Sweet x Sweet

[8]

 プロジェクトのカットオーバーの目処がなんとか立ち、啓太郎は胸を撫で下ろしていた。このまま納期をぶっちぎり、『終わらない悪夢』ではないが、最悪の状態に突入するのではないかと、密かに危惧していたのだ。
 もっとも、現状が少しも楽になるわけではない。単に、無理すれば納期が守れるという計算が成り立つというだけだ。
 缶コーヒーを一口飲んだ啓太郎は、乱暴にマウスを動かしてから、キーボードを叩く。深夜から突入するテストのためにドライブの余裕を作っておこうと、もう使わないデータをどんどん削除している最中なのだ。
 人に任せれば少しは楽できるのだが、どんなデータを消されるかわかったものではないし、だからといって人に細かく指示を出すぐらいなら、自分でやったほうが楽だ。
 当然、今日だけでなく、明日も帰宅できないだろう。
 ふっと啓太郎の指の動きが遅くなる。裕貴のことを考えていた。
 裕貴の風邪は相変わらずで、二日続けて寝込んでいる。今朝も部屋に寄って様子を見てきたが、減らず口は変わらないものの、ベッドの中でぐったりしており、何も食べたくないと言うのを説得して、コンビニで買ってきておいたプリンを食べさせたのだ。
 本当は裕貴を一人にしておきたくはなかったが、仕事も手が離せない。何かあったらすぐメールしてくるよう書いた手紙を枕元に置いて、啓太郎は仕事に出てきた。
 心臓はもう大丈夫だと聞かされているが、それでも高熱が続いて体が弱っているとなると、何が起こっても不思議ではないと思ってしまう。
 まさか意識をなくしているのではないかと、日に何度も考えては、不安に駆られる。
 一度だけ電話をかけて、調子を聞いてみようか――。
 啓太郎は隣のイスに置いたジャケットに視線を向ける。ジャケットのポケットの中に携帯電話を入れているのだ。
 なんとなく気恥ずかしいものがあるが、裕貴を心配する気持ちのほうが先に立つ。
 携帯電話を取り出すと、声があまり出ていなかった裕貴の負担を考え、啓太郎はメールを送ることにする。内容は簡潔だった。
『生きてるか?』
 返事は期待していなかったのだが、作業を再開して数分ほど経ってからデスクの上に置いた携帯電話が震える。
 反射的に携帯電話を取り上げて開く。裕貴からの返信だとわかり、啓太郎の心はパッと光が差し込んだように明るくなった。仕事の疲れもこのときばかりは忘れる。
『死んでる』
 そんな物騒な言葉とともに、意味不明な画像がついていた。
 これはなんだと思いながら、啓太郎は携帯電話の画面をじっと覗き込む。そこまでしてやっと、ベッドに横になっている裕貴自身を写したものだとわかった。
 どうしてベッドに横になっているとわかったかというと、枕と、寝癖のついた不揃いな髪が写っていたからだ。よろよろと携帯電話を掲げて裕貴がこんなものを撮ったのかと思うと、悪いと感じつつも、笑みが洩れる。
『本当に駄目だと思ったら、近くの病院に行けよ。ついていてやりたいけど、今日、明日と帰れそうにない』
 このメールに対する裕貴の返信は、いかにも裕貴らしかった。
『寂しいなあ』
 本心からの言葉かどうかはともかく、ご丁寧に、文面のあちこちにハートマークを飛ばしている。見た途端、ブッと噴き出した啓太郎を、周囲にいる人間たちが一斉に注目した。
 慌ててまじめな顔を取り繕ったが、次の瞬間にはイスから立ち上がり、側の窓へと張り付く。とてもではないが、冷静ではいられなかったのだ。
「なっ、何考えてるんだ、あいつはっ」
 窓に向かって独りごちながら、いつの間にか啓太郎の顔は熱くなる。
「死にかけとか言ってる奴が、こんな細かいことをするなっ……」
 恥ずかしいメールを消そうとしたが、寸前で手を止める。もう一度、裕貴が送ってきた画像を眺めていた。
 枕と裕貴の髪しか写ってないような画像だが、熱で苦しげな裕貴の息遣いは容易に想像できる。
 心配いらないと、裕貴なりに遠回しに言っているのだろうかと推測してみたが、もしかすると啓太郎の深読みかもしれない。
 なんにしても、仕事が終わってから裕貴には、お気に入りのケーキ屋のプリンを買って帰ってやろうと啓太郎は思った。




 自分の部屋のベッドに寝転がった啓太郎は、ぼんやりと天井を見上げる。自分の部屋にいながら、なんだか寛げなかった。
 仕方なく起き上がると、冷蔵庫を開ける。缶ビールを取り出そうとして、その下の段に入れた箱に目が止まった。
 ようやく仕事から解放されて気が抜けるのはいつものことだ。しかし最近は、それだけとも言えなかった。
 自分の部屋にいるよりも、隣の部屋に入り浸ることのほうが多いからだろう。
 裕貴のために買ってきたプリンは、まだこうして箱に収まって冷蔵庫に入っている。早めに渡してやろうと思い、起きているか確認のためメールをしたのだが、返事がないのだ。
 寝ているところを叩き起こすまでのことではないと、とりあえず啓太郎は自分の部屋に帰り、こうして形だけは寛いでいるのだが――。
 正直、裕貴の顔を見ないと、一日が終わったという気がしない。
 熱は少しずつ下がってきたと、今日の昼間まで交わしたメールでわかっているが、やはり顔を見ないと心配だ。
 缶ビールを取り出して冷蔵庫を閉めた啓太郎は、上着を羽織ってベランダへと出る。手すりから身を乗り出し、仕切りの向こうの隣の部屋の様子をうかがうと、電気は消えていた。
 それを確認して啓太郎は大きくため息をつく。
 普段、裕貴の部屋の電気が消えているところをあまり見ることがないので、妙に不安を掻き立てられる。それに、寂しい。
「……あいつ、本当に大丈夫なのか。熱は下がってきたなんて言ってたが、ぶり返しでもしてるんじゃないだろうな」
 啓太郎は呟き、缶ビールを開けて呷るように飲む。風呂上がりだけあって、身を切るような風の冷たさも、喉を通るビールの冷たさも心地いいが、心が晴れることはない。やはり啓太郎の意識は、隣の部屋へと向いてしまうのだ。
「しかし、風邪で寝込んでからのあいつ、主食がプリンになってるな……。コンビニで買ってきたプリンで満足できるんなら、普段買っている、気取った店のプリンの価値はどれほどのものだっていうんだ。意外に味がわかってないんじゃねーのか」
「――遠くまで買いに行かせるのが可哀想だと思って、気をつかってやったのに、そーんなこと思ってるんだ」
 いきなり声がして、啓太郎は飛び上がりそうなほど驚く。見ると、仕切りの向こうから裕貴がひょっこりと顔を出していた。
「なっ、お前っ……」
 大きな声を出しそうになったが、すかさず裕貴が唇の前で人さし指を立てた。仕事から帰ってきて間もないため忘れそうになるが、今は夜更けだ。おそらく他の住人たちの大半は寝入っている。
 啓太郎は仕切りのすぐ側まで寄り、手すりからわずかに身を乗り出して裕貴と顔を寄せ合った。
「お前、起きて大丈夫なのか。それにマスクも……」
 熱が出ている間ずっとしていると言っていたマスクを、裕貴は今はしていない。起きたばかりなのか、それでなくても不揃いな髪はくしゃくしゃで、青白く小さな顔はやつれている。いかにも、病み上がり――いや、まだ病の最中といった様子だ。
「喉が痛いのはだいぶ治まったし、咳もひどくはなくなったからね。熱のせいで体中ギシギシと痛かったけど、それもなくなった。やっと楽になったよ」
「そうか……。なら、一安心だな」
 ここで啓太郎は、自分が買ってきたプリンのことを思い出す。
「おっ、そうだ。プリン食うか? お前のお気に入りの店で買ってきたんだ」
 言いながら、プリンを取りに慌てて部屋に戻ろうとしたが、腕を伸ばした裕貴にトレーナーの襟元を掴まれた。一瞬、啓太郎の首が絞まる。思わず怒鳴ろうとして振り返ったが、裕貴が笑っているのを見ると、何も言えなくなった。
「プリンは明日でいいよ。おれ、すぐにまた寝るから。たまたま喉が渇いて目が覚めたら、なんか気配がするから起きただけなんだ」
「……うるさかったか?」
 どういう意味か、裕貴が小さく噴き出す。啓太郎はぐいっと顔を寄せ、低い声で尋ねる。
「なんだよ」
「啓太郎って、独り言が好きなんだなあ、と思って。おれたちが会話交わすことになったきっかけも、啓太郎の恥ずかしい独り言だっただろ」
「恥ずかしいって言うな……。情けなくなる」
 笑う合間に咳をする裕貴を見ているうちに、つい片手を伸ばして裕貴の髪に触れようとする。裕貴が苦笑交じりに言った。
「おれ、熱出してからずっと風呂に入ってないから、臭いよ」
「偉いな。俺の忠告を聞いて、我慢したのか」
 きれい好きな裕貴は、熱で喘ぎながらも風呂に入りたいと言い張り、それを啓太郎が、熱が下がるまで我慢しろと叱り飛ばしていたのだ。
 裕貴は唇を歪めて頷く。
「啓太郎のバカヤローって言いながら耐えた。でも、明日は入る。もう限界」
 啓太郎は、減らず口を叩く裕貴の髪を撫でてから、頬に触れる。燃えるように熱かった頬も、今はそれほどではない。熱が下がったというのは本当のようだ。
「なんでそこで、俺がバカヤローになるのかよくわからんが、病人ということで不問にしてやる。風呂に入ったら、しっかり温まれよ。それから、湯冷めしないよう、しっかり髪を乾かして、暖かい格好をするんだぞ」
「――……啓太郎、お父さんみたい」
「好きに言え」
 声を押し殺して笑った裕貴が、頬に押し当てた啓太郎の手の上に、さらに自分の手を重ねてくる。
「啓太郎、キスしようか? 元気になったら、いっぱいしてあげるって、おれ言っただろ」
「……熱でうんうん唸ってたくせに、よく覚えてるな」
「唸ってないよ」
「いや、唸ってたな」
 話しながら二人は仕切りにギリギリまで体を寄せ、手すりからわずかに身を乗り出す。
 啓太郎は裕貴の唇に、そっと自分の唇を重ねた。熱のせいか、裕貴の唇はすっかり乾いており、いつもよりかさついている。
 丹念に上唇と下唇を交互に吸ってやりながら、合間に舌先でなぞって唇を湿らせてやった。お礼とばかりに今度は裕貴のほうから啓太郎の唇を吸ってきて、スルリと口腔に舌を侵入させてくる。
 ここまでは裕貴を労わろうとする気持ちが強かった啓太郎だが、この瞬間、胸の奥でじわりと欲望の種火が起こる。
 頬にかけていた手を後頭部へと移動させる。髪を掻き乱すようにしながら裕貴の頭を引き寄せると、きつく裕貴の舌を吸い上げた。
 熱く濡れた裕貴の舌が蠢き、巧みに啓太郎の口腔の粘膜を舐めて刺激してくる。心地よさに酔ってしまいそうになる魅力的なキスだった。いつもなら、このキスを心行くまで堪能するところだが今は違う。
「……俺にさせろ」
 唇を離してこう言うと、裕貴は首をすくめるようにして笑う。
「病人を興奮させてどうするんだよ」
「いいから」
 強引にもう一度裕貴の唇を塞ぎ、性急に舌を差し入れる。柔らかく舌を吸われて迎え入れられ、啓太郎は裕貴の口腔を舐め回して唾液を交わし合った。
 いつもより裕貴の息が上がるのが早い。ときおり唇を啄ばみながら、裕貴に十分な呼吸をさせる。そした何度も深いキスを交わすのだ。
「また熱が出そう」
 やっと長いキスを終えると、そう言って裕貴が吐息をこぼす。啓太郎としては仕切りがなければこのまま裕貴を抱き締めたいところだが、まずは裕貴の体調を気づかうのが先だ。
 裕貴の髪を撫でながら啓太郎は尋ねた。
「今のキスも、金取るのか?」
「今、啓太郎の家の冷蔵庫に入っているプリンでチャラにしてあげる」
「……そんなに安くていいのか、お前のキス」
「熱出している間、啓太郎にはいろいろ世話になったしね」
 一応、世話になったと思ってくれているらしい。
「もう寝ろよ。明日の朝、プリンは持っていってやるから」
「うん」
 頷いた裕貴が体を離そうとしたが、何か思い出したように啓太郎に顔を寄せてくる。
「どうかした――」
 次の裕貴の行動に、啓太郎は絶句した。何を思ったのか、裕貴が頬に唇を押し当ててきて、すぐに体を離したのだ。
「おやすみのチュウ。これで悶々として、眠れなくなってよ」
「なるかっ」
 思わず怒鳴ると、軽やかに笑いながら裕貴は唇の前に人さし指を立て、さっさと部屋へと入っていった。
 仕切りから顔だけ出し、裕貴がカーテンを引くところまで確認してから、啓太郎自身、すっかり存在を忘れていた缶ビールを片手に部屋へと戻る。
「ったく、人をよっぽど飢えた奴みたいに言いやがって……」
 ぶつぶつとぼやいていた啓太郎だが、手をつい、裕貴の唇が押し当てられた頬へと這わす。
「……本当に、俺をなんだと思ってるんだ」
 そう言う啓太郎の唇は、ついつい綻んでいた。


 翌朝、約束通りに啓太郎は、プリンを持って裕貴の部屋に立ち寄った。ついでに、数日ぶりに朝メシも食わせてもらうつもりだった。
 ドアを開けた裕貴は、パジャマの上からいつもと同じカーディガンを羽織ってはいるが、頬に不自然な赤みもないし、全身から漂っていた倦怠感も抜けたようだ。
「さっそく来たね」
 そう言って裕貴は笑い、何より先に啓太郎の手からプリンが入った箱を受け取る。
「お昼に食べよう」
 啓太郎にさっさと背を向け、歌うように呟く裕貴に、思わず苦笑が洩れる。どうやら、完全復調のようだ。
「おい、今朝はきちんと朝メシを食わせてくれよ」
 啓太郎が声をかけると、くるりと振り返った裕貴がニヤリと笑う。
「そう言うと思って、準備しておいた」
 ダイニングに行くと、裕貴がいう通り、テーブルの上にはしっかりと朝メシが準備されていた。
 今朝のメニューはチーズオムレツに、かぼちゃとベーコンのミルクスープ、温野菜サラダという組み合わせだけで感動的だが、そこに、ふかふかのパンケーキとカフェオレまで出されると、啓太郎はイスに腰掛けてこう洩らすしかなかった。
「完璧だ……」
「おれが寝込んでいる間、啓太郎には貧しい食生活を送らせたからね。今日からその分を取り戻すよ」
「涙が出そうな言葉だな」
 手を合わせてから啓太郎が食べ始めると、プリンを冷蔵庫に仕舞った裕貴は、自分の分の朝メシを準備して正面のイスに腰掛けた。
「卵粥か?」
「まだ固形物食べられるほど、胃が元気じゃないからね」
 これはこれで美味そうだと思いながらパンケーキを千切っていると、ゆっくりとレンゲを口に運んでいた裕貴が、ふいに上目遣いに見上げてくる。
「これも食べたい?」
「……一口だけ味見させろ」
「意地汚いなあ。病み上がりの人間の食べ物まで奪い取るなんて」
「人聞きが悪いこと言うな」
 裕貴はレンゲで卵粥を掬うと、芝居がかった露骨さで息を吹きかけて卵粥を冷ますふりをして、恭しく啓太郎の口元まで持ってきた。
「はい、あーん」
「――……お前、俺を思いきりバカにしてるだろ」
「おれの愛情だって」
 啓太郎は裕貴の手からレンゲを奪い取り、卵粥を味わう。病人食だと思っていたが、ダシは効いており、ほんのりとついた塩味のおかげで、何杯でも食べられそうだ。
 何を作らせても上手い奴だと本気で思う。いままで裕貴が作って食わせてくれたものの中で、口に合わなかったものはない。
「美味しい?」
 レンゲを返したときに、裕貴に顔を覗き込むようして問われ、啓太郎としては頷くしかない。普段はなんでもないやり取りなのだが、今はなんとく気恥ずかしかった。
 頬の辺りがムズムズした啓太郎は、無意識のうちに自分の頬にてのひらを押し当てる。昨夜、ふざけた裕貴にキスされた辺りだ。
 キスは何度もしているが、昨夜のキスは反則だ。完全に不意を突かれ、そのうえ心の奥まで貫くような威力があった。
 何事もなかったような顔をして卵粥を食べている裕貴が、少し憎たらしい。一方的に翻弄されるのは、いつも啓太郎だけなのだ。その事実が、年上としては素直に受け入れがたい。つまらない見栄だと言われれば、そこまでだが――。
「……作ったお前に言うのもなんだが……」
「うん?」
「しっかり食って、太れよ。お前、熱のせいでやつれたぞ」
 裕貴は目を丸くしてから、嬉しそうに笑った。その表情が、可愛い。
 急に頬が熱くなってきた啓太郎は、俺まで熱が出てきたのだろうかと、強く頬を撫でる。そのとき電話が鳴り、驚いたように裕貴が肩を震わせる。実は啓太郎も驚いていた。
 何度も裕貴の部屋を訪れているが、家の電話が鳴ったところに立ち合ったのは、これが初めてだったのだ。
 不安そうな顔をしながら裕貴が立ち上がり、電話の前まで行く。たかが電話が鳴っただけでどうしてこんな顔をするのか、啓太郎は不思議だった。
「出ないのか?」
「う、ん……」
 恐る恐るといった様子で裕貴は手を伸ばし、ゆっくりと受話器を取り上げた。電話機のディスプレイに番号が表示されるため、相手が誰なのわかっているようだ。
 傍で見ていてもわかるほど、裕貴は緊張していた。
「……もしもし」
 硬い声で電話に出た裕貴の顔が見る間に強張る。一体何事だろうかと気になった啓太郎はイスから腰を浮かせるが、それに気づいた裕貴がこちらを見て、なんでもないと言いたげに小さく首を横に振った。
 それから裕貴は受話器を抱えるようにして話し始めるが、やはり只事ではなかった。
「なんで、電話してきたの。かけてくるなって、前に言ったはずだけど」
 イスに座り直した啓太郎だが、電話の内容が気になって食事どころではない。ちらちらと裕貴の様子をうかがいつつ、パンケーキを小さく千切っては口に放り込む。
「えっ、なんで知って――……。それは本当だけど、もう治ったよ」
 話しながら裕貴は、苛立ったように何度も自分の髪を掻き上げ、口調もきつかった。それでいて表情にも声にも、戸惑いが滲んでいる。
 かかってくるはずのない知り合いから電話がかかってきた、という状況は、他人である啓太郎にも察することができる。しかし相手が裕貴とどんな関係なのかまではわからない。おかげで、聞き耳を立てている啓太郎まで苛立ってくる。
「心臓もなんともないよ。どうせおれのことを聞いたんなら、症状も全部聞けばよかったじゃないか。朝から……電話してくるぐらいなら。おれは、声を聞きたくなかった」
 声を絞り出すようにして言った裕貴だが、電話の相手に何を言われたのか、数秒の間を置いてから動揺したように視線をさまよわせ、青白い頬にわずかに赤みが差した。
「いまさら、そんなことおれに言ってどうするんだよ。……もう用は済んだだろ」
 受話器を置いた裕貴が大きく息を吐き出す。極度の緊張から解放されたような姿に、たまらず啓太郎は尋ねた。
「電話、誰だ? お前のことをよく知っている人間みたいだったけど」
「……そうだね。嫌になるほど、おれのことをわかってる人だよ」
 裕貴は、電話の相手が誰なのか具体的なことは言わなかった。聞かれたくないのだと察した啓太郎は、気にはなるがあえてそれ以上は尋ねなかった。正確には、尋ねられなかった。
 関係ない、と裕貴から言われるのが怖かったのかもしれない。
 居心地の悪い沈黙がダイニングに流れるが、すぐに裕貴は気を取り直したように笑いかけてくる。
「ほら、食べようよ」
「あっ、ああ……」
 イスに腰掛けた裕貴が卵粥を食べ始めるが、レンゲを動かす手がさきほどに比べて機械的だ。つい啓太郎は観察の目で裕貴を見てしまう。
 実際裕貴は、口と手は動かしながらも、明らかに別のことに心を囚われている風情だった。
 すっかり形を崩してしまったオムレツを掻き込んだ啓太郎は、カフェオレの入ったカップに口をつけつつ、改めて自分と裕貴の関係に思いを巡らせる。
 風変わりな関係を持っていようが、所詮は他人同士だ。裕貴がどんな生い立ちで、どんな家族構成をしているのか、それすよく知らない。――知る必要がない。
 そんな関係に寂しさを覚えるということは、啓太郎の中で、確実な変化が起こりつつあるということだろう。
 横目でちらりと、テーブルの上に置いた貯金箱を見る。相変わらず順調に金は貯まり続けており、この金で裕貴一人ぐらいなら優雅な国内旅行ができるはずだ。
 もっとも、引きこもりの裕貴がそんなことを計画するはずもない。
 食べ終えた啓太郎は財布を取り出して貯金箱に朝メシ代を入れると、立ち上がってジャケットとコートを着込む。そんな啓太郎を、ホットミルクを啜っていた裕貴が見上げてきた。
「啓太郎、今日は帰ってこられる?」
 こういうことを面と向かって聞かれたのは初めてで、啓太郎は目を見開く。
 晩メシの下ごしらえがあるからと、メールでは当然のようにやり取りすることはあるのだが、実際に裕貴の口から問われると妙な新鮮さと照れ臭さがあった。まるで、新婚夫婦や同棲カップルが交わすような会話だ。
「……今から晩メシの準備を始めるのか」
 思わず真顔で尋ねると、裕貴は微苦笑を浮かべる。
「啓太郎って、食べることしかないわけ?」
「違うっ。お前がいきなり聞いてくるからだ。いつもは朝、そんなこと聞かないだろ」
 ふいに裕貴は真剣な表情となり、すがるような眼差しで啓太郎を見つめてきた。
「今日は……帰ってきてよ」
「裕貴……?」
「一緒にメシ食おうよ」
 こんなふうに言われて、嫌とは答えられなかった。例え芝居だとしても、今の裕貴には放っておけない頼りなさがある。
 さきほどの電話が、裕貴の中に大きな変化をもたらしたのだ。
 電話の相手を聞きたい衝動をぐっと堪えて、啓太郎は裕貴の頭を乱暴に撫でた。
「帰ってはくるつもりだけど、何時になるかわからないぞ。日付が変わるかもしれない」
 途端に裕貴はパッと表情を輝かせる。
「いいよ。待ってる」
 啓太郎はこの瞬間、くらりと目眩を覚えていた。裕貴の反応が愛しかったのだ。
 可愛いなどという生ぬるい表情では足りない。忌々しく感じながら啓太郎は、表情を和らげた裕貴を見つめる。
 忌々しくも、愛しい生き物を――。









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