[7]
この歳になると、さすがにこんな場に出席する機会も増えてくる。
テーブルに肘をつきながら、あくびを噛み殺した啓太郎は、滲んだ涙をさりげなく拭う。正直、他人が幸せそうにしている姿を見ても、なんの感動も湧かない。
「……長いなあ、このビデオ」
啓太郎の心の中の声を、隣の席に座っている人間が代弁する。すると、啓太郎の反対隣に座った人間が大きく頷いた。
「まったくだな」
苦笑洩らしながら啓太郎は小声で言う。
「友達甲斐のない奴らだな。少しぐらい我慢しろよ」
途端に左右から脇腹を軽く殴られる。会場全体の照明が落とされているからこそできる、荒っぽい行為だ。啓太郎もすかさず、両手の拳で二人の脇腹を殴り返した。
他のテーブルはともかく、同業者が集められたこのテーブルは、さきほどから空気が緩みっぱなしだ。
仕事で忙しい中、今日の啓太郎は無理して午後から有給を取り、かつて同じ職場に勤めていた友人の結婚披露宴に出席していた。その友人は別の会社に転職したが、今でも電話やメールで互いの近況をやり取りし合っており、おかげで今回招待されたのだ。
普段は別々の会社に常駐して、本来の勤め先である会社で顔を合わせることはあまりない同僚たちとも、今日はこうして同じテーブルにつき、さきほどからくだらない会話を交わしている。
「俺も転職しようかなあ」
同僚の言葉に、啓太郎は苦笑を浮かべる。
「急にどうした?」
「だってさあ、会社変わった途端、彼女ができて、とんとん拍子に結婚だぜ? きっと俺たちのいる会社に、致命的欠陥があるんだよ。だから俺たちは、いつまで経っても彼女ができないどころか、出会いにすら恵まれないんだ」
「……それは言えるかもな」
「そもそも、忙しすぎますからねー」
いつの間にか会話に、同じテーブルの後輩まで加わっている。
少し前までの啓太郎なら、身を乗り出して会話に加わり、己の不遇について熱く語っていただろうが、今は違う。どこか他人事のように会話を聞いていた。
さっそく同僚に鋭く指摘される。
「なんだ、羽岡、俺は関係ない、みたいな顔して」
乱暴に肩に腕が回され、揺さぶられる。すでにもう、上映されている新郎新婦のプロフィール紹介を兼ねたビデオなどそっちのけだ。
友人とはいえ、他人にとっては退屈でしかないビデオ上映が終わると、乾杯のあと、やっと食事にありつける。フランス料理のフルコースということだけを楽しみに、今日はやってきたかもしれんと、啓太郎は前菜を前にしてほっと吐息を洩らす。たまには、こういう形式ばった食事の席も必要なのだ。
最近の自分は、食欲と色気がワンセットになった生活を送っていると、啓太郎にも痛いほど自覚はあるのだ。
裕貴に食事を作ってもらうと、必然的にその後も、裕貴の世話になっている。もちろん、この場合の世話というのは、『時給制の恋人』のことを指している。
金を払っていなければ、裕貴との関係はまるで、恋人同士そのものだ。まさしく、かつて啓太郎が望んでいたものだった。
生意気かと思えば、嫌味のないわがままなところもあって、一方で素直なところもあり、そういう裕貴が可愛く、一緒にいて心地よいと感じる気持ちが強くなるのは、喜んでいいのか、憂慮すべき変化なのか、我ながら判断に困るところだ。
相手はなんといっても、同性――男なのだ。
啓太郎は、バカ話で盛り上がる同僚たちを眺める。どうやら、隣のテーブルについている新婦の女友達が気になっているらしい。
ここで、同僚がグラスにワインを注ごうとしたので断る。
「なんだ、羽岡、飲まないのか?」
「車で来たからな」
「バカか、お前。こんなときぐらい、置いてこい。二次会どうするんだ」
「明日の仕事を考えたら、二日酔いになるとわかって、のこのこと出かけるのもなあ……」
「こんなときぐらい、仕事のことは忘れろよ。俺たちまで切なくなるだろ」
同僚二人が揃って泣くふりをして、テーブルについた人間たちだけが盛り上がる。冗談のように忙しいのがSEだと説明しても、なかなか一般の人間には理解されないため、よくこういう自虐的な冗談を言い合うのだ。
「――羽岡、来いよ、二次会っ」
乱暴に肩を叩かれて再度誘われ、苦笑しながら啓太郎は頷こうとしたが、前触れもなく気が変わった。
「いや、やっぱやめておく」
「どうしてだ。お前のことだから、どうせ予定なんてないんだろ」
啓太郎はニヤリと笑う。これだけで、相手は勝手に想像してくれるのだ。
「あーっ、お前、いつの間にか彼女ができたんだな」
「さあな」
「とぼけやがって」
さっそく同僚たちからの執拗な詮索が始まったが、啓太郎は適当に躱す。
わざわざ結婚披露宴に招待してくれた元同僚も、こんなに騒がしい連中を呼ぶのではなかったと、後悔しているかもしれないので、とりあえずあとで謝るべきだろう。
結婚披露宴が終わった啓太郎は、引きとめようとする同僚たちを振り切り、新郎新婦に挨拶してから、引き出物を手に会場からロビーへと一人で移動する。
同僚たちの姿がないことを確認してから、柱の陰へと入ると、披露宴の間は電源を切っていた携帯電話を取り出した。
電話をかけた先は、裕貴の携帯電話だ。
いつもより長めに呼出し音を聞いているうちに、やっと裕貴が電話に出る。慌てているのか、息が少し上がっている。
「もしかして、風呂に入っていたのか?」
どうでもいいと思いつつ、まっさきにそんなことを尋ねていた。
『なんでわかったの。慌てて出たから、髪はびしょびしょ』
「いや、お前に限って、外に出ていたなんてことはないからな。だとしたら、風呂かトイレだと思った」
『悪かったね。引きこもりは行動範囲が狭くて』
「捉まえやすくていいけどな」
電話の向こうで裕貴が笑い声を洩らす。どうやら機嫌はよさそうだ。
『今日は、友達の披露宴に呼ばれたんだろ。終わった?』
「ああ。今から帰るところだ」
『あれっ、二次会とかないわけ?』
思った通りの質問に、啓太郎は改めて周囲を見回し、わざとらしく咳をしてから答える。
「……あったんだが、断った」
『バカだなあ。そういう場だったら、新婦の友達とかいて、誰かいい人がいるかもしれないだろ。自分から出会いの機会を避けてどうするんだよ』
年下から説教をされ、啓太郎は苦笑を洩らす。
こんなことを言いながら、電話の向こうで裕貴がどんな顔をしているのか、まったく想像がつかなかった。
『メシは食べたんだろ? 今日はフランス料理のフルコースだってはりきってたんだから』
「まあな」
『じゃあ、今夜はおれはゆっくりできるよ。啓太郎に何も食べさせなくていいから』
啓太郎は、せっかくきれいに整えた髪を所在なく指で掻き乱しながら、やや緊張して切り出した。
「――お前に一つ提案があるんだが……」
ふいにロビーに、にぎやかな声が響き渡る。柱の陰から顔を出すと、披露宴が終わった招待客たちの姿が一気に増えていた。啓太郎が出席していた披露宴の客たちか、別の会場にいた客たちかまではわからない。
にぎわうロビーの光景を横目に見ながら、啓太郎は会話を続ける。
「これから出かけないか?」
さすがに意表をついた申し出だったらしく、裕貴からすぐに返事はなかった。
『出かけるって、おれも?』
「ああ」
『……啓太郎って、無謀なところあるよね。引きこもりを外に連れ出そうとするなんて。この間の散歩のときもそうだったけど』
本当に呆れたように言われ、知らず知らずのうちに啓太郎の顔は熱くなってくる。自分でも、柄にもないことを考えついたものだと自覚しているだけに、それを裕貴に指摘されると居たたまれないのだ。
いっそのこと電話を切りたい衝動に駆られるが、それでも、とりあえず考えを裕貴に聞いてもらうことにする。
裕貴も、『嫌』という一言で拒絶はしなかった。呆れたような口調はそのままに、啓太郎に質問してきたのだ。
『それで、行くってどこに?』
「決めてない」
『……もしもし、おれ、湯冷めしちゃうから、電話切ってもいいかな』
「今日は会社は昼までだったし、披露宴も座って食ってるだけだったから、体力がいつもより有り余ってるんだ」
体力が有り余っている、という言い方は変だなと、口にしてから気づいた。同じことを裕貴も感じたのか、クスクスという笑い声が耳に届く。鼓膜を刺激され、啓太郎の背筋はくすぐったくなった。
『おれ、人がいるところに行くの嫌だ』
裕貴の言葉のニュアンスが変わる。啓太郎はここぞとばかりに早口で捲くし立てる。
「ドライブはどうだ。それなら人と顔を合わせなくて済む。欲しいものがあれば、俺が車から降りて買ってきてやるし。車で行ける範囲なら、お前のわがままを聞いてやる」
耳を澄ませて裕貴の返事を待つ。
どれだけ裕貴が外に出ることに抵抗を持っているのか、一分近い沈黙が物語っていた。前に裕貴を散歩に連れ出したときの反応で、それはわかっているつもりなので、啓太郎も以来、外に出るよう誘うことはなかったのだ。
だが今夜は違う。他人の結構披露宴に出席して、友人たちとバカな会話をして、気分が高揚しているのかもしれない。
それに、自分のわがままに裕貴がつき合ってくれるか試したいというのも、あるかもしれない。
『――本当に、車から降りなくていい? 誰かと会うのは嫌だし、車から降りないとはいっても、人が多いところを通るのも嫌だから』
「約束する」
『おれが行きたいと言ったところに連れて行ってくれる?』
「車で行けるところだぞ。俺は明日、会社があるんだからな」
やっと裕貴は、ドライブに行くことに承諾してくれる。啓太郎は内心で安堵の吐息を洩らしていた。心の半分では、無理だろうと覚悟もしていたのだ。
「今からホテルを出るから、髪をきちんと乾かして、温かい格好をしておけよ。もう一度携帯を鳴らしたら下りてこい。マンションの前に車を停めておく。それなら、人と会うこともほとんどないだろ」
『了解』
無意識に笑みをこぼしながら啓太郎は電話を切ると、コートのポケットに入れる。
柱の陰から出ようとしたところで、聞き覚えのある声が聞こえてきて、慌てて隠れ直す。そっとロビーを覗くと、同僚たちが歩いている。
啓太郎に気づいた様子もなく、ロビーから外へと出た一団がタクシー待ちの列に加わり、こちらに背を向ける。その瞬間を待って啓太郎は柱の陰から出て、別の出入り口から駐車場へと向かった。
夜も早い時間帯のせいで、道路はどこも混んでいた。ハンドルを握りながら啓太郎は、早く帰らなければと思いながらも、一方で、裕貴もじっくり髪を乾かせるだろうと考える。
手触りがよく柔らかな裕貴の髪は、自分で適当に切っているということで、惜しいことに不揃いだ。いつか、きちんとした美容室に連れて行って、美容師に切らせたいのだが、さきほどの電話の様子では、当分無理そうだ。
もっとも、裕貴が普通に外に出られるようになったら、そのときは自分たちの関係も変わってしまうだろう。
そう考えた途端、啓太郎の胸に嫌な感覚が広がった。裕貴との今の関係をなくしたくないという自分勝手な願望を、このとき初めて、啓太郎は自覚していた。それに、裕貴を誰の目にも晒したくないという気持ちも――。
外に連れ出したいという気持ちと相反しているが、確かにどちらも、啓太郎の中に存在している気持ちだ。
裕貴自身は、どう考えているのだろうかと気になる。今のまま引きこもっていてはダメだと、多少なりとも考えているのか、できるならこのままがいいと願っているのか。
啓太郎は、裕貴の現状については知っているが、裕貴の気持ちについてはよく知らない。気ままでありながら、自分の殻にしっかり閉じこもった生活を送っている裕貴が、毎日どんなことを考えているのかすら。
信号で車を停めたとき、何げなくウィンドーに顔を向けると、気難しい顔をした男があった。反射して映った啓太郎自身だ。
こんな顔をして裕貴の前に出たら、結婚披露宴で他人の幸せにあてられたかと、からかわれるだろう。
短く息を吐き出すと、気持ちを切り替える。とにかくこれから、裕貴とドライブに出かけるのだ。
やっとマンションの前で車を停めた啓太郎は、さっそく携帯電話を取り出して裕貴にかける。待っていたのか、すぐに裕貴は電話に出て、こちらが何か言う前に、『今から下りる』と言ってあっさり電話を切った。
エンジンをかけたまま車を降りた啓太郎は、寒さに肩をすくめて裕貴を待つ。
目の前の通りは、さすがにまだ人通りはあるが、それでも多くはない。薄暗いだけ、この間の散歩のときより気は楽なはずだ。
マンションのエントランスから出てくる人影があった。しっかりとダウンジャケットを着ており、目深に被ったニットキャップに見覚えがある。
裕貴はまっすぐ啓太郎の元に駆け寄ってきて、会話を交わすより先に、啓太郎は助手席のドアを開けた。裕貴も心得たもので、するりと助手席に乗り込む。
助手席のドアを閉めると、すぐに啓太郎も運転席側に移動した。
「――けっこう似合ってる」
前置きもなく裕貴がそんなことを言い、車を出そうとしていた啓太郎は動きを止める。
「何がだ」
「ダークスーツだよ。啓太郎って、スーツが映える体つきだよね。身長があって、体つきも貧相じゃないから。披露宴に行って、色っぽい視線とか向けられなかった?」
「あるわけないだろ。あったら、二次会に行ってるな」
「嘘だね。啓太郎なら、おれと出かけようと思ったら、何があっても二次会には行かない」
読まれている――。
啓太郎は力なく笑ってから車を出し、シートベルトを締めた裕貴は、被っていたニットキャップを取った。途端に、いい香りが車中にふわりと広がる。香りの発生源は、洗ったばかりの裕貴の髪からだろう。
二次会に行かず、裕貴をドライブに誘った選択は正しかったと、この瞬間、啓太郎は確信した。理由はない。気持ちの問題だ。
ウィンドーに張り付いた裕貴は、珍しそうに夜の街並みを眺めていたが、ふとした拍子に独り言のように洩らした。
「――車の助手席に乗るの、久しぶりだ」
沈黙の気まずさを感じなくて済むようラジオをつけていた啓太郎だが、裕貴の言葉はしっかり耳に届いた。
「最後に助手席に乗ったのは、いつだ?」
なんでもないことのように尋ねると、こちらを見た裕貴が笑みを浮かべる。
「気になる?」
「……別に。ただ、お前が助手席に乗るってことは、よほど親しい相手だと思ってな」
「親しい、ね」
自嘲気味に呟いた裕貴の表情が一瞬だけ翳った。裕貴と過ごす時間を重ねれば重ねるほど、ときおり裕貴はこんな表情を見せる。心にとてつもない痛みを感じたような、そんな表情だ。
だがすぐに、気を取り直したようにいつもの笑みを見せ、啓太郎のほうに身を乗り出してきた。
「運転疲れたら、言ってよ。代わるから。啓太郎を助手席に乗せてあげる」
思いがけない申し出に、前を見据えたまま啓太郎は眉をひそめる。
「お前もしかして……、車の免許持ってるのか?」
「おれ別に、生まれた頃から引きこもってるわけじゃないんだけど。これでも、大学通ってる頃に免許取ったんだよ。――まあ、それっきりハンドル握ってないんだけど」
「気持ちだけ受け取ったおくから、助手席にちんまりと座っておけ」
ひどいなあ、と聞こえよがしにぼやきながら、再びウィンドーに顔を寄せようとした裕貴が、突然何かを思い出したように車中を見回し、後部座席へと身を乗り出す。
「今度はなんだっ」
「披露宴出たんなら、引き出物もらったんだろ。何もらった? 見ていい?」
子供を助手席に乗せている気分だと思いながら、啓太郎は頷く。
「引き菓子が、有名な店のチョコレートらしいから、やるよ。ついでに、引き出物も。確か、小鉢のセットだ。お前のところにあったほうが、有効に使えるだろ」
「まあ結局、おれのところで啓太郎がメシを食うわけだしね」
腕を伸ばして引き菓子の包みを取り上げた裕貴は、シートに座り直してから包みを開く。可愛い箱の中には、上品なチョコレートの粒が並んでいる。その一つを摘まみ上げ、口に放り込んだ裕貴に尋ねる。
「美味いか?」
「んー、美味しい。花嫁さんが選んだのかな。いい趣味してる」
こいつは甘いものを口に放り込んでおけば、基本的に機嫌がいい――。
裕貴本人には言えないことを、啓太郎は心の中でこっそり洩らす。つい噴き出しそうになったが、寸前で堪える。いきなり口元に、チョコレートの粒が押し付けられたからだ。
「おい――」
啓太郎が口を開いた途端、チョコレートが放り込まれる。舌の上でチョコレートが溶け、甘い味が広がった。
「……ここのチョコが気に入ったんなら、今度買ってきてやる。俺が今常駐している会社の近くにデパートがあって、そこにショップが入ってたはずだ」
「最近、お菓子関係に詳しくなったよねー、啓太郎」
「誰かのパシリにさせられてるからな」
「よく言うよ。仲良く一緒に味わってるのに」
口ではどうしても、裕貴に勝てない。いつでも啓太郎の分が悪いのだ。
「――それで、どこに行きたいんだ」
啓太郎の問いかけに、指先をペロリと舐めて裕貴が答える。
「まずは、デートコースの定番として、夜景を見に行こう」
「デートか……」
「せっかくの出会いのチャンスをふいにしてまで、おれを誘ってくれたんだから、まずは擬似デートにつき合ってあげるよ」
「……ということは、金取るのか? 車を運転しているのは、俺なのに」
裕貴がちらりと流し目を寄越してくる。車のライトやネオンで照らし出される裕貴の顔は、いつも以上に青白く見え、陶器で作られた端整な人形のようだった。一見冷たくすら見えるが、次にどのチョコレートを食べるか、指先をさまよわせる様はどこか子供っぽい。
チョコレートに視線を落としたまま、裕貴が言った。
「おれが言う場所に連れて行ってくれるなら、お金はいいよ」
「お前は回りくどい。連れて行ってほしいなら、素直にそう言え。これぐらいのことで金の話をするのは、俺だって嫌なんだからな」
「――……でも、おれと啓太郎の関係って、おれが啓太郎から金をもらって何かする、というのが前提だろ」
裕貴の言葉に猛烈に腹が立ち、反論したかったが、結局啓太郎は何も言えなかった。事実だと、痛いほどわかっているのは誰でもない。啓太郎自身なのだ。
裕貴のことを多少はわかっているつもりだったが、まだ甘かったらしい。
軽く鼻を鳴らした啓太郎は、次の瞬間、強烈に吹き付けてきた風に首をすくめる。このとき潮の匂いが鼻先を掠めていった。
コートの前を掻き合わせ、視線を前方へと向ける。闇がぽっかりと口を開けているかのように、夜の海が広がっていた。
月も出ていない夜なので、砂浜沿いの道にぽつんぽつんと設置された街灯の明かりだけが、かろうじて砂浜の一部を照らしている。波打ち際に近づけば、あっという間に闇に溶けてしまうだろう。
しかも今は冬で、海を渡ってくる風は身を切るほど冷たい。
こんな季節に、こんな時間、海に来たいと言うのは、絶対変わり者だ。そして啓太郎の連れは、その変わり者だった。
寒さもものともせず、裕貴は一人でさっさと砂浜に下りていき、砂に足を取られ、ときおりよろめきながらも、どんどん歩いていく。啓太郎は呆気に取られるだけだ。
まさか、車から降りるとは思っていなかった。裕貴が海が見たいと言い出したときは、車の中から海を眺めて満足するだろうと、簡単に考えていたのだ。
人気がない海に行きたいという裕貴のリクエストだったが、そもそも今の季節、釣り好きでもない限り、好んで海に遊びに来る人間はそうはいないだろう。
啓太郎が連れてきたのは、さほど大きくはない砂浜で、夏場でも一部の人間しか来ないという穴場だった。周囲に人家もないし、デートのついでにやってきたカップルの車もない。裕貴の条件を完璧以上に満たしているだろう。
「あいつのわがままにつき合う俺も、相当の変わり者か……」
苦笑しながら呟いた啓太郎の目は、砂浜を歩き回る裕貴を追いかけていた。だが、次に裕貴が取ろうとした行動に、思わず大声を出す。
「こらっ、砂浜にそのまま座るなっ」
振り返った裕貴が手を振りながら笑いかけてくる。花が開いたような清々しい笑顔だ。ふいに啓太郎の胸は熱くなった。
「そっちに行くから、ちょっと待ってろっ」
そう言うと、啓太郎は急いで車のトランクを開け、割れ物を梱包するのに使ってそのまま積んであった毛布を取り出した。
毛布を抱えて、急いで裕貴の元へと駆け寄る。砂が革靴に容赦なく入って気持ちが悪いが、構わなかった。
砂の上に毛布を敷いて手で示すと、ちょこんと裕貴がその上に座り込む。啓太郎も隣に腰を下ろすと、革靴を脱いで砂を捨てる。そうしていると、裕貴のほうから身を寄せてきて、腕を取られた。
口元を綻ばせそうになったが、ぐっと堪えた啓太郎は厳しい顔で言ってやった。
「寒いんだろ。こんな季節に海に行きたいなんて言うからだ」
「寒いからいいんじゃないか。こうやって、ぴったりくっつく理由がいらない」
意外に正論だ。啓太郎が唇を引き結ぶと、どうだ、と言わんばかりに裕貴が上目遣いで笑いかけてくる。
「……人に見せられん姿だ」
「こんな寒い日の夜に、海に来る人なんていないって」
「お前が言うな」
軽やかな笑い声を上げた裕貴が、じっと海を見つめる。寒いのか、腕にしがみついている裕貴から、小刻みな震えが伝わってくる。
車に戻るかと啓太郎は声をかけようとしたが、先に口を開いたのは裕貴が先だった。
「――子供の頃、おれ、体が弱かったんだ」
啓太郎は目を丸くして裕貴の横顔に視線を向ける。薄闇に浮かび上がる青白い顔は、健康的とは言いがたいが、病的とまではいかない。啓太郎の視線に気づいたのか、裕貴はこちらを見て笑った。
「今は平気」
「体が弱いって、何か病気をしてたのか?」
「心臓の病気だよ」
思わず眉をひそめた啓太郎に、裕貴はひらひらと手を振る。
「あー、そんな顔するほど深刻なものじゃないんだ。それにもう治って、健康体」
そうは言われても、啓太郎はつい、視線を裕貴の左胸へと向ける。裕貴の裸を何度か見ているが、胸に手術の痕らしいものはなかった。胸どころか、体中に傷らしいものはなかったはずだ。
啓太郎の顔を覗き込んできて、裕貴が悪戯っぽい表情となる。
「今、おれの裸を想像してるだろ」
「バカっ……」
「わっかりやすいなあ、啓太郎は」
じゃれるように裕貴に首にしがみつかれ、危うく啓太郎はひっくり返りそうになる。寸前のところで裕貴の体を受け止め、なおかつ自分の体も支えた。
なんとか裕貴をきちんと座らせ、病気の詳しい話を促す。
「おれの心臓には、心房と心房の間に穴が開いてたんだ。だから血の流れが変なことになって、心臓に負担がかかる。運動しても、すぐに息が切れてたよ」
「子供にその症状はつらかっただろ」
「まあね。おかげで、外では遊べないし、体育の授業なんてずっと休んでた。もちろん、遠足や林間学校も欠席。参加ぐらいできたんだけど、うちの人間が過保護でさ。だから修学旅行も行かしてくれなかった。おかげでおれ、学校では浮きまくってたよ」
言いながら裕貴は笑っている。しんみりした話、という雰囲気ではなく、裕貴もそういう方向に持っていきたいわけではないらしい。
「おかしいのは、うちの人間なんだ。学校行事でみんなはどこに行ったって話をすると、休みの日に同じ場所に、タクシー使って連れて行ってくれるんだよ。遠足や林間学校の空気は味わえなくても、同じ場所に行ったって記憶は残るだろうって」
「うちの人間って、それ、親父さんのことか?」
裕貴からかえってきたのは曖昧な返事で、表情からも、否定と肯定のどちらの意味を含んでいるのか読み取れなかった。
ただ、前に裕貴本人が、父親は多忙で、子供を放って世界中を飛び回っていると言っていた。だとしたら、裕貴が言っているのは『父親』のことではない可能性が高い。
「……海にはよく一緒に行ったよ。眺めるだけだったけど。弁当も作ってくれた。でも、あまり美味しくはなかったんだよね」
「優しいんだな。お前の家の人間は」
「そうだね。すごく、優しい。……おれにだけ」
言葉とは裏腹に、裕貴は痛みを感じたように唇を引き結び、膝を抱える。その姿があまりに頼りなく見え、啓太郎はつい手を伸ばして、ニットキャップの上から裕貴の頭を撫でた。
「心臓に開いてた穴は少しずつ小さくなっていって、中学の終わり頃には塞がったんだ。高校に入った頃には普通に運動もできるようになったしね。でも、うちの人間の過保護は相変わらずだったよ。おれを子供の頃から大事にしてたから、その感覚が抜けないんだ」
啓太郎の脳裏には、裕貴の部屋の前で会った女の顔が蘇っていた。ひどく裕貴を心配している様子だったので、もしかして、と考えたが、次の瞬間には否定する。
裕貴の今の口調には複雑な感情が滲み出ているが、そこには、女に見せていた冷ややかさも強い拒絶の感情もない。むしろ対照にあるような、親愛の情が透けて見えそうだ。
「――今は、お前をどこかに連れて行ってくれないのか?」
咄嗟にそんな質問をぶつけると、驚いたように裕貴は目を丸くした。悪いことを聞いたかと、啓太郎が後悔しかけたとき、再び裕貴が勢いよく首にしがみついてきた。
「お前はじっと座ってられんのかっ」
パッと顔を上げた裕貴がにんまりと笑いかけてくる。
「今は、啓太郎がいるだろ。引きこもりを二度も外に連れ出せたんだから、大したもんだよ」
裕貴を引き離そうとしていた啓太郎だが、動きを止めてまじまじと白い顔を覗き込む。頬を包み込むようにして触れると、冷たくなっていた。途中でコンビニに寄って、カイロぐらい買うべきだったと、今になって後悔した。
「……行きたいところがあるなら、いつでも言え。いつでも連れて行ってやるとまでは言えないけど、俺が休みの日になら、お前のわがままに善処してやる」
「おれも、啓太郎のデートコースに、気が向いたらつき合ってやるよ」
「はいはい、可哀想な男につき合ってください」
わざと卑屈な言い方をしてやると、肩にぐりぐりと頭を押し付けられた。新たな裕貴の攻撃にプッと噴き出した啓太郎は、両腕でしっかりと裕貴を抱き締める。
この瞬間、腕の中にある感触がたとえようもなく愛しくなって、啓太郎は内心で困惑した。
『夜の海見物デートコース』には、翌日、けっこうなオチがついた。
夜更けになってやっと仕事から解放された啓太郎は、自分の部屋に帰るよりもまず先に、裕貴の部屋に立ち寄った。
インターホンを押すと、いつもよりゆっくりとチェーンを外す気配がして、ドアが開けられる。
「おい、何か腹にガッツリ溜まるようなものを食わせ――」
足元に落としていた視線を上げながらリクエストを告げていた啓太郎だが、裕貴の顔を見た途端、声を失う。
パジャマの上からいつもの大きめのカーディガンを羽織った裕貴は、マスクをしていた。全身から倦怠感が漂っており、マスクから覗く顔は全体に赤く、目も真っ赤に充血している。
苦しげに肩を上下させているところまで確認してから、啓太郎は慌てて玄関に入ってドアを閉めた。入り込む冷気に、裕貴が寒そうに肩をすくめたのだ。
「……お前もしかして、風邪か……?」
「この姿を見て、それ以外の何に見えるって言うんだよ」
憎まれ口は相変わらずだが、声は掠れて聞き取りにくい。
よろよろと覚束ない足取りで歩く裕貴を見て、啓太郎は頭で考えるより先に腕を取って支えてやる。
「早く横になれ」
「言われなくても。……あー、お腹空いてるんだよね。タンシチューを冷凍したのがあるから、レンジで温めて食べてよ。ご飯は炊いてあるから」
ベッドに腰掛けた裕貴が急に咳き込み、背をさすってやる。サイドテーブルには水のペットボトルと体温計、冷却シートの箱が置いてあった。風邪による裕貴の苦闘がうかがい知れ、啓太郎は心の底から申し訳なくなる。
「昨日、海に連れて行ったせいだな。外に慣れてないお前を、あんな寒いところにしばらく置いておくべきじゃなかった」
カーディガンを脱いでベッドに潜り込みながら、裕貴は小さく首を横に振る。
「行きたいって言ったのはおれだよ。ほら、神妙なこと言ってないで、メシ食ってきなよ」
「いや、今日は遠慮しておく。お前が寝込んでるのに、隣の部屋でメシを食うっていうのも気が引ける」
もっと早くに気づけばよかったのだろうが、今朝に限って啓太郎は、裕貴がまだ寝ているかもしれないと思い、顔を出すのを遠慮したのだ。
帰ろうと思って啓太郎は立ち上がろうとしたが、コートを掴まれる。振り返ると、手を伸ばした裕貴が、ベッドの中からじっと見上げてきていた。
「一人でずっと心細いの我慢してたんだから、少しぐらいいてくれてもいいだろ」
思いがけない裕貴の言葉に目を見開いた啓太郎は、真顔で尋ねた。
「――……心細かったのか?」
「ずっと寝たままで、退屈だったんだよ」
言い直した裕貴がふいっと視線を逸らす。啓太郎は必死に笑いを噛み殺しながら、裕貴の希望通りにメシを食うことにする。
コートを脱いで手を洗うと、タンシチューを温めながら食器の準備をする。
出した食器をテーブルの上に置いていて、病院で出された薬の袋に気づく。さすがの裕貴も引きこもり云々と言っていられず、自分の意思で病院に行ったらしい。
啓太郎は薬の袋を取り上げ、どこの病院に行ったのか確認する。
印刷されていたのは、ある総合病院の名だった。記憶にない病院だが、病院名の下には住所も記されており、おおよその場所については把握できる。ただ、ここから一時間近くはかかる場所だ。
「裕貴、病院には一人で行ったのか?」
隣の部屋を覗いて尋ねると、布団に包まった裕貴がもぞもぞと動いて顔をこちらに向け、マスクを口元からずらす。
「そうだけど……、なんでそんなこと聞くの」
「ということは、タクシーを呼んだのか?」
「やむをえず」
よほど風邪でつらかったのだなと思いながら、啓太郎は手にした薬の袋を示す。
「この病院、遠かっただろ。近所に内科があるのに……」
「そこ、子供の頃からのおれのかかりつけ。遠いから面倒だけど、心臓のことで万が一っていうこともあるから、診てもらったんだ」
啓太郎は再びベッドに歩み寄り、床の上に座って裕貴と目線を合わせる。
「何か心配なことがあったのか?」
昨夜、裕貴から心臓が悪かったということを聞かされたため、一瞬啓太郎の中を、不吉なものが過ぎる。マスクで口元を覆い直しながら裕貴は目を細めた。どうやら笑ったらしい。
「一人暮らしを始めてから、こんな大風邪引いたの初めてだから、念のためだよ。それに、今のおれの心臓はピンピンしてるって。それどころか、少しは運動しろって言われた。風邪ひいてゼエゼエ言ってるのに運動しろって、意味わかんないよ」
啓太郎はほっと息を吐き出して、裕貴の前髪を優しく梳いてやる。
「俺はわかるぞ。――つまり、お前の体は鈍ってるってことだ。夜中や明け方に、ちょっと散歩してみたらどうだ」
「……風邪がよくなったら考えてみる」
減らず口、と洩らして啓太郎は笑う。
髪や頬を撫でてやっていると、裕貴が心地よさそうな表情を見せる。
「啓太郎の手、ひんやりして気持ちいい」
「お前は、熱いな。熱はどれぐらいだ」
「――四十度、近く」
「そりゃ重症だな」
「肺に影が出てるって言われた。肺炎寸前だったみたい」
思わず啓太郎は天を仰ぎ見る。症状を聞いて、ますます責任を感じていた。すると裕貴が、掠れた声ながら穏やかな口調で言う。
「昨夜、楽しかったよ。普通なら、あれぐらいで風邪なんて引かないんだろうけど、おれは体がびっくりしたんだろうな。まあ、熱で寝込むのも、滅多にない経験だから、これはこれで――」
ここで裕貴が激しく咳き込みながら体を横に向けたので、啓太郎は背をさすってやる。
「メシ食ったら、コンビニで買い物してきてやる。スポーツ飲料とか、欲しいものがあるだろ。今のうちに考えておけよ」
「う、ん……」
返事をした裕貴から、濡れたように見える目を向けられ、ドキリとする。熱のせいで焦点の怪しい裕貴の目は、普段よりずっと危うくて、艶かしく見える。まるで、誘惑する目だ。本人に言ったら、苦しくて仕方ないんだと怒るだろうが。
啓太郎は、紅潮した頬にかかった髪を掬い上げて除けてやる。そのまま頬を撫でてやると、裕貴は片頬をシーツに押し当てて目を閉じた。
「……啓太郎、熱で弱ったこいつも可愛い、とか思ってるだろ」
「なんでお前、病人のくせに減らず口だけは健在なんだ」
「啓太郎が寂しいかと思って」
「寂しかったのはお前だろ」
裕貴は声を洩らして笑うだけで、否定はしなかった。啓太郎は枕元のタオルを取り上げ、裕貴の首筋の汗を拭いてやる。このとき、甘えるように裕貴が両腕を伸ばしてきて、抱きつかれた。
これは確かに、裕貴の言葉ではないが、『熱で弱ったこいつも可愛い』かもしれない。
普段よりずっと熱い体や、首筋にかかる息遣いに、啓太郎の胸の奥はくすぐったくなる。もっと甘やかしてやりたいという気持ちが湧き起こっていた。
「なあ、これも何かのコースなのか?」
間近で裕貴の顔を覗き込んで尋ねると、少しだけ呆れた顔をされた。
「風邪で甘ったれになった恋人を甘やかすコース? どれだけマニアックなんだよ」
「……お前にだけは、マニアックと呼ばれたくなかった……」
嘆いてみせた啓太郎だが、裕貴と顔を見合わせて、密やかに笑い声を洩らす。その最中に啓太郎は、裕貴のマスクをずらしてキスしようとしたが、すかさず元に戻された。
「――……風邪移すよ」
「平気だ」
「啓太郎が風邪引いたら、面倒見るのはおれだろ。啓太郎って、病気になったらすごく手がかかりそうなタイプだと思うんだよなあ」
意味ありげな眼差しを向けられ、仕方なく啓太郎はキスを断念する。そこにちょうど、レンジがチンッと鳴った。
「元気になったら、キスぐらいいっぱいしてあげるよ」
ため息をついて立ち上がった啓太郎に向かって裕貴が言い、負けずに応じる。
「だったらさっさと元気になれ」
裕貴が嬉しそうに笑った気もするが、マスクに顔半分が隠れているので、もしかすると見間違いかもしれない。
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