Sweet x Sweet

[22]

 私生活がどれだけひどい状態であろうが、仕事はしっかりこなさなければならない。
 啓太郎はそう自分に言い聞かせながら、メンテナンスを請け負っている企業の開発部門会議に出席していた。前任者から引き継ぎ、この会社のシステムメンテナンスを担当しているのだが、今回、新たな新しいシステムを導入するという話になり、そのための会議だ。
 開発に入れば、また啓太郎の常駐生活が始まるわけだが、今は、仕事の忙しさで何も考えられなくなる状態のほうがありがたい。
 毎日、隣の部屋にいるはずの裕貴の気配をうかがうのは、あまりに苦しすぎる。
 そのくせ啓太郎は、そんな異常な状態にどう対処すればいいのか、いまだに決断を下せずにいるのだ。
 そっとため息をついて、前方に視線を向ける。
 さきほどからホワイトボードの前に立ち、得々と話し続けるシステムコンサルタントが、どうにも神経に障って仕方なかった。
 コンサルタント会社から派遣してもらった人物らしいが、あまり、システムを依頼する客の目線というものがわかっていないようだ。
 会議室内がざわついたままで、開発部門の社員たちは次々に疑問を口にしている。システムコンサルタントが示す作業工程が気に入らないのだ。しかし、提示する本人は、これで進めるのが確実だといって引かない。
 こういう空気を丸く収めるために、俺は呼ばれたんだろうなと思いながら、啓太郎は手を挙げてから立ち上がる。
「工程の単位ごとに、そちらの作業を計上できる仕様にできませんか? ここは、いままでのシステム開発も、そうやって進めてきたんです。マーケティング優先というそちらの考えもわかるのですが、あくまで、お客様の利便性を考えて――」
「しかし、わたしの示した方法が、マーケティングとしては一般的ですよ?」
 三十代後半に見えるシステムコンサルタントが、神経質そうに眉を動かす。面と向かって意見を言われたのが気に食わないと、表情が物語っている。
 立ち上がっている啓太郎の後ろから、『がんばれ』と無責任な声援が小声で飛んできて、思わず苦笑を洩らす。
 啓太郎は髪を掻き上げ、この使えないシステムコンサルタントにどうやってわかりやすく顧客のことを説明しようかと考える。
「いや、一般的なのはわかりますが、やはりシステム開発者としては、慣れた方法で進めたいものですし、それになんというか……」
「みなさんはシステム開発のプロでしょうが、わたしはシステムマーケティングのプロです。どの工程でマーケティングを行うか、あくまでわたしが主導して決める必要もあると考えています」
 いつもの啓太郎なら、根気強く相手を説得するだけの忍耐を持っているのだが、今日はダメだった。システムコンサルントの回りくどい説明を受けて、物腰柔らかく応じるということができない。とにかくむしょうに、イライラする。
 荒く息を吐き出し、啓太郎は前を見据える。
「――つまり、こちらが言いたいのは、口先だけのノウハウじゃなく、工程ごとにきちんとしたドキュメントを生産物として提示してほしいということです。もっとわかりやすく言うなら、システムコンサルタントのありがたい『説明』に値段をつけられんのですよ。形のあるものを示されて我々は初めて、価値を見出し、利用するし、作業工程に計上できるんです。システム開発者というのは、基本的にそういう考え方ですから、覚えておいたほうがいいですよ」
 あらかじめ準備しておいたように、一気にそこまで話してから、啓太郎は息を吸い込む。
「我々にシステムのマーケティングを語るより、多分、あなたが現場のレベルがどういったものか、理解するほうが早いと思います」
 明らかに余計な言葉だったが、周囲で噴き出す声が聞こえてくる。見れば、システムコンサルタントは顔を真っ赤にしていた。
 結局会議は、次回までにシステムコンサルタントがドキュメントを作成してくるということでまとまり、早々に打ち切られてしまった。
 ケンカを売るつもりはなかったのだが――と、啓太郎は頭を抱える。些細なことで感情の歯止めが利かなくなっているのだ。
 精神的に不安定になっている証拠だろう。なんの確信もないが、そう啓太郎は考える。
 とにかく誰かに八つ当たりをしたくて、システムコンサルタントはたまたまその犠牲になったに過ぎない。
 常駐先での人間関係には気をつけるよう言われているのに、これでは常駐SE失格だ。
 頭を抱えたあと、今度は天井を仰ぎ見る。気持ちがこれ以上なく荒んでいた。いままで水を与えてくれていたものがなくなり、心が乾ききっている。
 毎日、控えめに一通だけ送られてくる裕貴からのメールだけでは、到底心は満たされない。ただ、そのメールに返信すらしないのに、安らぎだけ求めるのは、あまりに自分勝手だといえるだろう。
 まるで猫のようにスルリと甘えてくる裕貴の感触が思い出され、不覚にも啓太郎は、涙が出そうになっていた。




 体を引きずるようにして会社から戻ってきた啓太郎は、鍵を差し込みながら、奥の裕貴の部屋をうかがっていた。
 会話を交わす前までのように、相変わらず裕貴の部屋は静かだった。すでにパソコンの前に座っているのか、通路に面したダイニングには電気はついていないようだ。
 無意識に身を乗り出してうかがっている自分に気づき、啓太郎は慌てて部屋に入る。何かの拍子にドアが開き、博人が出てきそうな気がした。仮に裕貴が出てきたとしても、どんな顔をすればいいのかわからない。
 コタツの上に、帰りに買ってきたコンビニ弁当を置くと、まず先にバスタブに勢いよく湯を張り始める。
 着替えを済ませてコタツに入ると、買ってきた弁当を食べる。最近、何を食べても美味くないので、食事はいい加減だ。とにかく腹に溜めればいい。
 そう思っていたが、半分まで食べたところで啓太郎は箸を止め、重い息を吐き出してから片付けてしまう。腹に溜まる以前に、そもそも食欲がなかった。
 裕貴が作る贅沢な食事に慣れた舌が受け付けないのか、精神的なものなのか、あえて深く考えない。考えたところでどうにもならないものがあると、最近痛感したところだ。
 啓太郎は、すぐに横になりたい衝動を堪えて風呂に入る。
 湯に浸かりながら思うのは、部屋で一人で過ごす時間は、こうも味気ないものだったのかということだ。
 一人でメシを食い、風呂に入り、寝るまでの時間、テレビを観るかネットをするか――。
 裕貴と一緒にいるときは、ただ同じ空間にいるだけで楽しかったし、満たされた。別に体を重ねなくても、裕貴から得るものは多かったのだ。
 ここでまた、啓太郎の思考は同じ深みにハマろうとする。
 どうしても博人の顔がちらついて、自分が裕貴を抱いたように、博人も裕貴を抱いたのだろうかと想像してしまうのだ。そこに感じるのは、嫌悪ではなく、嫉妬だ。
 湯に漬かったまま、ぼんやりとしていた啓太郎の耳に、カタンッという物音が届いた。たまたまバスルームの扉を開けていたため気づいたのだ。
 新聞受けにチラシでも入れられたのだろうかと考えた次の瞬間、あることに思い至る。
 派手な水音とともに立ち上がった啓太郎は慌てて風呂から出ると、タオルに手を伸ばそうとしたが、体を拭く時間も惜しい。タオルを腰に巻いただけの格好で玄関に向かっていた。
 もどかしくチェーンを解いてから、ドアを開ける。一気に冷気が流れ込んできて、体が凍りつきそうになるが、啓太郎は頓着しなかった。
 大きくドアを開けると、そこには――誰もいなかった。
 何を期待したのかと、寒さに大きく身震いしてから啓太郎は苦笑を洩らす。すぐにドアを閉めようとして、ドアの外側のノブに紙袋が掛けてあることを知った。
 ドキリとしたあと、紙袋を取り上げてドアを閉める。
 すぐに中を確かめようと逸る気持ちを抑え、ひとまず体を拭いてスウェットを着込む。確かめるまでもなく、紙袋の中からはいい匂いがしていたし、誰がこんなことをしたか、見当もついていた。
 濡れた髪を乾かすまでの余裕はさすがに啓太郎にはなく、テーブルにつくと急いで紙袋の中を覗く。思った通り、弁当箱とスープ容器が入っていた。
 弁当箱を取り出すと、蓋にメモが貼り付けてあり、『食べて』と短い言葉が書かれている。
 胸に熱いものが込み上げてきたが、振り払うように弁当を手にキッチンに行く。三角コーナーに弁当の中身を捨てようとしたが、できなかった。啓太郎が美味いと言って食べたものばかりが入った弁当を見ていると、そんなひどいことを、できるはずがない。
「……裕貴……」
 呻くように洩らした啓太郎は、ようやく自分の気持ちを認める。
 裕貴を抱き締めて、キスしたかった。とっくにわかりきっていたことだが、どうしようもなく心が裕貴を求めている。たとえ、裕貴が実の兄と体を重ねていたとしても。
 しかし、啓太郎から裕貴に会いに行くことはできない。
 裕貴は大事だが、裕貴と博人の関係は決して許せなかった。だからこそ、啓太郎から行動を起こしてしまうと、その二つの事実の境界線が曖昧になってしまいそうで、怖い。
 裕貴を目の前にしてしまうと、何もかもどうでもよくなるぐらい、啓太郎は裕貴に惚れている――溺れているのだ。
 弁当をテーブルに置くと、隣の部屋に接している壁の前まで移動する。壁にてのひらを押し当て、裕貴の存在を感じ取ろうとしていた。いつでも静かに、息を潜めるようにして生きている裕貴が、容易に物音など立てるはずもないのに。
 顔が見たい……、と洩らして、啓太郎は壁に額を擦りつけていた。


 弁当とスープをすべて平らげた啓太郎は、容器をきれいに洗って裕貴に返した。とはいっても、直接返せるはずもなく、裕貴と同じ手段を取ったのだ。
 ドアノブに紙袋を掛けて静かに立ち去るとき、心のどこかで裕貴が飛び出してくるかもしれないと期待したのは、あまりに虫がよすぎだろう。
 現実は、啓太郎は電気を消した部屋で一人、ベッドに寝転がっていた。
 早く寝てしまえばいいのに、少しも眠気はやってこない。つけたままのテレビも、内容はほとんど耳に入ってこない。とにかく、何もする気が起きない。
「――俺はこのまま、ダメになるかもな……」
 半ば本気で洩らして、目を閉じようとした瞬間、微かな物音が聞こえた。
 気のせいかと思いつつも体を起こそうとすると、確かに物音がする。しかも今度は、ベランダからだ。
 啓太郎は反射的に飛び起きて部屋の電気をつけ、ベランダに続く窓を勢いよく開ける。視界に飛び込んできたのは、驚くような光景だった。
「お、い――」
 裕貴が仕切りから身を乗り出して、ベランダの手すりに片足をかけようとしていた。怖いのか目を閉じており、その状態で手探りで仕切りに掴まり、手すりにかけた足先もさまよっている。一目見ただけで、あまりの危なっかしさにゾッとするような光景だ。
「裕貴っ、お前、動くなっ」
 思わず鋭い声を発して、啓太郎はベランダに飛び出す。裕貴の腰に片腕を回し、手を肩にかけるよう指示すると、慎重にこちらに体を引き寄せた。
 かつて啓太郎も、裕貴の部屋に行くために使った手段だが、あのときの裕貴の心境がわかった気がする。心臓が止まりそうなほど驚いて、同じぐらい心配だった。
 裕貴の体をこちらのベランダに引き寄せると、あとは抱きかかえて手すりから下ろす。
 啓太郎はそっと腕から力を抜き、裕貴の足がベランダについているのを確認すると、安堵の息を洩らした。
「何、してるんだ、お前は……」
 腕の中に裕貴を抱き締めたまま、啓太郎は問いかける。
「……啓太郎に、会いたかった」
 その答えを聞いて、やっと啓太郎はまともに裕貴の顔を見つめることができる。
 痩せたな、というのが、久しぶりに裕貴の顔を見ての感想だった。
 もともと目が大きな裕貴だが、今日は特に大きく見える。痩せて顔全体が小さくなったため、そう見えるのだ。背にてのひらを這わせると、ただでさえ肉付きが薄かったのに、一際華奢さが増していた。
 悩んで苦しんでいたのは、自分だけではなかった――。
 裕貴が穏やかな心境で暮らしているとは思っていなかったが、こうして痛々しい変化を目の当たりにすると、すぐには言葉が出なかった。
 ふいに泣きたくなったが、寸前のところで堪える。啓太郎は裕貴の背に手をかけたまま、黙って部屋へ入るよう促した。
「――どうして突然、こんなことをしたんだ」
 裕貴をコタツに入らせると、どう言葉をかけていいのか迷った挙げ句、単刀直入に尋ねていた。本当はもっと優しい言葉をかけてやりたかったが、どう聞いても口調はぶっきらぼうだ。
 顔を伏せた裕貴は、ぼそぼそと応じる。
「啓太郎の、メモを見たから……」
 その答えを聞いた啓太郎は、口元に手をやる。まさか、と思ったのだ。
 空になった弁当箱を返すとき、啓太郎は一緒にメモを入れておいた。裕貴に倣って、『美味かった』とたった一言だけ記したメモだ。
「あんな……、メモでか?」
「やっと、啓太郎が返事をくれたと思ったんだ」
「だからって、なんでこんな危ないことをした……。ドアからくればよかっただろ」
「……おれがインターホンを鳴らしたら、出てくれた?」
 これは、啓太郎の負けだった。正攻法で裕貴がやってきたとしても、啓太郎は意地になってドアを開けなかったはずだ。
 裕貴は、啓太郎のことをよくわかっているのかもしれない。
「どうして、今日になって弁当を作ったんだ」
 本当は聞きたいことはこんなことではないのに、思わず言葉が口を突いて出る。責められているとでも思ったのか、裕貴は小さく肩を震わせた。
「……何していいかわからなかったんだ。一人でいると、寂しくて……。気を紛らわせようと思って料理作っていたら、止まらなくなって、それで、啓太郎は嫌がるかもしれないと思ったけど、弁当にしてみたんだ」
 控えめに伏せていたかと思うと、挑むようにまっすぐ見上げてくる裕貴の眼差しに、呆気なく気持ちが翻弄される。
 感情が内から迸り出て、もう止めようがなかった。
 啓太郎は、裕貴の華奢な肩を抱き寄せる。すると裕貴が目を見開いた。
「……おれのこと、抱き締めてくれるの?」
 その言葉に、裕貴のさまざまな感情がこめられている気がして、啓太郎は囁くように告げた。あるだけの想いを込めて。
「俺はお前が、好きなんだ……。博人さんとのことだって、抵抗があってたまらないはずなのに、それでもお前に触れたくて、仕方なかった。だから、こうしている」
 嫌か? と尋ねると、裕貴は今にも泣きそうな顔で首を横に振る。啓太郎は乱暴な手つきで裕貴の髪や頬を撫でていた。そして、改めて向き合い、しっかりと細い体を抱き締める。
「け、たろ……。啓太、郎……、啓太郎っ――」
 裕貴の両腕が必死に背に回され、しがみつかれる。
 こんなに応えてくれるのに、どうして博人の想いにも応えたのか、それが啓太郎にはわからなかった。二人と同時に関係を持って平気でいられるほど、裕貴の神経はタフだとは思えないのだ。だからといって、博人が力ずくで裕貴を従わせるとは思えない。
 啓太郎は裕貴の頭を撫でながら、二人にとってつらい質問をしていた。
「――裕貴、どうして博人さんと寝たんだ。……過去のことは、責めない。だけど、俺とつき合っている最中のことは、俺に責める権利はあると思う」
 腕の中でもぞりと動いて、裕貴が怯えたような目で見上げてくる。涙で濡れた目を見ると、こんな状況にありながら狂おしい欲望が湧き起こる。
 啓太郎は指先で慎重に裕貴の涙を拭ってやり、目元にそっと唇を押し当てた。裕貴が微かに吐息を洩らし、このまま唇を塞ぎたくなったが、そうなると啓太郎はおそらく言葉を必要としなくなる。裕貴のすべてを貪ろうとするはずだ。
「言えよ、なんでも。お前のことは、なんでも知りたい。お前と博人さんの関係を知ったんだから、もう大抵のことから顔を背けたりしない。……お前の全部を受け止めてやった、と俺は宣言したいんだ。誰に対してとかいうんじゃなく、俺とお前の間で、そうやって決着をつけたい」
 ずっと混乱したままだった気持ちが、こうして裕貴を前に言葉にすることで、すんなりとまとまっていく。
 裕貴と博人の関係には抵抗があって認められないが、その感情が足枷になって、裕貴のすべてを博人に奪われるのは我慢ならない。
 裕貴は俺のものだと、自分勝手ともいえる主張がはっきりと啓太郎の中で芽生えていた。
 言葉を選ぶように視線をさまよわせてから、裕貴はゆっくりと語り始める。
「――……おれ、恋人同士でするようなことを兄さんとしていたことは、悪いことだとは思ってないんだ。でも、他人に知られちゃいけないことだとは知っているし、それ以上に、許されないことだとも知っている。そういう関係をずっと続けながら、兄さんと二人で暮らしていけると信じていたんだ」
「だが、博人さんは結婚した」
「すごく嫌だった。おれの嫌いな女だったしね。おれにとって世界は、兄さんと、少しだけ父さんの存在があって、それ以外の人間はみんな同じだった。だけど、兄さんの結婚でその世界は壊れた」
「博人さんの結婚がきっかけで、お前は家を出て、一人暮らしを始めたんだったな」
 頷いた裕貴の髪に唇を埋める。ここまでは、これまでに裕貴から聞いていた話とほぼ同じだった。やはり裕貴は、肝心な部分を伏せてはいたが、啓太郎にウソを言うつもりはなかったのだ。
「寂しかったよ。だけど、兄さんに裏切られたと思って、怒ってもいた。兄さんは、結婚してもいままで通りの生活を続けていけると言ったけど、おれは嫌だった。他人と兄さんを共有するなんて。千沙子さんは嫌いだけど、あの人のものになった兄さんとそういうことするなんて、ありえないんだ。……誰かのものを奪うなんて、嫌だよっ……」
 震える裕貴の背を何度も撫でながら、啓太郎は酷な質問をぶつけた。
「なら、博人さんが誰かのものでなくなったら、お前は博人さんの元に戻るか?」
 ゆっくりと顔を上げた裕貴が、驚いたように目を丸くしてから、笑いかけてくる。いつも啓太郎をからかうときに裕貴が浮かべる笑みだった。
「裕貴……?」
「戻らないよ。だっておれ、今は啓太郎とつき合ってるもん。……啓太郎が、おれとまだ別れてないと言ってくれるなら、の話だけど」
 裕貴をまだ失っていないという事実に、誰に対してなのか、啓太郎は感謝したくなった。
 一方の裕貴はすぐに笑みを消し、沈痛な表情となる。
「――兄さん、変わったんだ。もともと他人に対しては、おれのことでは容赦しない人だったけど、おれには優しかった。だけど、おれが啓太郎のことを好きだと知って、そうじゃなくなった」
 裕貴の口ぶりに、咄嗟に啓太郎が考えたことは、兄が弟に暴力を振るう光景だったが、そうではなかった。博人にとって裕貴は、よくも悪くも大事で愛しい宝物なのだ。
「兄さんには千沙子さんがいて、おれには啓太郎がいるから、もうそういうことはしないと言ったんだ。だけど……家族で旅行に行ったときに、キスされた。それから、リフォームのことで実家に帰るたびに、体にも触られた。そのたびに、おれは嫌だって言ったんだよ。だけど、抵抗できなかった」
「……手荒なことをされたのか? 何かの拍子に殴られたとか……」
 啓太郎がてのひらで頬を包み込むと、裕貴はつらそうに唇を引き結び、消え入りそうな声で言った。
「啓太郎に話す、って……。おれと兄さんの関係を、啓太郎に話すと言われたんだ」
 一瞬、息を止めた啓太郎は、気色ばんで裕貴の顔を覗き込む。自分でも、殺気立つのがわかった。
「脅されたのか?」
 表現が露骨すぎたらしく、まるで自分が責められたように裕貴は悲しそうに視線を伏せる。
「普通の人なら、おれと兄さんの関係を嫌悪することぐらい、わかっているつもりだった。だから隠し続けていたんだ。……おれはずっと想像してた。本当のことを知ったら、おれはみんなからどんな仕打ちを受けて、ひどい言葉を投げつけられるのかって。でも、リアルに感じたことはなかった。おれは他人に興味がないから。そう……、思ってた。啓太郎と仲良くなるまでは」
 すがりつくように裕貴が肩を掴んでくる。啓太郎は、そんな裕貴を安心させようと、強めに背や頭を撫でてやる。
「……おれ、啓太郎に嫌われたくなかった。今の生活を壊したくなかった。兄さんのことも嫌いじゃないから、求められたらどうすればいいかわからなかったんだ。ただ、啓太郎と一緒にいたくて、おれは他に方法を思いつかなかったっ」
 言葉の最後はほとんど悲鳴に近かった。聞いている啓太郎の胸まで痛み、たまらず裕貴をきつく抱き締める。
 裕貴は、博人を拒むという選択肢を持っていないのだ。その中で、裕貴なりの最善の方法を選んでいたのだろう。
 裕貴の様子がおかしいことに気づいていながら、結局何もしてやれなかった自分に、いまさらながら怒りが湧いた。一人で思い悩みながら、それでも裕貴は甘えてくれて、啓太郎の想いに応えてくれていたのだ。
「――……すまなかった。お前の話を、もっと早くに聞けばよかった。お前一人が苦しんでいたのに、おれは自分のことしか考えてなかった……」
 情けなくて涙が出てくる。ここまでずっと抑えていたさまざまな感情が入り乱れ、こんな形で噴き出したのかもしれない。
「啓太郎、泣いてるの?」
 ついさっきまで泣いていた裕貴が、慌てたように今度は啓太郎の涙を指先で掬い取り、ふいに顔を近づけてくる。何かと思ったときには、瞼の上に唇が押し当てられていた。
「お、い……」
「啓太郎、おれのために泣いてくれてるんだね」
 裕貴が唇で涙を吸い取りながら、年下のくせに諭すような口調で言う。
「おれたち、こうやって話すのに時間を置いてよかったんだよ。すぐに顔を合わせて話していても、おれはこんなふうに冷静に話せなかった。感情的に泣いて怒鳴って、どんなおれでも受け止めろって、啓太郎に迫ってたよ。そして、愛想つかされてたかも」
「……バカ」
 見た目に反して、やはり裕貴は大人だと思った。感情的になって取り乱していたのは、きっと啓太郎のほうだ。大事なものを奪い取られた子供のように、転げ回っていても不思議ではない。
 裕貴の舌先にチロリと目元を舐められ、ゾクリと強烈な疼きが背筋を駆け抜ける。感情の高ぶりが、いつの間にか体の高ぶりへと姿を変えていた。
 裕貴の髪を軽く掴み、顔を引き寄せる。開かれた唇にそっと歯を立て、啓太郎は間近から囁いた。
「――お前の恋人は、俺だ」
 裕貴は、泣き出しそうな表情のあと、笑みをこぼす。
「うん……」
「お前の過去は、俺の中でゆっくり消化していく。あくまで、『過去』のこととして。だからお前は、俺のことだけ見て、想っていろ」
 らしくない告白だと内心で照れていると、案の定裕貴にからかわれた。
「啓太郎、亭主関白」
「うあー、お前もう、いつも通りかよ。もう少し、しおらしくしていていいぞ。……可愛いから」
 首にしがみついてきた裕貴に、耳元でぽそりと囁かれる。
 啓太郎、ありがとう――。
 恥ずかしげに裕貴が言ったその言葉に、啓太郎は完全に理性の歯止めを失った。









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