Sweet x Sweet

[21]

 おおっ、とモニターを覗き込んでいた社員たちの口から、感嘆とも安堵とも取れる声が洩れる。一方の啓太郎はといえば、感嘆も安堵も突き抜けて、虚脱感に襲われていた。
 イスの背もたれにズルズルと体を預けながら、大きく息を吐き出す。
「はあーっ、気が抜けた」
 ずっと取り掛かっていたショッピングサイトのシステムの最終試験が終了し、怒涛の流れでシステムのリリースとなったわけだ。
 完成したシステムを顧客に引き渡し、確認してもらうことをリリースというのだが、啓太郎はそもそも顧客の会社に出向いてシステムを作っていたので、完成までにどれだけのバグが出ていたか、すべて会社に筒抜けだ。
 そういう意味では、リリースの瞬間も気楽なはずなのだが、万が一にもバグが起こったらと思うと、やはり緊張してしまう。
 だが、心配は杞憂に終わった。システムは製品として啓太郎の手を離れたのだ。
 すぐに姿勢を戻すと、啓太郎はアタッシェケースから書類を取り出し、このシステムの管理責任者に手渡す。リリースと引き渡しが完了したというサインをもらわなければ、仕事が終わったことにならないのだ。
 連日、泊まり込みが続いていて、少し前まではぐったりしていた社員たちも、にわかに活気を取り戻したようだ。
 当の啓太郎も、実は張り切っていた。少しの間とはいえ、これでハードワークから解放されるのだ。
 ずっと自分が使っていたデスクの上を片付け、アタッシェケースに必要なものを放り込んでいく。
「羽岡さん、この後、メシ食うのもかねて打ち上げの店を押さえたんだけど、ちょっと距離があるんだ。それで、タクシーに分乗するんだけど、いいよね?」
「えっ、打ち上げ、今日するんですか」
 驚いた啓太郎は顔を上げる。システムが完成してからの打ち上げはよくあることだが、まさか、完成当日に行うとは思っていなかった。すでに店を押さえてあるというのは、手際がよすぎる。
 男性社員は苦笑しながら言った。
「疲れを取ってから派手に、といきたいところだけど、うちはまだ、業務に付随する細々としたシステム開発が残ってるからさ。だから、大きなシステムが完成した勢いで騒ごうってことになったわけ。そうでないと明日からのデスマーチに耐えられそうにない……」
 システム開発者はお互い大変だと思いながら、啓太郎は頷く。
「俺は大丈夫ですよ。まさか今日中にリリースまで終わると思ってなかったから、予定は入れてないんで。いくらでもつき合いますよ」
 気軽に言ったその言葉を、啓太郎は数時間後には激しく後悔していた。


 自宅に向かうタクシーの中で啓太郎は、ぐったりとシートに体を預け、顔を仰向けにしたまま目を閉じていた。飲みすぎたせいで、体全体がふわふわしている。
 こんなに気を抜いて酒を飲んだのは久しぶりだ。
 長らく取り掛かっていたシステムが完成し、過酷な勤務と緊張から解放されたのだから、これぐらいは自分に許したい。それにもう、ついさっきまで一緒に飲んでいた人たちと、こんな形で飲むこともないのだ。
 運用状況の確認のため、ときどき会社に顔を出すことはあっても、あくまでサポートだ。同じシステム開発に携わることはない。そう考えると、少し寂しい。
 だがこれも、ささやかな感傷にすぎない。
 大きな仕事を完成させた安堵感に、つい啓太郎の口元は綻びそうになる。目を開けると、なんとか姿勢を戻して携帯電話を取り出し、時間を確認した。まだ日付は変わる前だ。
 この時間なら、裕貴は余裕で起きているだろう。そう思った途端、我慢できず啓太郎は笑みをこぼしていた。
 今から帰ることを連絡しようと思い、携帯電話を操作していたが、途中で気が変わってやめる。今夜に限って呼び出しがかかるとは思えないが、念のため電源を切ってから携帯電話をポケットにしまった。
 昨日、部屋を出るとき裕貴には、作業が大詰めなので二日間は会社に泊まり込むことになると話してある。
 本当はその時点で、そんなにかからないことはわかっていたが、もし何かのトラブルがあって急に帰れなくなったときのために、あえて余裕を持った日数を告げておいたのだ。
 予定より早めに帰って、裕貴を驚かせてやろうという意図もあったが――。
 酔っていたせいもあり、土産のデザートを買い忘れたのは痛いが、何日間かは時間的に余裕もできるので、裕貴が言えば、どこの店だろうが買いに行ってやるつもりだ。
 啓太郎は、思わず声を洩らして笑ってしまい、すぐに咳で誤魔化す。
 自分はどれだけ裕貴を甘やかしたくて仕方ないのかと考えると、笑えてきたのだ。裕貴の兄である博人の過保護ぶりが、他人事とは思えない。
 マンション前でタクシーを降り、裕貴の部屋を見上げる。電気がついているのを確認すると、啓太郎は足早にマンションへと入った。
 エレベーターの中で、裕貴がどんな顔をして出迎えてくれるか想像する。
 驚いたように目を丸くしてから、屈託ない笑みを向けてくれるか、大人げないと言いたげに呆れた表情を見せるか。もしかすると裕貴なら、いきなり抱きついてくるかもしれない。
 とにかく裕貴の言動は、啓太郎の想像を超えているところがある。そこがまた、一緒にいて楽しいと思えるのだから、惚れた欲目とは恐ろしい。
 我ながら酔っているとは思えない颯爽とした足取りで、裕貴の部屋の前まで来ると、いつものようにインターホンを押した。
 無意識に心の中で数をかぞえる。裕貴がどれぐらいの早さでドアを開けてくれるか、体が感覚として覚えてしまった。
 だが今夜に限って、いつまで経ってもドアが開かない。
 眠っていて聞こえないのだろうかと思い、もう一度、今度は数回立て続けにインターホンを鳴らす。一分ほど待ってからようやく、ドアの向こうから微かな物音が聞こえた。
 チェーンを外す金属音に続き、鍵を解く音もする。ゆっくりと開けられるドアの向こうから、姿を現したのは――。
「えっ……」
 その人物の姿を見て、啓太郎は思わず声を洩らす。博人だったからだ。
 この瞬間、啓太郎の全身に悪寒が走り、鳥肌が立つ。触れてはならないものに触れてしまったと、本能が信号を発したのかもしれない。
 博人はなぜか、スラックスにワイシャツを羽織っただけの格好をしていた。はだけたワイシャツの下から素肌が見えているが、汗が滴り落ちている。
 啓太郎は、端然とスーツを着込み、怜悧な雰囲気をまとった博人しか知らない。だが今、目の前に立っている博人は、格好もそうだが、雰囲気もどこか気だるげだ。それでいて、悠然として勝ち誇ったような表情を浮かべているのだ。
 捕まってはいけない『何か』に、啓太郎の心は捕らえられる。振り払おうとしても逃げられない、禍々しく凶悪な『何か』だ。
「――裕貴に用なんだろう。入るといい。……あいにく裕貴は今、君を出迎えられる状態じゃなくてね」
 博人は雰囲気だけでなく、口調まで変わっていた。先日までは確か、啓太郎に対して敬語を使ってはずだ。
 何かがおかしい。強くそう感じながらも、啓太郎は博人の誘いを断れなかった。
 ぎこちなく靴を脱ぐと、ダイニングに足を踏み入れる。そこに裕貴の姿はなく、テーブルの上には、食事を終えたあとの二人分の食器が出したままになっていた。
 啓太郎は重い足取りで奥の部屋の前まで行き、ガラス戸を開ける。
 裕貴は、いた。しかも、予想しえなかった姿で。
「ど、して……」
 呆然としながら啓太郎は掠れた声を洩らす。だがその声は、ベッドの上にぐったりとして横たわっている裕貴の耳には届かなかったらしい。
 裕貴は全裸だった。汗に濡れた肌は艶かしく上気しており、剥き出しの胸は忙しく上下している。息も絶え絶えといった様子で目を閉じ、眉は苦しげにひそめられ、唇からは荒い呼吸が洩れていた。
 寸前まで、ベッドの上で裕貴がどんな状態だったのかは明白だ。
 上気した肌のあちこちに、一際鮮やかな赤い跡が残っており、上下する胸の二つの突起はどれだけ強い刺激を与えられたのか、熟して尖ったままだ。
 濡れた下腹部と、力を失った裕貴のものまで目にして、啓太郎は嫌でも事実を認めざるをえなかった。
 そんな啓太郎に追い討ちをかけるように、隣に立った博人が言う。
「裕貴は快感に対して素直で、脆い。そういうふうに、俺がした。大事にして、慈しんで、甘やかして、俺が与えるものだけで満たされるようにした。……可愛くてたまらない、大事な弟だ。世界にたった一人しかいない、俺の宝物といってもいい。だから、他人に渡すわけにはいかないんだよ」
 啓太郎は目を見開き。博人を凝視する。端整な姿形をした男は静かな佇まいで立っているが、その姿から圧倒されるような空恐ろしさを感じた。
「……あんたは、自分の弟に……」
「他人がどう思おうが、俺たち兄弟には関係ない。互いを唯一の相手と認識して、繋ぎ止めておくためには、必要な行為だ。俺の結婚で少し関係がこじれて、修復するのに二年かかっが、ある意味、君には感謝している。頑固な裕貴の気持ちを解きほぐしてくれたんだからな」
「俺は、そんなつもりは、ないっ……」
 博人が何を言っているのか、よくわからない。わからないなりに、築き上げた裕貴との関係を利用されたのだと思い、目も眩むような怒りが込み上げてくる。
 それでいて博人に掴みかかれなかったのは、怒りを上回る戸惑いと混乱に、啓太郎の体が動かなかったからだ。
「裕貴には何度も、実家に戻ってくるよう言った。温泉に連れて行ったときや、リフォームのことで実家に呼び出したときにキスや愛撫を与えると、二年前までと同じように反応するくせに、心だけは抗う。君と、恋人ごっこをするのが楽しいらしい」
「そういう言い方は、やめろ……」
 裕貴の様子が最近おかしかったのは、博人が言ったような理由で間違いないだろう。
 裕貴が温泉旅行に出かけるときに感じた嫌な予感は、実は正しかったのだ。
 博人は悠然とワイシャツのボタンを留め始める。啓太郎に決定的なダメージを与えたことに満足しているようにも見えるのは、決して被害妄想ではないはずだ。
「俺と裕貴の関係を知らせるのは、もう少し先にしようと思っていた。実家のリフォームが終われば、いつでも好きなときに、裕貴を連れ戻せるからな。……今夜の君の来訪は、予想外だったよ。裕貴から、君が帰るのは明日ぐらいだと聞いていたからね」
「俺がいないとわかっているときを狙って、来たんだな」
「そういう言い方は心外だ。――裕貴は、俺のものだ。君は少しの間だけ、俺から裕貴を借りていただけだ」
「違うっ」
 たまらず声を荒らげた啓太郎は、すぐにハッとする。いつの間にか裕貴が目を開け、横になったままこちらを見ていたのだ。
 空ろだった目の焦点が定まり、それに伴い事態が把握できたのか、裕貴がゆっくりと目を見開く。すでに顔色はなくなっていた。
「――……啓、太郎、どうし、て……」
 裕貴は震えを帯びた声で呟くと、のろのろと体を起こそうとする。すかさず博人がベッドに歩み寄って支えようとしたが、差し伸べられた手を裕貴は弱々しく拒んだ。博人は表情を変えず、裕貴の腰から下を毛布で覆った。
 数分ほど、三人は黙り込んでいた。啓太郎は頭が混乱して言葉が出てこず、裕貴は動揺を押し殺すように唇を噛み、ただ博人だけが悠然としている。啓太郎と裕貴のどちらかが言葉を発するのを待っているのだ。
 ようやく裕貴が苦しげに口を開いた。
「兄さん、もう、帰って……」
「お前がそう言うなら従うが――大丈夫か?」
 最後の何げない一言に、啓太郎の頭に血が上る。露骨な含みがあったわけではないが、遠回しに、二人きりになった途端、啓太郎が裕貴に何かしでかしそうだと言われた気がしたのだ。
 博人の存在は、今の啓太郎にとっては凶器そのものだ。些細な言動の一つ一つに、啓太郎の気持ちはたやすく荒んでいく。
「……いいから、帰って」
 博人は一瞬怖い顔をしてから、ジャケットとコートを羽織ると、黙って部屋を出ていった。
 二人きりになると、沈黙が痛さを増す。この状況で裕貴から口火を切らせることは酷なのかもしれないが、啓太郎も何をどう切り出せばいいのかわからない。まだ、頭の中は真っ白だった。
 一方の裕貴は、血の気の失せた顔色で、膝を抱えて呆然とした顔をしていた。さきほどまで紅潮して汗に濡れていた肌も、今は青白く、なんだか痛々しい。
 この肌に、博人は唇や舌を這わせたのだ――。
 生々しい想像をした途端、吐き気が啓太郎を襲う。生理的な嫌悪感からというより、感情が極限に達したがゆえの反応だ。
 自分がまだ激しく動揺していることを知り、啓太郎はようやく口を開いた。
「――裕貴」
 呼びかけると、裕貴が肩を震わせ、怯えたような眼差しで見つめてくる。哀れみを誘うというより、加虐的なものを刺激する、危険な眼差しだった。
「とにかく、シャワーを浴びてこい。……話が聞きたい。だけどその格好だと、お互い気になるだろ」
 裕貴は少し間を置いてから、のろのろと動き始める。ベッドの下に落ちた服を取り上げると、腰を覆っていた毛布を取って、全裸のままバスルームに行った。啓太郎はその間、裕貴の姿をまともに見ることができなかった。
 バスルームから水音が聞こえ始めると、落ち着きなく室内を歩き回ってから、窓を思いきり開ける。一気に入り込んできた冷気が、あっという間に室内にこもっていた淫靡な空気を薄めていく。だが、完全に消し去ることはできない。
 啓太郎はベランダに出て、大きく息を吸い込む。押し寄せてきたのは、その場に座り込みたくなるほどの脱力感だった。
「どうしてだっ……」
 裕貴が過去に、どんな相手とつき合っていようが啓太郎は気にしないつもりだった。少なくとも今、裕貴が身を任せてくれているのは自分だと思っていたからだ。
 しかし裕貴が関係を持っていたのは、予想を超えた人物だった。そのうえ、いまだに関係は続いていたのだ。
 裕貴に裏切られたのだという現実に、ようやく啓太郎は向き合う。
 ベランダの手すりを握り締め、叫び出したい衝動を必死に堪える。この場から逃げ出したいのに、裕貴のことを知りたいという気持ちもあった。
 啓太郎がベランダで頭を冷やしている間、裕貴も時間が必要だったらしく、シャワーの水音は三十分以上続いた。
 ようやくバスルームから出てきたとき、裕貴は真っ赤に泣き腫らした目をしており、憔悴しきっていた。
 裕貴のそんな姿を見て、ズキリと胸が痛む。怯えたような眼差しを向けられると、なおさらだ。一方で、そんな顔をするぐらいなら、どうして博人とあんなことを――、という気にもなる。
 裕貴が寒そうに肩をすくめたのを見て、啓太郎は部屋に入って窓を閉めた。
「……コーヒー、入れようか」
 おずおずと裕貴が言ったが、啓太郎は首を横に振る。
 裕貴をベッドに座らせようかと思ったが、あまりに生々しい気がして、結局テーブルにつかせた。
「――……シャワーを浴びながら、啓太郎が帰ってくれていればいいのに、と思ったんだ」
 啓太郎が正面のイスに腰掛けると、裕貴は自嘲気味な口調で話し始めた。
「俺に、あれこれ聞かれるのが嫌だったか」
「聞かれるのが嫌というより、啓太郎がどんな顔しているか、見るのが嫌だった。……普通なら、みんな気持ち悪いって思うよね」
「お前は、どうなんだ?」
 心のどこかで、博人が力ずくで裕貴を従わせていたと思い込みたがっていた。そうであれば、まだ救いがある。ただし、啓太郎にとっての救いだ。
 もっとも、自分勝手な救いを求める気持ちは、簡単に一蹴される。
 裕貴はテーブルに置いた手を組み、消え入りそうな声で告白した。
「兄さんが結婚するまで、おれたちの間じゃ、当然の行為だった。抱き合うのも、キスするのも、それ以上のことだって。……おれは、啓太郎と知り合うまでは、兄さんしか知らなかった。何もかも、全部兄さんが教えてくれた」
「嫌じゃ、なかったのか……?」
「おれがこの世で一番好きな人に求められて、嫌なわけないよ。弟というだけじゃなく、それ以外の存在としても必要とされてるんだと思ったら、嬉しかった」
 後頭部を殴りつけられたような衝撃に、目の前が真っ暗になりそうだった。
 かつて裕貴は、自分が二年前から引きこもってしまった理由を話してくれた。博人の結婚がきっかけだと言い、少しだけ啓太郎は拍子抜けしたものだが、今なら理解できる。
 兄弟という存在以上に、裕貴と博人は深く結びつき、互いを求め合っていたのだ。そのはずだったのに、博人が結婚してしまっては、裕貴が持つガラス細工のような世界は崩壊したも同然だ。
 裕貴はいつも、啓太郎にウソはついていなかった。ただ、大事な部分をわざと言っていなかったのだ。
 裕貴の中の基本も基準も、すべて博人が作ったという事実が、重かった。
 血の繋がった兄弟で特殊な関係を持つことが世間ではどう見られるか、知識としてわかってはいるが、裕貴自身の中におそらく罪悪感はない。自分たち兄弟だけに通じる道徳観を、博人は裕貴の中に植えつけたのだろう。
 博人との関係を語る裕貴の口調からは、関係そのものに対する引け目のようなものは感じられなかった。
「……いつから、博人さんとは……?」
「高校生になったときぐらいから、かな。それから、大学三年まで。――だけど、兄さんは結婚した。そのときわかったんだ。兄さんは、おれだけのものではいてくれないって。兄さんが、あの女と新婚生活を送るのかと思ったら我慢できなくなって、ここで一人暮らしを始めたんだ」
 話しながら裕貴は、イスの上で抱えた両膝の上にあごをのせる。生々しいことを話しているとは思えないほど、あどけない仕草に見え、啓太郎は裕貴という存在に惑わされる。
 髪を撫でてやりたい気分になったが、さきほど博人に言われた言葉が蘇る。
 裕貴はいまだに博人のもので、啓太郎は少しの間だけ、裕貴を借りていただけなのだと。
「だけど二年経って、また博人さんと関係を持ったんだな」
 つい啓太郎の口調は咎めるものとなってしまう。これでも懸命に、感情的になるのを堪えているのだ。
 裕貴はつらそうに唇を歪め、膝にかけた自分の手の甲に噛み付いた。そこに、裕貴なりの苛立ちが出ているようだ。
「二年前、兄さんとは、もうそういうことをするのはやめようと決めたんだ。……変だよね。兄弟でそういうことをするのはなんとも思っていなかったのに、不倫は嫌だと思ってるんだ。」
「だったらどうして、博人さんとまた、そういうことを……。顔を合わせているうちに、やっぱり恋しくなったか」
「違うよっ」
 思いがけず強い口調で否定した裕貴が、今にも泣き出しそうな顔で啓太郎を見つめてくる。
「――……どうして啓太郎、今日帰ってくるんなら、そう教えてくれなかったんだよ。そうしたらきっと、兄さんは今日みたいなことしなかった」
 裕貴の自分勝手な言い分に、啓太郎はカッとする。
「俺が悪いのかっ? 嫌ならお前が、自分の意思で拒むべきじゃなかったのか。それとも、抵抗できないように、力ずくで押さえつけられたか?」
 大きく見開かれた裕貴の目が、見る間に涙で潤んでいく。何かを訴えるように見つめられたが、啓太郎は顔を背けた。
 やっと、明確な怒りが首をもたげてくる。現在の『恋人』であるはずの啓太郎の前で、いまだに博人へ気持ちを残しているかのように語る裕貴が、許せなかった。それ以上に、博人へ体を許したことが。
「違うよな……。他人の俺が見ていてもわかるぐらいだ。お前の兄さんは、絶対にお前に手荒なまねはしない。まるで宝物を扱うようにお前を見て、お前に触れる」
「……啓太郎、おれの話を聞いて……」
「弁解はいい。ただ、俺の質問に答えろ。――博人さんとは、旅行に行ったときにヨリが戻ったのか? そのうえで、俺に甘えてきて、恋人だなんてヌケヌケと言っていたのか」
 啓太郎の物言いに傷ついたような表情となってから、裕貴が視線を伏せる。このとき、目からポロリと涙が一粒落ちたが、それすら演技に見えた。
「お前が、傷ついたような顔をするな。傷つくなら俺のほうだ。……年下の男に翻弄された挙げ句に、相手は実の兄貴と出来ていたなんて、どんな笑い話だ」
「そんな言い方しないでよっ……」
「お前は単に、寂しくてたまらなかったから、手っ取り早く、隣の部屋に住む男に甘えただけなんじゃねーのか?」
「違うっ」
 裕貴の言葉は一切聞かず、啓太郎は力なく呟いた。
「――はっきり言えよ。誰でも、よかったって」
「啓太郎……」
 堪えきれなくなったように裕貴の目から涙が溢れ出し、見ていられなくなって立ち上がる。これ以上向き合っていても、裕貴を罵る言葉しか出てきそうになかった。
「今日はもう、帰る。……当分、顔を合わせるのはやめよう。俺だって、お前を怒鳴りたくないんだ。だけど、許せそうにもない」
 早く一人になって、冷静になりたかった。裕貴から向けられる眼差し一つで、啓太郎の気持ちは簡単に揺れてしまい、抱えた恋情を嫌でも自覚させられる。
 これまでは甘さを伴っていた感情が、今はつらくて苦しいだけだ。
 アタッシェケースを手に啓太郎が玄関に向かうと、乱暴にイスを引いて立ち上がった裕貴が追いかけてくる。
「啓太郎、待って――」
 裕貴に腕に触れられた途端、啓太郎は自分でも思いがけない鋭い声を発していた。
「俺に触るなっ」
 首をすくめた裕貴が、怯えた小動物のような目をする。ズキリと心が痛むのを感じた啓太郎は、その痛みから逃れるように玄関を出ていた。




 昼メシの弁当を買いにコンビニに行った啓太郎は、雑誌コーナーの隅に置かれたものに目を止めると、深く考えないまま手にしてレジに持っていく。
 弁当と一緒に買ったのは、賃貸住宅情報誌だった。
 マンションまでの帰り道、買ったばかりの情報誌を袋から出し、表紙を眺める。自分の中に引っ越したい気持ちがあるのか、実は啓太郎にもよくわかっていない。ただ、今のままの状態がよくないことは確かだ。
 啓太郎自身にとっても、裕貴にとっても。
 裕貴と疎遠になると同時に、仕事のほうが暇な時期に入ったのは皮肉だ。おかげで毎日、朝出かけて、夜の早いうちに戻ってくるという規則正しい生活となり、その分、自宅で過ごす時間が増えるのだ。
 部屋で過ごしていると、嫌でも隣室にいるはずの裕貴の気配をうかがってしまう。我ながら自己嫌悪に陥るのは、夜になって博人が裕貴の部屋を訪ねてこないか探ってしまうことだった。
 裕貴は、一日に一度は携帯電話にメールを送ってくる。文章は短く、『話がしたい』という一言のみだ。
 話をしたところで、裕貴が博人と――関係を持っていた事実に変わりはない。無理やりですらない。裕貴も望んでいたという関係に、他人である啓太郎が何を言い、何を聞けばいいのか。
 そう考えるたびに怒りが湧き起こり、啓太郎は裕貴からのメールをすべて消去していた。それでいてアドレスを変えないのは、仕事上不便だからということもあるが、裕貴に対する未練のせいだ。
 白い息を吐き出した啓太郎は、暗い空を見上げる。
 同じ未練を抱えるなら、裕貴から一方的に振られたほうがまだ救われた。年下の気まぐれに振り回されたと、あとで苦笑できるぐらいの思い出になったはずだ。
 マンションの前まで来て、足を止めて周囲を見回す。博人の姿がないか探してしまうのは、すでにもう条件反射だ。それから、裕貴の部屋を見上げた。
 電気がついていることに、思わず啓太郎は安堵する。
 自分の部屋がある階でエレベーターを降りると、徹底して足音を消して通路を歩く。物音を立てた途端、裕貴が部屋から飛び出してくるのではないかと心配しているのだが、考えてみれば、ずいぶん自意識過剰だと思う。
 裕貴の部屋の前を、息を潜めて通り過ぎた啓太郎はすぐに、自分の部屋の新聞受けに白い紙が差し込んであることに気づいた。
 思わず裕貴の部屋のほうを見てから素早く紙を抜き取ると、もたつきながら鍵を開けて玄関に入る。
 手探りで電気をつけた啓太郎は、買ってきた弁当とアタッシェケースを置くと、すぐに紙を開く。それはシンプルな便箋で、端整な字が書き綴られていた。
 啓太郎へ、という言葉で始まっている手紙は、差出人が誰なのか考えるまでもない。裕貴からだ。
 今日は裕貴からまだメールが届いていないと思っていたが、直筆の手紙を書くことにしたらしい。
 内容は差し障りのないもので、啓太郎がここ何日か帰りが早いことを喜んでいたり、一方で、きちんと食事をしているのか心配していたり。最後は、時間があるのなら少しでいいから話したい、という一文で結ばれていた。
 手紙を読み終えた啓太郎の胸は、重い気持ちに塞がれる。なぜか啓太郎のほうが、罪悪感を抱いてしまう。
「悪いのは、俺じゃないだろっ……」
 啓太郎は呻くように洩らすと、乱暴に靴を脱ぎ捨ててダイニングに行く。ゴミ箱の前で手紙を細かく破り捨てた。
 もっともすぐに、その行動を後悔することになる。
 啓太郎の胸は、さらに罪悪感で重苦しくなり、買ってきた弁当を食う気は完全に失せていた。
 裕貴の作ったものが食べたいと思った次の瞬間、自分がいかに裕貴に餌付けされていたのか痛感し、啓太郎は苦い笑みを洩らした。









Copyright(C) 2007 Nagisa Kanoe All rights reserved.
無断転載・盗用・引用・配布を固くお断りします。



[20] << Sweet x Sweet >> [22]