だ」
 アタッシェケースを手にしたところで、たまらず問いかけたが、裕貴は答える気はないらしく、芝居がかった仕種で手を振ってきた。
「――いってらっしゃい、啓太郎」
 裕貴に逆らえない啓太郎としては、この場は黙って出かけるしかなかった。




 裕貴が言っていた意味深な言葉の意味を、啓太郎は二日後には知ることになる。
 前日、なんとか日付が変わる前に帰宅できた啓太郎は、貴重な日曜日の午前中を、睡眠に費やしていた。
 しかし、その至福の時間は突然打ち破られることになる。
 いきなりインターホンが連打され、寝ぼけた状態ながら条件反射で飛び起きた啓太郎は、ふらつく足取りでダイニングに行き、インターホンに出る。
「どちら様――」
『啓太郎、おれ』
 寝ぼけていても、裕貴の声はすぐに判断できる。こちらから誘わない限り、啓太郎の部屋に来ることのない裕貴がどうしたのかと思い、慌てて鍵を解いてドアを開ける。
 部屋の前には、ダッフルコートをしっかり着込み、ニットキャップにマフラー、手袋をした裕貴が立っていた。
「お前、その格好……」
「啓太郎、つき合って」
 突然の言葉に面食らい、啓太郎は目を見開く。裕貴は不機嫌そうな表情のまま玄関に入ってきた。
「これから出かけなきゃいけないんだ。だから啓太郎につき合ってほしい。おれ、タクシーは苦手だから、よっぽどのことじゃないと利用したくないから」
「……つまり俺に、車を出せっていうのか」
「だって啓太郎、この間、俺を頼れって言ったじゃん」
 言った――。だがそれは、精神的な支柱にしてほしいとか、そういう意味で言ったのだ。決して、便利屋として頼ってほしいと言ったわけではない。
 心の中で言いたいことはあったが、唇をへの字に曲げている裕貴の様子は只事ではないので、自分の言いたいことは後回しにする。
「急ぐか?」
「急ぐ」
「どこに行くんだ」
「車の中で説明する」
 啓太郎は大きく息をつくと、ニットキャップの上から裕貴の頭を軽く叩く。
「待ってろ。すぐ準備するから」
 啓太郎は急いで顔を洗って歯を磨くと、服を着替える。スーツのほうがいいかと尋ねると、なんでもいいという答えが玄関から返ってきたので、遠慮なくパンツにトレーナー、その上からブルゾンをひっかける。髪をセットする間もなかったので、とりあえず寝癖だけ直した。
 財布に免許証、車のキーを突っ込みながら玄関に行くと、裕貴はダッフルコートのポケットに両手を突っ込み、所在なげにドアにもたれかかっていた。
「おい、行くぞ」
 顔を上げた裕貴が、啓太郎を見てほっとしたように微笑む。
「本当に一緒に行ってくれるんだ……」
「ああ? 行けと言ったのはお前だろ」
 靴を履こうとしている啓太郎に、裕貴が体をすり寄せてきたが、すぐにドアを開けて外に出る。ささやかな仕種だが、啓太郎には効果は絶大で、知らず知らずのうちに顔が熱くなってきた。

「――で、いい加減どこに行くのか、教えてくれないか」
 車を走らせながら啓太郎が口を開くと、裕貴はメモ用紙を手渡してきた。ちらりと視線を落とす。何があるのか、ただ住所が書いてあった。
「ここに行けばいいのか?」
「うん……」
 この住所に何があるのか尋ねる前に、裕貴は憂鬱そうなため息をつく。車に乗ってから、こんなため息ばかりついている。よほど、行きたくないのだ。
「――……この間まで、父さんが帰ってきてただろ?」
 ようやく裕貴が話し始めたので、啓太郎は前を向いたまま頷く。
「どうしてこんなことになったのか知らないけど、急に実家のリフォームをするって言い出したんだ」
「建て替えか?」
「そう大げさなことじゃなくて、内装を変えるみたい。あと、水廻りも」
「で、言い出した当人は、もう日本にいないと」
 裕貴は大きく頷き、苛立ちを含んだため息をまた洩らす。こうやって、裕貴は父親に振り回されてきたのかと思うと、悪いと感じつつも笑ってしまいそうになる。
「そりゃ大変だな。よりによってお前に任せるなんて」
「いや、任されたっていうか……」
 珍しく裕貴が口ごもり、うかがうように啓太郎の顔を覗き込んできた。
「どうした?」
「ううん。……これから行くところ、ショウルームなんだ。そこで、いろんなものを見られるみたいで、一度自分の目で見ておくほうがいいかなって」
「お前一人で選ぶのか? 責任重大だな」
 何げなく言った啓太郎の言葉に、裕貴は返事をしなかった。
 その理由を、大きなショウルームの一階に足を踏み入れて、やっと啓太郎は理解した。
「――裕貴」
 一階に置かれたソファに腰掛けていたスーツ姿の博人が、裕貴の姿を見るなり立ち上がる。
そして、裕貴の背後にいる啓太郎の存在に気づき、驚いたように目を見開く。ただ、驚いたというなら啓太郎も同じだ。
 博人の存在は、悪いが頭からストンと抜け落ちていた。だが冷静になって考えてみれば、いくら実家のこととはいえ、引きこもりの裕貴が自らの意思で精力的に動き回るはずがない。
 自分の髪を掻き乱した啓太郎は、裕貴のため息の意味がやっとわかり、天を仰ぎ見る。
 大手メーカーのショウルームは、大きいだけでなく、非常に明るくて客が多かった。裕貴にはさぞかし居心地が悪いだろう。ボディーガードを二人も必要とするほど。
 視線を戻すと、心配そうにこちらを見ている裕貴と目が合う。そんな目を見て、文句など言えるはずがない。啓太郎は片手を伸ばすと、ニットキャップを取った裕貴の頭を撫でてやった。
 側まで歩み寄ってきた博人に、一瞬鋭い眼差しを向けられる。しかし次の瞬間には、礼儀正しく会釈をされた。
 すぐに博人の視線は、裕貴に戻る。
「羽岡さんに連れて来てもらったのか……。せっかくの休みなのに迷惑だろう。だから俺が、迎えに行くと言ったんだ」
「いいよ。啓太郎とドライブしたかったし」
「だけど――」
「気にしないでください。俺はいつも裕貴の世話になっているので、運転手ぐらい喜んでやりますよ」
 人が多く通る場所で兄弟ゲンカでも始めそうな勢いなので、たまらず啓太郎が割って入る。それに乗るように裕貴が頷いた。
「そうそう。啓太郎がそう言ってるんだし。ほら、さっさと済ませよう。おれ一応、現役の引きこもりなんだからね」
 何か言いたげに口を開こうとした博人だが、結局、軽く息を吐き出して手招きする。
「今日の主役はお前だ。しっかり見て、選ぶんだぞ」
 先を歩く博人の背を見つめていると、軽く腕を引っ張られる。見ると裕貴が、らしくなく申し訳なさそうな顔をしていた。
「……そんな顔するぐらいなら、最初から正直に言えばよかっただろう」
 からかうように啓太郎が言うと、裕貴はぎこちなく笑う。
「兄さんが待ってるって言ったら、啓太郎来てくれないかと思ったんだ」
「どうして」
「兄さんのこと、苦手だと思ってるだろ」
 裕貴の鋭い指摘に、啓太郎はドキリとする。確かに、博人の怜悧な雰囲気は少し苦手だ。何より、裕貴に甘すぎるほど甘い兄に対して、啓太郎はどう接すればいいのかわからない。おそらくこの気持ちは、裕貴と関係を持っていることに対する罪悪感の現れだ。
 他人の大事なものに、啓太郎は手を出している最中なのだ――。
 こういう表現はまるで自分が泥棒になったようで嫌なのだが、博人の前に立つと、どうしてもそんな気持ちに陥ってしまう。
 啓太郎のそんな気持ちを察したのか、手袋を外しながら裕貴はなんでもないことのように言った。
「無理ないと思うよ。おれが絡むと、兄さんは誰に対してもあんな感じだから」
「あんな感じ?」
「なんか嫌な感じ」
 裕貴の言い方に、思わず啓太郎は短く噴き出す。
「お前、自分の兄さんだろ」
「弟だから、こうはっきり言ってあげるんだ。だけど、いくら言っても治らない。……多分、ずっとあのままなのかな」
 裕貴の横顔が怖いほど真剣なものになり、博人の背を見つめている。啓太郎はそんな裕貴の横顔に見入ってしまう。啓太郎の視線に気づいたのか、すぐに裕貴は腕を取って引っ張ってくる。
「ほら、行こう」
 裕貴に引っ張られるまま、三人でまず向かったのは、地下一階にある内装材のコーナーだった。ダイニングの壁と床を張り替えるらしく、係員の案内の元、裕貴と博人は何か話し合っている。
 啓太郎は数歩後ろに下がって見ていたが、裕貴は他人と話すのが嫌らしく、豊富な種類が並ぶ壁材の見本を見ては、手元のカタログを指差し、博人にだけ話しかける。すると博人が、まるで裕貴の言葉を翻訳するように係員に伝えていた。
 この兄弟は、ずっとこんな形で他人と接してきたのかと思うと、疎外感よりも、二人が作り上げた世界を素直に羨ましいと感じる。他人である啓太郎では、どう逆立ちしても兄弟の世界に入り込むことは叶わない。
 裕貴は、床や壁にはさほど興味がないらしく、始終退屈そうな顔をして、ちらちらと啓太郎を振り返る。こちらに来たそうな顔をしていたが、そのたびに博人が何か話しかけ、再び見本とカタログを見比べることを繰り返していた。
「別に床はなんだっていいんだよ。木材なのは一緒なんだし。壁だって、材質なんてよくわからない」
 やっとコーナーを移動しながら、裕貴が聞こえよがしにぼやく。ショウルーム内はよく暖房が効いているため暑くなってきたのか、マフラーを緩めようとしていたが、伸ばされた博人の手によってあっさりとマフラーは奪われた。うろたえたように目を丸くした裕貴は、慌てた様子で博人の手からマフラーを奪い返す。
「……いいよ。マフラーぐらい持つよ」
 なんでもないやり取りだが、妙に啓太郎は気になる。裕貴は一見、兄の博人に対して無防備なようでいて、なんでもないことに過剰に反応する。つまり、警戒しているのだ。
 啓太郎は裕貴に向けて手を差し出す。
「俺が持っててやる。二人であちこち見て回るなら邪魔だろ。どうせ俺は、突っ立ってるだけだしな」
「僻まないでよ」
「こんなことで僻むかっ」
 裕貴は小さく声を洩らして笑うと、マフラーを啓太郎に渡してくる。このとき博人と目が合い、そっと頭を下げられた。
 過保護な兄というイメージが啓太郎の中ですっかり定着してしまったが、考えてみれば、裕貴のようなわがままで偏屈で、かと思えば奔放な弟に振り回されるのも、なかなかの忍耐を必要とするだろう。
 次はどこに向かうのかと思えば、キッチンコーナーだった。料理が得意な裕貴は、さすがにキッチンには興味があるのか、ショウルームに足を踏み入れてから初めて目を輝かせ、一人でさまざまなタイプのキッチンの間を行き来し始める。
 それに気づいた係員が声をかけようとして、すかさず博人が、しばらく自由に見させてやってほしいと声をかけた。
 啓太郎はなんとなく、博人と並んで裕貴の姿を目で追いかける。
「――裕貴から聞きましたか、家のリフォームのこと」
 急に博人に話しかけられ、内心身構えながらも啓太郎は頷く。
「ええ。言い出した本人である親父さんは、もう日本にいないと」
「旅先で父親と話していたら、人が住んでいなかったせいか、実家が荒れてきていると言い始めたんですよ。それはわたしも感じていたので、床と壁を張り替えて、ついでに水廻りも裕貴が使いやすいようにしてやろうということになったんです。どうせ料理は、裕貴しかしませんし」
「けど、リフォームしたって、誰も住まないのに」
 そう言ったのは、収納の扉を開けていた裕貴だ。挑むような強い眼差しを博人に向けると、当の博人は軽く肩をすくめる。
「そうは言うが、またお前が住むかもしれないだろ。父さんだって、お前の好きなようにリフォームしろと言ってくれたんだ。この機会に手を入れるのが一番いい」
「……金だけ出して、面倒なことはみんなおれと兄さんに押し付けるんだから、父さんはズルイよ」
「今に始まったことじゃない。それに父さんはズルイんじゃなくて、何もかも息子たちが処理して当然と思っているんだ。――諦めろ。それが俺たちの父さんだ」
 やけに説得力のある口調で博人が言い、裕貴も本気で腹が立っているわけではないのか、今度は昇降フードの高さを確かめ始める。
 その様子を見つめながら啓太郎は、寸前まで兄弟が交わしていた会話を頭の中で反芻していた。
 誰も住まない家をリフォームするということは、よく考えてみれば奇妙だ。いくら父親が言い出したとはいえ、先延ばしにすることは可能だろう。裕貴が実家に戻ると言い出したときに取り掛かればいいことだ。
 少なくとも裕貴は実家に戻る気はなさそうだが、博人のほうは――。
 横目で博人を見ようとしたとき、スッと博人が足を踏み出し、裕貴に歩み寄る。
「色は、白はありがちだから、パステル系のイエローとかブルーとかが明るくていいんじゃないか」
「男しかいない家なのに、パステルカラー?」
「なら、木目は」
「……黒もいいかなあ」
「向こうに色見本があるから見てこよう」
 博人の手がさりげなく裕貴の肩にかかり、見ていた啓太郎のほうがドキリとしてしまう。
兄弟であればなんでもないことなのだろうが、裕貴に触れる博人の手つきはひどく艶かしく感じられるのだ。
 まるで宝物にでも触れるように、大事に、いとおしげに裕貴に触れるのは、大事な弟だからというより、それ以上にかけがえのない存在だからだと、態度が物語っているようだ。
 キッチンだけでなく、バスに洗面と見て回る頃には、さすがに疲れた表情で裕貴が博人の元から離れ、啓太郎に歩み寄ってくる。
「疲れたか?」
 啓太郎が尋ねると、裕貴は肩をすくめた。
「新婚じゃないんだから、こういうの選んでたって楽しくないよね」
 あまりな言いように苦笑を洩らすと、手のかかる弟の機嫌を取るように博人が提案してきた。
「休憩コーナーがあるから、少し休むか?」
「……まだ何かあるの……」
「きちんとしたプランを立ててもらう。うちの設計図を持ってきたからな」
 裕貴は心底嫌そうな顔をして呟いた。
「引きこもりは、長い間、人の中にいちゃいけないんだよ。呼吸できなくなるから」
 めちゃくちゃな言い分に、啓太郎はたまらず噴き出したが、一方の博人のほうはまじめな顔をして裕貴の頭に手を置く。
「それでも、一番ひどい時期に比べたら、ずいぶんよくなった。少なくとも、外に出ようという気になってくれたんだしな」
「啓太郎のおかげだよ」
 きっぱりとした口調で裕貴が言い、啓太郎を見る。
「おれの迷惑も顧みずに、平気で連れ回してくれたからね」
「もしかして、責められてるか?」
「そう聞こえた?」
 ニヤリと裕貴が笑い、軽く体をぶつけてくる。啓太郎が笑って受け止めていると、そんな二人の様子を見ていた博人が洩らした。
「そうやっていると、二人とも本当の兄弟のように見えるな」
 急に裕貴は顔を強張らせ、博人を睨みつけた。
「何、言ってるんだよ……」
「お前は今は、俺にそういうことはしてくれないから、少し妬けた」
 博人は口元に笑みは湛えているものの、口調からは、発言が本気なのか冗談なのか判断することはできない。
 戸惑って何も言えない啓太郎とは対照的に、裕貴は怒ったような口調で言った。
「変なこと言わないでよ。……早く帰りたいから、さっさとプラン立ててもらおう」
 このとき裕貴と博人の間に流れた微妙な空気がなんなのか、結局ショウルームを出るまで啓太郎にはわからなかった。
 ただ、この会話を境に裕貴の機嫌は悪くなり、そんな裕貴を、可愛くてたまらないといった様子で目を細めて見つめていた博人の眼差しが、啓太郎には印象的だった。









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