Sweet x Sweet

[19]

 どこかで食事をしないかという博人の誘いを断った裕貴は、啓太郎とともに帰路につきはしたものの、車の中で口を開こうとはしなかった。何かを考え込むように唇を引き結び、じっと前を見据え続けていたのだ。
 そんな裕貴は両腕で、大判の封筒をしっかり抱えている。ショウルームでもらったカタログに、作ってもらったプランの用紙が入っていた。見積りをしてもらう前に、変更したいことがあったらいつでも連絡してこいと言って、博人が渡したものだ。
「裕貴、パン屋か弁当屋に寄って帰るか? お前も今日は疲れただろうから、買ったものを食って休めばいい」
「……啓太郎と兄さんて、考えること同じだよね。食い物でおれを釣ろうとする」
 返ってきた言葉の内容云々より、裕貴が口を開いたことに啓太郎はほっとする。
 信号待ちで車を停めると、片手を伸ばして裕貴の頭に触れる。
「わからないからだろ。お前が本当は何が好きなのかとか、どんな言葉を言ってほしいのかとか。大人はズルイからな。手っ取り早い方法を取りたがるんだ」
「オヤジみたいな言い方……」
 お前なあ、と苦々しく洩らした啓太郎だが、次の瞬間にはうろたえてしまう。頭にのせた啓太郎の手を取り、裕貴がしっかりと握り締めてきたからだ。
「裕貴……」
「別に啓太郎に、気の利いた言葉なんて期待してないよ。啓太郎は、そこにいてくれたら、それだけで楽しいんだ」
「楽しい、か?」
 素直に喜んでいいのだろうかと考えていると、スッと手が離される。前を見ると、車が進み始めているところだ。
 再び車を走らせた啓太郎は、裕貴の機嫌が少しはマシになったのを感じ、思いきって気になっていることを尋ねてみた。
「――お前、今日のことどう思った」
「今日の、こと?」
「お前の実家のリフォームのことだ。なんで今なのか、ってな」
 裕貴は小さく声を洩らしてから、膝の上に置いた封筒に指先を這わせた。
「よく、わからない。リフォームのことは、おれが寝ている間に決まったみたいなんだ。確かにおれも、疑問には感じるよ。兄さんが進めればいいのに、っていう意味で。別におれだけの実家じゃないんだから、兄さんが好きにしても文句なんて言うつもりはないんだ。ただ、あの女さえ家に入れなければ……」
『あの女』とは、博人の妻である千沙子という女性のことだろう。裕貴の周囲には、それ以外に女性の存在はない。
「弟のお前にも、本当のことはわからない、か」
 ぽつりと呟いた啓太郎の中で、ある推測がどんどん確信を帯びていく。やはり博人は、近いうちに裕貴を、実家に戻して住まわせるつもりではないのか――。
 だからあえて、裕貴にあれこれ選ばせていたのかもしれない。
 啓太郎の胸に不快なざわつきが広がる。それは焦燥感だったり、不安という感情といえるかもしれない。
 裕貴が隣の部屋からいなくなることを想像するのは、予想以上の痛みを啓太郎に与えてくる。大人のくせに、ひどくうろたえてしまうのだ。
「啓太郎、パン屋寄ろうよ。メロンパン食べたい。あと、ドーナツも。普通の、砂糖まぶしただけのやつね。ミニクロワッサンも何個か」
「了解」
 裕貴が気に入っているパン屋に寄り、注文通りのパンを選ぶと、啓太郎も自分の分のパンを適当に選ぶ。パンだけだと夜中には腹が減るだろうが、ラーメンでも啜っておけば耐えられる。
 自分のメシより、数時間とはいえ、人に囲まれていた裕貴の様子のほうが気がかりだ。
 車に戻ると、裕貴はぐったりしてシートに体を預け、目を閉じていた。運転席に乗り込んだ啓太郎は、裕貴の髪を掻き上げてやりながら声をかける。
「おい、大丈夫か」
「……人に酔ったのかな。頭痛い……」
 買ったパンを後部座席に置いてから、啓太郎はすぐに車を出す。青い顔をしている裕貴には申し訳ないが、小さくこう洩らしていた。
「お前は本当に――」
「手がかかる、って言いたい?」
 啓太郎の言葉を引き継ぐように、裕貴が力ない声で言う。頭が痛いというわりには、減らず口は健在だ。啓太郎は唇を綻ばせる。
「繊細だな、と言おうとした」
 横目でうかがうと、裕貴は照れたような表情となり、たまらず啓太郎は裕貴の片手をきつく握り締めてやった。
「そんなふうに言うの、啓太郎ぐらいだよ」
「博人さんも言いそうじゃないか。可愛い弟に、欠点なんてないって顔して、お前のことを見ている。今日だって、お前と一緒に過ごせて嬉しそうだった」
 再び裕貴の表情が曇り、反対に啓太郎の手を握り返してきた。
「啓太郎がついてきてくれなかったら、行かないつもりだったんだ……」
 どうして、と気軽に聞けない雰囲気だった。裕貴はすぐに手から力を抜き、シートを倒すと、目を閉じてしまう。
 そんな裕貴が儚く見え、啓太郎はむしょうに抱き締めたい衝動に駆られる。別に今の裕貴の姿だけに刺激されたわけではなく、博人の存在も関係あった。
 おそらく博人は、裕貴の側にいる啓太郎をよくは思ってないだろう。一方で啓太郎も、裕貴に過保護な博人に対して、どうしても身構えてしまう。
 今の生活を脅かそうとしている侵入者、と捉えているのかもしれない。
 ようやくマンションに着いた頃には、外は薄暗くなっていた。車のエンジンを切って裕貴に声をかけようとすると、実は目を閉じていただけだったのか、すでに裕貴は体を起こし、シートを戻そうとしているところだった。
 さすがの啓太郎も多少の疲れを感じながら、マンションに入る。
「……頭が痛いなら、もうお前の部屋に寄るのはやめておこうか? すぐに横になりたいだろ」
 エレベーターの中で啓太郎が言うと、甘えてくるように裕貴が腕を掴んできた。まだ夕方なので、さすがに人目に気をつけるべきなのだろうが、絡みついてくる裕貴の腕を振り解くことなど、啓太郎にはできなかった。
「お茶ぐらい飲んでいきなよ。……誰もいない部屋に一人で入るの嫌いだし」
「わがまま」
 啓太郎の言葉に、ムッとしたように裕貴が唇を尖らせる。
「うるさい。年下の恋人のわがままは可愛いと感じるぐらいの、大人の余裕は欲しいよね」
「……自分で言うな。というか、俺の恋人は可愛いなんて、恥ずかしくて言えるか」
 啓太郎がムキになって反論すると、裕貴は声を洩らして笑い、そんな裕貴の髪を啓太郎は撫でてやる。青かった顔色が、少しマシになってきたように見えた。
 エレベーターを降りるとはさすがに腕を離したが、誰もいないとわかると、すぐにピタッと体を寄せてきた。そんな裕貴が可愛いと、啓太郎は心の中で認める。
 博人も、こんなふうに裕貴のことを思っているのだろうか――。
 ふいに啓太郎はそんなことを考え、髪を撫でていた手を、裕貴が巻いているマフラーの下に潜り込ませていた。うなじを撫でると、目を丸くして裕貴が見上げてくる。
 妙にあどけない表情を目にした途端、啓太郎の中で目もくらむような欲望が突き上げてきた。
 裕貴を抱き締めようとすると、軽く身をよじりながら笑われた。
「外で抱き合ってると、さすがにマズイよ」
「平気で腕は組んでくるくせに」
「おれの癖だよ。腕に引っ付くの」
 鍵を取り出しながらの裕貴の言葉に、咄嗟に啓太郎はこう言っていた。
「――博人さんなら、黙って腕を組ませてくれたか? 甘えたがりの弟を持つのも大変だな」
 啓太郎としては冗談のつもりだったのだが、裕貴はそうは取らなかったようだ。サッと顔色を変えたあと、うろたえたように視線をさまよわせ、おぼつかない手つきで鍵を開ける。
「裕貴……」
「やっぱり、今日は帰ってよ、啓太郎。おれの分のパンはいいから――」
 裕貴が背を向けたまま玄関に入ろうとしたので、反射的に啓太郎もあとに続き、裕貴の腕を取る。
「お前、本当に大丈夫か? なんかおかしいぞ」
 軽く揉み合うようにして玄関に入ると、手探りで電気をつける。啓太郎は裕貴の顔を覗き込もうとしたが、嫌がって顔を背けようとするのでやや強引にあごを掴み上げた。驚いたことに裕貴は、今にも泣きそうな顔をしていた。
「悪いっ、痛かったか?」
 慌てて啓太郎はあごにかけた手を退けようとしたが、反対に裕貴に手を取られ、頬ずりされた。その様子を見て、また啓太郎の中で欲望が突き上げてくる。もう、限界だった。
「……お前のその甘えっぷりが無意識だとしたら、大したもんだ」
 啓太郎は低い声で呟きながら、裕貴の髪に唇を押し当てる。すると裕貴が挑発するように上目遣いで見上げてきながら、囁き返してきた。
「何が、大したもの?」
 裕貴が、答えをわかっていながら問いかけていると知りながら、啓太郎は乗ってしまう。片手を伸ばしてドアを施錠すると、しっかりと裕貴を抱き締めた。
「俺はお前に、翻弄されっぱなしだ」
 もう一度裕貴の顔を覗き込むと、もう泣きそうな顔はしていなかった。あどけないくせに、やたら蟲惑的な目にじっと見つめられ、啓太郎は心の中でも痛感する。
 冗談ではなく、やはり自分は裕貴に翻弄されている、と。その状態が、このうえもなく心地いい。
 啓太郎はシューズボックスの上にパンが入った袋を置くと、裕貴の首からマフラーを外し、ダッフルコートを脱がす。すぐに裕貴のほうからしがみついてきたので、その体を引き離して鉄製のドアに押し付けた。
「啓太郎……」
 少し不安げな掠れた声で呼ばれ、啓太郎の頭に血が昇る。有無を言わさず裕貴の唇を塞いでいた。一瞬抵抗する素振りを見せた裕貴だが、次の瞬間には啓太郎のブルゾンの端を握り締めてくる。
 裕貴のセーターをたくし上げ、その下に着ているTシャツも一緒に押し上げると、啓太郎は忙しく肌にてのひらを這わせる。もう片方の手は、ジーンズの上から裕貴の両足の間に押し当てた。
「け、たろ……、ベッド、行こう……」
 足元を乱れさせながら裕貴が訴えるが、そんな言葉すら今の啓太郎には興奮を煽る小道具でしかない。
 ジーンズのファスナーを下ろして指を忍び込ませると、裕貴が喉の奥から小さな声を洩らして啓太郎の腕にすがりついてくる。
「啓太郎、やだ――、立って、られない」
「俺にしがみついてろ」
 尊大に言い放ち、啓太郎は裕貴のものに触れて外に引き出す。ゆっくりとてのひらに包み込んでやると、裕貴は大きく目を見開き、何か言おうと唇を動かす。かまわず啓太郎は唇を塞ぎ、舌を差し込んだ。
 感じやすい括れをいきなり擦ってやると、腰が震える。それをきっかけに裕貴はそっと目を細め、啓太郎の舌を温かな粘膜で包み込むようにして吸い始めた。
 快感に対して順応が速い裕貴に、今は狂おしい気持ちを掻き立てられる。忘れたつもりにはなっていたが、こんなときに思い出すのだ。
 裕貴に対して、快感を教え込んだ相手がいると――。
 玄関に微かに濡れた音を響かせながら、差し出し合った舌を絡める。そうしながら裕貴のものを手荒く扱き立て、もう片方の手では、すでに硬く尖った胸の突起を指先で弄る。
「……濡れてきた」
 熱くなった裕貴のものの先端をくすぐり、啓太郎は低く囁く。裕貴は艶やかな笑みを浮かべて首をすくめた。
「恥ずかしいよ、バカ」
 もう一度、今度はしっとりと唇を重ねていると、ふいに部屋のほうから電話の音が鳴り響いた。ピクリと体を震わせた裕貴が、硬い声で言う。
「兄さんだ……」
「部屋に着いたか、確認したいんだろ。電話に出るか?」
 啓太郎は手を引こうとしたが、それを許さないように反対に裕貴を手を掴まれて引き戻される。ぶつけるように唇が割り込まされ、あっという間に裕貴の激しさに煽られる。
 再び手を動かして裕貴のものに愛撫を加えながら、指先に心地いい胸の突起の感触を楽しむ。その間も、互いの唇と舌を貪り合っていた。
 気がついたときには電話の音は止み、互いの荒い息遣いだけが玄関に響く。ふいに、思い出したように裕貴に問われた。
「ねえ、おれがこの部屋からいなくなるの嫌?」
 なぜ急にこんなことを聞いてくるのか、啓太郎には意味がわからなかった。濡れた先端を強く擦り上げると、短く悲鳴を上げて裕貴が顔を背ける。露わになった首筋に唇を這わせながら啓太郎が今度は問いかけた。
「なんでそんなことを聞くんだ。お前まさか――」
 本当に実家に帰るつもりでは、と心配したが、そうではなかった。顔を背けたまま裕貴が口元にちらりと笑みを浮かべる。
「だってさ、ショウルームにいる間の啓太郎って、ずっと不安そうな顔してるんだもん。もしかして、おれが実家に帰ると思って心配してるのかなあって」
 自覚がなかっただけに、啓太郎は激しくうろたえる。だが、裕貴の前でムキになるわけにもいかない。裕貴の余裕を失わせるため、愛撫を続けているものの括れを指の輪できつく締めつけた。
「あうっ」
 裕貴の足元が大きく乱れて、その場に座り込もうとしたが、啓太郎は許さなかった。ドアに強く体を押さえつけ、裕貴を追い上げる。
「は、あ……、啓太郎、強い、よ。もう少し、優しく……」
「ダメだ」
 啓太郎の内心の焦りを見透かしたように裕貴が再び口元に笑みを浮かべ、甘えるように肩に額をすり寄せてきた。この感触が、思いがけず啓太郎の胸を熱くする。
 わがままで奔放で、一方で臆病で神経質な裕貴という生き物を、素直に愛しいと思った。何より、好きだ、とも。
 裕貴の耳に唇を押し当て、柔らかな耳朶にそっと歯を立てると、裕貴は小さく声を洩らしたあと、啓太郎の手の中で果てた。
「――裕貴」
 呼びかけると、息を喘がせながら裕貴が顔を上げる。互いに引き寄せられるように唇を啄ばみ合い、舌先を触れ合わせた。
 うっとりしたように目を細める裕貴の表情を見つめているうちに、啓太郎はたまらなくなり、普段なら考えられないような質問を恥ずかしげもなくしていた。
「なあ、お前、俺のことをどう思ってるんだ」
 口にした途端、自分がひどく傲慢な質問をしたのだと気づいた。おそらく啓太郎は、裕貴に対してたった一つの答えしか求めていないのだ。
 聡い裕貴がそのことに気づかないはずもなく、急に意地の悪い眼差しを向けてきた。
「ずるいなあ。さっき、おれの質問に答えてくれなかったくせに、平気で、おれが答えにくいこと質問してくるなんて」
「……答え、にくいか……?」
 不安な感情を隠せない啓太郎に対して、急に裕貴が勢いよくしがみついてくる。危うくよろめきそうになったが、ギリギリのところで踏ん張り、裕貴の軽い体を受け止めた。
「おいっ――」
「嫌いなわけないじゃん、啓太郎のこと。もっと言うなら、嫌いじゃない、という感情だけで、今みたいなことするわけないだろ。今頃、当たり前のこと聞くから、びっくりしたよ」
 啓太郎って天然? とまで言われ、正直啓太郎はこう言いたかった。
 だったらお前は、その天然を翻弄する悪魔だ、と。もっとも、その悪魔を可愛いと思っている時点で、啓太郎が翻弄されるのも無理ないのかもしれない。
 片手で裕貴の体をしっかり抱き締めながら、啓太郎はこう提案した。
「腹減ったから、パン食うか?」
 裕貴はなんとも無邪気な笑顔を見せ、大きく頷いた。




 上機嫌で車を降りた啓太郎の手には、ケーキ屋の箱があった。会社で話していた女性社員たちから、美味しいケーキ屋の情報を仕入れ、帰りに寄ってみたのだ。
 買って帰ったケーキを見て、裕貴が嬉しそうな表情を浮かべるのを想像するだけで、啓太郎の足取りは軽くなる。たとえ、二日続けての徹夜明けだとしても。裕貴の顔を見て、裕貴が作ったメシを食う間ぐらいは、まだ目を開けていられる自信はあった。
 しかし啓太郎の、睡眠不足による妙なテンションの高さと上機嫌は、長続きしなかった。
 マンションのエントランスからこちらに向かって歩いてくる人物に気づいたからだ。見間違うはずもなく、それは博人だった。
「あれは……」
 思わず足を止め、無意識に啓太郎は眉をひそめていた。一方、マンションから出てきた博人は、啓太郎に向かってあくまで儀礼的に笑いかけてくる。ただなんとなくだが、いつもより機嫌がよさそうに感じた。対照的に、啓太郎の上機嫌は急速に萎んでいく。
 マンション前で博人と向き合った啓太郎は頭を下げ、このとき、博人の手にある封筒に目を留めた。先日、ショウルームから裕貴が持ち帰っていたものと同じだ。
「――リフォームの件で細かい部分を決めておきたかったんですよ」
 啓太郎が何も言わないうちに、博人のほうからそう説明をしてくれる。そんなに物言いたげな顔をしていただろうかと、啓太郎は思わず自分の顔に触れていた。
「そう、ですか……」
「本当は外に呼び出したかったんですが、手が離せないと裕貴に冷たく言われましたね。だからこうして出向いてきたわけです」
「株の取引で忙しいみたいですね。ここ何日か、パソコンの前から離れられないと言ってました」
 啓太郎と博人は、示し合わせたようにマンションを見上げ、裕貴の部屋のほうに視線を向ける。
 ふいに、博人が独りごちるように呟いた。
「裕貴が学生の頃は、単なる小遣い稼ぎだと軽く考えて、注意しなかったんですが、今になって後悔してますよ」
「えっ?」
 博人はこちらを見て、唇の端をわずかに上げた。
「部屋から出なくても稼げる手段なんてものがあるから、裕貴は二年もの間、わたしと会おうとしなかったし、会わなくても困らなかった。……本当なら、裕貴がパソコンの前に座り続けるようなまねをしなくても、生活費なんてわたしが与えてやれるのに」
 どこか口惜しげにも聞こえる言葉だが、それでいて博人の表情そのものは余裕に満ちている。裕貴から避けられていた二年間に比べれば、積極的でないにしても、顔を合わせられる現状は博人にとって満足できるものなのかもしれない。
 他人である啓太郎は、そう推測して、ひどく納得する。確かに、肉親に露骨に避けられ続けるのは精神的につらいだろう。
「リフォームのことは、裕貴とよく話し合ういい機会じゃないんですか? 家のことだと言われれば、さすがの裕貴もほったらかしにはできないし」
「まったく、その通りです。……たまには父親も、親らしいことをしてくれる。もっとも、こうなることまで考えていたかどうかは疑問ですが。思いつきで行動する人なので」
 裕貴にも博人にも共通しているが、父親のことを親らしくないと断言する一方で、人間そのものは嫌っている様子はない。
 よほど、おもしろい人なのかもしれない。子供の立場としては、素直に楽しめないが。
「父親のことはともかく、実家のリフォームをきっかけに、裕貴にも戻ってきてもらいたい、というのが、わたしの本心なんですよ」
 啓太郎が危惧していることをさらりと博人に言われ、反応できなかった。顔を強張らせて言葉を模索した啓太郎だが、結局、気の利いたことは言えなかった。
 いよいよ博人と話すこともなくなり、それじゃあ、と言って啓太郎はもう一度頭を下げて博人と別れる。
 エントランに入ったところで、なんとなく振り返った啓太郎はドキリとする。すでに立ち去ったものだと思っていた博人がまだマンションの外に立っており、裕貴の部屋の辺りを見上げていたのだ。
 ふいに啓太郎のほうを見た博人が会釈を寄越したが、顔を上げた一瞬、博人の口元に冷ややかな笑みが浮かんでいるのを見た。しかし確認のしようもなく、すぐに博人の姿は見えなくなった。
 少しの間、その場に立ち尽くしていた啓太郎だが、我に返って慌ててエレベーターのボタンを押す。動揺していた。
 博人の、裕貴に実家に戻ってきてもらいたいという言葉と、冷ややかな笑みのせいだ。
 啓太郎はエレベーターの中で、手にしたケーキの箱を持ち上げて、ため息をつく。せっかく裕貴のためにケーキを買ってきたが、無駄になったかもしれない。あの、裕貴を猫可愛がりしている博人が、手土産も持たずに裕貴の部屋を訪れるとは思えないのだ。
 だからといって自分の部屋に持って帰るわけにもいかず、啓太郎は裕貴の部屋の前に立つ。深呼吸してから、インターホンを鳴らした。
 少し間を置いてから、インターホン越しにドキリとするほど気だるげな裕貴の声がした。
『――……どうかしたの?』
 啓太郎はすぐに、裕貴が、自分の兄が引き返してきたと思っているのだと察した。
「裕貴、俺だ。博人さんとは、下で会ったぞ。俺は、よくよくあの人と縁があるらしいな」
 笑いながら話したが、インターホンの向こうから返事はない。急に啓太郎は心配になった。さきほど下で博人から聞かされた、実家に戻ってきてもらいたいという話が脳裏を過ぎったのだ。
「……裕貴、大丈夫か?」
 博人とケンカでもしたのではないかと心配になり、思わず啓太郎は呼びかける。
『あっ、うん……。ちょっと待ってね、部屋片付けるから』
「片付けるって、お前――」
 啓太郎は、裕貴の部屋が散らかっているところなど見たことがない。不思議に感じながらも、ドアを開けてもらうまでおとなしく待つしかなかった。
 数分ほど待ってようやくドアが開けられると、裕貴は長袖のTシャツの上からカーディガンを羽織り、カーゴパンツという、いつもと変わらない服装をしていた。ただなんとなく、微妙な違和感を覚える。それは服装ではなく、裕貴自身から感じるものだ。
「ごめんね、寒い中待たせて」
 そう言って笑いかけてきた裕貴に促され玄関に入ると、啓太郎は無意識に裕貴に手を伸ばすが、さりげなく躱された。
「いや、別にいいけど……、片付いたか?」
「まあね」
 ダイニングに足を踏み入れると、一見して変わったところはない。あまりに啓太郎がじろじろとダイニングや隣の部屋を見ていたせいか、裕貴が眉をひそめる。
「何?」
「お前が部屋を片付けるなんて言うから、てっきり博人さんとケンカして、手当たり次第にものを投げつけたのかと思ったんだ」
 裕貴は微妙な表情を見せたあと、まるで啓太郎の視線を避けるように背を向けた。ほっそりとした背がなんだか頼りなく見え、啓太郎の胸の奥が不安でざわつく。もしかして、本当に博人と大ゲンカをしたのではないかと思った。
「裕貴……」
「まあ、似たようなもんだよ。ケンカと言ったって、兄さんがまともに相手にしてくれることはないから、いつもおれが一人でカッカしてるだけ」
 そう言って裕貴はキッチンに立ち、メシの準備を始める。テーブルの上に買ってきたケーキを置いてから、啓太郎はなんとなく、ケンカの理由を問うてみた。
「で、ケンカの理由は?」
「……突然、ここに来るからだよ。用もないのに」
 用ならあったのではないか、と啓太郎は心の中で呟く。マンションの下で会った博人は、実家のリフォームの件で来たと言っていた。それは別に、隠すようなことではないはずだ。
 それとも博人は、裕貴に実家に戻ってこいと切り出し、そこでケンカになったのかもしれない。だとしたら、啓太郎に言いにくいだろう。
 裕貴から感じる釈然としないものを、自分の都合のいい解釈で納得しようとするが、無理だった。振り返って裕貴が笑いかけでもしてくれたら、些細なことだと片付けられたのかもしれないが、裕貴は頑なに啓太郎に背を向け続けている。
 最近、裕貴の様子がおかしいという感覚は何度か味わっていた。引きこもっている裕貴が本当に天真爛漫で無邪気だという気はないが、少なくとも啓太郎の前ではそう振る舞っていた。しかし今の裕貴は違う。
 自分の肉親たちと温泉旅行に出かけてからだ――。
 いろいろと問い詰めたいのに、遠慮の気持ちが大きくて、それができない。繊細でガラス細工のような裕貴に無遠慮なことをすると、壊してしまいそうだ。
「裕貴、心配ごとがあるなら、俺に相談しろよ」
「何、急に真剣な声出して」
 振り返った裕貴が笑ったが、啓太郎は笑い返したりしなかった。静かに側まで歩み寄り、頬に触れようとしたが、ハッとしたように裕貴がまた背を向けてしまう。
「裕貴……」
「なんか変だよ、啓太郎。仕事で疲れてるんじゃない」
 少しだけ裕貴の中に立ち入ろうとしたが、拒まれた。はっきりとそのことを感じ、啓太郎は失望感に襲われたが、怒りは覚えなかった。何もかも打ち明けていいと裕貴に思われていないのは、自分自身のせいだとよくわかっているからだ。
 この日のメシの味は、これまで裕貴が作ってくれたものの中で、一番美味くなかった。裕貴のせいではなく、裕貴が作ってくれたものを味わう余裕が、啓太郎に最後まで生まれなかったのだ。









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